雨音と鼓動
もともと口数の少なかったルベルト様だったけれど、それでもその眼差しは穏やかでとても優しくて。そこには確かに温かな何かがあった。
それは家族や友人に対する親愛的なものだったんだと思う。
熱い、熱を孕んだ恋情といったものではないと、それは前世の私もわかっていたけれど、それでもルベルト様はいつでも優しい微笑みを浮かべ、その深く青い瞳にちゃんと私を映してくれていたの。
だけど、彼は私の前で笑わなくなった。
相変わらず口調は穏やかで、私に接する態度も変わりはなかったけど、彼の瞳が私を捉え、私に微笑みかけることがなくなってしまった。
今思えば、本当に突然だったわ。
突然、彼の様子が変わってしまったの。
まるで別人になったみたいに。
まるで、誰かに支配されているかのように。
そしてルベルト様は、私に婚約解消を申し出た。
『僕は彼女を、アラベラを幸せにしたい』
『申し訳ないがアイリル嬢、キミのことは妹のようにしか思えないんだ』
『アイリル嬢も、真にキミだけを愛してくれる男と結ばれた方が幸せになれるよ』
ムカムカムカ………!
「あぁいやだ。前世にルベルト様に言われた言葉を思い出してしまったわ!」
どれもなんて酷い言葉。
前世の私は悲しんだけれど、今世の私は怒りしか感じないわ。
本当に腹立たしい。
おのれルベルト・オーヴェン、どうしてくれようかしらっ……!
……まぁ前世の記憶のないルベルト様にこの怒りをぶつけても仕方ないのだけれど。
「はぁ……」
勝手にため息が零れてしまう。
それもこれもきっと今日のお天気のせいだわ。
あの日も……ルベルト様に婚約解消の申し出をされた日も、
私が自らの命を絶とうと衝動的に決めた日も、
こんな雨が降る日だったから。
私は窓の外に視線を向ける。
雨の日は不思議。
雨に濡れた植物も地面も王都の街の屋根たちもみんな彩りを濃くしているというのに、まるで灰色の世界に閉じ込められたような感じがする。
しとしとと降り続く雨に打たれる庭の木々を見つめながら、そんなことを考えた私はまたひとつ、ため息をついた。
その時、「アイリルお嬢様」と私に呼びかける声と共に部屋のドアがノックされる。
サラだわ。
「どうぞ」
私が入室を許可すると、堅い表情のサラが部屋に入って来てこう告げた。
「お嬢様。オーヴェン伯爵令息様がいらしております」
ルベルト様が?
「こんな雨の中を先触れもなく急に?」
「はい。……それに、なんだかご様子が……」
「ルベルト様がどうかしたの?」
「なんだかご様子が変なのです。応接間にお通ししようとしても固辞されますし、それどころか玄関ホールにお入りにもならないで……」
いつも冷静沈着なサラが困惑の色を隠しきれていない。
私はどうしたのかと考えるまでもなく体が行動に出ていた。
「とにかくすぐにルベルト様にお会いするわ」
「はい。ご令息は玄関扉の外のエントランスに居られます」
その言葉を背に受けながら、私は急いで玄関へと向かった。
様子がおかしい?
どうしたの?
今日はジネット先生の旦那様とお会いするんじゃなかったの?
それとも、お会いした時に何かあったの……?
彼を心配する気持ちが逸り、自然と足取りも早くなる。
女学院に入学する前以来の速度で私は階段を駆け下りた。
玄関ホールまで行けば、開いたままになっている扉の向こうをしきりに気にする執事やメイドたちの姿があった。
ルベルト様が屋敷の中に入ろうとしないというのはどうやら本当みたいね。
足早に扉へと近づき、私が来たことに気づいた執事たちにジェスチャーで下がるように伝える。
なんだか他の人間がいない方がいいような気がしたから。
執事たちがその場から離れたのを視界の端に捉えながら、私はそっと扉から顔を覗かせる。
「ルベルト様……?」
するとそこにはやはり扉外のエントランスに立ち尽くすルベルト様がいて、彼は私の呼びかけにピクリと肩を揺らした。
ルベルト様が俯いていた顔を上げてゆっくりと私の方を見る。
そして消え入りそうな声で私の名を口にした。
「…………リル……」
その様子だけでなく、彼の尋常ではないその姿に私は息をのむ。
「ど、どうしたのっ?ずぶ濡れじゃない!まさか雨の中を歩いて我が家まで来たのっ?」
貴族令息としては有り得ない。ルベルト様は全身を雨で濡らし、髪や頤から雫を落としていた。
だから屋敷の中に入ろうとしなかったの?
「と、とにかく中へっ……すぐに湯と着替えを用意させるわっ」
いくら気力体力の充実した健康な大人の男性だとしても、雨に濡れて体温が下がると命取りになりかねないわ。
私はルベルト様の手を引いて、屋敷の中へと連れて入ろうとした。
だけど彼の手首を掴んだ瞬間、
逆に強く引き寄せられて抱きしめられた。
「ル、ルベルト様っ……?」
前世でも今世でも、抱きしめられるのは初めての経験。
手を繋いだり、エスコートのために腰を抱かれたりはあったけれど、それ以外のスキンシップはなかった。
それが今、私はすっぽりと彼の腕の中に閉じ込められている。
少しの距離も許さないと、いえ、決して離さないとでも言うような、まるで縋りつくかのようにルベルト様は私を抱きしめた。
雨に濡れた彼の服の水分が、私のワンピースに染みていく。
同時に彼の感情も私の中に染み込んでくるようにも感じた。
不安、悲しみ、怒り、絶望、だけど……
私はそれら全てを受けれるかのように、ルベルト様の広い背に手をまわす。
何があったのかわからないけれど、
少しでも彼を安心させたくて。
冷えた体と、そして心を温めてあげたくて。私はルベルト様の大きな体を包み込むように抱きしめ返した。
彼の胸の鼓動が伝わってくる。
なんだか雨音と呼応しているような、そんな風に感じた。
「ルベルト様。……どうしたの?大丈夫よ、私はここにいるわ……?」
なんだか彼が必死に私をどこにも行かせまいとしているように感じてそう告げると、ルベルト様は震える声を押し出した。
「…………っごめん、急にこんな……自分でもどうかしてるわかってる……だけど、だけどっ……」
「かまわないわ。何か、辛いことがあったのでしょう……?」
私のその言葉に、彼は小さく頷いた。
私を抱きしめる腕に力がこもり、さらに強く抱きしめられた。
だけど少しも苦しくはなかったの。
不思議ね。
雨に濡れていたからわからなかったけど、ルベルト様は泣いていたんだと思う。
大人の男の人が泣くようなことが、一体何が起きたのだと訊きたい気持ちはあったけれど、なぜか今はそれよりも何も言わずに抱きしめてあげる方が先だと思った。
ややあってルベルト様はようやく私から身を離した。
だけどその手は私の背中を抱いたまま。
彼の手のひらに温かみが戻ったのがわかる。
私はルベルト様の瞳をじっと見た。
深く青い瞳は、不安と悲しみに揺れていた。
だけどそにはしっかりと私が映っている。
私だけを映している。
そして、その瞳の奥には確かに、熱い熱を孕んでいた。
前世の私が望んでも得られなかった、熱が。
そして彼の瞳に力が戻ってくるのが手に取るようにわかった。
ルベルト様は静かな声で私に言った。
「……リル。突然すまなかった。そして今は何も言えないことも、申し訳なく思う……」
「何があったか、話してはくれないの?」
「今はまだ、俺にはその資格がない。だけど、」
「だけど?」
「全てにケリをつけたら、キミに話したいことがある。そしてキミの望むままにしようと思う。……リル、キミにはその権利があるのだから」
「全てにケリ……?ルベルト様、何をするつもりなの?」
「落とし前をつける。このままでは終わらせない」
「え……?」
私の背を包む、ルベルト様の手のひらにぐっと力がこもる。
「これから俺はしばらく、そのための行動をする。それによりもしかしてリルに誤解を与えてしまうかもしれない。だけど、これだけは信じて欲しい。キミの言う前世のようには決してならないということを。その上でキミが俺を信じられないというなら、それは全て自分の責任だと受け入れるよ……そして、」
“そしてキミが出した答えに従うよ”
とそう言い残し、そして濡れた私の服を魔術で乾かしてから、ルベルト様はまた雨の中を帰って行った。
私はなぜか、それを引き止めることも出来ずに黙って見送ることしかできなかった。