表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/16

第4プロムナード

 三枚目と四枚目の絵を見終わって次の展示室へと歩きながら、やはり客が少なすぎることが気になった。


 三枚目と四枚目で一つの展示室を使っていたのだけれど、大学生くらいの男女が三人いただけだ。


 それにしても、上東は一体どこでこれだけの題材について知ったのだろう。




 ビデオテープをDVDにコピーするなどのサービスを行っている知人から聞いた話。


 ある故人が撮りためたホームビデオがあるのでそれをDVDにコピーして欲しいという依頼を遺族から受けて作業していたところ、そのうちの一本のテープが再生の途中で止まってしまうということが起きたのだそうだ。


 故人はどうも旅行とか山歩きとかが好きな人物だったらしく、その一本もどこかの山道を歩いている最中を録画したものだったのだという。


 ようやく画面のすみに目的地らしい古いお堂が見え始めたというのに、どうもそのあたりで再生が強制終了されてしまう。


 保存状態の良くない古いテープの場合、ほこりなどの異物が入り込むなどしてテープがロックされてしまうようなトラブルも少なくないことなので、知人は対応用の器具を使って何とか最後までテープを再生できるようにしてDVDにコピーしたらしい。


 本人いわく「プロの意地」なのだそうだが、それでも「あれはトラブルでコピーできませんでした」と言うことにした方が良かったんじゃないか、と後悔しているのだという。


 テープの最後には古いお堂のまわりに佇む黒い大きな影が幾つも映っていて、それらがカメラに向かって走り寄ってくるように見えたのだそうだ。「あれは絶対ろくなものじゃない」と知人は言った。


 世の中には「良くない場所」というものがやはりあるのだ。


 とは言え、普通に生きている限り、「良くない場所」に出くわすことなんて、そうそうあることではない。大抵の人間は「実話怪談」系の体験すらしないですむものだし、悪くしたってせいぜい幽霊話や因縁話くらいですむものだ。


 私は幽霊というものをあまり信じていないし怖いとも思っていない。


 死んで肉体を失った後に自我が残るだろうか。脳の疾患や身体の不調で性格が一変したり記憶が失われたり人格が損なわれたりといったことはよくあることだ。むしろ自我というものは一般に思われているほどには安定していない。つまり、怪談話で語られるものとは違って、幽霊というものに自我や人格、記憶といったものは残されていないだろう。


 だから本当に怖いもの危ないものは幽霊などではない。


 一枚目二枚目に続いて三枚目四枚目の絵にも私は慄然となった。


 三枚目の彫像の並ぶ庭園。何をどう見ても何度見直しても彫像の配置と庭園の他との配置が全くの不調和としか言いようがない。そんなところに彫像を配したら花壇や階段水路の美を眺めるのに邪魔になる、というような場所に彫像が置かれているのだ。最初は庭園自体よりも彫像を見させたいと思っているのだろうかと思ったのだが、正直言って、彫像自身にはそこまでの魅力を感じなかった。


 一方で、これほど見事に手入れされた庭園だというのに彫像が庭園鑑賞の邪魔になることに気づいていないとも思えない。むしろ彫像自身が庭園の鑑賞者であるような配置なのだ。


 四枚目の下っていく長い石段だってそうだ。地の底は黄泉の領分であり、石段の名前が恐るべき祟りをなしたこともある大神のものであるというのは一体何の符合だろう。


 何より怖いのは、庭園にせよ石段にせよ、そこには人間が関わっている気配が濃厚にある、ということだ。庭園の持ち主あるいは管理者は彫像について間違いなく何か気づいているか知っているだろう。下っていく石段だって、その石段を管理している立場の人間は何かに気づいているか知っているはずだ。


 世の中には「人間には理解できないもの」「手に負えないほど危険なもの」とつきあわざるをえない、あるいはそれを利用して生きている人々がいる。


 例えば「古来、カミとは祟るものであった」という言葉があるが、それはつまり「古来、祟るものはカミとなった」ということでもある。


 祟りをなす恐ろしい存在だからこそ、カミとして正しく祀り怒りを鎮めようとしたわけだ。菅原道真公の祟りが恐ろしかったからこそ天満大自在天神として祀られたのだし、平将門公の祟りが怖かったからこそ神田明神や御首神社などに祀られたことを考えれば「祟るものがカミとなる」という考え方はそう間違ってはいないだろう。


 だが、天満大自在天は今や学問のカミであり全国の受験生たちからの祈願を受ける身でもあることからすれば、そうした危ういものを利用する人間がいても特に不思議なことではないのかもしれない。


 ただ、私なら、そんなリスクはごめんこうむる。「さわらぬカミに祟りなし」だ。カミの条理とヒトの道理とは全く異なるのだから。


 『今昔物語』巻二七第四五話「近衛舎人於常陸国山中詠歌死語」にあるように歌の上手い近衛舎人が人里離れた常陸山中にて心細さをまぎらわせようと詠じたところ、深山の奥から「なんとすばらしい」との恐ろしげな声がし、その声にあてられた近衛舎人は急死してしまった、などという逸話が残されている。山神に目をつけられるので、そのような場所で歌を詠うべからず、との教訓つきで。


 このようにカミとヒトとが関わればヒトが不幸になるものだ。


 繰り返すが、本当に怖いもの危ないものは幽霊などではない。


 祟るものであるカミこそが本当に危ないものなのだから。


 そして、「良くない場所」もまた「祟り地」「オトロシ所」などと呼ばれる祟りをなす場所であることが少なくない。彼は、多分、そうしたリスクに自覚のないまま「良くない場所」を訪れ、絵に描いてきたのだろう。それがこの作品群だ。




 次の絵の展示室へと歩きながら、ぼくは首をひねる。


 本当に、これだけの題材を上東はどこで知ったのだろう。ぼくも小説のネタにしようと色々調べてはいたものの、ここまで「それらしい題材」のことは知らなかった。


 怪異譚収集家の知人が言うには「大抵の人間はその人生のうちで本物の『良くない場所』には一カ所でも関わることはない」のだそうだ。


 そこで疑問は最初に戻る。


 「良くない場所」のことを、上東杭雄はどうやってあるいは誰から聞いて絵の題材にすることができたのだろう。


 知人いわく「怪異は怪異を呼ぶ」のだ、その誰かは無事なのだろうか。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ