煙の中
「えっ、じゃあ辞めるの?」
「いや、辞めるわけじゃないけど。辞めようかなって...」
「えーもったいないよ。似合ってるやん、チューターって」
「似合ってなんかないよ」
あかりは少しだけ強く否定しておいた。なんだか自分にプラスなことを言われるのが辛い。あぁなんかめんどくさくなってきた。もともと自分のプライベートな領域の話題を人にすることは好きじゃないし、されることも好きじゃない。今日だって4年ぶりに会ったからそういう話題になっただけで、この男に特別な信頼はなかった。
「良い仕事やと思うけどなあ」
そう言って祐樹はポケットから取り出した煙草に火をつけた。レトロな風が透き通っていた店の中に独りよがりな色が広がっていく。
「吸うの?結構」
「いやあたまにだよたまに。まあ気持ちいいけどな煙草」
「すっかりビジネスマンね」
「そういうもんよ」
ヘラヘラと笑って2本目の煙草に火がついた。煙草の煙は嫌いではなかった。父が吸っていた影響だろうか、お気に入りの服に匂いが染みるのは嫌だけれど。
「もし辞めたとしてなにすんの仕事」
「考えてないか も...」
目の前のマグカップを口に寄せて音が立たないようにコーヒーを飲む。別に私だってそこまで今の仕事に不満があるわけじゃない。仕事仲間は良い人ばかりだし、教え子達もかわいいし。そこまで贅沢は出来ないけれど、普通の給料が貰える。今の境遇に文句を言うなんて、不遜な贅沢だ。時計の針がもう19時を指してて、窓の外がモノクロになっていた。2人は荷物を持ってレジへと向かった。
「あーここはおれ払うから」
いやっと言いかけて、小さな声でありがとうと言った。きっと払わせることで納得をしてくれるのだろう。祐樹は9年も前からそんな奴だ。9年前に今働いている塾で出会ってからまあ色々とあったけど、今でも変わらない人柄だった。今度帰ったら酒を飲もうかと話してから、到津の交差点を別々に分かれた。祐樹の他にも何人かその塾に友人はいたけれど、近況は知らない。塾講師らしからぬ高めのピンヒールを前に運びながら、あかりは家路に着いた。今日は話し過ぎたかもしれない。ほんとは聞きたいこともあったけど、なんだか私の話ばかりだった気がする。というのも私のことばかりあいつが聞いてくるからだけど。仕事はどうだ、生徒と上手くやってるのか、新しい彼氏はできたのか。そんなことばかり聞かれるから、話したくないことまで話してしまった。もっと祐樹のことも話してよとは言えなかった。何だってオブラートに包まずにそのまま聞いてくるところはやっぱり祐樹だった。ほんとは好きじゃない煙を無理して口に入れる姿が哀れだった。変わったのか、変わっていないのかどっちだろう。そう心でつぶやいて、15分待った電車に乗る。ヒールが引っかかってつまずきそうになったけど、何事もなく空いた2人席に座った。家の最寄駅までの7分の道のりを電車に揺られながら窓に頭をくっつけて過ごした。前に乗せていた祐樹の肩より少し硬かったけれど、9年前を思い出して不意に笑みがこぼれた。大学進学を期に遠距離になってから、のらりくらり続いていた関係だったけど、3年が経った夏に私の中で何かが潰れた。私から別れを切り出すなんて思ってもみなかったから、絶対なんてないんだなって思った。1回のキスで何ヶ月も待てる気がしたのは最初の1年だけだった。そのあとはただ悲しいだけの日々が続いた。それでも3年も遠距離が続いたのは、どこかでその悲しみに祐樹が気づいてくれるかもしれないって思っていたからだった。当時の私に何か伝えられるとしたら、きっと...そんなことばかり頭の中で巡らしていたらすぐに安部山公園駅についた。いつもより早い到着。家までの坂を登っていると、急に雨が降ってきた。折り畳み傘をさして歩いたけど、結局服は濡れてしまう。どんな傘をさしていても完全に濡れないことは出来ないんだ。グレーのワンピースに雨の跡が少しずつついていく。家まであと少し、肌寒い道のりだった。自動施錠のワンルームは1人暮らしにちょうど良い狭さ。家に入ってすぐにベランダの洗濯物を取り込む。まだ湿っていたはずの洋服達はすでに乾ききってて、雨粒で袖口が濡れただけだった。カーテンを腕で押しのけて、えいっとソファに投げ込む。ベランダを振り返れば雨は止んでいた。出来るならこんな夜は誰かと一緒にいたいなぁとあかりは思ったが、思うように思ってベランダに出た。雨の後は虹が掛かるけれど、暗さと雲で何にも見えなかった。喫茶店で本当のこと言えてたらどうなってただろう?あれから恋愛はしたのか、今の生活は寂しくないのか、今でもまだ変わらないままなのか。私も吸ってるなんて言えないよなあ。父にもらったライターで安い煙草を赤くする。汚い煙がぐるぐるとあかりの体を巡って、吐き出されたままにふわりと空に染まっていく。いつからこんな嘘つきになってしまったんだろう。3年目の夏も今日の喫茶店でも、簡単なことが出来なくなってしまっていた。お腹の中に溜まり込んだまま飛び出せなかった言葉が、白い息と一緒にぽかんと煙る。「煙草吸う女なんて嫁に行けるのかな」1人でに笑って空を眺めた。さっきまで泳いでた白い息はもう消えた。2本目を取り出し、あかりはまたライターに火をつけた。