第25話 焦燥(天保6年(1835年))
おまたせいたしました
安積艮斎に会いに行き、俺の先生——いわゆる家庭教師のようなものか——になることが決まってから、俺は多忙の日々を過ごすことになってしまった。
俺が安積艮斎から教えを受けるのは、月に一度と決められた。
安積艮斎も多忙の身であるし、俺も俺で藩主になるための教育を受けなければならないから、当然といえば当然か。
勉強をしなければならないのは不本意とはいえ、合法的に外出する大義名分ができたことは喜ばしいことである。
ところが、俺には一つだけ誤算があった。
それは外出するにあたり、誰かしらかが俺についてくることになった事である。
上屋敷のある本郷から、安積艮斎の私塾のある神田駿河台までは目と鼻の先だと思うのだが、俺の信用がないのか一人で外出することは許されなかった。解せぬ。
そうそう、高野長英に送った手紙だが、翌日に高野長英からの返事が届けられた。
その内容は、まず新しい肥料——焼成リン肥もどきのことだ——の詳細を知りたがっていること。それと外国船が遊弋している近海での話に、外国と交易することの有益性について書かれていた。
そして最後に書かれていたのは、俺のスカウトに対して謝意を示しつつ、それでもキッパリと「丁重にお断りする」といった内容だった。
——うーん、残念だ。高野長英ほどの人物なら、父上にも紹介しやすかったのだが、こうまではっきりと「お断り」されてしまうと、いわゆる「脈なし」なんじゃないかと勘繰ってしまう。
まぁ、いきなり藩主嫡子からの手紙に、警戒心を持ってしまうのも当然かもしれない。俺だって、突然大きな会社の息子を名乗る人物からスカウトされたら、タチの悪いリクルート詐欺かと思うもんね。
でも残念ながら、俺は諦めが悪い性質だから、一度「お断り」されたとしても諦めるつもりは毛頭ない。
これからも手紙のやり取りを続けていくうちに、高野長英だって心変わりするかもしれないからな。
「……だからと言って、読んですぐにお返事を書かれるのはいかがなものかと」
「うるさい勝千代! こういう返事は早ければ早いほど好印象を相手に抱かせるものだ!」
文机に正対し、頭を抱えて「うんうん」と唸りながら手紙の内容を考えている俺に対して、勝千代くんが背後からにべもなく宣った。
好印象を抱かせるという根拠——もちろんソースは俺。こういう手紙とか、メールとかはレスポンスが短ければ短いほど相手に「興味があるんですよ」とアピールするチャンスなのだ。
手紙といえば、渡辺崋山への紹介状を手に入れたとはいえ、すぐに会うというわけにはいかなかったのも誤算の内だった。
かの人も三河国田原藩の家老として、飢饉への対応に追われているわけだから、何度かの手紙をやりとりしてようやくお互いが会う段取りが調う。どうやらそれが、格式だの礼儀だのというものらしい。(勝千代くん談)
仕方がないことだとは思う。だが、なんともまどろっこしい。
飛び込み営業のようにパッと行って会うことはできないのかと思うのだけれども、何ともならなかったのが現実だ。
その代わりに余った時間で、俺に課されたのが詰め込み教育のように組まれたスケジュールだった。
藩主の嫡子として、俺が身につけなければならないのは必要最低限以上の知識や、礼儀作法。それに加えて能や書画に和歌。
身につけなければならない教養がてんこ盛りだ。そして儒学や国学、蘭学を知識として吸収しなければならないのだから、俺の小さな脳みそはオーバーヒート寸前。キャパオーバー気味だ。
全国津々浦々にある藩の藩主全てが、このような教養を受けているとは言えないが、大なり小なり似通ったことを学んでいるのだろう。
どうしてこんなに、教養や知識を詰め込まなければならないのか。
——それは、おそらく父上が関係していると思われる。
父上の目的はおそらく、自身が隠居するために俺を藩主として早期に育て上げること。
そのために本来であれば、もう少し時間をかけて教育するところを、ある種の詰め込み教育的なことを俺に対して課してきているのだ。
まるで焦るかのように俺を育てようとしているのは、何故だろう。
一体父上は、何に焦っているのか。現在の加賀藩の状況からして、焦る要素は少ないはずなのに、早く自身の後継者として表舞台に立たせようとする意志を感じる。
——飢饉の対策のためだろうか?
飢饉があると言っても、それが焦る理由になるのかで言えばおそらく否。
加賀藩で取りうる対策として、五郎島金時の増産や、米の備蓄も進んでいる。
——父上が病気?
これも否。
毎日のように母上とくんずほぐれつしているくらいには元気だ。もげろ。
じゃあ一体どうして——と考えた時、一つだけ思い当たる節があった。
天保7年から天保8年にかけて、多くの事件があったのは日本史を少し勉強したことがある者なら知っているだろう。
モリソン号事件もそうだし、大塩平八郎の乱や生田万の乱もそうだ。そこから幕藩体制に綻びが生じ始めたのは「正史」が辿った歴史である。
それともう一つ。
徳川家斉が将軍職を譲り、徳川家慶が第12代将軍となることだ。
徳川家慶が将軍になってからも、大御所となった徳川家斉は権力を握り続けることになった。
強大な発言権を持ったまま自分の息子を将軍に据え、睨みを効かせる。
そして緩やかに権力を委譲しつつ、自分は悠々自適な余生を過ごす。
しかし、徳川家斉にとって誤算だったのは、自分自身が可愛がっていた寵臣を、同じく可愛がっていた徳川家慶によって粛清されることだろう。
徳川家斉の死後、寵臣は軒並み閑職に追われるか、何かしらかの罪を着せられることになった。
——そうか、父上はおそらく、どこかしらからか「将軍が隠居したい」という情報を耳にしたのかも知れない。
そうだとすれば、父上が抱く焦燥にも説明がつく。
徳川家斉から「斉」の字を偏諱してもらっている以上、父上が次代将軍たる徳川家慶から偏諱されることはない。つまり、政治的に密接になれないということを意味する。
そこで、俺に白羽の矢が立ったということだ。
元服するとなればまず、将軍に拝謁しなければならないし、そこで初めて次の後継者として認められる。
慣例として前田家は、拝謁する際に将軍から偏諱を授かっていたはずだから、父上はそのことを見据えて動いているのだろう。
前田家の立場は、おそらく危うい。
徳川家斉の娘を正妻として持つ父上。その血を継ぐ俺。しかも100万石を超える大身大名。
徳川家斉の政治色を排除したい次代将軍にとって、前田家は「親家斉派」に映ることだろう。排除されないわけがない。
だから父上は、俺の元服を徳川家慶が将軍職を譲られるタイミングに合わせたいのだ。
将軍から偏諱を授かれば、主従の繋がりが生まれることを意味するし、「先代は先代。これからは次代同士で仲良くしましょうぜ。ゲヘヘ」となることが可能となる。
「よし、これで良いだろう。早速だが届けてくれ」
「……かしこまりました」
ようやく手紙を書き終えた俺が手紙を手渡すと、勝千代くんは渋い顔で受け取った。
あれこれ布石を打っているつもりでも、俺の預かり知らないところで動きつつある流れがどうにも気になる。
これが政治というものなのかもしれないが、それでも俺は足掻こうと胸に意を秘めるのだった。
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