エピローグ 1
飛行機に何時間も乗った。そして、船にも乗った。
船に乗るのは初めてだ。
大きな船だから、いつもの地面と変わらない。
それなのに、揺れている。
進んでいるから、揺れているのではなく、止まっている時から揺れていた。不思議な体験だった。雨が降り、川を流れて海に堕ちたのに、留まっていない。
きっと、水は、まだまだ、堕ちていきたいんだろう。それが出来ないから、あんなに揺れているんだ。これ以上堕ちていけないことに、苦しんでいるんだ。
船に乗ったのは夜だったから、海が見えなかった。ただ、匂いで海だとわかった。腐った匂いだ。いつまでも、席を譲らないやつがいるのだろう。そいつが腐ってしまっている。だから、あんなに臭いんだ。蒸発して綺麗になったらいいのに。ずっと下の方で、豆腐みたいになっちゃったんだ。やっぱり、海に堕ちても、まだ堕ちたいんだろう。腐るまで。
海外に行くのは、初めてだった。既に何ヵ国も移動したことになるが、その実感はない。ここがどこなのかもわからない。
現在は、ホテルの一室にいる。アジアのどこかの国だ。今後何十年もお金の心配はない。ずっとここにいてもいいし、別の国に行ってもいい。日本に帰るのは、少なくとも、数年先になるが、別に日本に住みたいわけでもない。日本の保障は受けられないが、それ以上のお金を貰ったので、文句はない。それどころか、感謝している。
自分の人生を振り返っても、あの三年間は、不思議な時間だった。自分が必要とされているようで、そうでもない。ただ、なにかを演じているのは、悪くない感じだった。
初めは、話しかけてくるマナさんが、鬱陶しかった。気を使わせているのが、わかったから、申し訳ない気持ちもあった。放っておいて欲しかったが、お金を貰っていることもあり、強く反対出来なった。悪い人ではないと、直ぐに理解出来たのが、拒絶出来なかった一番の要因だろう。
下らない話を何度もした。私から話したいことはないから、簡単に返事をしていたけど、それでも、何度も何度も、話しかけてきた。
不思議な人だった。
これまでにいない人だ。
でも「なんで死にたいのか?」とか「不満があるのか?」とか、そんなゴミみたいな質問はなかった。もっと、無関係で他愛のない話が多かった。
死ぬ人間に、話しかけるなんて、それだけで珍しいだろう。
それにしても、わたしは、死ぬと決めていたのに、どうして、死にたく無くなったんだろ?
きっと、三年も待たされたせいだ。
あれは騙された。
直ぐに死ねると思ったのに、三年後だと言ったのだ。
当然、怒ったし、直ぐに出て行くつもりだった。
ただ、偶然、雨が降っていたので、止むまで泊まっていくように勧められた。その雨は、一週間も続いた。その一週間は、悪い生活ではなかった。だから、死ぬ準備が整うまで、ここに住んでもいいと打算的に考えていた。
特に理由もなく、なんとなく、先延ばしにしていた。放っておいても、三年後には、死ねるのだから、無理して施設を探すよりも、のんびりと暮らしている方が楽だと思えたからだ。その内、嫌になって、出て行くだろうとも思った。
それが、本当に三年もいることになるとは思わなかった。
こんなに生きていけるなんて、思いもしなかった。
自分は、なにも生み出していない。
なんの役にも立っていない。
無駄だ。
生きている理由がわからない。
それどころか、エネルギィを無駄に消費している。
他の生物を殺して食べている。
それだけの価値が自分にはない。
自分がいなくても、他の人が上手くやってくれるだろう。
自分だけが取り残されているような感覚があった。
進んでいない。
止まっている。
あの船と同じだ。
地面だけが揺れている。
意味もなく。
だから、終わらせたかった。
でも、苦しみたくはないから、安楽死を選んだのに、カウンセリングがあった。
馬鹿馬鹿しい質問を繰り返しきかれた。
それが煩わしかったから、簡単に死ねる誘いに乗ったのだ。
それなのに、死にたくなくなるなんて。
否。
死にたくないわけではない。
生きたいわけでもない。
でも、今じゃなくてもいい。
もう少し、先延ばしにしてもいい。
なにかをしたいわけではない。
なにかが出来ると思っているわけでもない。
昔の私なら、その甘さを、汚さを、許せなかっただろう。
鈍くなったのだろうか?
たぶん、そうだろう。
「もう少し、先延ばしにしたい」
そう言った時の、二人の顔を思い出す。
怒られると思っていた。
呆れられると思っていた。
それなのに、笑っていた。
安心したように、微笑んでいた。
不思議だ。
よくわからない。
どうしてだろう?
計画を台無しにしたのに。
酷いことをしたのに。
それでも、あの時の顔が忘れられない。
移動中も何度も思い出した。
お金も沢山貰った。
返す必要はないと言っていた。
仕事に対する報酬だからと。
二人に、もう一度会いたいだろうか?
そんなことはない。
たぶん、二度と会わないのではないだろうか?
そして、二人もそれを望んでいるだろう。
私たちは、他人のままだ。
それなのに、他人なのに、あんな顔が出来るのだ。
鏡に自分の顔が映っている。
演技の為に、セリフも笑顔も練習した。
何度やっても、上手く笑えなかった。
それなのに、鏡に映った私の顔は、自然に微笑んでいた。
それが変で、笑うのを止めた。
どうして、微笑んでいたのだろう?
わからない。
きっと、この先、生きていることを後悔する日が来るだろう。
それ位の計算は出来る。
そうなれば、直ぐに死ねばいい。
持ち物は、鞄一つに入っている。
私は、身軽だ。
いつだって死ねる。
ただ、それは、もう少し後でもいい。
それ位には、鈍く重くなっている。
でも、たぶん、そんな自分も悪くない。
そんな風にも思える。
私って不思議だ。