第7話 『食後のコーヒー』
冬の朝の空気は冷たく、頬に触れるたびに心地よい緊張感を生む。今日は早く仕事を終えることができた。まだ午前中だというのに、なんとなく一日を得したような気分になる。コンビニの袋を提げながら家のドアを開けた。
部屋に足を踏み入れると、昨日淹れたコーヒーの香りが微かに残っていた。机の上には、書きかけの原稿といくつかの参考書が雑然と広がっている。付箋がページのあちこちに挟まれ、まるで物語の断片がそこに待機しているかのようだ。
袋から牛丼を取り出し、机の片隅に置いた。蓋を開けた瞬間に立ち上る甘辛い香りが、空腹を一気に煽る。箸を手に取り、一口大きく頬張ると、濃厚な味が口いっぱいに広がった。
「やっぱり牛丼はこれだな。」
独り言が部屋に溶けていく。
食べながら次の小説の構想を頭の中で巡らせる。テーマは決まっている。ブラック校則—理不尽なルールに抗う生徒たちの物語だ。しかし、具体的な展開がまだ見えない。彼らの葛藤をどう描くべきか。現実の重みをどこまで反映すればいいのか。
食べ終えた後、容器を片付けてポットに水を入れる。ボタンを押すと、ポコポコという音が部屋の静寂を破った。待ち時間にスマホを手に取り、SNSを開く。昨日投稿した短編小説には、いくつかの「いいね」とコメントがついている。
「最後の展開が良かった」「共感しました」—そんな声が並ぶ中、「もっと描写を深くしてほしい」という意見もあった。その指摘に小さく頷き、頭の中で修正案を組み立てる。誰かの心に触れるための言葉を練る時間。それは何よりも尊いひとときだった。
湯が沸き、ポットが静寂を取り戻す。お気に入りのマグカップにインスタントコーヒーを入れ、熱湯を注ぐ。湯気とともに立ち上る香りが部屋を満たした。カップを手に取り、一口飲む。熱い液体が舌を刺激し、反射的に「熱っ」と声を漏らす。それでも、この苦みと香りは格別だった。
「やっぱり食後のコーヒーはこれだよな。」
ノートを開くと、まだ白いページが目の前に広がっていた。昨日は何も書けなかったけれど、今日は少しでも前に進めたい。ブラック校則に縛られた教室。その中で足掻く生徒たちの姿。ペンを持つ手が、徐々に物語を紡ぎ始める。
コーヒーを一口、また一口と飲みながら、ノートのページを埋めていく。気づけば、カップの中身はすっかり冷めていた。
「もう一杯淹れるか。」
そう呟きながら、立ち上がり再びポットに手を伸ばした。
(完)