第8話 『必要がなかった理由』
静かな部屋に、時計の秒針だけが響いている。薄暗い蛍光灯の下で、私は机の上の手紙をじっと見つめていた。そこには、たった一行、まるで刃のような言葉が刻まれていた。
「あなたが去ったのは、私の人生に必要がなかったから。」
その手紙は、彼女が最後に残したものだった。今からちょうど1年前、あの雨の夜、彼女はふいに姿を消した。小さなアパートのドアを叩いても、返事はなく、電話をかけても応答がない。その夜から、彼女は私の人生から完全にいなくなった。
その手紙が届いたのは、それから数日後のことだった。郵便受けに差し込まれていた封筒には、彼女の筆跡で私の名前が書かれていた。手紙を開けると、この一文だけが淡々と並んでいた。
私はその言葉に怒りを覚えるべきだったのかもしれない。裏切られたと感じるべきだったのかもしれない。でも、手紙を握りしめた瞬間、私が感じたのは怒りでも悲しみでもなかった。それは、言葉にできない空虚さだった。
彼女と過ごした日々を思い出すたびに、胸が締め付けられる。ささやかな幸せの積み重ねが、いつの間にか壊れていった。その原因が何だったのか、私は未だに理解できていない。私のどこかが彼女を傷つけたのだろうか。それとも、私たちの間に埋められない溝がもともと存在していたのだろうか。
時間は過ぎていく。季節が変わり、町の景色も少しずつ移り変わっていく中で、私はようやくその言葉の意味を考える余裕を得た。
「必要がなかった」という言葉は、冷酷な響きがある。だが、本当に彼女が伝えたかったのはそれだけなのだろうか?言葉の裏には、別の思いが隠されているような気がしてならない。
彼女は不器用な人だった。感情をうまく表現することが苦手で、時には言葉足らずになることがあった。それでも、彼女の目を見れば、本当の気持ちは伝わってくるものだった。あの言葉も、表面的な意味以上のものを持っているはずだ。
彼女が去った理由。それを知る術は、今となってはない。ただ、私の人生の中で彼女が果たした役割は、決して「必要がなかった」ものではないと思う。彼女と過ごした時間は、私を形作る一部になっている。
ある日、久しぶりにあの手紙を取り出した。くしゃくしゃになった紙を丁寧に伸ばし、もう一度、彼女の書いた言葉を目で追う。
「あなたが去ったのは、私の人生に必要がなかったから。」
その言葉を見つめるうちに、ふと気づいた。もしかすると、彼女は「必要」という言葉に別の意味を込めていたのかもしれない。「必要」という言葉が、「依存」や「重荷」を暗に示していたのではないかと。
もしそうなら、彼女が去ったのは、私のためでもあったのかもしれない。お互いにとって、自由になるために。
窓の外には、薄い雪がちらちらと降り始めていた。私は立ち上がり、古びたコートを羽織って外に出た。寒さが頬を刺すが、その痛みは妙に心地よかった。
「必要がなかった」わけじゃない。ただ、そう言わなければならなかったのだろう。
私は歩きながら、小さな声でつぶやいた。
「ありがとう。そして、さようなら。」
(完)