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幕末の加賀藩藩主に転生しました。  作者: きんかんなまなま(死語)
1 幼少期編
3/27

第3話 絶望の犬千代(文政13年(1830年))

 ——前田慶寧まえだよしやす

 加賀藩最後の藩主。文政13年5月4日(西暦1830年6月24日)生まれ。

 1864年7月に勃発した禁門の変では加賀藩に逃げ帰り、それに激怒した父が攘夷派志士を粛清。

 その結果、加賀藩出身者は明治新政府では要職を任されず、そのまま歴史に埋没していくことになった。

 その証拠に、幕末が載っている歴史雑誌とかに加賀藩や前田家の事が載っていたところを見た人はいないだろう。


 しかし後年、前田慶寧の娘が近衛家に嫁ぎ、後の近衛文麿の生母となる。継母となったのも慶寧の娘。

 これが前世で辿った「正史」だ。


 加賀百万石と持て囃された藩主が、そんなことでしか歴史に絡めていないなんて悲しすぎる。

 薩長土肥はよくネタにされているのに。


 加賀藩が明治新政府で中心的な役割を果たせなかった結果、日本海側は「裏日本」などと呼ばれて馬鹿にされ、太平洋側に比べ工業化が遅れることになった。もちろん諸説あり。


 だが、江戸時代は違う。

 なんと言っても表高102万石を超える最大の大名であり、同じ一族が治めていた支藩も含めれば120万石を優に超える。

 その大きさからか、幕府に何度も目をつけられ改易されそうになるが、その都度卓越した政治的センスによって生きながらえている。

 しかし、加賀藩は経済的にも政治的にも日本の中心地になっても良かったはずなのに、日本の表玄関にはなれなかった。


 もしも明治維新で加賀藩が中心的な役割を果たしていれば、日本海側の一大貿易拠点として港湾整備が進んでいたことだろう。これももちろん諸説ありだ。


 さて、話を戻そう。俺が転生したこの時代の話だ。

 

 「化政文化」と聞けば、日本史を少し齧った者であれば、どれくらいの時代・年代に栄えた文化なのかは知っているだろう。

 ちなみに江戸を中心に絢爛な町人文化が花開いた、文化・文政時代(1800年代前半)のことを言う。


 現代まで連綿と続く、浮世絵、歌舞伎、川柳といった文化が生まれ、一般的にいえば町人文化の全盛期となった。

 しかし、その華やかさと裏腹に、武士の内情、家計事情は薄寒うすらさむいものだった。


 その理由は天明の大飢饉に始まる長期不況。

 18世紀から19世紀にかけて、世界的に農作物が不作だった。

 日本においてもそれは例外ではなく、殆どの地域で凶作となり、大名家の収入源であった米の収穫量が減少した。

 各大名家はこれまでも、幕府から度重なる手伝い普請を負担しており、経済的に厳しかったのに、その収入減によって追い打ちをかけられたような格好となったのだ。

 加賀藩においても例外ではなく、たびたび家臣の秩禄を借り上げたりして財政危機を乗り越えようとした。


 もちろん武士だけではなく、不況の波は米が主要作物だった農民にも直撃する。1830年から1840年にかけての10年間で、10回を超える一揆(不穏や未遂を含めて)が加賀藩内で発生しているのだ。


 そして更に追い打ちをかけるように、加賀藩の財政を逼迫する出来事があった。

 それは何を隠そう、父上——前田斉泰と母上——徳川家斉二十一女、溶姫との婚姻である。


 これまでも、前田家と徳川家との間で婚姻はあった。

 3代利常が2代将軍秀忠の二女珠姫(天徳院)を迎えたことをはじめとし、4代光高が3代将軍家光の養女阿智子(清泰院)を。5代綱紀が保科正之の二女摩須子(松嶺院)、6代吉徳が5代将軍綱吉の養女松子(光現院)を迎えた。

 だが養女ではなく宗家の実女となると、3代藩主前田利常以来のこととなる。


 そこで体面を整えるべく、江戸の加賀藩上屋敷の一角に造営されたのが御守殿ごしゅでん——建造当時は御住居と呼ばれる——と呼ばれる住居。そして朱塗りの御守殿門。前世で有名だった「東大本郷キャンパスの赤門」だ。

 御守殿は江戸城の「大奥」に準ずる格式を求められ、その分建設費用は高くなったらしい。


「……あぶぅ」


 ——まずいぞ、これは。

 女中の腕に抱かれた俺は、悩ましげな息を漏らした。


 確かに何もしなくても、明治維新さえ乗り越えれば借金はチャラになる。井上馨いのうえかおる万歳。

 新政府内での発言力は、未来の加賀藩領がいかに発展するかに直結する。

 将来のことを考えると、華族として片手団扇の生活が約束されているとは言い難い。


 と、なれば俺が目指すことは加賀藩を発展させ、明治新政府に優秀な人材を送り込むことで新政府内で前田家の発言力を高めること。


 そのためにはどうすれば良いのだろう。

 俄知識の俺でもすぐに思い浮かぶのは、新たな財源の確保と優秀な人材の育成・登用。

 次に日本全国に対する情報網の整備と国際交流の強化くらいか。


 まず財源の確保だが、現時点で見つかっている宝達ほうだつ山と越中の七かね山は閉山状態。新たな鉱脈が見つからない限り、それも難しい。

 尾小屋おごや鉱山は金・銀山としての役割は期待できないが、銅と鉛は潤沢だ。


 そういえば明治時代に入ってから見つかった金山があったような気もするが、また今度思い出すことにしよう。


 優秀な人材に関しても、俺が知っている俄か知識で思い浮かぶのは「猪山直之いやまなおゆき」と「寺島蔵人てらしまくらんど」、「上田作之丞うえださくのじょう」あたりが経済面での優秀な人材としての候補だ。


 「猪山直之」は算用方で著名な人物。「寺島蔵人」は加賀藩教諭方を勤めた農政、財政実務の人。そして「上田作之丞」は、江戸後期の経世家「本多利明」から富国策を学んだ人物だ。


 経済再建はそれらの人物に任せるとして、農民への対策も考えなくてはいけないだろう。

 新政府に参加する前に、領内で一揆が頻発して幕府から取り潰されでもしたら目も当てられない。


 ——そうだ、五郎島金時を増産させて、救荒作物として普及させられればどうだろう。

 加賀野菜の一つ五郎島金時は、1700年代に薩摩藩で栽培されていた薩摩芋を、領内で栽培し始めたのが始まりだったはずだ。

 ということは、現在も細々とかもしれないが栽培は続けられているはず。


 五郎島という地名は、確か宮腰みやのこし(現在の金沢市金石付近)の付近。

 そこに縁のある人物に頼めれば……いるじゃん。そこを地盤にしている商人(銭屋)が。

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