第一章 5
「ちょっと話、いいですか?」私はベルさんに言った。
夕食の後、ベルさんと話がしたかったからだ。それは、今日、得た情報について意見が欲しいという意味だ。ベルさんは、私とあまり年齢が変わらないはずなのに、物知りだ。十代前半から、プロのエンプティパイロットとしてやってきたから、色々な情報や噂を聞いてきたのだろう。
「いや。ちょっと人と会う約束があるから、後で聴くよ」ベルさんは言った。そして、自分のデスクに向かった。
人と会うとは、生身で会うわけではなく、ヴァーチャルかエンプティで会うという意味だ。だから、端末があるデスクに向かったのだろう。
「今日の稽古は見て貰えますか?」私はきいた。あと、三十分後にいつものレプリカタウンで日課の稽古が始まるからだ。毎日十分間だけだけど、欠かさずにやってくれる。それに、ベルさんは、私からお金を受け取らない。理由をきくと「そっちの方が面倒だ」と言っていた。恐らく、お金を受け取ると、仕事となり、責任が生じるからだろう、と想像する。
そういうところで、律儀な人なのだ。
「うん。それまでには終わるよ」ベルさんは、専用端末をセットした。エンプティで会うようだ。
「忙しそうですね。私との稽古が負担になってませんか?」少しだけ申し訳ない気持ちになった。
ベルさんは、世界ランク第七位なのだ。それは、エンプティで戦えば、世界で七番目に強いことを意味する。戦闘能力の高さが、ランクとなっているからだ。世界ランカが、個人相手に毎日十分間の稽古をつけるとなると、多額の報酬を得られるだろう。
それに最近、ベルさんは、ムーンウォーク計画とやらに、忙しそうだ。世界ランク第一位のベイビィ・ブルーの名前とエンプティまで使って、毎日何十時間も労働をしている。
ベルさんが、ベイビィ・ブルーのエンプティを持っていることは、トップシークレットだ。十五年前に姿を消したベイビィ・ブルーが、一ヵ月前に復帰した。しかしその中身が、すり替わっていたなんて、誰も知らない。これは推測だが、ベイビィ・ブルーを引っ張り出してきたのは、ベルさんにとっても誤算なのだろう。シンジュさんとマツリノさんの事件がきっかけだろう。
「無理なく続けられる時間設定にしてたから、問題ないよ」ベルさんは専用端末をセットしたまま言った。
「ありがとうございます」私はお辞儀をして、自分の部屋に入った。ベルさんには、見えなかっただろうし、声も届いたかわからない。
部屋の中は、壁も床も天井もミニクーパも赤色になっていた。色は約二万色から自由に選べる。
ミニクーパの上のシェイク型のコントローラを持って、ソファに座った。天井の低い車だから、物を取るのも簡単だ。ニュース記事をいくつか見る。ハイジについては、新しい情報はなかった。だが、世界ランカが見せたスゴ技という記事を見つけて、それを見た。派手な技というよりは、正確無比な技術だった。確かに、凄い動きだった。自分にも出来るだろうか?
目を瞑り、頭でイメージした。
映像が鮮明になる。
頭で想像した時に、温度や重さを考慮しなくなったのは、最近のことだ。エンプティにダイヴするのが、当たり前になったからだろう。
息を止める。
リラックスして、動く。
失敗。
目を開けると同時に、大きく息を吐いていた。生身の体でも息を止めていたようだ。時刻を確認すると、約束の時間まであと二十五分だった。少し早いが、先に体を温めておこう。正確には、体を慣れさせて調整するという意味だ。
ベルさんはいつも、時間ピッタリに来る。一秒も遅れることはないが、一分も早く来ることもない。
「専用端末、取って」私は言った。ソファの前にあるガラスのローデスクを二回叩いた。専用端末を受け取った後、ドローンはそこに着陸した。ドローンは、三機存在する。後一機には、タブレット型の端末とコントローラを載せてある。こうやって、私が移動することなく、欲しい物が手元に来るシステムを作り上げた。
専用端末をセットして、ソファに横になった。そして、ダイヴした。
体中の瘡蓋が、痛みもなく綺麗に剥がれる錯覚。
覚醒すると、いつものレプリカタウンのステーション内にいた。垂直型のカプセルから、外に出て、鏡で服装をチェックした。壁一面が鏡になっている。スリットの大胆なチャイナドレスを着ていたので、スポーティな恰好に着替えた。人に下着を見せる趣味はない。
ステーションのエンプティにダイヴした時は、基本的には、そのエンプティにダイヴしていた前任者の着ていた服装のままなので、気に入らなければ着替える必要がある。一時期は、シンプルな服装が標準装備として設定されていた。つまり、誰かがエンプティから離脱した後、その設定されている服に着替え直してくれていたのだ。ダイヴした時に、破廉恥な服を着ているのが嫌で、そうするようにと、要望があったからだろう。しかし、その標準装備の服装で外を出歩く人はごく僅かだった。他人が見れば、一目でエンプティだとわかるし、大多数の人は、服も髪形もメイクも自分で選びたいからだ。折角、エンプティにダイヴしたのだから、理想の姿で人と会いたい。当たり前の欲求だろう。そうなると、結局、着替えるのだから、標準装備の恰好は、脱ぐ時に楽だという利点でしかない。それに、離脱した後、AIが着替える時間も勿体ない。
一体のエンプティに、三十分毎にダイヴの予約が会った時、着替える時間だけでも、三分から五分は掛かる。その時間があれば、六人がダイヴすれば、もう一人ダイヴ出来る計算になる。ステーションの利益が減り、負担が増すだけの愚策だった。そして、今の形に落ち着いた。
前任者の趣味を覗き見するようで楽しいという人もいる。破廉恥だと怒る人もいる。最後にわざわざ無難な恰好に着替えてから、離脱する人もいる。元々、ステーションに常備されている服装しかないので、ある程度の基準は守られている。
ブランド品や衣装の数も豊富だ。それでも、自分の好きな服をステーションに配送して、それをエンプティにダイヴした後に着る人もいる。その場合は、遊んだ後、着替えて配送の準備をしてから、離脱しなければならない。
ステーションによって、肌の露出度合いが違っている。観光地では、無難な恰好やブランド品が多いが、ディープな所なら、かなり際どい衣装もあるらしい。エンプティにそういう需要があるということだ。人間と全く同じ見た目で、人間以上に美しいのだから当然かもしれない。
ブランド品の場合は、エンプティで実際に着るので、気に入れば購入する人もいる。人気観光地にブランド品が多い理由は、消費者の購買意欲を高める為というのもある。数字としても売り上げが伸びているようだ。逆に、衣装のような恰好は、エンプティでしか着ないので、自分用に購入する人は少ない。
私は、外に出た。暗い夜の、いつもの見慣れた風景だ。昔の日本の住宅街を模している。
ここはレプリカタウンで、エンプティ専用に造られた街だ。普通の街との違いは、人が住んでいないのと、建造物の強度が高い。
静かなレプリカタウンのはずなのに、音が聞こえる。金属が落ちたような音だ。
どうしたんだろ?
この時間帯は、このレプリカタウンに立ち入り禁止だ。エンプティにダイヴ出来ないようになっている。私たちの所属する組織が特殊だから、特別に許可を得ているのだ。
私は、足音を消して、それでも速く、音のする方に接近した。誰かが動いている音がする。一人じゃない。金属音は、何度も聴こえる。音の発生源に近づいたので、ゆっくりと身を隠すように接近した。瓦屋根の上に乗り、顔だけ出して、その様子を眺める。この瓦は、並べておいてあるだけではなく、本物の瓦でもない。エンプティが走り回っても壊れない強度で造られている。
動く影が二つあった。戦っているようだ。
私は目を見張った。二人の実力が一般のレベルではなかったからだ。平均的なプロよりも更に上の次元だ。一人は、黄色と黒と白のチェック柄のワンピースを着ている。丈が短いので動きやすそうだ。もう一人は、真っ黒な軍服に身を包んでいる。実際の軍服というより、アニメの衣装みたいな形だ。襟や袖や裾が太い。
この時間帯に、このレプリカタウンにいるということと、最後に見た時に、エンプティ専用端末をセットしていたこともあり、一人の人物を連想した。そのつもりで見る。
やはり、一人はベルさんのようだ。ワンピースの方がベルさんだ。軍服の攻撃を全て躱している。軍服は、服の内ポケットから、ナイフを取り出し、それをベルさんに投げている。ベルさんは、紙一重で躱す。ナイフは地面に当たり、金属音が響く。世界ランカのベルさんは当然として、軍服の動きが普通じゃない。今の私の全力よりも上だろう。ナイフの投擲速度がプロのレベルを超えている。あれを避けられるのは、ベルさんのような世界ランカくらいだろう。軍服は、家の壁や塀を利用して、縦横無尽に跳び回った。
速い。
こういう素早い移動は、車が突っ込んでくるみたいに、壁が迫って来る。それに瞬時に反応しなければならないので、プロでも難しい。
二人を俯瞰で見られる位置にいるから、目で終えているが、あれを実際にされたら、見失うだろう。あっという間に背後を取られそうだ。ベルさんは、最小限の動きで軍服を補足している。ベルさんは狭い道路の中央にいる。周りは住宅街。軍服がベルさんの直ぐ近くの塀に着地して、垂直の壁を蹴り、ベルさんに跳び掛かった。これも凄まじいスピードだ。
ベルさんは、上体を逸らせた。殆ど地面と平行になるほどに。そして、両足で軍服の体を蹴りあげた。両手を地面について、踏ん張ったようだ。
軍服は打ち上げられ、空中で回転して姿勢を安定させた。
…ヤバッ。
私は慌てて頭を下げて身を隠したが、遅かった。動いたのが余計にマズかったのかもしれない。二階建ての屋根の上にいる私よりも、軍服の方が高い位置にいるからだ。
軍服は、私の方を見ている。目が合った。軍服が臨戦態勢を解いたので、ベルさんも軍服の視線の先にいる私の方を見た。
私は仕方がなく立ち上がって姿を現した。
「こんばんは」なるべく笑顔で言った。伝わるといいな、という願望を込めて、ベルさんの方を見た。
否。ベルさんだと思うチェック柄のワンピースの方だ。ワンピースのエンプティに識別コードも送った。
「ああ。早いね」ワンピースはそう言い、識別コードを送ってきた。やはり、ベルさんだった。軍服は、地面に着地した。綺麗な着地で音が殆どなかった。
ベルさんとの約束の時間までは、あと十七分だ。待ち合わせ場所は、ここなので特別悪いことをしたわけでもない。
「知り合い?」軍服がベルさんに言った。私を見る時とベルさんを見る時で、目の鋭さが違う。私を見る時は、殆ど睨んでいる。
「ネオンだよ。エッグマンにいた」ベルさんは言った。軍服は一瞬だけ目を見開いた。
エッグマンは、一ヵ月前に私とベルさんが出場した大会だ。三億人以上が同時視聴を行っていたので、私の名前を知っていても不思議じゃない。軍服は、私を見てニッコリと笑った。敵じゃないとわかったようだ。私はベルさんたちのいる直ぐ近くに行った。
「こっちは、灰猫」ベルさんは軍服を手で示して言った。
ハイネコ?
知らない名前だ。あれだけの実力者なら、名前くらい知っていると予想していたが、外れたようだ。
「二人とも凄い動きでしたね。なにをしていたんですか?」私は一番知りたいことを質問した。二人は、お互いの顔を見合わせた。
「さぁ。なんだろう?遊んでいただけだけど」ベルさんがキョトンとした顔で言った。ナイフを使うほどの戦いなのに、特別な理由はないようだ。
「ハイネコさんは、どんな字を書くのですか?」
「灰色のキャットだよ。どちらも日本の漢字」灰猫さんが答えた。綺麗な日本語の発音だった。日本人なのだろう。表情が柔らかい。当たり前だけど、戦っていた時とは、全く違う。灰猫さんは、日本のエンプティにダイヴしている。黒髪で三つ編みを二つに結んでいる。ベルさんは、ドイツだろうか、金髪ロングだ。
「なにをしている人なんですか?」私はきいた。
二人はまた、お互いを見つめ合った。タイミングが完璧に一致している。私がなにか、おかしな質問をしただろうか?
「今は、なにもしていない。最近ようやく落ち着いたから、ベルに会って貰ったんだ」灰猫さんは答えた。ハキハキと喋る人だ。ベルさんと違い、抑揚がある。ベルさんは、気怠そうに話すので対照的だ。
「あの時は悪かったね」灰猫さんは私を見て、眉を寄せた。「私も任務があったから、必死だったんだ。…いや。これは言い訳だね。でも、本当に悪いことをしたと思ってる。ごめん」灰猫さんが頭を下げた。
「なんのことですか?」私はきいた。
あの時?
どの時のことだ?
「優しいんだね」灰猫さんは言った。
「いえ。だから、なんのことかさっぱり」私は首を左右に振った。
「あれっ?やっぱり怒ってる?」灰猫さんは少し笑いながら言った。「悪かった。やり過ぎたよ」
「いや。謝る必要はない」ベルさんが灰猫さんに言った。「ルール上なんの問題もない。フェアプレィだよ」
「そういえば、ベルは、私の元部下を無惨に切断していたね」灰猫さんは、ベルさんを見て言った。
「特に悪いとは思ってない」
「おいおい」灰猫さんは、そこで吹き出すように笑った。「私は、もう、ごめんだな」溜息の後、呟くように言い、空を見上げた。
「えっ?灰猫さんって、もしかし…」私が言いかけた時、ベルさんと灰猫さんが、人差指を顔の前で立てた。静かに、というジェスチャだ。
「もしかして、言ってなかったっけ?」ベルさんが私に直接話しかけた。声に出さないので唇も動かない。エンプティの標準仕様だ。こ
「知ってると思ってた」灰猫さんも直接言った。三人の回線のようだ。この場に、誰かいても、全員が黙っていると思うだろう。
「なにも聞いてないですよ」私は直接言った。「あの人なんですね?」
「そうだよ。たぶん」灰猫さんは掌を顔の前で振った。さようならのジェスチャだと認識していたが、違う意味で使っているようだ。
そうか。
それであの動きか。
灰猫さんの正体は、世界ランク第四位のスモーキィ・ラットなのだ。
ベルさんは、ラットさんと面識はないと言っていたが、エッグマン以降、仲良くなったのだろうか。ラットさんは、正式な軍隊に所属している。主要都市や重要施設が攻められた時に、エンプティで対抗する為だ。暇な人ではないはずだ。名前を灰猫と変えているのは、民間人と会ってはマズいからだろう。今の状況は、ベルさんが魅了したのか、それとも、ラットさんが悪い人なのか、どちらかだろう。
「お二人は、よく会っているんですか?」私は質問した。勿論、声に出していない。
「いや。エッグマン以来、二回目だね。一回目は挨拶だけだった」ベルさんが答えた。
「ラッ…えっと、灰猫さんは、忙しいんじゃないですか?」
「ううん。そんなこともない」灰猫さんは首を左右に振った。「暇すぎて死にそうだったんだ」
「どうして、エッグマンに出場したんですか?」
「ベルが出場したからだね。前に勤めていたとこの指示だったんだ。要注意人物だから力を測るのが目的だった」
「前に勤めていた…ですか?」
「ああ。そう。私、辞めたんだ。一カ月前に。今は、ベルと同じ組織に所属していることになっている…はず」灰猫さんは、ベルさんを見た。
「僕も詳しくは知らない。たぶん、同じ所に所属していると思うけど」ベルさんが答えた。
「変わった組織だと思っていたけど、自分が所属するとなると、より一層そう感じるよ」
「エンプティは買えた?」
「まだ。息を潜めているし。無一文だし。生活があるし。でも、楽しみだ」灰猫さんは、無邪気に笑った。
「なら、良かった」ベルさんは無表情で言った。
「えっと、辞めた理由はなんですか?」私は質問した。頭が働いていない。
スモーキィ・ラットは、世界ランク第四位で正式な軍人だ。簡単に辞められるはずがない。
「あそこにいたくない理由なら、溢れるほどあるよ。でも、言わないことにしている。一応、ご飯を食べさせてくれたわけだし」
「どうして、私たちの組織に所属したんですか?」
「隠れるにはうってつけだと思って。予想は的中だった」灰猫さんは白い歯を見せて笑った。
「簡単に辞められるものなんですか?」
「全然。命懸けだった」灰猫さんは声に出して笑った。よく笑う人だ。
「もう、戻れないんですよね?」
「戻るつもりなんてないよ。逃げ出してきたんだから」
「そうですか」私は頷いた。
きっと、色々あったのだろう。逃げ出すほどの事情が。それでも、今は、こんなに笑えているなら、良かったのではないだろうか。
「えっ。ちょっと待ってください」私は、とある記事を思い出した。「一ヵ月前って言いました?」
灰猫さんは頷いた。
「ついさっき、記事で見ましたよ。射的をやってたじゃないですか?」
「なんのこと?」灰猫さんは首を傾げる。
「今日、見ましたよ。あれは灰猫さんじゃないんですか?」
「昔の映像のこと?」
「いえ。そこまでは知りませんけど」ああ。そういう場合も当然あるのか、と思った。
「これのことかな?」ベルさんが言った。そして、ニュース記事を共有してくれた。探してくれたのだ。私はその記事を人差指で触れた。映像が流れる。勿論、現実世界に出力された映像ではなく、エンプティの視覚内にだけ見える映像だ。エンプティなら携帯端末を持ち運ばなくても、内臓されている。
「そう。これです」私は答える。
スモーキィ・ラットが、空中に投げられた拳ほどのゴムボールを銃で撃つのだ。そして、弾丸がゴムボールを掠めて、何度も上空に上がる。地面に一度もゴムボールを落とすことなく、一分間も続けるのだ。
「知らない。私じゃないな」灰猫さんは言った。
「でも、名前をちゃんと名乗っていますよ。以前と声も同じです」私は言った。
「それ位は、どうとでもなる」ベルさんが答えた。
「でも、こんなことが簡単に出来るんですか?」
「私なら出来る」灰猫さんは言った。
「僕も出来る」ベルさんも答えた。
私には無理だ。
「ただ、私の部下にこんな器用な子はいなかった」灰猫さんは、難しそうな顔をした。
「問題はそこじゃない」ベルさんが言った。「この動きは、灰猫の癖と一致している。別人が真似てもここまでにはならない」
ベルさんは、目がいい。エンプティの動きで相手の実力を正確に測れるし、パイロットが誰か的中させることも出来る。人間とエンプティの見分けも、見るだけで出来るのだ。そんなことが出来るのは、世界中でベルさん一人だろう。
「どういうことですか?」私はきいた。
「これは、灰猫がやったってこと」ベルさんが答える。
「やってないよ」灰猫さんがすぐに否定した。
「えっと、今って、その灰猫さんの元の名前は、どうなっているんですか?」私は質問した。
「元いたところが勝手に使うことが出来る。引退させるかと思っていたけど、これを見る限りそうじゃないみたい」灰猫さんが答えた。
「それがエンプティの利点だからね。エンプティの体は重要じゃない。パイロットの腕が、名前の証明になる。それなりの腕があれば、誰だってすり替わることが出来る。第四位の称号は、お金になるから、捨てるより有効活用したんだろう」ベルさんが言った。
「優秀な部下がすり替わったってことですか?」私はきいた。
「そんなやついなかったけどな。もしかしたら、私の前で、手を抜いていたのかも」灰猫さんが答えた。
「それよりも、元いた所は、灰猫の運動データを把握してたんじゃない?サンプルになるような動きを、反復でやらなかった?」ベルさんは、灰猫さんにきいた。
「サンプルかどうかは知らないけど、訓練は基本的に、反復練習をして体に叩きこむわけだから」
「そういう情報を蓄積させて、灰猫を模したAIが出来上がったんじゃない?」
「まさか?」灰猫さんは眉を寄せた。
「人間があれほど精密に真似るほうが、まさかだよ。AIなら真似が得意だからね」
「それってどういう意味ですか?」私はきいた。
「世界ランク第四位のレプリカが、量産可能だということだね」ベルさんは答えた。ほんの僅かに、笑っているように見えた。
「そんな武力を持つのは、危ないんじゃないですか?」
「たぶんだけど、オリジナルよりは性能が落ちるだろう。あと、防衛なら確かに優秀だけど、どこかを攻めるとなると、更に能力が落ちると思う。テロのような事件を起こす場合は、その土地について詳しく知っていないといけない。例えば、地面や壁の強度などは、常に気を使って動かなきゃならない。人間なら、壊れそうなら力を弱めたり、臨機応変に対応出来る人もいるけど、AIが常に最適解を得らえるとは思えない。広く情報を得る為に、多くの判断材料を集めて、計算し、走る速度に合わせて答えを出さないといけない。だから、運動性能が落ちることになると思う。複数同時となると、かなり難しいし、そうとう高性能なコンピュータが必要になる。それでも、脅威には変わりないけど」
「どうして、そんなものを創る必要があったんですか?」
「まさしく、今のような状態になった時に、困らない為だろうね。一番優秀な人間を真似ることによって、人が必要ない軍隊を創れる。人件費も相当安くなるし、個人でも力を持てる」
「危なくないですか?」
「暴走しないように、制御システムを組んであるんだろう。この場合、暴走はAIじゃなくて、私利私欲に走る人間のことだけど。個人が簡単に動かせないようにしてあるんじゃないかな?」
「でも、灰猫さんは知らなかったわけですよね?マナー違反というか、人権侵害のような気がしますけど」
「防衛の為に、人間を二十四時間体制で動けるように配備するシステムの方が、人権を侵害しているかもね。本人がやりたいなら、別にいいけど、そうじゃない人もいたわけだから」ベルさんは、灰猫さんを見た。「こっちの方が、人道的かもしれない。まぁ、人間が一人もいないということにはならないだろうけど」
私は、灰猫さんを見た。眉を寄せたまま難しい顔をしている。そういえば、ずっと黙ったままだ。無理もない。自分の動きにそっくりなAIが出来たなら、気分が良くないだろう。
二人の視線が向いていることに、灰猫さんは気づいた。
「ホントにそっくりだ。ビックリだよ」灰猫さんは笑った。少しだけ無理やりだったように見えた。