第6話 『最後のスイッチ』
火葬場の静けさは特別だ。喧騒から切り離された空間、重々しい空気。今まさに火葬を控えた棺が炉の中に収められた。係員が淡々と準備を進める中、私は控室で手のひらを握りしめていた。
「最後に、ボタンを押されますか?」
係員の低い声が耳に響く。この言葉を聞くたびに、何度も覚悟を決めたつもりでも、心が揺れる。亡くなった母の面影が瞼に浮かんだ。閉じられた棺の中の彼女は、最後の瞬間まで安らかな顔をしていた。それだけが救いだった。
控えめに頷いて立ち上がる。係員が先導し、私は火葬炉の前に立った。白い手袋をはめた係員が、スイッチの場所を指さす。
「こちらです。ご準備ができましたら、押してください。」
眼前にあるスイッチは小さく、それほど特別なものには見えない。しかし、このスイッチが持つ意味は圧倒的だった。押せば、母の体が完全に失われる。ただの記憶と灰になる。
「押せますか?」
促されているのは分かっているが、手が震える。心の奥底で、「押したくない」という叫び声が響く。しかし、それはエゴなのだと分かっていた。母の生涯を見送る最後の行動を、私がしなければならない。
深呼吸を一つ、二つ。目を閉じて母の顔を思い浮かべる。あの穏やかな笑顔と、最後に交わした会話。母は言ったのだ。
「私のことは気にせず、あなたらしく生きなさい。」
指先がスイッチに触れる。冷たい感触が肌に伝わる。押し込むにはわずかな力が必要だ。その瞬間、涙がぽろりと頬を伝った。
「ありがとう、母さん。」
声が震えた。静寂の中で、スイッチが押し込まれる音がやけに大きく響いた。機械が動き始める低い音とともに、炉の中の光がぼんやりと明るくなる。これが、本当に最後だ。
係員が一歩引き下がり、静かに私を見守っていた。私はしばらく動けず、スイッチに触れた手をそのままにしていた。やがて、気づけば涙は止まっていた。母の言葉が私の中で繰り返される。
「あなたらしく生きなさい。」
火葬炉から離れると、どこか心が軽くなったような気がした。母を見送ることができたのだと、ようやく実感が湧いてきた。
外に出ると、青空が広がっていた。風が頬を撫でる。その中で、母の声が聞こえた気がした。
「ありがとう。」
(完)