第三章 6
笑い声が聞こえた。
私はベルさんを睨んでいたので、笑ったのがベルさんでないことは確かだ。笑い声の方を見たかったが、ベルさんから目を逸らしたくなかった。
明らかな嫌悪感が自分の中にあった。それは、ベルさんの最後のセリフのせいだ。
ベルさんは、あっさりと私から目を離して、目の前を見てしまった。舌打ちをして、私も笑ったやつを見る。
爽やかな笑顔ではなく、もっと気持ちの悪い、悪人の面に見えたのは、私の認識が変わっただけだろうか?
「素晴らしいです」男は笑顔のままベルさんに言った。「いつ、それがわかりましたか?」
「どうでしょうか?密室の謎を解くには、一番矛盾がないから、というのが一番ですね。ただ、コイトさんの部屋や、失踪に違和感がありましたし、あとは、十年前からハイジさんの蘇生の情報が漏れていたと知った時に、思いつきました」ベルさんは答える。
「警察が来た初日は、コイトと二人一緒にいるパフォーマンスをしていたのですが、結局別々に話すので、昨日もそうしていました。演技を続ければ良かったですね」
「いえ、友人と表現していたから、そのまま受け取りました。初めから恋人だと言えば良かったのではないですか?」
「彼女も、私と一緒にいたいとは思わないでしょう。遠慮してしまいました」彼はそこで冷ややかに笑った。
「ハイジさんなのですよね?」私は確認した。
「ええ。そうです」彼は認めた。「どうしますか?これを警察に伝えますか?」
「いいえ。初めに言った通り、そのつもりはありません。個人的な興味でここにきました」ベルさんは答えた。「ただ…」
「秘密を教えて欲しいと?」ハイジさんは、そのセリフを予測していたようだ。ベルさんは頷いた。
「まずは、今回の騒動から話しましょう。誤解されたままでは、気持ちが悪い。なにせ、十年以上前からの計画なのですから。…。そうです。実は、真相に辿り着く人がいて欲しかった。自分を理解して欲しいという欲求はどこから来るのでしょうか?実に不思議です」彼は笑顔のまま言った。テーブルに置かれたカップを持ち、口に付けた。
「顔は整形しているのですか?」私はきいた。女性の顔ならその形跡を見破れるのだが、男性の場合は、余程下手な手術でない限り無理だ。私が男性の顔に興味がないからだろう。若い女性の顔の方が綺麗だ。殆どのエンプティだって、綺麗な若い女性の顔をしている。
「いいえ。これが私の顔です。警察や一部の人が知っている私の顔が、マスクを付けていただけです。これは、偶然の産物です。子どもの時から、外を出歩くのが嫌いでしたし、自分の素顔を見られるのに抵抗がありました。だから、写真を撮る時には、マスクを付けていたのです。警察が知っているのは、そのマスクを付けた顔です。そして、私の素顔のマスクを作り、背格好が似ている人が、それを付けて外を出歩けば、成長したダイキが生きていると思うでしょう。その様子もカメラに映ります。何度も言いますが、これは計画していたわけではなく、偶然です。十代の男の子は、強盗や殺人鬼に怯え、備えるものです。超能力を信じる人だっているでしょう。私の場合は、素顔を隠すのに嵌っていただけです。ただ、計画には、利用出来ると考えました」
「ダイキさんはどこにいますか?」私はきいた。
彼の顔から笑顔が消えた。
「それは後で話しましょう。別の質問を」彼の口調は同じだった。
「コイトさんはどこに行ったのですか?」
「知りません。彼女の自由です」
「コイトさんとは、どういう関係なのですか?」
「彼女は自殺願望のある人でした。国が行っている安楽死を受ける為に、カウンセリングに何度も通っていたらしいです。そして、その決意は一切揺るがなかった。だから、協力して貰いました。と言っても、彼女を見つけ出したのは、マナです。マナにそうするように指示を出していました。コイトさんには、国ではなく、有料の個人的な安楽死を約束して、しばらく協力して貰いました。お金も十分に渡しましたし、食事も豪華だったと思います。ただ、彼女はお金を使いはしなかったようです。自分の死ぬ決意が揺らぐと思ったのでしょう。幸福になりたくない、満たされたくない、お金があっても、豊かな状態を望んでいなかったと、マナが言っていました。自殺願望がある人によく見られる感情です。彼女には、私の芝居に付き合って貰いました。死ぬ前に誰かの役に立てると考えたのか、それとも、死ぬ為の儀式のようなものだと解釈したのかはわかりません。ただ、この協力者の存在は、計画の重要な役なので、重宝しました。見つけ出してくれたマナにも、協力してくれたコイトさんにも感謝しています。彼女は実際にここで三年間暮らしていました。リアリティの為と、次の人材が見つかるとは限らないので、マナも手放したくなかったのでしょう。そして、警察が来てからは、実に見事な演技を行ってくれました。後は、事件の真相が漏れないように、自由なタイミングで、自殺して貰えば良かっただけだったのですが、ここで計画に問題が起きました。昨日のことです。彼女が死にたくない、と言ったのです。これには本当に驚きました。実に喜ばしいことです。話を聞くと、ここで生活がしたいわけでもないので、閉じ込めておくわけにもいきません。彼女が生きたいなら、彼女には自由があります。一体、どういう心境の変化なのかとききましたが、彼女自身よくわかっていないようでした。もしくは、言葉に出来ないのかもしれません。それは仕方のないことです。誰だって、なぜ生きたいのか、言葉に出来ません。生物に備わっているプログラムのようなものだと思います。まぁ、それで、彼女のこれからを考えなければならなくなったのですが、突然、公共の住宅に戻り、生活されては、一時的に計画に利用していたことが、バレてしまいます。彼女自身も、そのことは気遣ってくれていました。それで、失踪させることにしたのです。しばらくは海外で暮らして貰います。お金は十分に与えてあるので不自由はないでしょう。あのタイミングにしたのは、彼女と殺人の映像に関連性を持たせる為でした。ただ、彼女とは無関係なので、彼女に被害が及ぶことはないと考えています。それでお互いの了承を得て、失踪して貰いました。私の計画には、本来なかった台本です」彼は滑らかに語った。
「コイトさんのここでの生活は、どのようなものだったのですか?」私はきいた。
「基本的に部屋から出なかったと聞いています。天気が良い日に散歩に出かける程度だったそうです」
「では、あの殺人の映像はどうやったのですか?」
「あれは、ホワイト・ベルさんが語ったことが的を射ています。自殺願望者に、私の昔の顔に整形して貰いました。そして、安楽死の後の死体を使い、背中から空気を送り込んで肺の活動を偽装しました。生きていると見えるように、照明などにもこだわっています。ただ、あの映像が創られたのは、十年も前です。そして、安楽死直後の死体の頭を破壊して、蘇生が不可能だと思い込ませました。勿論、本人の了承を得ています」
「でも、たとえ本人の了承を得ていても、死体だったとしても、あんなことをするのは、許されないはずです」私は彼を睨んだ。
「どうしてですか?」彼は私を見て、目を見開いた。本当になにが悪いのか、わかっていないみたいだ。「私は生きています。そして、あれは死体です。どんなに偉大な人の死体でも、生きている人より価値があることはありません。死体はただの肉の塊です。ただ、勿論、死んだ後に、埋めて欲しいとか、焼いて欲しいなど、希望がある人もいます。そういう願望もわからないでもありません。そして、それは尊重すべきです。彼の場合は、自由に使って貰っても構わない、と言っていました。無駄ではありません。彼の遺体のお陰で、私は自由を得られました」
「自分の為に死体を粗末にしたわけですよね。例え死体だとしても、敬う気持ちは持つべきだと思います」
「それは、個人の自由でしょう。死んだ後は、自分の内臓を医療に使って欲しい人や、遺族が解剖を望んでいる時もあります。日本では、燃やして骨だけにしていますね。そのどれも悪いことではありません。勿論、頭を打ち抜くのは、気持ちのいいことではありません。目を背けたくなることでしょう。ただ、病気の人を助ける為に、内蔵を取り出すことと、他人の自由を守る為に、頭を打ち抜くことに、どれだけの違いがあるでしょうか?勿論、彼には、報酬も渡しています。彼が生きていた時にです。彼は私に感謝の言葉を述べました。もし、彼が自殺する直前に、死にたくないと言えば、コイトさんのように死ぬことはありませんでした。私は殺人がしたいわけではない。死体だけが欲しかったのです。出来るだけ誰にも迷惑を掛けないように気を使いました」彼は淀みなく言った。
そうだろうか?
昔に行われていた臓器提供と、あの映像は、同じことなのだろうか?
割れてしまったグラスは、捨てることになる。使える部分があれば、一部を再利用するだろう。それでも、人間とグラスは、同じではない。なにが違うのだろうか?
「たとえ死体だったとしても、そんなことの為に利用すべきではないです」私は言った。納得出来ない。労わるべきだろう。死んでしまっても、その形になにかが残るはずだ。それは残された人の中にある幻想なのだろうか?
「人間は、生きていく為に多くの動植物を殺します」彼は私だけを見ている。「悪いことではありません。そうしないと生きてはいけないからです。例えば、料理人がいます。彼らは、食材の皮を綺麗に剥くでしょう。内臓も適切な処置を施し、美味しく調理して提供しています。ただ、全てを使い切るわけではない。余った部分は廃棄されます。また、お客が残した料理も廃棄されるでしょう。彼らは、食材が憎いわけではない。無駄にしたいとは思っていない。むしろ、その逆のことを考えているでしょう。ただ、現実として、多くの食材を無駄にしているのは、料理人たちです。初めて包丁を持った子どもは、皮だけを綺麗には剥けません。当然、無駄が多いですが、それでも、料理人がこれまで廃棄した食材とは、比較にならないでしょう。食材に対してどう思っていようが、どれだけ腕を上げて尽くそうが、実際に廃棄された、無駄になった量には関係ありません。では、料理人は悪人でしょうか?その職業に就いたからには、そうなることを予測出来たはずです。回避することも出来た。でも、彼らは悪人ではありません。死んだ生物を取り扱っていますが、悪人ではありません。社会的にも必要だと認められています。それは、食べる為に扱っているからでしょう。命は無駄になっていません。樹は切られ材木となり、テーブルや椅子に代わります。命を奪っても、有効に扱えるなら、許されています。では、人間だけが特別なのでしょうか?生きている人間は、そうです。明らかに特別です。人が虫を殺しても罪には問われませんが、人の場合は、犯罪となります。虫と人の違いは幾つもありますが、一番の違いは、知能にあります。人間は、考え、生み出し、残します。それらを素晴らしいものだと思えるのは、私たちが人間だからでしょう。蜘蛛の巣を尊いものだという人は少数です。少なくとも、蜘蛛の巣は、人間の住宅よりも、価値は低いです。だから、蜘蛛の巣は、ある時には、なんの意味もなく壊されます。仕方がありません。生きている人間には、それ以上の価値があるからです。でも、死んでしまったらどうでしょうか?死体がなにを生産しますか?無価値です。食材にも材料にもなり得ません。一昔前までは、新鮮であれば、医療用に使える部分はあったかもしれません。でも、殆どは、燃やして骨だけになります。私がしたことは、燃やす前に、形を変えただけです。頭蓋骨の形は変形ましたが、その形にどれだけの意味がありますか?コレクションをするのでしょうか?そういう人からしたら、受け入れがたい行為かもしれませんが、その方が一般的ではないでしょう。今にも壊れそうなつり橋があり、そこに、生きている人間が三人と、偉人の死体があったとしましょう。一人を落とせば、つり橋が壊れることはありません。一人も落とさなければ、全員が死にます。生きている三人は、知能や能力に明らかな優劣があります。そして、偉人の死体は、彼ら三人の親であり師でした。その場合、誰をつり橋から落とすのかは明白です。死体です。死体が生きている人より優先されることはありません。それがどれだけ大切な人でも同じです。ただ、だからといっても、本人の生前の意思を無下にすることは許されません。どれだけ医療機関が困っていても、本人が拒むなら、臓器提供をするべきではありません。また、本人が蘇生を望むなら、その死体は大切に保管すべきです。つまり、生きていた時の、望み通りにさせるのが社会的に正しいのでしょう。そして、もう一つ、誤解のないように言っておきます。これは、私の保身の為ではなく、二人の尊厳を傷つけない為です。コイトさんも、動画上で銃を撃ちぬいた男、名前はヒロキさんと言いますが、二人は、決してお金の為にやったのではありません。殆どの自殺志願者は、協力などしてくれません。自分が死ぬのだから、他人や社会と関わりたくない、と思っているからです。また、死んだ後のことに興味があるはずがありません。ただ、あの二人は、それでも協力してくれました。私の自由の為にです。その心の豊かさを、優しさを、お金の為にやったと解釈するのだけは許せません」
私は無言で頷いた。
彼が言ったことに納得はしていないが、どこに納得していないのか、なにが気に入らないのかが、言葉に出来ない。ただ、自分とは、相容れない価値観を持っているのは確かだ。
お腹がいっぱいになって、残した料理だってある。その残飯はゴミ箱に捨てられ、廃棄場で燃やされるだろう。でも、その残飯を投げたり、踏みつけたりするのは、どうだろうか?結局、廃棄場で燃やされて同じになるけど、そんな行為をしていい理由にはならない。捨てるからといっても、なんでもしていいわけじゃない。違うだろうか?
ベルさんも、ハイジさんと少し近いのだろうか?ベルさんの顔を盗み見したが、特に変化はなかった。
「ハイジさんは、十年前に自殺を行ったのですよね?」私は確認した。
「はい」彼は頷く。
「では、どうして十年間だったのですか?もっと早く蘇生しても、また、もっと後でも良かったのではないですか?」
「ええ。そうですね」彼はカップを手に取り一口飲んだ。「これは言っても理解されないでしょうが、ゲームです」
「ゲーム?」
「はい。エターナルトイが制作したゲームがあるのですが、そのゲームでは、建物の建築にリアルの時間が消費されます。つまり、初めに、大量のお金を支払い、そして、建築に掛かる時間を待たなければならないのです。丁度、十年前に大きな城の建築に取り掛かりました。その完成に十年の月日が必要でした。それだけです」
「はっ?えっと」私はなにも理解出来なかった。ゲーム内の建物の建築に十年が掛かる。だから、十年間死んでいたというのか?
「ただ、そのお陰で、今の私はゲーム内で敵なしです。私の城の建築は、十年前から話題になっていました。当時は、土地の安い場所を選んだわけですが、現在では、私の城の周辺の地価は高騰しています。私が周辺に住む住人を守ると宣言しているからです。彼らは安心して生活が出来ますし、防衛にお金を掛けずに済みます。その代償として、私に税金のようなお金を収めるわけです。いわば、私は国を作ったことになります。そして、十年掛けて制作した城は二つとしてない為、現時点で最強です。私と並ぶには、十年掛かるわけですから。ただ、他のプレイヤも徒党を組んでいることもあり、三年後には、対抗勢力が出来上がるでしょう。それまでの間に、私は自分の国を、より強固な結びつきとシステムで作りあげなければなりません。今は、そのゲームに熱中していますし、今後もそうでしょう。多くのプレイヤがそうですが、長い年月が必要な建築は、最後まで待てずに、途中で終えてしまいます。張りぼての城になりますが、使えなくはありません。特に十年も待てるプレイヤはいないでしょう。私も死んでいなければ、待てなかったと思います。十年という時間は、ゲームの待ち時間を利用しただけです」彼は私たちを見たが、その視線は、私たちを見てはいなかった。ゲームの世界に向いているように見えた。
ゲームが悪いわけではない。
ゲームが低俗というわけでもない。
ただ…
「そんな理由で自殺を行ったのですか?脳に障害が残るリスクがあるのに?」私の声は呆れていた。
「半分はそうです」彼はフッと息を吐いた。
「半分?」
「ええ。半分はゲームの為です。これに偽りはありません。呆れられることも自覚しています。ただ、私にとっては、リアルの世界に魅力を感じません。あの世界こそが私にとっての全てです。マナも毎日ゲームをしていると話したはずですが、それも、仕事として、私がさせていました。十年の間に、期間限定アイテムなどを取り逃さない為です。幸い、資金は、潤沢にあるので、少ないプレイ時間でも、カバー出来ました。ええ。蘇生してからは、警察に呼ばれる以外に、ずっとゲームをしていましたが、実に楽しい時間です。他人とのコミュニケーションが楽しい。優秀な頭脳が幾つもあります。彼らと話すのは、パーティの参加者と社交辞令を並べることと比べると、何千倍も楽しいですね」
「残りの半分はなんですか?」私は話しを進めたかった。
「自殺に興味がありました」彼のトーンが変わった。「いえ。私が興味を持っていたわけではありません。ただ、両親が治療を受けずに、死を受け入れ、そして、その後すぐに、弟が自殺をしました。全く理解が出来ませんでした。死を選択する理由がどこにあるのか、尋ねたいが答えられない状態に、勝手になってしまった。……ええ。そうですね。当時は、ゲームに潜る時間も少なくなってしまいました。特に、ダイキの場合は、私がもっと面倒を見ていれば変わったのかもしれないからです。ただ、全て終わったことです。私は理解も出来ないまま、一人残されました。三人がなにを思い、自殺したのか、リアルの人間関係に無頓着な私も、流石に考えるようになりました。ただ、考えても、考えても、答えは出てきません。それで、実際に自殺をしてみれば、少しは家族の感情がわかるのではないか、と思いました。少なくとも、私が好きだった家族に、近づけると考えたのです。それで、自殺を考えました。死にたかったわけではなく、どんなものなのか、理解出来るのか、試してみたかったのです。十年後というのは、先ほども言った通り、ゲームで決めました。後は、方法を調べたり、準備を行ったり、少し忙しい時間となりました。それが十年前のことです」
「では、ハイジさんは、死にたくはなかったのですか?」
「はい。そうです。それだけは正しいでしょう」彼は大きく息を吐いた。「死んでみてわかったのは、死ぬのは死んでも御免だということです」彼はそこで声にだして笑った。ジョークだったのだろう。
「失礼。ただ、自殺を決めてからは、憂鬱な日々でした。笑うこともない。楽しさを自粛して生活していました。食事も楽しくありません。咀嚼が重労働に感じるのです。なにを食べても美味しくないので、簡単に飲み込めるものを食べていました。最後の晩餐がパンだったか、米だったかも覚えていません。今は、世界中で死刑制度が廃止されていますが、私はそれに賛成しています。もし、死刑制度が残っていたなら、私は反対運動を行ってもいいと、考えているほどです。それほど、人の命は大切です。人を殺したからといって、死刑にするのは安易で幼稚な思考でしょう。世界が成熟していることに、素直に感心しました。自分の死期がわかるというのは、生きている実感がないものです。それが、わかりました。ただ、なぜ弟が自殺をしたのか、肝心なところは、全くわかりません。世界中で、自殺が無くならない理由も同様です。死んでみて、一つ確かなのは、生きている方が素晴らしいということです。そんな当たり前のことに気づけただけでも、価値はあったと、誤魔化すしかないでしょう」
生きている方がいい。それはそうだろう。
でも、そう思うのは、彼が純粋ではなかったからじゃないだろうか?
彼の自殺は濁っていた。
だから、そう思うだけなのではないか?
「マナさんのことを、随分と信頼しているようですが、仕事上の関係だけですか?」私はきいた。
「こっちの世界ではそうです」ハイジさんは答えた。「ただ、ゲームでは、マナは私の、パートナです。こっちになにか影響を及ぼすことはありませんが、私たちは、確かに信頼し合っています。それは、十年以上前から同じです」
「マナさんは、ハイジさんの自殺に反対しなかったのですか?」
「反対はしていました。ただ、私の周りの環境の変化が激しかったこともあり、あまり強く反対出来なかったようです」
どういうことだろう?
彼はカップの中の液体を飲み干した。大きく息を吐き、笑顔を作った。
「もう、この位でしょうか。大体話したと思います」彼は言った。
「冷凍保存されていた期間は、丁度十年間だったのですか?」ベルさんが質問した。
「はい」ハイジさんは答える。
「蘇生されたのは、正確にはいつのことですか?」
ハイジさんの顔から笑顔が消える。
ベルさんとハイジさんが見つめ合っている。
沈黙。
「私が蘇生されたとニュースになった日から、一ヵ月前です」
…。
それって。
心臓の鼓動が大きくなった錯覚。
「そうです。あの日に私は自殺をしました」彼は言った。
「つまり、真相を知っているということですか?」自分の言葉が早口になっていることを自覚する。体を椅子にくっつけておくことが、これほど大変だとは思わなかった。
「いいえ。真相と呼べるようなものは、なにも知りません」彼はゆっくりと発音した。「ただ、他の人より多くを知っているとは、自覚しています。ただ、それを言う訳にはいきません。企業に勤めている人が、内部情報を漏らしてしまうのと同じです。詳細を話すわけにはいかないのです。それだけは、わかって下さい。そして、私が知っていることは、誰にも言わないで下さい。その為の、計画だったのですから」
「それでは、ハイジさんの自殺とハコブネは、関係があるのではないですか?」私はきいた。
「いいえ。いつ死ぬのかを決める切っ掛けになった程度です」
「でも、エンプティ専用端末を装着したまま死んでいたはずです」
「それが切符だったからです」
切符?
「これは例えです。また、嘘かもしれません。船に乗る為には切符が必要です。ただ、切符を持っているからといって、必ずしも船に乗れるとは限らないのです。船にも定員があります。誰を乗せるのかは、私たちが決めることではありません。ただ、切符を持って、その場にいないことには、船に乗ることは叶わないのです。私の見立てでは、船は小さいし、乗りたがる人は多数でした。誰が考えたって、転覆するのは目に見えていました。もしくは、ごく少数しか乗れないでしょう。だから、私は、あまり積極的ではありませんでした。ただ、切符さえ持っていれば、船に乗ることが出来る、と考えていた人もいたかもしれませんね。私が言えるのは、これだけです。勿論、このことを誰にも言わないで下さい」
なにか、とてつもなく重要なことをきいた気がした。
「扇動させるようなことはありませんでしたか?」私はきいた。
「私の知る限りありません。ただ、あの船には、希望がありました」彼はゆっくりと目を瞑った。「正しくは、希望へと向かう予定でした」
沈黙。
なにかをきかなくてはならない。
でも、なにも思い浮かばない。
「わかりました。ありがとうございます」ベルさんが言った。「安心してください。今回のことを誰かに話すことはありません。人の努力を無駄にするつもりもありません」
「ありがとうございます。もう一度死ぬなんて、考えられませんから」彼は笑った。
「因みに、ハイジさんは、船に乗れたのですか?」
「いいえ。その姿を見ることも叶いませんでした。ただ、船があると思わせてくれた、それ自体が、希望なのです。そして、私には、希望が必要でした」