第一章 1
私は、そのニュースで飛び起きた。
連日、調べものをしていて、寝不足だった。生活リズムも崩れて、朝日が昇ると同時に眠り、昼過ぎに起きる。実際に太陽の位置を確認しているわけではなく、モニタの画面に表示されている時計を見ているだけだ。
朝食兼昼食兼おやつのケーキを食べて、夕食はホワイト・ベルとラムネの三人で食べる。そして、日課になった、ベルさんと十分だけのエンプティの稽古があり、そのまま、ずっと調べものをしていた。この二日間と同じように、気絶するように眠り、ボーとしながら目を覚ましたのだが、ニュースを見て、思わず声が出たのだ。そのニュースは、私が知りたいことだと、AIが判断して見せてくれたものだった。
私は、ニュースの記事を全て読み、別の記事も漁った。ただ、ハイジが誘拐されたと書かれただけで、有益な情報はどこにも書いていなかった。
私は、まず、シャワーを浴びた。自分の頭が本調子でないことは、わかっていたからだ。ただ、ずっと、ニュースのことを考えていた。濡れた髪と体のまま、ガウンに袖を通した。
キッチンに向かい、コーヒーをセットして、出来上がるのを、その場で眺めていた。全自動になったからといって、人間が有意義に時間を使えるかどうかは、別問題だ。
ただ、コーヒーの香りが鼻に届くだけで、リラックス効果があるのではないだろうか。この時間にも意味があるのではないだろうか、と自分に言い訳をきかせた。少なくとも、脳は活動している。カップを持って、部屋に入った。
お風呂上りなので、部屋の温度が下がっている。そういう設定にAIがしてくれているからだ。涼しい空間にいるだけで、頭がクリアになると錯覚した。
部屋には、座る場所が五カ所ある。ソファと、食事用の椅子、調べものをするデスクチェアに、座椅子、そして、ミニクーパだ。部屋の中では、横になる時間と座る時間が殆ど全てを占めるので、なるべく多くの選択肢がある方が、調子がいいだろうと、自分に投資したのだ。
私は、この部屋以外には、夕食を食べる時に向かう、隣のベルさんの部屋を除いて、どこにも行かない。浴室とキッチンとトイレくらいだろう。つまり、この一部屋が自分のリアルでの生活の全てだ。外に出ることは、物理的に不可能なので、その願望は、ヴァーチャルで補っている。それは、自分の意思ではなく、私が所属する組織の意向だ。
ただ、部屋は広く、横になって眠れるソファと、クイーンサイズのベッドを置いても、十分なスペースがある。落ち着かないから、ミニクーパを買ったのだ。ミニクーパは、ガソリンを入れると走る本物だ。ただ、室内なので、エンジンをかけたことは一度もない。ミニクーパの中に入ることはなく、主にルーフにクッションを置き、横になるか、足をドアの方に投げだして、座るかのどちらかだ。ルーフに上りやすいように、簡易の階段も買ったのだ。一応、階段は収納の役割も果たすので、無駄遣いではないだろう。
私は、カップを持ったまま、階段を上り、ミニクーパのルーフに上った。簡易のおままごと用みたいなローテーブルも置いてあるので、そこにカップを置いた。足をドアの方に出し、溜息をついた。
視線が高くなる。最初は、その新鮮さが楽しかったが、慣れてしまえば、どうってことはない。部屋の天井は高く、ミニクーパのルーフの上に立ち、思いっきりジャンプしても、手が届かないくらいだ。
コーヒーを一口飲む。いつもと同じ味だ。
シェイク型のコントローラがローテーブルの上にあるので、それを操作した。文字入力や検索などを行うタイプで、モニタは、目の前にホログラムとして出力してある。シェイク型は、物理的に回転する端末なので、操作していて心地良い。あえて、振動をさせているので、たぶん、脳にもいい影響があるだろう。
特に新しい情報はない。
つまり、誰がハイジを誘拐したのか?
その目的はなにか?
どうやって、連れ去ったのか?
ということが一切書かれていないのだ。そもそも、ハイジが入院している病院も公開されていない。病院なのか、個人の家なのかどうかも、わかっていないのだ。
それどころか、ハイジがどういう状況なのか?どう保管されていたのか?どうやって蘇生されたのか?なにもわかっていない。
公開された情報は、ハイジという名の男が、蘇生された。そして、その男が十年前に自殺していた。その当時の年齢が二十二歳だった。ということだけだ。
例えば、五年前に自殺をした人が蘇生されたなら、ニュースにもならなかったし、話題にもならなかっただろう。十年前だからこそ、意味があった。そして、どこからか情報が漏れたのだ。
私は、この三日間、ハイジという男について調べていた。だが、現在どこにいるのか、一切わからなかった。なので、十年前にどうしていたのか、という方向に切り替えて調べた。ただ、十年前なので、例えば、防犯カメラの映像などは、殆どが消去されている。不要と判断されて容量確保の為に、データが捨てられたからだ。ハイジという名前から、検索しても、個人を特定出来るような情報はなかった。十年前に自殺をしたのだから、睡眠薬のゴッドドリームを大量摂取して死亡したのだろうが、エンプティ専用端末を装着していたかどうかもわからなかった。
一番関心があったのは、最初の十二万人に含まれているのか、それとも、後を追った八万人の一人なのか、ということだ。
ハコブネに関して、この差は大きいと、私は考えている。
なぜなら、最初の十二万人の自殺者は、全世界で同時刻に行われた。そして、全員が示し合わせたかのように、同じ死に方をしているからだ。十二万という数だけでも、偶然で片付けることは決して出来ない。必ず、なにかしらの法則や規則のようなものがあったのだ。
そして、公表されてはいないが、この十二万人に共通する、もう一つの事実がある。それは、とあるサイトを利用していたということだ。そのサイトが、チャットのようなものなのか、それとも、なんらかの動画や画像があったのか、誰かとコミュニケーションが取れるものなのか、なにもわかっていない。ただ、十二万人の全員がそのサイトを閲覧していた。そして、同じ方法で履歴がデリートされていた。なので、自殺者の端末を調べた結果、なにかを見ていた形跡があるが、それがなんなのかは、一切わからなかった。
そのサイトの名前なのか、教祖のような人物の名前なのか、それとも、なんらかの物や行動に対する名称なのかはわからないが、どこからか、名詞を発掘することが出来た。
その名詞がハコブネだった。あの神話のハコブネと同じスペルである。
なので、最初の十二万人は、そのサイトの影響で死亡したことになる。それは、自殺と呼べるのだろうか?
直接の死因は、ゴッドドリームの過剰摂取だが、それを強制させた人物や組織が存在するのではないだろうか?
いや、必ず存在する、と私は確信している。
だからこそ、私は、今の組織に所属している。この組織には、エンプティメーカと深い繋がりがあるからだ。外にいる時に、それがわかった。だから、近づいた。
私が所属している組織の名前は、存在しない。意図的に、名詞を使わない集団なのだ。ただ、日本のみならず、世界中に支部と構成員がいるだろう。百年以上の歴史があり、常に先を見通す力を、組織のトップは持っていた。だからこそ、未だに力を持っている。税金を納めているとも思えない、怪しい組織だ。でも、裏だからこそ、情報が得られるのではなかと、私は考え、飛び込んだ。
私は、コーヒーを飲んだ。今の自分の姿も、監視されているだろう。それどころか、さっきのシャワーやトイレや睡眠中まで、常に監視されている。
この部屋には、窓がない。ドアは、キッチンに繋がるドアと浴室とトイレのドアが三枚、部屋の一辺に並んでいる。キッチンが一番左側にあり、浴室、トイレと並んでドアがある。トイレの右側は、部屋の丁度真ん中に位置している。
そして、ドアが三枚ある壁を左手に立った時、目の前にある壁にも、一枚だけドアがある。そのドアは、壁の右側にある。そのドアの先にベルさんの部屋がある。ドアは、両側から鍵を掛けられるので、一応のプライバシィは守られている。ただ、こちら側から、鍵を掛けて籠城しても、向こうがその気になれば、無理やり開けることが出来るだろう。なので、鍵に意味があるのかどうかは、わからない。一応、ベルさんもラムネさんも、この部屋に入ってきたことはない。
そして、ドアの先にあるベルさんの部屋は、自分の広い部屋よりも、さらに、三倍以上広くなっている。天井の高さだけが同じだろう。そして、ベルさんの部屋から、自分の部屋へと続く、ドアがある壁には、もう一枚のドアがある。それがラムネさんの部屋へと続いている。
つまり、私の部屋の一辺は、ベルさんの部屋の一辺の半分の長さになり、キッチンなどがある壁の向こう側には、ラムネさんの部屋が存在する。私の部屋にある、キッチンやトイレ、浴室が部屋の半分までとなっているのは、もう半分には、ラムネの部屋にも同じスペースが存在するからだろう。なんとなく、テトリスのL字を重ねて長方形にしたやつを、イメージしてしまう。
夕食の時は、ベルさんの部屋に三人が集まる。ラムネさんの部屋には入ったことがない。私の部屋とラムネさんの部屋を繋ぐドアは存在しない。そして、私の部屋にあるドアは、この四枚だけだ。
外からこの部屋に入るには、ベルさんの部屋を経由する必要がある。そして、ベルさんの部屋にある、外に出る唯一のドアは、外に出られない。
外側から鍵が掛かっているからだ。
だから、今の私の状況を簡単に言えば、軟禁されているのだ。
ただ、快適なことに違いはない。最新の端末を使うことが出来る。それは、市販の最上位のモデルよりもスペックが高い。そして、エンプティに優先的にダイヴすることも出来る。仕事も一ヵ月の内に、三日から七日程度だ。それ以外の時間は、自由だし、その僅かな労働の賃金で、ここにある全ての家具を買い、生活にも困らないくらいだ。ハッキリ言って、割が良すぎる。どこかに皺寄せが来るんじゃないかと、心配になるほどだ。
自分を監視しているのは、ラムネさんだけのようだ。それが最近、わかった。ベルさんが、私の行動について知らなさすぎるからだ。逆にラムネさんからは、メールで注意されることがある。大抵は、「それ以上踏み込むな」という警告だ。
その警告は、私がこの組織について調べている時に、決まってくるのだ。
「ベルさんは忙しいですか?」私は声に出して言った。
しばらくして「忙しい」と返答があった。
ベルさんのスケジュールは、ベルさんと一緒にいるAIのイオが知っている。ベルさんとコンタクトを取るには、イオを通すのが一番楽だ。
ベルさんは、一カ月前に、エッグマンという大会に出場した。その関係で今は忙しいのだ。
エンプティパイロット世界ランク第七位ホワイト・ベルが、その大会で引退した。とある敵に敗北を期す結果となり、そう発言したのだ。
そして、現在は、世界ランク第一位ベイビィ・ブルーとして、活動している。名前を二つ持っていただけのことだ。ただ、借り物の名前だが。
ハイジについて、ベルさんの意見がききたかった。ただ、このところ忙しそうにしているのでそれが叶わない。毎日、十分間だけ稽古をつけて貰っているだけありがたい。
コーヒーを飲んだ。カップはもう空になった。
私は、横になり、天井を見た。
なにをどう考えたらいいかわからない。
情報が不足している。
ハイジが目覚めてからの情報待ちだったが、今回に誘拐で、新しい情報も入手しなければならなくなった。
私が、今の組織に所属した時に、それまでの十九年間の交友関係の一切が廃棄された。それは、行方不明という形で処理された。そして、ネイビィ・ネオンという新しい名前を与えられたのだ。今は、その名前を使っている。
ただ、一つだけ、切れなかった関係がある。
それは、私がハコブネについて調べる為に、探偵とうい胡散臭い職業の人物に会った時に出来たものだ。その人にノウハウを教わった。今の自分の基礎が、そこで出来た。
今の組織を知ったのも、その人と一緒に組んでいた時のことだ。二人では限界があったので、組織に所属した。
全ては、自分の目的の為。
ハコブネの真相を知る為。
その為に、過去も、今も、繋がりも、全部捨てた。
ただ、ジンノさんとだけは、今もコンタクトをとっている。
バレないように、秘密の暗号を使い、日常に紛れ込ませるように、情報交換をしている。
ベルさんとラムネさんも、その存在にぼんやりと気づいているだろうが、方法までは特定出来ていない。
今は、ジンノさんからの返答待ちだ。
ここ最近は、調べものばかりだったが、その割に、得られるものが少なかった。リフレッシュの為に、ヴァーチャルの世界に飛ぼう。
「ゴーグル取って」ネオンは言った。
円盤型のドローンがゆっくりと、ネオンの元に向かってきた。その上にゴーグルが乗っている。それを取り、自分の横のルーフを二回叩いた。ドローンは、その地点にゆっくりと着陸した。指定しないと、充電を兼ねた元の位置に帰ってしまう。そうなると、ゴーグルを戻す時に、飛んでくる時間を待たないといけない。
ゴーグルを頭に装着した。ミニクーパのルーフにはクッションが敷いてある。短時間なら、この体勢でも問題ない。
今回の目的は、息抜きと、ブラフの為だ。端末で調べものをして、時間が無い中、とあるチャンネルにだけ飛んでいれば、そこで情報を得ているとバレてしまうだろう。複数のチャンネルと暗号でバレないように交信しているが、こっちの手札を、わざわざラムネさんに教える必要もないだろう。
今も監視されている。
ゴーグルを外してウィンクをしてやろうか?