第22話 二人での外出(既遂)(天保6年)
大人に手を引かれて歩くのは、一体いつ以来のことだろうか。
少なくとも、今世においては初めての経験で、前世においても50年近く前のことになるだろうから、俺の記憶には一切残っていなかった。
歩幅の違いから俺の先を歩く男の背中は、武士らしくスッと伸びていた。
大通り沿いには多くの店が軒を連ね、様々な匂いで俺を誘惑してくる。
米を炊く匂い。団子や蕎麦と書かれた暖簾や幟。
それらに誘われて俺は口の中で涎を溜めるが、奥村丹後守は知ったこっちゃ無い。
奥村丹後守からはどこに向かうのかを告げられず、ただ「そこに行けば犬千代様のお眼鏡に適うものもおりましょう」とだけ言われ、二人揃って江戸の喧騒の中をずんずんと進んでいた。
町中の喧騒を聞いていると、現在も飢饉に喘いでいる地方があるなんて信じられない気がする。
それほどまで活気が溢れていて、どこか俺は圧倒されていた。
「……江戸には物が集まりまする。それ故に、町人は地方の窮状を知ることはないのでしょう」
俺の手を引きながら歩く奥村丹後守が、ボソリと小声で囁いた。
「そうか……」
感情が顔に出てしまっていたのかもしれない。
奧村丹後守の言葉は、どこか諭すような声音を含んでいた。
不作の波は、江戸の町人達にとっても他人事ではないはずなのに、それでもダメージが少ないのは全国津々浦々から集まってくる米に理由があるのだろう。
しかし、江戸の市中から一歩外に足を向ければ、不作に喘ぐ農村の悲鳴が聞こえてくる。
俺がやりたいことは、その人たち全員を救うことはできない。
あくまで加賀藩の中でだけ、犠牲者を少なくしようとしているだけなのだ。
「幸せなことなのかもしれませぬ。米がなくて死に行く者達の声が聞こえてこないのは……ですが、その恨み辛みは必ずどこかで噴き上がるでしょう」
俺が顔を強張らせていると、奧村丹後守は予言めいた言葉を述べる。
実際に正史では、天保の飢饉の際に大塩平八郎が乱を起こし、それに感化された生田万の乱も起きている。
奥村丹後守がそれを知っているはずはないのに、そうした予言じみた言葉を使うほど鬱屈としたものを感じ取っているのだろう。
「……丹後は、全ての者達を救うことができれば救いたいか?」
俺がそう言うと、奧村丹後守ははたと立ち止まり、ジッと俺の目を見つめてきた。
「叶うならばそれが理想でありましょうが、難しゅうございます。理だけで申すれば、民百姓を守るは我ら侍の本分と言えるもの。しかし、一切合切を救うとなれば、弥勒菩薩でもない限りは難しゅうございまする」
「……そう、だよな」
「左様にございます。犬千代様が民をお思いになるは、まことに良きことにございます。しかし、我らにできること、我らの手が届く場所は、あまりにも狭うございますれば」
奧村丹後守はそう言って言葉を一度区切り、俺の両脇に手を差し入れて持ち上げ抱えた。——あれ? これはいわゆる「抱っこ」と言うやつでは?
「仁義礼智忠信孝悌、全てが生きる上で大事にございます。それを忘れて生きるは、ただ畜生と同じこと。努努お忘れなきよう」
「……」
——奧村丹後守から完全に子供扱いされていた。
俺の精神年齢は、奥村丹後守とそう変わらないはず。いや、前世を含めると俺の方が長く生きているはずなのに不思議な感覚だ。
「これからは松平猫千代殿とお呼びいたす。さぁ、もう少しで着きまするぞ」
奥村丹後守は俺を地面に下ろし、そう言って再び歩き出した。
結局、どこが目的地なのか分からずじまい。チャンチャン。
「……うむ、よろしく頼む」
そして俺は奥村丹後守の手を握り、再び歩み始めたのだった。
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奧村丹後守と歩いて暫く。
本郷を出て南下し、大きな川沿いにある昌平黌を横目に見ながら、さらに歩いた。
大きな川——神田川に掛かっている橋は「昌平橋」だろうか。
多くの人が行き交う橋を通り過ぎ、また暫く歩く。
淡路坂を通り、太田姫稲荷のある稲荷小路を進み、幾度か小路を入ったところで、唐突に奧村丹後守は立ち止まった。
「暫しこちらでお待ちくだされ」
奧村丹後守はそう言って立ち止まった先にある家屋の中に入って行った。
立ち止まった先は、見るからに何の変哲もない武家屋敷。
俺からすれば大きくもないが小さくもない、いたって普通の屋敷だった。
屋敷の大きさから察するに、おそらく御家人や旗本クラスの家であることを推測できた。
家の門前には「小栗」とだけ書かれた表札が掲げられており、どこの「小栗さん」なのか推測できるものは何もない。
「小栗」で有名といえば、オグリキャッ……いや、幕末期限定で言えば「小栗又市」の名前で知られる「小栗忠順」だろうか。
その人物についてはいまいち思い出せないが、たしか遣米使節の一人だったような気がする。
しかし、もしもその「小栗忠順」がいたとしても、活躍し始めるのはもっと年月を待ってから。
俺の人材探しという目的からは、ストライクゾーン外角低め。ギリギリボールと言ったところだ。
まぁ、小栗忠順は幕臣だから、俺がスカウトしても乗ることはないだろう。
——いや、待てよ。もしも友好的な関係を築くことができれば、幕府の外交政策に加賀藩が一枚噛むことができるかもしれない。
となれば、時々出入りするくらいの関係を維持するくらいが丁度いいか。
でも、どうやって誘えばいいのだろう。
『ウチさぁ、庭園あんだけど焼いてかない?(芋を)』
『緑茶しかないんだけど、良いかな』
どうしよう、碌な誘い文句が浮かばない。
こういう時、自分の教養のなさが嫌になる。
教養があれば、もっとスマートに誘うことができるというのに。
「……」
——その時、ふと視線を感じた。どこから向けられている視線だろうか。
周囲を見回してみるが、どうにも視線の主の姿はない。
こちらを探るような雰囲気すらある視線を感じながら、俺は所在なく視線を足元に向け、コツンと足先で小石を蹴った。
「隙あり!」
「あだっ!」
その瞬間、俺の頭頂部から激痛が神経を駆け巡る。
背後から突然、竹刀で叩かれた事を知覚し、俺はその蛮行をなしてきた人物に対して大きな声で抗議した。
「何をする、突然!」
——声も掛けずにいきなり殴ってくるなんて、どこの蛮族だ! 加賀藩でもそんな事をする奴はいないぞ! 少なくとも紀尾井坂ではそうだった!(※諸説あります)
「先生の客人と聞き、どんな大人物が来たのかと思えば、どこぞの家中の童ではないか」
こちらを嘲るような声音。
振り返って蛮人(仮称)を見ると、そこには俺と然程年齢が離れていない紅顔の少年が、竹刀を片手に持ち立っていた。




