表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/10

第6話 『最後のスイッチ』

火葬場の静けさは特別だ。喧騒から切り離された空間、重々しい空気。今まさに火葬を控えた棺が炉の中に収められた。係員が淡々と準備を進める中、私は控室で手のひらを握りしめていた。


「最後に、ボタンを押されますか?」


係員の低い声が耳に響く。この言葉を聞くたびに、何度も覚悟を決めたつもりでも、心が揺れる。亡くなった母の面影が瞼に浮かんだ。閉じられた棺の中の彼女は、最後の瞬間まで安らかな顔をしていた。それだけが救いだった。


控えめに頷いて立ち上がる。係員が先導し、私は火葬炉の前に立った。白い手袋をはめた係員が、スイッチの場所を指さす。


「こちらです。ご準備ができましたら、押してください。」


眼前にあるスイッチは小さく、それほど特別なものには見えない。しかし、このスイッチが持つ意味は圧倒的だった。押せば、母の体が完全に失われる。ただの記憶と灰になる。


「押せますか?」


促されているのは分かっているが、手が震える。心の奥底で、「押したくない」という叫び声が響く。しかし、それはエゴなのだと分かっていた。母の生涯を見送る最後の行動を、私がしなければならない。


深呼吸を一つ、二つ。目を閉じて母の顔を思い浮かべる。あの穏やかな笑顔と、最後に交わした会話。母は言ったのだ。


「私のことは気にせず、あなたらしく生きなさい。」


指先がスイッチに触れる。冷たい感触が肌に伝わる。押し込むにはわずかな力が必要だ。その瞬間、涙がぽろりと頬を伝った。


「ありがとう、母さん。」


声が震えた。静寂の中で、スイッチが押し込まれる音がやけに大きく響いた。機械が動き始める低い音とともに、炉の中の光がぼんやりと明るくなる。これが、本当に最後だ。


係員が一歩引き下がり、静かに私を見守っていた。私はしばらく動けず、スイッチに触れた手をそのままにしていた。やがて、気づけば涙は止まっていた。母の言葉が私の中で繰り返される。


「あなたらしく生きなさい。」


火葬炉から離れると、どこか心が軽くなったような気がした。母を見送ることができたのだと、ようやく実感が湧いてきた。


外に出ると、青空が広がっていた。風が頬を撫でる。その中で、母の声が聞こえた気がした。


「ありがとう。」


(完)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ