第1話 死
日本海側特有の冬空は、重たい鉛色を湛えて空に横たわっていた。
今にも雪が降り始めそうな空模様に向かって吐き出された俺の息は白く、凍てついた身体が熱を求めて小刻みに震え上がる。
「……疲れたなぁ」
年の瀬も近いというのに突然職場から呼び出され、上司から業務指示を受けたのが6時間と少し前。それをどうにかこうにか片付けた俺は、住まいとしているアパートの鍵穴に鍵を差し込み、誰もいない室内の灯りを点けた。
中に入ればそこは、12畳の巣。部屋と言うのも烏滸がましいくらいに雑然とした部屋。そこが俺の住処だった。
仕事に対する恨み辛みを延々と述べる気力も絶え果て、俺はアパートの狭い室内を占拠するベッドに倒れ込んだ。
若い頃はもっと気力に溢れていた。
働いて働いて、働いて働いて。
上司に噛みついて左遷されて。
それでも「いつか見返してやろう」という気概と反骨精神に溢れていたのに、50を過ぎた加齢という時間は、俺の身体から牙を抜き去るのに十分すぎた。
「眠い……だるい……でも何か食べなきゃ……」
しかし食事を摂る気力もなく、俺は仰向けに寝転がって瞼を閉じる。
アルコールに逃げようかとも思ったが、今の身体の状況から察するに、缶ビール1本で悪酔いしてしまう可能性がある。
そうなれば、翌朝後悔するのは自分自身であることを知っていた俺が、うとうとと心地の良いベッドの感覚に身を委ねようとした時だった。
「ん? 少し揺れたか?」
ベッドのスプリングがキシキシと音を立て、横になった俺の身体を上下に揺らし始める。
そして遠くから、ゴゴゴゴ——、という低い音が聞こえ始め、「これは大きいぞ」と俺が身構えた瞬間、ミキサーの中で撹拌されているかのような大きな揺れが俺を襲った。
俺は咄嗟に一番倒れやすいであろう本棚を押さえるべく、身体をベッドの上から起こそうとしたが、すでに手遅れだった。
遠くから聞こえる何かが割れる音。何かの警報音。自動車のセンサーが誤作動を起こした音の不協和音。
俺が手を伸ばそうとした先にある本棚が、ベッドの上で無防備を晒している身体を押し潰さんと迫って来るのが見えた。
本一冊一冊の質量は大してことがなくても、数百冊の蔵書ともなれば話は別だ。
俺の視界は倒れてきた本の波に呑まれ、視界から光を奪われる。
俺は何か言葉を発そうとしたが、それも叶わなかった。
本に飲まれた俺の身体はさらに重たい質量のある物に押しつぶされた事で、肺の中の空気が一気に体外へと排出される。
——苦しい。辛い。重い。
なんとかしようとしても、俺の身体は動かない。助けを呼ぼうにも、スマートフォンは仕事から持ち帰った鞄の中に入ったままだ。
助けを求めて叫ぼうにも口がパクパクと動くだけで、喉に空気が通らないのか音にならなかった。
俺は次第に身体の感覚が鈍くなり、そしてついに何も感じなくなっていった。
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あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。
俺が気を失っていたのは長い時間だったようにも思えるし、一瞬のことだったのかもしれない。
ただ一つ言えるのは、俺は苦しみや辛さといったものから解放されたであろう——と言う事だった。
その理由は、今俺を包み込んでいる海の中で揺蕩うような、心地の良い感覚。
温かな何かに身体を包まれ、加齢によって悲鳴をあげていた俺の身体は重力の鎖からも抜け出したかのように軽やかだった。
俺は救助されたのだろうか。身体に麻酔が効いているのか、本棚に押し潰されたと言うのに俺は不思議と何の痛みも感じなかった。
できる事ならば、ずっとこの心地よさに浸っていたい——と思った次の瞬間、俺は無理やり心地の良い空間から投げ出されることになった。
俺の身体を包んでいた心地良い暖かさは失せ果て、俺の身体を重力の鎖が絡め取る。
背中に当たる硬い感覚を覚え、そしてふ、と持ち上げられた。
大の大人が持ち上げられた? そんなことあり得るのか?
次に俺を襲ったのは、怒涛の勢いで溢れ出す感情だった。
辛い。悲しい。寒い。
今まで包まれていた暖かさから投げ出され、俺の感情が追いつかない。
俺の周囲に幾人かの人がいるのは分かる。だが何故、俺を助けようとしないのか。
やり場のない不条理な怒りと押し寄せてくる雑多な感情。
そしてついに俺の感情は決壊を迎え、俺は大人だというのに情けなく泣き喚いた。
「**********!」
「***、**********!」
何事かを口々に言っている周囲の人がいた。
耳が聞こえにくいせいか、言葉の意味がわからない。
少なくとも、人がこんなにも泣き叫んでいるのに、応急の救護すらしようとしない所を見ると医療従事者ではないことは確かだ。
ぼんやりとしか見えないのは、暗いところからいきなり眩しいところに出たせいだろうか。
何かフィルターのようなものがかかっているように人の輪郭だけがぼやけて見え、顔や背格好を判別することはできない。
しかし、どうにもその人達の距離感がおかしい。
いや、俺と対象物との遠近感が掴めきれないといった方が正しいか。
俺の身長は170センチメートル。日本人からしてみれば大きくもなければ小さいわけでもない。
にも関わらず、周囲の人間はどう見ても俺よりも大きいように見える。
しかもひょいと軽々しく抱え上げるなんて、オリンピック選手でも難しいのではないだろうか。
と言うことは、俺を抱え上げた人はオリンピック選手以上の剛力か、俺が小さくなったと言うことだ。
そんな馬鹿らしいことを考えていると、だんだんと耐え難い眠気が俺を襲ってくる。
まだ自分の状況も、周りの状況も分かっていないのに、ここで眠ってしまうのは勿体無い。
しかし俺はその生理的欲求に早々と根を上げてしまい、微睡に身を任せることにしたのだった。