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下り階段

ムソルグスキー『展覧会の絵』「ビドロ(牛車)」より

四枚目の絵はこれまでとは異なってほぼ自然を描いた風景画だ。


 題名は『下り階段』。


 名前のとおり急な斜面に彫り込まれた延々と下っていく石段を上から見下ろしている構図の絵だ。ごつごつした黒い岩肌にへばりつくように丈の短い草が生えている。


 この黒い斜面に刻まれた石段がずっと下りていくのだが、その石段は途中の大岩にうがたれたトンネルの闇の中に呑み込まれていた。




──本当にあった。


 知母上若菜は千曳峠の上に自動車をとめて眼下の斜面を見下ろした。そこには斜面のはるか下へと続く石段があった。脇には『月夜見坂』と書かれた石柱が立っている。


 陸の孤島である月夜見村のことを聞いたのは、大学のアウトドア・サークルの仲間からだった。


 彼女は本当のところはアウトドア趣味というよりは旅行好きであって、ぶらりとあまり人に知られていないような場所を訪ねるのが楽しいだけなのだが。


 最近ではどんなことでもグーグルでの検索が大活躍なので大抵のことはウェブで調べがついてしまう。


 今回、月夜見村を訪ねる前にもグーグル・アースで本当にそんな場所に村があるのか既に確認はすませてあった。


 月夜見村は陸の孤島だけれども別に周囲から孤立した村というわけではない。漁村である月夜見村は近隣の村と頻繁に船で行き来はあって、単純に陸路がこの峠の石段である『月夜見坂』しかない、ということでしかないのだった。


 千曳峠の道はそれほど広くはない。


 途中の和多津見町で早めの昼食がてら話を聞いたところでは、このあたりの住人の主要交通手段は船であってあまり自動車通りは多くはないのだそうだ。ただ、都会から「峠を攻めに来る」連中と暇をもてあましたこの周辺の若者とが暴走行為を繰り返したりタチの悪いイタズラをやらかすことがあるらしい。


「さて、行きますか」


 若菜は、改めて交通の邪魔にならないよう自動車を路肩に止め、バックパックを背中に背負って月夜見坂へと踏み出した。改めて道路脇の石柱を見ると『六三四段』と彫られているのが見える。ちょっとした山寺参詣の石段並みだ。


──行きはよいよい帰りは怖い、って感じよね。


 六三四段もあるとなると下りも大変だが、帰りの登りは相当厳しいことになるだろう。


「一段、二段、三段、四段……」


 段数を数えながら下りていく。


 本当に六三四段なのか、せっかくだから若菜は確認するつもりだった。


 千曳峠のある香具椎山は休火山であり階段の周りはごつごつした黒い岩場のせいもあって、あまり眺めがいいとは言えない。どちらかと言えば殺風景な眺望よりも石段自体を楽しんだ方が良さそうだった。


 月夜見坂の石段は斜面の傾斜にあわせて勾配が急になったりゆるやかになったりするが、百五十段目あたりから大岩に穿たれたトンネルの中に入っていく。トンネルの入り口の天井付近にはしめ縄が渡され何枚かの幣がぶらさがっていた。


「一五四段、一五五段、一五六段、一五七段、一五八段……」


 驚いたことにトンネルの中は真っ暗だった。


──不便じゃないのかしら。


 大岩に穴を穿っただけのトンネルには照明器具がなかった。


 しかも、どうやらトンネルの中で石段はカーブしているらしく出口から差し込んでくる外の光も見えない。


 若菜は左手でトンネルの壁に触れ右手でスマートホンの懐中電灯機能を使用した。頼りない灯りではあるけれど石段を踏み外して転げ落ちるのは嫌すぎる。


「一九七段、一九八段、一九九段、二○○段、二○一段……」


トンネルの壁につけている左手の感触はざらざらごつごつしたもので、石段を歩くたび足の下からは砂か小石を踏むような音が聞こえてきた。こつんと靴のつま先が小石を蹴り、からからと音をたてて転がり落ちていった。


──そうか、地元の人たちはこの道を使わない、っていう話だったっけ。


それなら不便も何もない。まだ石段が残っているだけましな方なのかもしれなかった。


 そこまで考えて若菜はぞっとなった。


──トンネルの途中で石段が途切れていたらどうしよう。


 壁にあてている左手にぎゅっと力が入る。


 何といっても誰も使っていない道ということは手入れも十分にされていないということだ。壊れていても誰も気づかないかもしれない。この暗闇の中、不意に階段がなくなってただの斜面になってしまったら、やはりそのまま足を滑らせてしまうことだってありうる。


──そう言えば、和多津見町の食堂の人も「月夜見村の衆は愛想は良いけど他所の人間とは一歩線を引いてるようなところがあるからなあ」って言ってた。


「二九八段、二九九段、三○○段、三○一段、三○二段、三○三段……」


 早くこのトンネルから出たい、でも急ぎ足になるには足下が不安だ、というジレンマに若菜は歯噛みしたくなった。


──まだなの。早く外の光を。外の光を見たい。


 石段はゆるやかに右に左にとカーブを描いていて、今、どちらを向いているのか方角を見失いそうになる。石段を下りていることだけは感覚として分かるけれど、一つ間違えば、それすら分からなくなりそうだ。


「三六三段、三六四段、三六五段、三六六段、三六七段、三六八段……」


 石段は三七○段目のあたりで切り返すように大きく左に曲がっていて、若菜は思わず突き当たりの壁に頭をぶつけそうになった。その左へ曲がった石段の先に光が見えて若菜は肩の力が抜けてくるのを感じた。安堵感からため息がもれる。


「三七五段、三七六段、三七七段、三七八段、三七九段、三八○段……」


 そこから後はすぐだった。


 四○○段目あたりでトンネルを抜けると、眼下には青い空と紺碧の海、鄙びた小さな村が見えた。香具椎山と海とに挟まれて大きくなる余地がないのだろう。まさに陸の孤島だった。暗闇に慣れた目に太陽の光がまぶしい。


──おお、いい風景。これが旅の楽しみよね。


 若菜はスマートホンの懐中電灯機能を切り、眼下の光景を写真に収め始めた。あの暗闇の中を抜けてきたからこその感動だということは明らかだった。何事もなくぶらりと立ち寄っただけなら、眼下の眺めはただの田舎の風景としか感じなかっただろう。


 やがて斜面はほぼ絶壁というほど急峻になり、それにあわせて月夜見坂の石段も九十九折りになった。


──なるほど、これで段が多くなるんだな。それにしても、手すりも何もないから足を滑らせたら崖下に転落することになりそう。危ないよね、気をつけないと。


「五八三段、五八四段、五八五段、五八六段、五八七段、五八八段……」


 若菜は右に左に切り返す石段を慎重に下りていった。段差が小さくなっていて少し歩きにくい。ここまで歩いてきたことで膝と足の裏とが鈍く痛んだ。高所から見下ろす眺めは良いけれども、これは高所恐怖症の人にとっては悪夢のような状況かもしれなかった。


「六二八段、六二九段、六三○段、六三一段、六三二段、六三三段、六三四段」


 長く続いた石段は確かに六三四段だった。ただ下りてくるだけでも大変だというのに、わざわざこの斜面に石段を造り上げた人たちに若菜は心からの敬意を払いたくなった。


 石段の下からはまっすぐ海へと通じる道が通っていた。もしかすると月夜見村のメインストリートにあたるのかもしれない。石段を下りてすぐの場所には右に神社が左にはやや大きめの日本風家屋があった。若菜はまず右の神社に参詣することにした。


 神社といってもそれほど大きなものではなかった。石造りの鳥居があって、大人二人がすれ違えるくらいの石畳が三十歩分くらい続くとその向こうに祠ほどの大きさの本殿がある、というくらいの小規模なものだ。


──まあ、小さな漁村ならこんなものでしょ。土地が余ってるってわけでもないんだし。お参りするのもこの村の人たちだけなんだし。


若菜がそんな風に思いながら手を合わせていると、


「おや珍しい。旅行でこられた方ですかな」


背後からしわがれた声が聞こえた。振り返ると鳥居の下に白い和装と白袴の初老とおぼしき男性が竹箒を手に立っていた。


「はい。あの、神主の方ですよね」


「ええ、まあ、当社の宮司を務めさせていただいております。それにしても、この村に他所の方がおいでになるのは随分と久しぶりです。どちらからお越しになりました」


若菜が答えると神主の男性は目を細めて微笑んだ。


「それはまた遠いところから。とすると、あの月夜見坂を下りてこられたんですな。でしたら、さぞお疲れでしょう。どうです、社務所で一休みされませんか、茶の一杯でも」


「ありがとうございます、ごちそうになります」


 神社の隣が社務所というか宮司の住居であるらしかった。


 若菜は玄関先に腰を下ろしてくたびれた足を休ませることにした。奥から神主の男性が茶筒と急須、湯飲みをお盆にのせて持ってきた。少し古いタイプの魔法瓶を左手にぶら下げている。


「すみません、お手間をおかけして」


「いやいや、こちらこそお待たせして。こういう村ですとね、全員が顔見知りだものですから、話題も決まり切ったような話しかありませんでね。新しい話相手が欲しいってこともあるんですわ」


ですから遠慮はご無用ですよ、と男性は笑った。


「この村だけじゃありません、近くの和多津見にしても穂出里にしても大抵の人とは顔見知りってことになります。あまり人の入れ替わりはないですから。でも、まあ、月夜見は特にそうですな。何といっても田舎ですから仕方がありません。顔見知りばかりで安心できるということもありますが、時には困ることもないわけじゃないですね」


「その、やっぱり不便ってことですか」


「生活しているとこれが当たり前だ、というところがありますからね。普通に過ごす分には特に不便を感じることもないですな。若い者はこういう生活を嫌って出て行くことも少なくはないんですが、何だかんだ言って、結局、戻ってくることが多いですよ。人間、住み慣れたところの方が安心できるんでしょうなあ」


「そういうものなんでしょうか」


「それにまあ、こういう陸の孤島みたいな場所で不便だからこそ安心できた、って時代もあったわけですよ。源平時代やら鎌倉末期やら戦国時代やら。この村なら戦場にはならん、そう思うからこそ我々のご先祖様はこの村で暮らし始めたみたいです。ご存じですかな、和多津見は昔は海賊、今で言うなら水軍衆の拠点で、穂出里は和多津見の分家だったんですわ。間にあるこの月夜見にもよく服属しろと言ってきてたようですな」


神主の男性は湯飲みを傾けた。


「月夜見坂から来られたならお分かりでしょう。香具椎山も千曳峠も険しい。陸路で攻め込むには難しいでしょう。海から来たなら月夜見坂を登って避難すればいい。一本道ですから迎え撃つのも簡単です。攻めるに難く守るに易い、しかも所詮は小さな漁村ですから苦労して攻め取るほどの値打ちもあまりありません」


「でも、それはやっぱり住みにくいってことでもありますよね」


「まあ、そうなんでしょうなあ。それでも命の方が大切だったということなんでしょう」


若菜のある意味失礼な発言を神主は笑って受け流した。


「漁業なんてやっていますとね、それほど遠くまで船を出さないとしても、船底の板一枚下はあの世行きだ、という感覚はあるわけですよ。ですから、陸に帰ってきた時くらいは安心して過ごしたい、そういうものなんじゃないですかね」


「そうですね、すみません、よく分からないまま変なことを」


「いやいや、何も」


自分の発言の無神経さに気づいて若菜が赤面すると、笑みを浮かべたまま神主は身をのりだした。


「そう言えば、今夜、元社の方で随分と久しぶりの祭りが行われる予定なんですよ。どうです、せっかくですから一泊して参加していかれませんか」


「元社ですか。え、そうすると隣のお社は」


「分社なんですよ、参拝用の。神事用の元社の方は他にあるんですわ。大きな祭礼の時にしか公開しません。ご興味ありませんか」


あります、と若菜も身をのりだしたが、


「ただ、残念なんですが、明日には帰っていないといけないんですよ」


とため息をついてみせた。少し強行軍ではあるが日帰り旅行の予定だった。


「ああ、そうですか。それは仕方がありませんな。本当に残念です。元社は祭礼の時にしか開きませんので」


 見学だけでもさせていただけませんか、と若菜は頼むつもりだったのだが、にこやかに釘を刺されてうなだれた。


「長々とお邪魔してしまってすみませんでした。おいしいお茶ありがとうございます」


「もう行かれますか。ではお気をつけて」


 神主の男性に見送られるようにして若菜は社務所をおいとまし、当初の予定通り海の方へ歩いて行った。


 そのまま行くと二十分ほどで小さな漁港に出た。もう午後も遅い時間のせいか港に人影はなく、少し離れたところで三人の女性たちが水で海藻を洗っているようだった。船や海の写真を撮っている若菜に気づいて手を振ってくる。


「ワカメですか」


と若菜が近づいていくと、


「そうよ、今日のお味噌汁の具にするの」


「うちは酢の物」


と若菜の祖母くらいの年齢に見える女性たちも愛想良く笑った。


「おいしそうですね。やっぱり、このあたりでは海の幸がメインになるんですか」


「そうねえ」


「まあ、そればかりというわけじゃないけど、どうしてもね」


「何でも好き嫌いなくいただくのが健康の秘訣ですもの」


「ああ、健康ですか、大切ですよね」


若菜の相づちに女性たちは、本当にそうなのよ、と大まじめにうなずいた。


「それはそうと、最近はどうです、漁獲の方は。獲れてますか」


「それが、最近、ぱっとしないのよ」


「どちらかというと不調よね」


「でも、大丈夫でしょ。今夜は本祭礼ということだし。前の本祭礼の後もしばらく豊漁が続きましたしねえ。そうそう、今夜の本祭礼にはあなたも参加するの」


「ああ、神主さんにもお誘いいただいたんですけど、もうそろそろ帰らないといけないんですよ」


「あら、わざわざ、こんな村まで来ていただいたのに」


女性たちは驚いて目を丸くした。


「残念ねえ、せっかく」


「ずいぶんと久しぶりの本祭礼なのにねえ」


「本当に残念ですけど、仕方ないですよね」


ここで引き留められでもしたら面倒だ、と若菜は思い、立ち上がった。


「どうもありがとうございました」


 女性たちの視線を背後に感じながら、若菜は来た道を戻ることにした。これから、あの月夜見坂の六三四段を登ることを考えたら、確かに今がぎりぎりの時間だった。


 社務所にも神社にも神主の姿は見えなかった。もう元社の方で祭礼の準備をしているのだろう。本祭礼の時にしか公開されていないと言っていたから、どこか隠れた場所にあるのかもしれない。


 それにしても、この広くもない村で元社と分社を分ける意味って何だろう、元社はどこにあるのだろうか。月夜見坂から見下ろした時、それらしい建物はなかったような気はするのだが。


──せっかくだから見てみたかったなあ。


 軽く息を吐いて、若菜は月夜見坂を登り始めた。下りてくる時には段差が小さくて歩きにくいと思った九十九折りの石段は登る時にはむしろ少し楽なくらいだった。


 今夜中に帰ろうと思ったらできるだけ早く千曳峠まで戻りたい。息をはずませ、ふき出る汗をハンカチでぬぐいながら若菜は歩き続けた。


 じわりと足が痛くなり始めた頃、トンネルのところまで若菜はたどり着いた。振り返って月夜見村と海の方を眺めると、大きな夕陽が沈みかけて紅い光を投げかけているところだった。


──おお、良い眺め。でも、もうこんな時間なんだ。登るのに時間かかり過ぎた。


 若菜はスマートホンで夕焼けの写真を何枚か撮ると、急ぎ足でトンネルの中を歩き出した。今度はスマートホンの懐中電灯機能は使わない。使えなかった。


──しまった。もうバッテリーがない。充電させてもらうの忘れてた。


 右手でトンネルの壁をたどりながら若菜は歩き続けた。下りの時とは違って、一度来た道だから、あまり肩に力が入ることもない。暗闇の中を若菜は登った。


 順調に月夜見坂を登り続ける若菜が動揺したのは、トンネルの出口が上の方に夕暮れの光を受けてぼんやりと見え始めた頃、上の方で何台ものオートバイがわざとらしい排気音を立てているのが聞こえてきた時だった。


『都会から「峠を攻めに来る」連中と暇をもてあましたこの周辺の若者とが暴走行為を繰り返したりタチの悪いイタズラをやらかすことがある』


 まさか、冗談じゃない。


 痛む足を懸命に動かしながら、若菜は月夜見坂の石段を登った。ようやく彼女がトンネルの出口にさしかかった時、何台ものオートバイが派手な排気音とクラクションとともに走り去っていくのがわかった。


──まさか。まさか、お願い、やめて。


 しかし、若菜の悪い予想は的中した。


 月夜見坂を登り切った時、彼女が目にしたのは、タイヤをすべて切り裂かれ、フロントガラスもサイドガラスも叩き割られてしまった自分の自動車だった。


「ひどい」


 若菜はのろのろと自分の自動車のドアを開け、割られたガラスの破片をバックパックで乱暴に掻き出すとエンジンをかけようとした。


 無駄だった。


 どうやら徹底的に若菜の自動車は壊されたようだった。


 千曳峠には夕闇が下りてこようとしていた。若菜はスマートホンを取り出したが、アンテナがほとんど立っていない上にバッテリーが切れかけている為、どうしていいかわからなかった。


──どうしよう、どうすればいい。


 千曳峠を歩いて和多津見町まで行く。来る時には自動車で小一時間かかった道のりを歩いて。しかもオートバイが走り去ったのも和多津見町への方向だったような気がする。


 千曳峠を反対側に歩いて穂出里村まで行く。来る時に通っていないので道が分からない。


 もう一度月夜見坂を下って月夜見村に行く。電話を借りてもいいし、何とか頼み込んで船で和多津見町なり穂出里村なりまで送って貰ってもいい。


 若菜は無意識のうちにつばを飲み込んだ。結局、自分の中では結論は出ているらしい。ただ、もうまったくの夜が来ようとしているのに、またあの月夜見坂を下ることに不安があるのだった。


──大丈夫、大丈夫よ。だって、今夜、月夜見坂村ではお祭りがあるんだから。


 若菜は自分を励まして月夜見坂へ再び足を踏み出した。


「一段、二段、三段、四段、五段、六段……」


 震える声で若菜は段数を数え始めた。しめ縄と幣の下がったトンネルの入り口まで下りてきた頃にはもう日は沈んでしまっていた。


──どうしよう。でも、一度下りて登ってきた道だもの。大丈夫、大丈夫よね。


 暗闇の中に足を踏み入れることに若菜は躊躇をおぼえたが、その時、かすかに太鼓を叩いているような音が聞こえてきた。


──お祭りが始まったのかしら。だったら、向こうには人がたくさんいるはず。


「一五四段、一五五段、一五六段、一五七段、一五八段、一五九段、一六○段……」


 若菜はトンネルの中に足を踏み入れた。外と違って風通しが悪いせいか、トンネルの中は昼間の熱気がこもっているように生暖かった。何故かぞくりと背筋に冷たいものを感じながら、若菜は昼間と同じように左手を壁につけ下り続けた。


「一九七段、一九八段、一九九段、二○○段、二○一段、二○二段、二○三段……」


 登る時とは違って、下る時には足を踏み外さないよう手探り足探りしながら歩くことになる。


 若菜はスマートホンの充電を忘れたことを涙が出るほど後悔した。


 本当ならば、今頃は自動車で和多津見町の近くまで峠を下りていられるはずだった。和多津見町からもう少し先のインターチェンジで高速にのれば、後は我が家でゆっくりできるはずだったのだ。


「二九八段、二九九段、三○○段、三○一段、三○二段、三○三段、三○四段……」


──あと、もう少しだ、もう少しでこのトンネルから出られる。


 目に涙を浮かべながら若菜は暗闇の中を下り続けた。ドン、ドン、ドン、ドンという太鼓の音が次第に大きくなってきたような気がする。もう何十段か下りればトンネルは大きなカーブを描いて出口が見えるはず──


「三六八段、三六九段、三七○段、三七一段、三七二段、三七三段、三七四段……」


 だが、あるはずの切り返すような左への大きなカーブはなかった。


──道を間違えた。そんなはずない、だって一本道だったじゃない。


 若菜はすすり泣くような声を漏らしながら立ちすくんだ。来た道を戻る。それとも下り続ける。道が違うのだとしたら、来た道を戻ったつもりでも千曳峠に戻れるとは限らない。千曳峠に戻れたとしてもそこからどうする。


 若菜は下り続けることにした。


「五八三段、五八四段、五八五段、五八六段、五八七段、五八八段、五八九段……」


次第にドン、ドン、ドン、ドンという音が大きくなってくる。暑いのは歩き続けている自分のせいかトンネル内の空気のせいかわからない。ほおを伝うのも汗なのか涙なのか。


『月夜見村の衆は愛想は良いけど他所の人間とは一歩線を引いてるようなところがあるからなあ』


『この村に他所の方がおいでになるのは随分と久しぶりです』


『この村だけじゃありません、近くの和多津見にしても穂出里にしても大抵の人とは顔見知りってことになります』


『顔見知りばかりで安心できるということもありますが、時には困ることもないわけじゃないですね』


『普通に過ごす分には特に不便を感じることもないですな』


『今夜、元社の方で随分と久しぶりの祭りが行われる予定なんですよ』


『神事用の元社の方は他にあるんですわ。大きな祭礼の時にしか公開しません』


「六三○段、六三一段、六三二段、六三三段、六三四段、六三五段、六三六段……」


──足が痛い。膝が痛い。のどが渇いた。なんでこんなに暑いの。


『でも、大丈夫でしょ。今夜は本祭礼ということだし。前の本祭礼の後もしばらく豊漁が続きましたしねえ』


『あら、わざわざ、こんな村まで来ていただいたのに』


『残念ねえ、せっかく』

『ずいぶんと久しぶりの本祭礼なのにねえ』


──あれは、本当は、一体どういう意味だったんだろう。


 若菜はただ暗闇の中石段を下り続けた。


 どこまでも。どこまでも。足を止めることが怖かった。足を進めることが怖かった。思い出すことが、考えることが怖かった。


「七二五段、七二六段、七二七段、七二八段、七二九段、七三○段、七三一段……」


 太鼓のような音は今や若菜の鼓膜を破りそうなほどにとどろいていた。




 この絵を見ると黒い岩肌の上に伸びた下りの石段にばかり目を取られるが、左下方に小さく石柱が描かれていることにも気をつけなくてはならない。


 上東杭雄は自分の絵の細部に色々と重要なものを描き込んでいることが多いからだ。


 その石柱には『月夜見坂』『六三四段』と彫り込まれている。


 月夜見=月読といえば天照、須佐之男と並ぶ三貴子の一柱であり月の神ともされるが、『古事記』『日本書紀』ともに記述の少ない神でもある。『古事記』によれば、伊弉諾が黄泉の国から逃げ帰り穢れを祓う為に禊ぎをした際、左目から天照、右目から月読、鼻からは須佐之男が生まれたとされ、月読は『夜の食国』を治めたとされる。夜はもののけ、あやかしの領分でもある。


 『六三四段』も六+三+四=十三段と考えればこれほど縁起の悪い数字もない。十三階段といえば死刑台への階段の段数でもある。


 なるほど、ただの石段の絵がこれほどまで落ち着かない不穏な感じに見えるわけだ。


 そう考えてよく見ると、石段を呑み込んでいるトンネル入口の上部に張られたしめ縄と幣が歯茎と歯のようにも見えてくるから不思議なものだと思う。

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