第15話 説得(天保4年(1833年))
※冗長すぎるかもしれませんが、お付き合いください。
河北潟とは、加賀国河北郡の金沢と津幡、それと金津(現在の宇ノ気付近)にかけて広がる、海跡汽水湖の名称である。
加賀藩領内最大の湖で、北には内灘砂丘(戦後に米軍の射爆場があった事でも有名)が広がり、豊かな自然があったためか潟周辺では漁が盛んだったそうだ。
ちなみに、河北潟干拓の歴史は意外と古い。
加賀藩5代藩主前田綱紀が、延宝元年(1643年)に約3ヘクタールを埋め立て、潟端新村を立村したのを皮切りに、周辺の村々からの請願もあって小規模な埋め立てが何度か行われた。
干拓前、河北潟の総面積は23平方キロメートルあった。それを全て干拓できれば、2300ヘクタールの農地が確保されることになる。
4代将軍徳川家綱が延宝元年(1643年)に出した「分地制限令」では、農民の田畑の高20石、面積2町以下の分割相続を制限した。
つまり、大雑把な計算になるが、制定した当時は(一町を1ヘクタールとすると)1ヘクタールあたり10石の収入を見込んでおり、河北潟の埋め立てが実現すれば単純計算で23000石の収量が見込まれたのだ。
(正史どおりの銭屋五兵衛が立てた計画では、2300町を埋め立て、48000石あまりの収穫を見込んでいたという。※)
何故、河北潟の干拓が加賀藩(後に石川県)の悲願と言える事業になったのかというと、人口増加とそれが原因による食糧生産能力の確保が叫ばれたからである。
ついでに、叫ばれ始めた時代背景に、飢饉があったことも付記しておきたい。
1600年代後半から加賀藩で制度化された「御救小屋※」は、5代藩主前田綱紀によって設置され、飢えた民の衣食住と医療を提供し、更生させるための施設だった。
時が流れ、天候不順等により飢饉が続くようになると、旧来の村々で抱えきれなくなった人口が金沢の町中に溢れ、その多くが「御救小屋」に収容された。その数は天保年間の一時期で最大4,000人にも及ぶ。
そして現在、制度化されて160年ほどが経過し、「御救小屋」は加賀藩の領民から「最後の命綱」として広く認知され、運用されてきた。
つまり、今で言うセーフティネット的な施設を、加賀藩は全国に先駆けて導入していたと言える。
——しかし、時は江戸時代。「御救小屋」は藩財政の悪化と無関係でいられなかった。
金銭的にも物質的にも「御救小屋」を継続するためには不足していたが、収容されることを希望する「飢民」は増える一方だったからだ。
そこで加賀藩が目をつけたのが、「河北潟」の埋め立てである。
「飢民」を更生させる——つまり、収容者を「生産者」という「人的資源」に転換させるためには、耕すための新しい農地を必要としたのだ。
そして加賀藩は、莫大な資金と人的資源を消費し、河北潟埋め立てに費やして行くことになる。
しかし、結局は銭屋五兵衛の立てた計画は頓挫し、河北潟に毒を投げ入れたという流言を流されて五兵衛は一族諸共獄に繋がれる憂き目に遭い、獄死する。
河北潟の干拓事業が本格的に実施されるには、昭和38年まで待たなければならなかった。それも、60%を埋め立てるのに23年の年月と、302億円の費用をかけて——。
——と、まぁ説明が長くなってしまったが、五兵衛の提案を聞いた俺は、反対の意見を口にした。
「……ならぬ。かほくがたのうめたては、じきしょうそうにすぎる」
——具体的には、130年くらい待たなければならない。
河北潟干拓の成功は技術的進歩もさることながら、昭和に入ってからの河北潟周辺の労働人口が変化した影響も大きい。それらが解決しない限り河北潟の干拓は成功しないし、闇雲に人的資源と物資を浪費することになるだろう。
俺の言葉を予想していたのか、五兵衛は「その理由を伺っても?」と俺に問うた。
「まず、かかるひようのみつもり。おそらくだが、うめたてにひつようなきんすは100まんりょうはくだるまい。いかにごへえといえど、そこまでのきんすをようだてることはきびしかろう」
「できるとは言いませぬが、金子ならばかき集めて見せましょう。他には?」
五兵衛はさらりと反論をし、さらに俺の言葉を待つ。
「……つぎにりょうみんからのはんぱつ。かほくがたしゅうへんのりょうみんは、かほくがたでりょうをしているものがおおく、うめたてにはんたいするだろう」
「なるほど……ですが、田畑を広げることができれば、その反対はなくなりましょう。漁民も米がなくては生きてはいけませぬ」
俺の意見を一つ一つ躱そうとする五兵衛に、俺は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、半ば叫ぶように否定の声を上げた。
「かもしれぬが、そうはならぬのじゃ!」
河北潟周辺の漁民によって、根強い反対にあった五兵衛の未来は、先に述べたとおり悲惨な結末を迎える。
短期的に見れば、五兵衛の死後に財産を接収した加賀藩の財政は一時的にではあるが好転する。「海の百万石」とも言われた銭屋五兵衛が所有していた、300万両余りの財産を接収したのだから当然のことだろう。
だが加賀藩は、一時的な財政健全化と引き換えに、銭屋五兵衛の持っていた全国各地への商品供給網のパイプを失い、他領の情報収集にも混乱をもたらした。
——その結果が「正史」における、中途半端な加賀藩の立ち回りに繋がるとしたら?
五兵衛の死亡フラグをへし折ることができないかぎり、加賀藩の未来は劇的には変わらないことになるだろう。
「……まるで、未だ来ぬ先の事を知っているかのようにございますな」
叫ぶようにして反対した俺を見た五兵衛は、落ち着いた様子で吶々と言葉を紡いだ。
「猫千代様、貴方様のお考えはこの銭屋にわかりませぬ。ですが、このままでは飢饉によって多くの民が飢えることになるのです。そのために、河北潟の埋め立ては必ずせねばならぬこと!」
「ならば、こんごおぬしはぜにやではなくこめやとなのるがよかろう! りょうみんをおもうのはこちらとておなじ! だが、わたしのしんらいしているおぬしにふりえきがあるとわかっているのに、わたしはかんかしがたいのだ!」
突然大きな声を出した俺に驚いたからか、五兵衛は口を噤んだ。
「ごへえ、かほくがたのうめたてにてをだしてはならぬ。たのむから……」
感情の高まりによって、俺の視界が潤んでぼやけた。
こんな声を荒げるつもりはなかった。突然声を荒げるなんて、ヒステリックすぎると頭では理解しているのに、自分の感情を制御することは困難だった。精神が肉体に引っ張られているのかもしれない。
——こんなに感情的になったのはいつ以来だろう。少なくとも前世でも数え切れるほどしかなかったのではないか。
ポタタ、と畳に数滴の涙が落ち、ソレに気が付いた俺は着物の裾で自身の目を拭った。
「猫千代様……」
「……いまはいえぬ……だが、おぬしがわたしをしんじてくれるのならば、わたしのことばをしんじてほしい。おぬしをしんじているわたしのように」
まだ感情を抑えきれていないせいか、声を震わせながら俺は言い切った。
そこで俺は口を閉ざし、五兵衛の様子を窺い見る。
五兵衛は何かを考えるように腕を組み、顔を天井の方へと向けていた。
そして考えが纏まったのか、五兵衛は再び顔を正面へと向け、俺に対して質問を投げかける。
「……では、今も飢えている民をどうなさるおつもりです? このままいけば、加賀国の領民は貧しくなる一方にございますぞ?」
銭屋の脳内には飢饉によって職を失い、あぶれた領民の姿が浮かんでいるのだろう。
——俺だって何とかしてあげたい。だが全員を救うのはほぼほぼ不可能だ。だが——。
「ぜにや、おぬしはなにゆえわたしがふねのえずめんをほっしたとおもう?」
五兵衛からは言葉が出ない。
俺は数瞬の間だけ待ち、そして自らの答えを述べる。
「ふねはおおくのひとでうごかす。ふねにのるもの、にやくばにはこぶものだけではなく、ふねをつくるためにもだ」
どうやら五兵衛は、黙って俺の意見を聞いてくれるつもりらしい。
「しょくにあぶれたものたちは、そこであらたなくいぶちをかせぐことができる。コメのかかくは……そうだな、らいねんにはいったんおちつくだろう。そのあいだにいもとコメをたくわえさせるのだ」
実際に、天保5年に限っては加賀藩領内の大部分で豊作となった記録がある。
天保の飢饉で苦難に喘いでいた他藩に比べると、加賀藩が恵まれているのは苦難の中で「一息つけた」ことも大きい。
しかし「正史」では、そのポテンシャルを活かせることなく埋没していったんだけど。
俺はさらに「それに……」と言葉を続ける。
「ひのもとのふねでは、そとのものをはこぶのはむずかしかろう」
「……猫千代様、それは」
咎めるような口調で口を開きかけた五兵衛の言葉を、俺は「さいごまできいてくれ」と遮った。
「わたしはしょうらい、かがのさんぶつを、たこくにうることをかんがえておる。それにはぜにや、おぬしのきょうりょくがひつようなのじゃ」
他国というのは日本全国のことではなく、ダブルミーニング。外国も含んでいることは、おそらく五兵衛も気が付いているだろうが明言しないでおこう。
「ふねのえずめんは、おぬしにまかせる。おぬしならば、このふねをやくだてることができよう」
「……この老骨に……そこまで……」
——ちゃんと船大工を育成して、後から軍船も作れるようになってほしいからね。
感動した様子の五兵衛に対して、俺は最後に畳み掛けるように言葉を連ねた。
「ぜにや、わたしをしんじてくれぬか? わがはんをとますために、たすけてはくれぬか?」
「……分かりました、猫千代様。この銭屋五兵衛、命に変えましても」
そう言って、五兵衛は俺に対して深く頭を下げた。
こうして、俺と銭屋五兵衛との共犯関係が成立したのだった。
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次話で第一章「幼少期編」のエピローグになります。
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出典
石川県銭屋五兵衛記念館
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参考文献
「加賀藩救恤考――非人小屋を中心に――」
丸本由美子 著 · 2013




