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幕末の加賀藩藩主に転生しました。  作者: きんかんなまなま(死語)
飢饉対応編
18/29

第17話 改革の萌芽(天保6年(1835年))

 加賀藩上屋敷は江戸の本郷にあるが、そこから中山道を北上した板橋に加賀藩下屋敷はある。


 加賀藩下屋敷の敷地面積は、約21万8千坪。

 その敷地面積は、近隣すべての大名屋敷の中でも特に最大の面積を誇る。


 その広さ、なんと東京ドーム約15.4個分。この例えだと分かりにくいか。

 現代ではほとんど見る影もないが、板橋区加賀1・2丁目、板橋4丁目の全域と板橋1・3丁目の一部が下屋敷の敷地の範囲だったと言えば、なんとなくその広大さが想像つくかもしれない。地方民には分かりにくいね。


 加賀藩下屋敷に与えられた役割は、参勤交代で藩主・藩士が旅装から装束への着替えをする場の他に、加賀藩上屋敷で供される食糧の自給の場という役割だ。


 そのため、庭園には田畑となっている場所もあり、そこで様々な種類の植物が栽培され、狩猟用の鴨の他にタンチョウヅルといった唐鳥からとりが飼育されていた。


 五月晴れの清々しい気候の下、俺が暮らしている加賀藩上屋敷から板橋の下屋敷まで徒歩で行くとなると、大人の足でも一刻(約2時間)ほどはかかる。

 現代という便利な交通手段に溢れた世界を知っている身からすれば、かなり遠く感じた。


 午前中のお役目——といっても、俺の教育なのだが——を済ませた寺島蔵人と俺は、馬で加賀藩下屋敷を目指して中山道を進んでいた。


 俺としては馬上タンデムでも良かったのだけれど、流石に一頭の馬の背に2人で跨ってパカると、他の耳目を集めてしまう。

 だから俺が馬の背に乗り、寺島蔵人が手綱を握って馬を引き歩いていた。


 それでも江戸の町人達からは好奇の目を向けられ、何故かは分からないが囃し立てられる。江戸市民の民度が低すぎる問題。


 どうして囃し立てられているのかわからず、俺が低い声でぼやいていると、寺島蔵人は()()()顔で俺に説いた。


「大の大人の男が馬を引き、小綺麗な格好をした小さな子どもが馬に乗って居れば、何処どこぞの家中だのと噂は立ちましょう」

「……うーん、そんなものなのか」


 ——格好、すなわち衣服のことについて、俺はすっかり思考から外していた。これでも一応、持っている服の中では地味な色を選んだつもりなんだけどな。


 ただでさえ娯楽が少なかった江戸時代。

 どこかの——おそらく身分の高いところの——子供が、供を一人だけ伴って何処かへと向かっているのだから、それは珍しい物好きの江戸市民が見逃すわけがない。


 珍しい光景を見れば、野次馬よろしく町人達は注目する。噂が噂を呼び、やれ「あれはどこどこの家中の誰それ」だの「幼子はどこそこの者」だのと好き放題に噂を立てる。

 「やいのやいの」とはやし立てられるのは、決して気持ちのいいものじゃない。

 俺の気持ちを察したのか、寺島蔵人は苦笑を浮かべて囁いた。

 

「御我慢なされますよう。これも武家に生まれた務めとお思いなされませ」

「あぁ、別に腹が立っているわけではないよ」


 ——そう、ただ向けられている視線が不快なだけだ。

 例えが適切かはわからないが、まるで俺は客寄せパンダ。

 もしくはオフの姿を市民に見つかった芸能人のような気分になる。


 ——無礼者! 切って捨ててやる! と、時代劇のように視線が不快だからというだけでそんなことを言わない。言えない。言いたくない。


 江戸時代には明確な身分制度がある。義務教育で習ったであろう「士農工商」ってやつだ。


 ——え? 今の義務教育では「士農工商」って習わない? 

 (俺が義務教育を受けていた時代にはあったの。分かりやすさ優先だから許して。)


 だが、その身分制度はインドのカースト制度ほど厳しいものではなく、武士に与えられた特権も「切捨御免」や「名字帯刀」くらい。

 「切捨御免」についても、特にひどい誹謗中傷や名誉を傷つける行為がないと認められないし、役場に届け出る義務があった。


 だから町人達はその線を弁えながらも、日頃の鬱憤のかわりに好奇を武士身分の者へと向けているのだ。


「しかし犬千代様。何も直接行かれずとも、使いの者に確かめさせれば済みましょう」


 馬を引きながら寺島蔵人は、どこか俺を咎めるような口調で言う。不快な思いをしてまで外に出る必要があったのか、と言わんばかりだ。


「いや、わがままを言っているのはこちらなのだ。だから、こちらから出向くというのが礼儀というものだろう」


 今日、俺が加賀藩下屋敷に出向く用件。それは、俺が寺島蔵人と山崎庄兵衛に「お願い」した成果を直接見るためである。

 それらは完成までにかなりの労力が必要だったそうで、屋敷からあまり外出することができない俺は、助言をするしかできなかった。


 加賀藩下屋敷に到着すると、寺島蔵人は屋敷の用人に馬を預けて目的の場所へと俺を案内する。


「こちらにございまする」


 加賀藩下屋敷の中を進み、池泉回遊式庭園を抜けた先にその場所はあった。


 柿の木や栗の木といった果樹が植えられた一角の対角線上にあるそこは、一見すると何の変哲もない田畑。田畑の隣には白い窯が2つ並べて設置されており、今も窯からは煙が立ち上っていた。


 田畑に植えられているのは、米や麦といった穀物の他にも根菜をメインにした野菜類。

 それらは青々とした葉を伸ばし、葉には水をやったばかりなのか水滴がついていて陽の光を浴びてキラキラと輝いて見えた。


 前世ではよく見た光景ではある。しかし、今世で初めて見る光景に、俺は何の言葉も出ない。

 そんな俺に対して、寺島蔵人は説明のため口を開いた。


「こちらの田畑は、刈敷かりしき下肥しもごえの他に、貝殻を砕いたものと火打谷の石を細かく砕いた物を焼き、撒いたものでございます。何故かは分かりませぬが、他の田畑よりも実が大きく育ちましてございまする」

「確かに、見るからに実りが大きいな……よくやってくれた蔵人。わたしが夢に見た通りだ」


 羽咋郡火打谷。現石川県羽咋郡志賀町火打谷。

 そこはあまり知られていないが、日本で珍しく燐鉱石が露頭で採取できる土地である。


 その付近で燐鉱石が採取できる地域は限られていて、地質学的に言えば「穴水累層」と呼ばれる丘陵性山地を構成する地層と「出雲石灰質砂岩層」の境界部。そこに燐鉱石が埋まっている。

 ——分かりにくいので、石川県民向けに平たく言えば、「のと里山海道」の「徳田大津インター」付近の山で取れると言えば分かりやすいだろうか。


 同所の燐鉱石は正史において、明治時代から大正時代にかけて肥料として採掘され、第二次世界大戦後にもわずかに採掘されたらしいが、全て廃坑となっている。

 地方の郷土史や一部の研究でしか存在が知られていなかったのだから、規模で言えばかなり小規模だったのだろう。


 本当なら、能登島のとじま半ノ浦(はんのうら)(現七尾市能登島半浦町)の海底を掘削してグアノを採取したいところなのだが、海に堤を築いて水を掻き出す等の手間を考えると、飢饉に活用するには時間が足りない。


 それに、燐鉱石を取ったからといって、すぐに肥料となるわけではない。

 そのために必要だったのが、正院しょういん鵜飼うかいで取れる白い石——珪藻土だ。


 珪藻土は、藻類の一種である珪藻の化石が堆積した岩である。


 乾燥させた珪藻土から可能な限り他の石や植物片等の不純物を取り除き、それをさらに細かく砕く。細かく砕いた珪藻土に水を加えて粘土状になるまで捏ね、レンガのような長方体もの形に成形し、自然乾燥させた後焼成すれば、耐火レンガ()()()の出来上がりだ。


 出来上がった耐火レンガもどきの耐火温度は、約1200度。

 耐火レンガを積み上げて作った窯に、燐鉱石と海藻灰をを入れ焼成すると、燐鉱石中に含まれるフッ素や余分な水分が揮発除去される。

 焼成した燐鉱石を取り出し、石臼で粉砕して細かい粉末状にすれば、焼成リン肥()()()の出来上がり。そこからさらに一手間加え、焼成リン肥もどきに骨灰や草木灰と混ぜ合わせても良い。


 そうしてできた焼成リン肥の効果は、作物の葉付きや実付きを良くする事だ。


 天保7年に控えた飢饉の原因は、冷害と病虫害。

 葉付きを良くすることで、日照時間が少なくても光合成が行えるようになるだろう。

 もう一つの要因である病虫害——ウンカの対策は、殺虫剤が作れない現状だと昔ながらの手法に頼るしかない。


 ——何にせよ、俺の指示通りに試してくれた二人には感謝してもしきれないな。

 藩主の嫡子からの言葉とはいえ、まだ幼い俺が夢で見たという話を実現させるに至ったのだから、二人は相当の努力をしたのだろう。


 感謝の意を込めて、俺は寺島蔵人に声を掛けた。


「よくやってくれた、蔵人」

「ありがたきお言葉、身に余りまする。されど、山崎様の窯があってこその事」

「そう謙遜するな。だが、分かっておるとも。二人の功よな。これで父上にもお伝えできよう」


 ——さて、二人がこうして結果を出してくれたのだ。

 あとは、俺が父上を説得できるかにかかっていると言っても過言ではないだろう。


「……しかし恐れながら、まことに来年は凶作となるのでしょうか? にわかには信じられませぬ」

「なる。必ず凶作となる。これは、そのための秘策よ」


 まだどこか半信半疑な寺島蔵人に、俺はキッパリと断言する。


「昨年はまだ豊作だったから良いが、来年は確実に冷たい夏が来るだろう」


 未来を知っているからこそ、俺は断言できる。だが、何も事情を知らない者たちからすれば、何を言っているのかと疑問に思うことだろう。

 飢饉という天災の類は、よほど入念な準備がなければ回避することができない。


 加賀藩の生産力を考えても、限られた焼成リン肥で日本全ての民を救うには、残念ながら足りなかった。

 しかし、加賀藩領内だけに限って言えば、餓死者を少なくできる可能性があるのだ。


「あとは、どれだけ早く対策ができるかだな……」


 俺が小さく呟いた言葉と共に、目の前に広がる青々とした葉が揺れた。


 ——父上が江戸に来るまでの間に、どうプレゼンテーションをするか考えを纏めておかないといけない。


 他領にやり方を模倣される危険性もないことはないのだが、父上に燐鉱石の領外への移出を止めてもらうしかないだろう。

 問題になるとすれば、燐鉱石が採取できる場所付近に天領が存在することくらいか。


 俺は加賀藩上屋敷に帰る時間になるまで、思考の海に意識を埋没させて行ったのだった。

これで連続投稿は終了します。

あとは2週間に一回程度の更新になると思います。


ここまで読んでいただきありがとうございました。

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