控室
とある劇場の控室。女は鏡を見つめ、小さなため息をついた。
開演間近。いくら経験を積み重ねても、主演を務める舞台の初公演ともなれば、プレッシャーを感じるのは当然だ。しかし、彼女が膝を震わせるのは、それだけが理由ではない。
――私の番……なのかな。
この劇場にはある噂があった。それは、女性が主演の舞台に限り、開演間近になると、必ずと言っていいほど主演女優が怪我をしたり体調を崩したりして舞台に上がれず、代役を立てられる、というものだ。そして、その代役はスターになる。これは、かつて不慮の事故でこの劇場の舞台に上がることができずに死んだ女優の呪い。……などと、どこかで聞いた覚えのあるような都市伝説である。しかし、馬鹿馬鹿しいと鼻で笑おうにも、鏡に映る彼女の口角はピクリとも上がらない。
――だって、前に実際に起きたんだもの……。
噂通り、この劇場では主演女優が開演直前で降板するということがこれまでも何度もあった。
プレッシャーに耐え切れず、舞台に上がれないというのはない話ではない。本番が近づくにつれ涙もろくなり、体調不良を訴えるケースもよくある。特に、呪いの噂がある劇場では、体調がおかしくなるのも無理はない。女性は共感力が高いため、集団パニックを起こしやすいとも言われる。だから気分が悪くなることもあるだろう。呪いなど、ただの迷信。
ただ、この劇場で代役を務めた女優に輝かしい道が開けているのもまた事実だった。
――私がそうなんだもの……。
そう、彼女もまた、かつて代役から芸能界へ大きく羽ばたいた新人女優であった。まぶたを閉じると思い起こされるのは、目が回りそうなほど忙しい日々のことだった。
――だった……なんて。
まだまだ自分の活躍はこれから。最近は落ち着いているけど、そう、これから……この舞台を機に……。
彼女は自分にそう言い聞かせるように、鏡に映る自分を強く見つめた。何も心配することはない。体調は万全だ。繰り返し心の中でつぶやく。ただの噂、ジンクスだ。自分が降板する必要なんてない、と。
この劇場で舞台を開演直前で降板した女優はその後引退や、しがみ付くようにタレント活動を続けている。自分はそんな風にはなりたくない。そう、中にはジンクスを打ち破り、舞台に立って、その後もベテラン女優として活躍している人も何人もいる。自分はそっち側の人間だ。
「そうよ。ただの噂。体調に問題なんてな――」
と、彼女が今度は声に出し、自分に言い聞かせようとした瞬間だった。
楽屋のドアをノックする音がして、彼女は鏡面台の前の椅子から立ち上がった。
「はい、どなた……え、社長! 嬉しい。わざわざ見に来てくださったんですかぁ?」
ドアを開けた彼女は驚きはしたものの、すぐに甘い声でそう言った。
「いやぁ、どもども。お邪魔するね。他に誰もいないね。うんうん」
「はい、もちろんですよぉ。あっ、男を連れ込んでいるなんて思いましたか? ふふふっ」
と言った彼女の頭に共演者の顔が浮かんだ。舞台上演期間中に共演相手と親密な関係になるのもよくある話。彼女は密かに期待していた。それもまた、降板したくない理由の一つだった。
「ははは、まあそれはどうでもよくて、えー、話があってね」
「お話? あ、アドバイスをくださるんですか? それとも他に誰か、すごい方がお見えになっているとか……。こちらからご挨拶に伺ったほうがよろしいですか?」
「んー、まあ、そうとも言えるね、うん。みんな注目してるからさ。ほら、君も知ってるよね。あの噂、ジンクスね」
「あ、はい……。あの、主演女優が直前で降板してしまうという」
「そうそうそう! それなんだけどさぁ、うーん、あ、もちろんこれ、オフレコだよ。で、そのねぇ、君に降板してほしいんだよ」
「……はい?」
「だからさぁ、んー、なんて言うのかなぁ……」
「……代役の子を売れっ子にするためですか?」
「そうそうそう! さすが、察しがいいねぇ。よっ、ベテラン! 熟年! なんて、ははは! まだ三十代だっけ? ははは、じゃあ、頼むね」
「え、待ってください。え、じゃあ、私も……?」
「うん? 私もって?」
「私もそうだったんですか……? 今回だけじゃなく、毎回仕組まれたもので……」
「仕組まれたなんて、はははっ。それに毎回というわけじゃないよ。ほら、さすがに怪しまれるというか、実際あのジンクスをはねのけたって女優もいるでしょ」
「はい、でも、もしかしてそれも意図的なんですか……?」
「うん、そうそう。ははは! じゃ」
「でも、どうしてですか? なんでそんなことを……」
「ん? 単純に宣伝になるというか、ほら、そういうジンクスって大衆は好きじゃない? あと、それを知らない本人もその気になるんだよ。プラシーボ効果ってやつかなぁ。輝くというか、本当に代役の子の人気が出るんだよねぇ。まあ昔ほどじゃないけどね。みんな飽きたのか怪しんでいるのか、君だってそこそこの活躍だったしさ。だけど、そこそこでも、えーとあれ、そう、費用対効果がいいんだよね。だから続けてるの。伝統みたいなところもあるかな。ははは」
「でも、私……嫌です」
「ははは、まあ、嫌だろうけど先輩たちも通ってきた道だからさ、ね、頼むよ」
「嫌です」
「え、いやぁ、うちの事務所だけじゃないんだよ? 他の事務所もこの伝統に倣っているわけだからさぁ、わがまま言われると困っちゃうんだよね。あ! もちろん、見返りはあるよ。ほら、バラエティ番組のレギュラーとかさ」
「……わかりました」
「おう! ありがとね! いやー、ははは」
社長が楽屋から出て行くと、彼女は大きく息を吐き、笑った。よく通った声だった。
「お、よろしくお願いします」
「が、頑張りましょう」
「えっ、具合は平気?」
「大丈夫なんですか?」
「……ええ、もちろん。大丈夫」
そして、舞台本番。舞台袖でスタッフや共演者から声をかけられた彼女は、まとめてそう返した。
大丈夫、大丈夫。舞台本番の緊張に混じって、心に妙なざわつきがある。でも、大丈夫……。彼女は胸をトントン叩き、深呼吸した。
……ああ、どうして社長の言うことに背いたのだろう。自分にこんな度胸があったなんて知らなかった。いや、社長のあの態度のせいか。もっと謙虚な姿勢でお願いされたら、快く引き受けただろうか。こんな風習がくだらないと思ってしまったからだろうか。
彼女は自問するが、もうどうでもよかった。幕が上がる。頭の中は役の人物に切り替わりつつあった。彼女は頭の中で自分に言う。私は女優。私は――
客席から谷を吹く風のような悲鳴が上がった。その中で、彼女は舞台の天井を見上げながら、落下していく感覚を覚えていた。
「へぇ?」という空気が漏れたような声を最後に、言葉を発することができなかった。今、自分が呼吸ができているかどうかさえ分からない。なんで、どうして、何が起きて、と彼女は混乱するばかりだった。その原因は自分の近くにあったのに、彼女は気づくことができなかった。上から落ちてきた照明は、彼女の頭を半分潰し、光を奪っていく。
意識が暗闇に落ちていく中、なんで、どうして、と繰り返し続ける。
彼女がやっと思い浮かんだそれ以外の言葉は……。
――呪いなのかな。
それを皮切りに、溺れる直前に空気を勢いよく吐き出すように、頭の中に言葉が浮かび上がった。
これは、誰の呪いなのだろうか。
各芸能事務所。
それとも代役の子。
従ってきた女優たち。
あるいは、死んだという女優か。
あなただけ、許せない、と……。