第28話 飢饉への対策(天保7年(1836年))
※少し時間を遡ります
時間軸としては、加賀藩石川郡にて坪枯れが見つかる前となります。
江戸にある加賀藩の屋敷には、定期的に商人が出入りしていた。
多い時は半月に数度。日を置かずに訪れる商人もいれば、半年に一度しか出入りしない商人もおり、その頻度は様々であった。
出入り商人と呼ばれる者達が屋敷に売りにくるのは「奥向」で使われる簪などといった装飾品を始めとして、衣服や嗜好品と多岐に渡る。
年が明け、飢饉が酷くなる天保7年になっても、それは変わらない。
需要の多い大名屋敷の要望に応えるために、各地の産物で欲しい物がないかを商人達は探りにきているのだ。
「……こちらが、お望みの品物にございます」
「東御居宅」の一室で上等そうな箱に入れられた品物を畳の上に置き、大柄な商人は頭を下げたまま微動だにしない。
「大儀であった銭屋」
俺の傅役である山崎庄兵衛が労いの言葉をかけた商人——銭屋五兵衛は、短く「有難きお言葉」と言葉を返した。
銭屋五兵衛は加賀藩の「御用商人」。
江戸においてもそれは変わらず、多くの商人が江戸で群雄割拠していても、加賀藩の屋敷に出入りする頻度は他の商人と比べて群を抜いていた。
山崎庄兵衛が勝千代くんに視線を送り、その視線を受けた勝千代くんが品物を俺の前に恭しい挙動で置く。
「直答を許す」
「犬千代様が直答を許すとの仰せでございます」
その言葉と共に五兵衛は頭を上げるが、依然として視線は合わせない。それが貴人と相対するときの儀礼だと言う。
俺が藩主になったら、こういった面倒な慣習を減らしてやるぞ。
「五兵衛。これまでに無い、新しき船を国許にて作ったと聞き及ぶが、如何様な船じゃ」
まず話すのは世間話。
——と言っても、世間話というのは情報交換という意味合いが込められている。
銭屋五兵衛の情報ネットワークは、インターネットがない江戸時代においては貴重な情報源だ。
どのような船なのか知ってはいても、実際に運用している五兵衛から聞きたいという面もある。
「はっ、恐れながら申し上げまする。私どもが作りましたる船は、これまで北前航路で使いし船とは違い、荒れた海での波に強く、帆は風をよく捉えまする」
どうやら、五兵衛に造らせた洋船の調子は上々のようだ。
五兵衛はその洋船を日本近海で運用しながら、操船技術の習熟に努めているみたいだった。
「左様か。では、遠方の品物を国許に届けるのも容易くなったであろうな」
「はっ、南は薩摩、北は松前にまで航路を伸ばしておりまするゆえ、近々珍しき品物を献上致したく存じまする」
この話から、五兵衛は洋船を使って交易路を広げつつあるらしいことが分かる。
珍しき品物というのは、おそらくその交易によって手に入れた品のこと。
——知らない知らない。あー聞こえません。どこと交易して手に入れた物かは、五兵衛のみぞ知る。俺は預かり知らないからね。
「……それは楽しみじゃな。ところで銭屋、お主は越後国に伝手はあるか?」
そう言って話題を振る俺を見た山崎庄兵衛が「またか」と小さく呟く。
——「またか」とはなんだ「またか」とは。
また俺の気まぐれ。我儘が出たとでも思っているのだろう。
——そうじゃないから! ちゃんと父上のためになることだから!
傅役からの信用が低いのも問題かもしれない。庄兵衛にも勝千代くんを見習ってほしい。勝千代くんは狂信的に信じてくれてるんだぞ!
「越後国にございますれば、手前どもの支店が新潟湊にありまするが……何かお望みのものが?」
五兵衛の商売人としての嗅覚が、金の匂いを嗅ぎ取ったのか、俺に対してにこやかに聞き出そうとしてくる。とりあえず、その揉み手はやめろ。
「まぁ、そのようなものじゃな。時に五兵衛は、越後国の塩沢なる地は知っておるか?」
「塩沢と申しますると、越後国魚沼郡にございまするな……」
「うむ、その地にて作られておる、ある物が欲しい。いや、もっと具体的に言えば金沢に届けてもらいたい」
ウンカに対する対策を考えた上で、それに必要なものが越後国塩沢にはあった。
いや、正確に言えば他の地方にもあったのかもしれないが、記録が残っている確実性を求めるならば塩沢にしかなかったのである。
「薄荷油じゃ。塩沢の地には薄荷草から作られた油があると聞く。それと薄荷の苗を購たい」
「承知致しましてございます。しかし、一体何に使われるので……?」
「銭屋! 差し出がましいぞ!」
薄荷油の使用用途を尋ねようとした五兵衛に対して、山崎庄兵衛が怒気を露わにする。
「まぁまぁ。そう声を荒げるな庄兵衛」
「しかし!」
俺が宥めても、庄兵衛の怒気は治まりそうにない。
「良い。五兵衛は信用に足る商人じゃ。でなければ、父上から『御用商人』として出入りを許されるわけがあるまい?」
庄兵衛に対して俺が宥めるように言って、初めて庄兵衛は威勢を和らげた。
俺が五兵衛に欲した薄荷油。
それの生産が本格化したのは、明治時代に入ってからのことである。
(※薄荷油の生産が始まった場所は諸説あり、備中国とも越後国とも言われている。だが、越後国塩沢では天保期から生産されていたとされる(後に生産を停止するが))
日本産薄荷は明治時代から昭和にかけて世界シェアを席巻したものの、もっと安価なインドやブラジル産の製品に押され、衰退してしまう。
——が、今の時代だとそうではない。高価な換金作物の一つなのだ。
一応、薄荷自体も薬の原料として高級品ではあるのだが、それでも高が知れているだろう。
「薄荷の油ともなれば、多少値は張りましょうが……よろしいので?」
「問題ない。後ほど父上に書状を認めるゆえ、それを証文がわりに金沢に行けば良かろう」
——もちろん、俺が金銭を支払うわけない。父上には、必要経費であることを認識してもらうしかない。
俺が個人的に使うことのできる金は限られているし、それに加賀藩は生神で採れる金で財政的に余裕があるはず。
そんな俺の内心を知ってか知らずか、五兵衛との話し合いは終始にこやかに進んでいく。
「届けるついでに、文も預ける。引き取りに来た者にその文を見せ、書かれている方法を試してもらうつもりだ」
俺が薄荷油を求めたのは、薄荷油を利用して作ることのできる「害虫忌避剤」を作らせるためである。
その作り方は簡単。
薄荷油1に対して、水を20の割合で希釈するだけ。
それを刷毛で作物に塗布することで、害虫を寄せ付けない効果が見込めたそうだ。
本当はスプレーのようなものを作りたいのだけれども、現在のスプレーのような形で実用的な形になったのは1870年代のアメリカ(※1876年特許番号182,389)を待たなければならない。
もっと原始的な形であれば、おそらく江戸時代の技術でも作ることは可能だ。
水を溜める筒と細い管。それに密閉性の高いポンプさえ作ることができれば、ベルヌーイの定理を利用した霧吹き器が作れる。
しかし今から作るとなると、どうにも時間が足りないだろう。
「ところで銭屋、薄荷油を届けるついでに、漁師になるつもりはないか?」
俺の放った一言で、五兵衛はポカンと口を開けるしかできなかった。
※ 実際に特許の図面を見たのですが、液体を吸い上げる機構はどうにかなったとしても、圧搾空気を作ったり溜める機構を江戸時代の技術で作る方法が思い浮かばなくて断念しました。




