第20話 課題(天保6年(1835年))
父上が出した名前は、加賀藩家臣団の中で最大の禄高を持つ人持組頭の一角。本多家本家。(親父ギャグじゃないよ)
加賀藩家臣団最大の石高を有する本多家は、前田家に仕官するに至るまで紆余曲折があった。
最終的に前田家に出戻ってはいるが、その経緯や仕官した後に出奔した武家を見ても、確たる証拠はないが徳川家から送り込まれたスパイだったと考えるのが自然だろう。(諸説あり)
「本多播磨守かぁ……下手に突き過ぎて蜂起でもされたら厄介だなぁ」
父上との話し合いが終わった俺は、自室に戻ってから部屋の中で寝転がりながら独り言ちた。
本多家の禄高は五万石だが、本家以外にも一万石クラスの分家が存在する。
前田家家臣団の軍備は、幕府に定められた法度に倣って決められている。
その軍備は加賀藩知行御軍役之覚書によれば、一万石あたり「幟7本、馬上20騎、小馬印1本、鉄砲25挺、弓5張、槍50本持槍共に」と定められていた。
五万石で換算すれば、約500名が本多家本家の軍役として課されており、本多家分家と合わせると本多家は約600名の兵を有していることになる。
つまるところが、前田家の家中にいる五万石の大名と一万石の大名が敵に回る可能性が出てくるという事である。
——蜂起されたら、非常に面倒くさいことこの上ない。
600名の武装集団を相手にするとなると、こちらも相応の準備が必要となる。
しかも相手は、蜂起をするにあたって相当の準備をしてくるはずで、蜂起された後でこちらが対処するとなると、どうしても相手の後手に回らざるを得ない。
しかも、本多家が蜂起しようとすればその情報は、徳川家に流れる可能性まであるのだから、余計にタチが悪い。
今の所、俺は現将軍の孫であるから、蜂起されても即お取り潰し、改易とかそういう危険性は少ないと思われるが、それも希望的観測に過ぎないだろう。
本多家に蜂起されずとも、加賀藩内部に不穏分子を抱え込むとなれば、これからの政策の実現に暗い影を落とし込むことになるかもしれない。悩みどころだ。
「……父上にとっての丹後のような者、か……」
父上が俺に対して与えた助言は、つまるところが「信頼のおける家臣を持て」と言うことだ。
信頼のおける人物として俺が思い浮かぶ人物は、まず松平勝千代君。次に寺島蔵人と山崎庄兵衛。
この三人が、俺の中で信頼のおける人物と言える。
勝千代君は俺の側にいる事をどこか誇らしく思っているようだし、蔵人と庄兵衛もようやく実を結び始めた結果によって、俺の言葉を信じてくれるようになった。
懸念点とすれば、勝千代君はもうすぐ元服を迎えるだろうから、使い勝手が変わってくるだろうこと。
勝千代君が元服を迎えれば、これまでのように俺の手伝いをする時間は減り、別のお役目を果たさなければならなくなる。
こうして見ると、まだ俺に使う事ができる人材は少ない。
父上に人材支援をお願いしても良いのだが、そうすればまた俺は父上に首輪をつけられることを意味する。
そうした存在はすなわち、父上が隠居した後も父上の影響力が残ることを意味し、それはあまりよろしくないだろう。
「誰かスカウトできれば……いや、優秀な人材なんて、どこかの家中の人間ばかりだしなぁ」
頭によぎった考えを即座に否定する。
まだ1840年にもなっていないことを考えると、新撰組の主要メンバーですら俺とそう変わらない幼児の年齢だ。
藩主の嫡子であるとはいえ、そんな素性の定かではない人物を登用したいとか言い始めたら、それこそ俺への攻撃材料にされかねない。
「……干されてる人間。いや、市井で燻っている人間をスカウトできればなぁ……」
脳みそをフル回転させ、記憶を呼び起こす。
天保年間で著名な人物といえば、安積艮斎。それに蘭学者で言えば渡辺崋山くらいしか思い浮かばない。
医学者では緒方洪庵が有名かもしれないが、まだ長崎に遊学していない現状では一介の町医者に過ぎない。
安積艮斎をスカウトしようかとも思ったが、おそらく現在は二本松藩の「出入儒」として扶持を与えられており、こちらの誘いには乗らないだろう。
——そうだ、高野長英はどうだろう。
高野長英であれば、現在は平川町二丁目付近の貝坂通りに面したところに「大観堂学塾」という私塾を主催しているだけだし、まだ蛮社の獄も起こっていないから、お尋ね者でもない。
高野長英が蛮社の獄で入牢するきっかけとなった「戊戌夢物語」も、執筆されたのは1837年の「モリソン号事件」以降だから、現時点では「シロ」。犯罪者をスカウトする訳にはいかないからね。
シーボルト事件? 知らない子ですね。俺からお手紙を出しても何の問題もないな。うん。
「勝千代はいるか?」
「は、ここに」
そうと決めると善は急げだ。
俺が外に向かって声をかけると、すぐさま勝千代君が顔を出した。
こういうフットワークの軽いところが勝千代君の良いところなんだけど、ちょっと怖くもある。
——こう、何というか視線が直向きすぎるというか。俺を見る目が狂信者の目付きというか……
「勝千代、明日で良いから、麹町の大観堂学塾の高野長英先生に文を届けてほしい」
「は、今からでも行きまするが」
勝千代君から即座に返ってきた返答に、俺はちょっと引いた。
時刻は夕方に近づいてきているのに、江戸城の反対側に位置する麹町まで行くとなると、帰りはかなり遅くなる。まだ元服前の勝千代君に、そんなことをさせる訳にはいかないだろう。
「いや、明日で良い。私も今から文を書く故、書き終えてからでは夜も遅く、先方に迷惑がかかろう」
俺がそう言うと、勝千代君はどこかムスッとした表情を浮かべ、小さく首肯した。
そんな膨れっ面をしてもダメなものはダメだ。
江戸市中の治安は比較的良いと言えるかもしれないが、それでも強盗や泥棒がゼロという訳ではない。
人攫いや辻斬りもいるかもしれないし、勝千代君のように年若く眉目秀麗な少年は、性におおらかな江戸時代の変態に狙われること間違いなしだ。
そして俺は筆を持ち、高野長英に宛てた文に何を書くのかを考えるのだった。




