第6話 育徳園(天保3年(1832年))
年が明け、天保3年(西暦1832年)が始まった。
俺も数えで3歳となり、少しずつ話すことができるようになったことを披露して周囲を驚かせつつ、毎日平穏な日々を過ごしていた。
そして、ようやくゲットしました。雑用要員兼近習、松平大弐家の勝千代君。
年齢は9歳。まだ元服はしていないが、将来的には家督を継ぐであろう松平大弐家(4000石)の家格で言えば、俺の家老候補と言えるだろう。これからヨロシクね。
さて旧暦の一月を西暦に直すと二月。現在冬真っ只中である。
俺の服装もその気候に合ったものになっていて、冬物の綿入り小袖に馬乗袴。
これに雪駄だと寒いかと思ったが、身体を動かしていると丁度いい。子供体温だからということもあるかもしれない。
加賀藩上屋敷にも雪が積もり、屋敷の中にある育徳園と呼ばれる庭園は見事な雪化粧を纏っていた。
「若様ー! 犬千代様ー! 何処にございますかー!」
そして塀越しに響き渡る、俺を探す声。少年期特有のボーイソプラノに焦りの色が滲んでいる。
そんなに大声出したら騒ぎになっちゃうぞ。
——すまない勝千代君。今は君に見つかるわけにはいかないのだ。
現在、俺は勝千代君から逃げ……ゲフンゲフン、もとい、スニーキングスキルを磨いている最中である。
「ゆきあそびがしたい!」と大人気なく駄々をこね、ようやく外の世界を見るチャンスが巡ってきたのだ。この機会を逃す俺ではない。
住居部分に面した庭だけという約束で遊んでいたはずが、勝千代君が少し目を離した隙を見て、俺は育徳園に入り込んでいた。
一応、大人に見つかった場合の言い訳も考えてある。少なくとも勝千代君を俺の近習から外させるわけにはいかないからね。
さて、育徳園の話に戻るとしよう。前世における東京大学本郷キャンパスの中央に位置する庭園の話だ。
育徳園と聞いても、誰もが首を傾げるだろうから最も有名な名所の名前を言おう。
つまり「三四郎池」周辺にあった池泉回遊式庭園のこと。三四郎池の「三四郎」の由来は某プロレス漫画ではない。夏目漱石の「三四郎」の方。一応念のため。
園内には泉水、築山があり、その泉水を「心字池」と言う。
心字池周辺の八景、八境を模した勝は雪が降り積もったままになっているが、園路は除雪が行き届いていた。
俺はその園路を歩きながら、出入り口を探し歩いていた。理由は簡単。
せっかく江戸時代に生まれたのだ。江戸時代の街並みや、人の賑わいをこの目で直接見てみたいと思うのは当然のことだろう?
だから俺は一人で脱走計画を立てたのだが、ここで誤算が一つ——。
「……まよった……?」
そう、俺は東京大学に行ったこともなければ、東京(江戸)周辺の地理にも疎かったのである。
加賀藩上屋敷は広大だ。東京大学の本郷キャンパスが余裕で入ってしまうくらいには。
俺は、そのことを失念していた。
しかも、俺の身体は数えで3歳(実年齢2歳)児。冬道を歩き慣れていないし、周辺は見たことのない風景。——つまり、絶賛迷子中ということだ。
「こまったじょ……かえりみちもわからなくなった……」
馬乗袴の裾を握る手は、寒さによってか赤い。不幸中の幸いにも、空を見ると雲ひとつなく快晴で、しばらく天気は保ちそうだ。
よくある過去に転生した物語だと、3歳で様々な改革をしている主人公がお付きの供と外出しているが、幼い子供一人で外出しようとするとどうなるかなんて明らかだったじゃないか。
ここで松平勝千代君に助けを求めては、何の成果も得られずに俺は連れ戻されてしまう。過保護気味な女中達のことだ。最悪、今後二度と外で遊ぶことを許されないかもしれない。
「むむぅ」
「帰ろう。帰れば、また来られるから」の精神は大事だが、次に生かすための教訓も必要だ。次の成功に繋げるために、園内の道を覚えてからでも遅くはない。
「よし」
とりあえず俺は、除雪された園路を進むことにした。
歩き始めると、陽光の熱によって溶け始めた雪が俺の履いている雪駄を濡らす。
水分が多く含まれた雪が木から落ち、ドドド、と大きな音を立てた。
「あ。あれはあずまやか?」
しばらく歩を進めると、池の奥にある小山の上にポツンと建った小屋が視界に入った。
中で火を焚べているのだろうか。屋根付近から白い煙が一筋、天に向かって伸びており、誰かが中にいることを推察させる。
俺のことを知っている大人は父上と母上、そして女中達。それとついでに喋った事はないけれど、奥村丹後守くらい。それ以外の藩士は、俺の顔を見たことはないはずだ。
そもそも、育徳園に出入りできる藩士は多い。
特別な要件——訪問客を歓待するようなことがない限り、特に藩士の出入りは制限されていなかった。
誰が亭を使っているかは知らないが、俺の顔を知らない者であれば都合が良い。
その者に案内をさせて、出入り口を把握すれば今回の俺の目的の半分は達成できたことになるのだから。
そして最後に御殿まで案内させて、今回の外出は終了ということにしよう。
そうすれば、俺もラッキー。助けてくれた藩士もハッピー。俺を探している勝千代も安心。三方良しだ。
俺はそう決めると、小屋に近づいて行った。
心字池を見下ろすように小高くなっている小山を登り近づいていくと、「小屋」という表現が間違っていることにすぐ気が付いた。
その建物自体が別に大きいわけではない。しかし、おそらく誰かを招くために建てられたのであろう広めに取られた園を一望できる縁側と、丸窓のついた部屋。
優美なわけではなく華美でもない。
しかし風雅の粋を凝らしたのだろう事は、審美眼のない俺から見ても明らかだった。
亭に上がるための三和土には、大人サイズの雪駄が一足揃って置かれており、誰かが中にいることを示していた。
もしも貴人が訪ねているのであれば、朝から女中達はうるさい筈。噂話が彼女達の娯楽なのだから仕方ないね。
女中達が騒いでいなかったということは、貴人以外が屋敷を訪ねているということに他ならない。誰の客なのかは分からないが、少なくとも俺が知っている人物ではない。
「……ごめん!」
そう結論付けた俺は意を決し、亭の中へと声をかけた。
「ごめん!」
時代劇だと、中に呼びかけたりするときにこう言っていた記憶があるのだが、違ったのだろうか。
「はい、どなた様でございましょうか」
もう一度声をかけると、ようやく中から返答があった。亭の中から返答した声の主は、障子戸をガラリと開ける。
年齢は60歳くらいだろうか。身長は6尺に届くかもしれない高身長で、俺からすると山のように大きく見えた。
外仕事をしている者特有の浅黒い肌は年齢の割に張りがあり、白髪の混じった頭髪を小銀杏の髷に結い纏め、黒羽二重の羽織を羽織っている。真っ赤な帯と黒い羽織のコントラストがカッコいい。
男は一見すると、どこぞの組の大親分かと思わせる貫禄があるが、俺の頭の先から足の先までを見分する瞳に剣呑な雰囲気は感じられなかった。
「……これはこれは。予想外な来客でございますな」
「すまぬな。すこしばかり、みちにまようたようなのだ」
俺がそう説明すると、男は「なるほど」と短く言葉を溢し、顎に手を当てて何事かを考え始めた。
「れいはするゆえ、しばしあがらせてくれないだろうか」
礼と言っても何もできる事はないのだが、社交辞令として受け止めてくれないかな。金子を要求されても払えるものなんてないからな。
「……承知いたしました。ここの亭の主ではありませぬが、お困りのご様子。どうぞお上がりくださいませ」
男はそう言うと、俺を亭の中へと誘ったのだった。