第26話 飢饉の前兆(天保7年(1836年))
※三人称でのお話です。
とある知らせが金沢城に飛び込んできたのは、5月の半ば(グレゴリオ暦6月末)に近づいてきたある日のことだった。
「……それは、まことの話か?」
江戸に参勤中である藩主の留守を預かる役目である、金沢城代——横山山城守隆章は、目の前で平伏しながら報告する武士に対して、疑問の声を投げ掛けた。
「はっ。石川郡與津屋村(※現白山市四ツ屋町)年寄、多川茂兵衛から届けられたる文にて」
目の前で平伏し、そう報告した武士は、横山に対して一通の書状を差し出した。
多川茂兵衛は、石川郡にて十村役を勤めていた豪農である。
多川家(※)自体、室町時代に加賀守護に任じられていた冨樫氏の末裔を称し、茂兵衛はそれもあってか気位が人一倍高い人物であった。
文政4年に十村制が一度見直され、村の統治を郡奉行や改作奉行が直接担うことになった後も、多川氏は周囲の村への存在感を示し続けていた。
それが郡奉行取次役に書状を書き、城に届けたということは、何がしかの手に負えない問題が発生したということを意味する。
事実、平伏した武士が報告した内容は、事が事なだけに横山にとって信じがたい内容だった。
「……して、坪枯れが生じた村は、一村のみであるのか?」
坪枯れ——。
作物の病気や虫害によって、田畑の一角が枯れる事である。
横山は少壮の頃から城に出仕し、その頭脳を藩政に如何なく発揮してきた。
30代に入ったばかりだというのに、横山の整えられた髷に白い物が交ざり、顔に刻まれた皺が目立つことからも、当人の労苦が偲ばれよう。
その横山が狼狽えるほどに「坪枯れ」という凶作の前兆は、近年においては珍しいものであった。
「はっ。それが、周囲四か村に及んでいると……」
平伏した武士がそう言うと、横山は武士から文を受け取り、書かれた内容にサッと目を通す。なるほど、確かにそのような状況である事が書かれている。
近年、加賀藩領一円では、天候不順に見舞われることで飢饉となることが多く、坪枯れになることは少なかった。
——それに対して、藩は明らかに準備不足である。
坪枯れとなった時の対応策というのは、鯨油を田に入れて虫を落とすというもの。
一般的に知られている方法といえばそれくらいで、残念ながら城内にある鯨油の蓄えは乏しかった。
脳内で算盤を弾いた横山は、被害が生じている計5ヶ村に配布するべき油の量を見積り、城にある在庫だけでは足りないことをすぐに悟る。
足りないとなれば、他所から購う他はない。
一応、一昨年の豊作で城に蓄えがあるとは言っても、坪枯れの範囲が拡大すれば、藩の財政負担が大きくなるのは明白である。
横山はすぐに脳内で、坪枯れに対して費用のかからない措置を考えるが、すぐにその策を思い浮かべることはできなかった。
「文は預かる。一度協議する故、下がっておれ」
3月から4月にかけての長雨が終わり、ようやく田植えが終わった矢先の事だった。
安心したのも束の間、また更に問題が発生した事を、殿に何と報告したものか。
これ以上坪枯れが広がらないように、対策を立てる必要がある。
横山は頭を悩ませたが、何はともあれ殿に報告することを決める。
江戸の下屋敷で開発したと言う新肥料の件もあるし、何かしらかの対策法が無いとも限らない——という、希望的とも言える考えのもとだった。
幅広い人脈を持つ、江戸に在府している奥村丹後守に知らせてからでは遅いだろう。
——だが、報告に上がる前に取れる対策を、八家の当主で考えなければならない。
その考えがあくまでツナギとしてであっても、何も対策を考えないよりは良いだろう。
横山は別室で執務をしていた、他の八家の当主を呼び出すことにした。
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一室に肩を寄せ合うように車座に座って、奥村宗家を除く八家は顔を合わせていた。
本来であれば、二の丸にある「松の間」で、家老、年寄が政務のことに関して話し合う。
しかし、「松の間奥の間」に集まったのは、八家の当主(奥村宗家を除く)のみ。
12畳ほどの広さを持つ部屋を閉め切り、男達が密集して座る様はどこから見ても異様の一言に尽きよう。
「坪枯れの原因は、蝗害でござろう」
まず、そう言って口火を切ったのは本多播磨守政和だった。
歳の頃は横山と十ほども離れている若者は、集まった面々の前で事も無げに言い放つ。
「こ、蝗害⁉︎」
横山の呼びかけに応じて車座に座った八家の中で、奧村分家当主、奥村内膳惇叙は、驚きを隠せない様子で声を上げる。
「蝗害」とは文字通りの意味を持ち、バッタ類による害を指す。だが、江戸時代においてはバッタ類だけではなく「ウンカ」による害も「蝗害」と呼んでいた。
それに対して、本多政和は「左様」と頷きながら言葉を返した。
「坪枯れの生じた村に飛来した虫は、小さいと聞く。先日、江戸に在府しておる奥村丹後守殿から文があった。何でも、江戸在府中に知己を得た学者から農学本を手にする機会があった、と」
本多政和はツラツラと奥村丹後守からの情報を披露するが、——どうしてその情報をこちらに流さないのだ! と、横山は改めて不満を覚えた。
批難の意を込めて本多へと視線を送るが、それに気が付いた様子はない。
「然れば、その事をよくご存知である殿の下知に従うがよかろう」
本多政和の実弟で、長家を継いだ長九郎左衛門連広は、消極的な策を述べる。
下知に従ってからでは遅すぎるから、こうして集まって協議しているというのに、長連広の言う消極策は論外だろう。
怒鳴り付けたい衝動を抑え込みながら、横山は口を開く。
「林郷(※現石川県野々市市上林、中林、下林、白山市の一部周辺)の林権兵衛(※2)からは何と?」
長連広の話を聞き流し、横山は隣に座った村井長左衛門長貞に対して話を振る。
「林郷膝下(※3)では、未だ異常は見られぬとのこと。しかし、山嶋組(※現石川県白山市山島地区)(※4)では既に坪枯れが生じている田があると聞き及んでおる」
村井長貞は事の深刻さに気が付いているのか。それとも跡目を継いで早々、大きな問題に直面していることに対して気兼ねしているのか、重苦しい表情を浮かべながら口を開いた。
「早く手を打たねば、石川郡18万石余りが凶作となる。それは避けねばなりませぬな」
村井長貞が言葉を続ける。
加賀百万石と喧伝される石高のうち、加賀国は実高約34万石余り(白山麓、大聖寺藩領を除く)(※他に能登国約20万石(天領を除く)。越中国約70万石(富山藩領を除く))である。
その中で18万石という数字は藩財政上、決して無視できないものであり、村井長貞の言葉でようやく事の重大性を認識したのか、長連広は口を真一文字に結んだ。
「奥村丹後守殿への……江戸への使いは既に出発させておる。あとは、広がらぬように手を打たねばならぬ」
横山はそう言い、集まった八家の面々の顔を見る。
俯き目を合わせぬ者。考え込んでいるのか、腕を組んでいる者等様々であるが、一貫しているのは何の策も脳裏に思い浮かんでいないことであろう。
「……本多殿、奥村丹後守殿から何か聞いてはおりませぬか?」
横山から唐突に話の水を向けられ、本多政和は一瞬キョトンと惚けたような表情を浮かべ、そして何やら口ごもった。
「……奧村殿からは、宮腰の銭屋を頼るように、と……」
そして本多政和から告げられた名前は、奥村丹後守と近しい大商人の名前であった。
※多川家
冨樫氏の同族である林氏(加賀斎藤氏)の一族。
白山市四ツ屋町に十村屋敷「多川家」が残されており、現在もなお貴重な文化財を所有している。
※2林権兵衛
冨樫氏の同族。名前は調べても出てこなかったので創作。
林組は現在で言う野々市市から白山市館畑地区、林中地区、山島地区を担当し、約3万石の徴税等を管轄していた。
白山市林中地区(旧称:林中村)は、「林組の中の村」という意味があるらしい。
林中地区には「天狗舞」で有名な酒蔵がある。
※3林郷
地名で言うと、野々市市上林、中林、下林。白山市安養寺町、柴木町、部入道町が該当。平安時代から室町時代は拝師郷とも書いた。
※4山島地区
手取川に近い地区で、某歴史シミュレーションゲームで登場する本願寺家の武将「窪田経忠」(陸戦型坊主がいるから使わない? 後方の城主で配置するには丁度いいパラメータでした)の本拠地があった場所。
その兵力は河原組二万騎(察し)と呼ばれていたらしい(諸説あり)。しかし、その遺構はほとんど残っておらず、安吉城趾には公民館が立っているのみである。
なお、安吉町内には「手取川」や「吉田蔵」で有名な酒蔵。「白山紫」と言う出汁醤油を出している醤油蔵がある。また、同町内にあるお菓子屋さんのロールケーキは程よい甘さでおすすめ。




