第10話 その日の夜の話(天保4年(1833年))
※三人称視点
「丹後、あれをどう見る?」
屋敷中が寝静まった刻に、藩主である前田斉泰は目の前で平伏する壮年の武士に問いかけた。
行燈の灯りに照らされて、壮年の武士——奥村丹後守栄実は主君である藩主からの突然の問いかけに、困惑のあまり聞き返した。
「あれ……と申しますと?」
「犬千代のことよ。なにぶん奇天烈な行動ばかりしているようではないか」
嫡子である犬千代に付けている近習——松平勝千代からも斉泰への報告が上がっていた。
曰く報告によれば、庭で遊んでいたと思えば突然何処かへと姿を消し、奥村丹後守によって連れ戻された。
曰く、鍛錬前の時間に手足を奇怪に動かし、庭で走ることを好んでいるとも言う。
気でも狂っているのかと思えば、そうではないらしい。
単純に気でも狂っているのならば、斉泰も犬千代の扱いに困ってはいなかった。まだ幼いのだから、病気にかかった事にすれば良いのだ。
幸い斉泰はまだ若い。正室である溶姫も、男児を産むことができたのだから、二人、三人と子供を作ればまた男児が生まれることもあるだろう。
しかし初めてできた自身の息子であるし、それに何より時折垣間見せる知性の籠った目。親の贔屓目を除いたとして、気が狂っているとは思いたくなかったのある。
「……某が見たところでは、賢き御子にございます」
「ほう。何故そのように思う? おぬしがそうまで言うは意外じゃった」
藩内の派閥争いによって政務から遠ざかったとはいえ、斉泰は目の前で平伏する老武士を信頼している。故に、中立的な立場で意見を述べてくれる重臣の存在は貴重だった。
「はっ、恐れながら……銭屋五兵衛が広めたがっている甘藷。あれの可能性を理解しているようにございますれば」
「ふむ、甘藷……な。救荒作物としては良い。だが、あれは焼くか煮るかでしか食えぬであろう。米が足らぬ農民が、食い繋ぐために栽培するものと聞いておるが?」
「犬千代様は今後、あの甘藷が富裕の者らの膳にも上がる可能性を理解しております」
奥村丹後守は、主君の問いに対して補足する。
「わが領内で広まらぬのは、救荒作物ゆえ……つまりは価値が殆どつかぬ故だと。価値がつくようになり、平時から米の他に売れる物だと民が理解すれば、自ずと領内で広まるものと思いまする」
斉泰はその言葉を聞いて「ふむ……」と漏らし、思考に入った。
「甘藷が領内で広まれば、確かに米の価格は落ち着くだろう。だが逆に、甘藷の価値が上がり、万一の時に民が飢えるようでは本末転倒」
「然り。故に、万一に備え、義倉に蓄えさせることも肝要かと」
奥村丹後守は、そう答えると伏せていた顔を主君に対して上げた。
「丹後、それはお主の嫌っておった者達に通じる政策ではないのか?」
「……某が一番に考えまするは、藩の事。そして民の事にございまする。いかに前門の虎、後門の狼の思想に近かろうと、利用するまでにございます」
前門の虎、後門の狼と奥村丹後守が称した人物達。
優秀な人物達ではある。しかし、藩主である斉泰から見て、その思想は急進的すぎると言っても過言ではなかった。
特にその前門の虎。寺島蔵人は、先代藩主——前田斉広に教諭方に見出され、低い身分であるのにも関わらず堂々と藩政の根幹たる家老連中を批判していた。現在は役儀指除となり、金沢の自宅で逼塞しているというが、その思想に同調している者は多かった。
「……前門の虎…………江戸に呼ぶか」
「殿、それは」
斉泰は「まぁ待て」と、反論の言葉を紡ごうとした奥村丹後守を制止した。
「彼奴も悪人という訳ではない。ただ、そうさな。正直にすぎるのだ」
「……いらぬことを犬千代様に吹き込むやも知れませぬ」
「その兆候が見られれば、その時こそ遠島にでもすれば良かろう」
奥村丹後守が上げた懸念の声に、斉泰は——それに、と言葉を続ける。
「彼奴を江戸に呼べば、同心する者らも寺島に役儀が与えられると思い溜飲も下がろう。彼奴の屋敷に入り浸り、良からぬ談義をしている者らの、な」
斉泰が言った「同心する者ら」は、「後門の狼」と奥村丹後守が称した上田作之丞を始めとする者達である。
斉泰の提案に、奥村丹後守は少しの間ばかり逡巡し、再び頭を垂れた。
「また、年寄どもとで話し合いたく存じまする」
「うむ、左様に計らえ。おそらく長(加賀八家長家当主、長九郎左衛門連広)のあたりが五月蝿かろうが、主命であることを伝えれば静まろう」
話は終わりだ、と言わんばかりに、斉泰は手元で広げた能登国の資料に目を通し始める。その様子を見た奥村丹後守は、見事な所作で立ち上がり、藩主の部屋を後にした。
犬千代が言った、金と銀が取れるという「富来生神」の地。その真偽を確かめる術は、国許にいる家老の一人に踏査してもらう他ない。
犬千代の夢に出てきたという尼の話。巾着の中から金銀を取り出す逸話は、藩祖前田利家公の正室「芳春院」が末森合戦の折に、蓄財ばかりをして家臣を雇わなかった利家公を叱りつける話に似ている。
その話を数え三歳の犬千代が知っているものだろうか。もし知っていたとして、誰から吹き込まれたのか。
尽きない思考の種に、藩内の門閥の事を考え始めればキリがつかなくなる。
そして熟考の末、斉泰は方針を定めた。
「……何にせよ、嫡子としての御目見はしなければならぬか」
嫡子として認めてもらうには、将軍との御目見が必須。
慣例的にその前段階として、大奥での面通しが行われる。
「大奥への義理、という名目もあるか。あれの母親の権勢は馬鹿にできぬ」
斉泰は能登国の資料に目を通し終えると文箪笥の中に仕舞い込み、そろそろ休もうと宿直番を務めていた武士に声を掛けるのだった。
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次回は4/29の午前8時に更新します。
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