第4話 父との初対面(天保2年(1831年))
俺が決心を固めてから数ヶ月程が経ち、屋敷の中が俄かに騒がしくなった。
庭木に積もった雪が、溶け出す頃のことである。
定府の家臣たちは忙しく動き回り、溶姫付きの女中たちも朝から何やら忙しない。
「犬千代、お父上様が来られるのですよ」
女中の腕に抱かれながら、不思議そうにキョロキョロと周囲を見回している俺に対して、母上はそう告げた。
——ついにこの時が来たか。
もしも俺が中二病患者なら、意味ありげな笑みとともに不思議なポーズをかましていたに違いない。
練りに練った計画を実行する日が到来したことで、俺も柄にもなく緊張を隠せなかった。
「あっ、あぅ」
「はい犬千代。母はここですよ」
大きな鏡台の前に坐り、女中の手によって化粧を施されていく母上が、こちらを一瞥して言った。
——そうやけど、そうやないんやわ
父上をびっくりさせる前に、母上をびっくりさせるべく、俺は再び口を開く。
「あっ、は、う、ぇ」
——よし、なんとか発音できたんじゃないだろうか。
「はぁ、うえ」
二音以上続けようとすると、どうしても発音できない。赤ちゃんだから仕方がないね。
それでも俺の声を聞き取れた女中が、パァッと笑みを浮かべた。
「お聞きになられましたか! 犬千代様が御前様の方へ『母上』と!」
「まぁ!」
忙しそうにしていた女中たちも、一旦動きを止めて俺の方に注目してくる。
「さ、犬千代様。もう一度、もう一度『は、は、う、え』と」
「はぁ、は、え?」
「左様にございます。母上、母上でございますよ」
いつの間にか、俺の周りに人だかりができていた。
鏡台の前で化粧をしていたはずの母上すらも、俺の方へと近寄って応援していた。
「は、は、う、ぇ」
完璧に発音できた——と俺が思った瞬間、俺の周りを取り囲んでいた集団から口々に「まぁっ」と感嘆の声が上がる。
「さすがは御前様の長子にございます」
「この賢さは御前様のを受け継いだに違いありませぬ」
「本当に、賢き御子にて」
周りから口々に誉めそやされ気分が良くなったのだろう、普段はクール系美人な母上の口角が上がっていた。
「そう褒めそやしてばかりでは、立派な殿御になれるものもなれぬわ。のう、犬千代?」
そう母上は俺を腕に抱いて言ったが、言葉と表情が一致していないぜ? 奥さん。
「さ、皆もまた準備があろう。加賀守様がお着きになる先触れの前に済ませてしまいましょう」
一番立場が上の女官の言葉で、集まっていた女中たちは渋々俺から離れていく。
「さ、御前様も」
「うむ。でも、もう少しだけ」
母上は女官に促されるが、俺を抱いた腕を緩めることはなかった。
美人な母親に抱っこされている50歳児。
字面だけ見れば犯罪的だが、今の俺は数えで1歳。何の問題もない。
しかし、俺を抱き上げる母上の表情に、どことなく憂いの色が見て取れた。
「ご心配なさいませぬよう。慣例では元服までの御子は奥で過ごされまする。いかに嫡男とて、生まれてすぐに引き離され、元服となる仕儀はございませぬ」
どうやら母上は、すぐに引き離されるのではないかと心配しているらしい。
いわゆる産後鬱ってやつなのかもしれない。
「そうは言うても、この時世何が変わろうとも分かりはせぬ」
「その節は、私が命に変えましてもお守りいたしまする」
美しい忠義愛を目の前で見せつけられている気がする。それともアレか? 百合? 百合なのか?
「すまぬの、皆には苦労をかけるが」
「私どもは加賀前田家に仕えておるのではありませぬ」
問題発言きたこれ。この女官何言ってんの?
母上がそのことに気が付いているのかいないのか、母上は女官に対して何も言うことはなかった。
俺が単純に思っている以上に、加賀藩上屋敷の中にはどうやら後ろ暗いものがあるらしい。
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産着のままの俺はそのままで良いとして、母上達の準備には時間がかかる。
髪を結い、化粧をしてその場にあった服を着る。言葉にすると簡単なように思えてしまうが、どれも手間と時間がかかる作業だ。
描写は省くが、人前に出るのに一刻(約2時間ほど)の時間がかかっている。
母上達の準備が万端整うのと同時くらいに、父上の大名行列の先触れが屋敷に到着した。
先触れが到着したからといって、すぐに本隊が到着するわけではない。
特に加賀藩は100万石の大大名であるから、その行列の人数も幕府によって決められているのだ。
加賀藩の場合、多い時で4000人。歴代藩主を平均すれば、約2000人もの人数が練り歩く。
行列は一塊にまとまっていると言っても、人数の多さは如何ともし難い。一説によると、行列の全長は約2キロにも及んだそうだ。
そして四半刻(約30分)あまりして、どこからともなく太鼓の音が聞こえてきた。藩主である前田斉泰が、屋敷に到着したことを知らせるために打ち鳴らされたものである。
「さぁ、犬千代。そろそろですよ」
母上が俺を腕に抱き「御寝所」、つまりは寝室に敷かれた布団の中で座り待つ。
するとドタドタと廊下を進む足音が聞こえ、次いで女中たちが「お待ちください!」などと焦った声音で誰かを呼び止めようとする声が聞こえた。
そして御寝所の襖がスパンと開かれ、旅装を解かないままの男が現れ、母上は俺を抱いたまま頭を垂れた。
「加賀国よりの御帰宅、お待ち申し上げておりました」
「うむ、してその子が……」
男の眼光は鋭く、じっと俺と母上を睨みつけるように見据え——元来口数も少ないのだろう——、一言発するなり口を一文字に結ぶ。
——これが俺の親父様か。
身長は高くもなければ低くもなく、五尺六寸ほど。いや、江戸時代の栄養状況から考えれば、十分長身の部類に入るであろう。
——いや、もっとこう、あるだろう。こんなにも美人な妻が声を掛けてくれたんだから、「よくやってくれた」とか「身体に障りはないか」とか。それに初めての子供なんだから「可愛い子だ」とか何かしらかける言葉があるはずなのに、父上はただじっと見つめるだけだった。
「はい、貴方様の御子にございます」
母上の言葉でようやく我に帰ったのか、ただ短く「うむ」とだけ言う。
いや「言った」というより「反応した」といったほうが正しいか。
そこで俺は、無愛想極まりない父上に対して一発かましてやるべく、練りに練った計画を実行に移すことにした。
「あーうえ、はーうえ」
俺はぐずるように母上の胸元に顔を隠した。
作戦名「誰このおじさん知らない人助けてママン」。
我ながら悪辣な作戦である。
自分の子供にこんな反応をされたら、世の父親の多くがドギマギとするに違いない。少なからずショックを受ける。間違いない。
「犬千代? このお方が貴方のお父上ですよ。さぁ、お顔をお見せして?」
もっと母上の胸元を堪能したかったが、そうまで言われては仕方がない——、と俺は渋々、母上から言われるがまま父上の顔を見つめた。
しげしげと見ても、父上はやっぱり強面だ。真面目そうというか堅物そうというか。俺に50年の人生経験がなかったら、父親の顔を見た瞬間泣き出しているところだった。
「……ぃー? ちぃーうえ?」
中身は50歳のおっさんが、美人なJK(位の年齢の母親)に抱っこされながら幼児言葉を喋ってる?
想像してはいけない。こちらだって一生懸命なのだ。
そして今作戦の骨子はここからである。
「ち? ちぃー?」
「左様ですよ、犬千代。父上、ですよ。さぁ、加賀守様」
「……うむ」
父上は母上に促され、俺を抱き上げる。
やはり抱きあげられるなら女性の方がいいな。どことなく恐る恐る抱いているのが、父上の腕を通して伝わってきた。
「ち、ちぃ」
「小さいな」
「ふふ、はい。赤子ですから」
ふ、と場の雰囲気が柔らかくなった。
ようやく父上も自分の子供だという実感が湧いてきたのだろう。
「不自由は無いか?」
「はい。みなさまに良くしていただいております」
両親の会話を聞いていると、どことなく辿々しい。
ここは人生の先輩として二人の会話を取り持つべきだろうが、如何せん俺は赤ちゃん。
難しい会話をする事ができない。
「……また夜に来る」
「はい、お待ちしております」
そう言って父上は、俺と母上を置いて部屋から出ていった。
まぁ、初対面にしては上出来かな。
父上は父親の自覚が芽生えただろうし。
——そしてその日の夜、御寝所の中では一組の男女が獣のように激しく交わっていた。
壁が薄いんだから、色々な声が聞こえてきて教育に悪い! 解散!