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小さな家

ムソルグスキー『展覧会の絵』「古城」より

 一見して何の変哲もない二階建ての家の絵だ。


 オレンジ色の瓦屋根に白く塗られた壁、少しデザインは古めかしいものの住宅地に普通にあるような一戸建てが描かれている。ただ、この家があるのは住宅地ではなく、むしろ山小屋の方が似合うような山奥かどこかにぽつんと建つ一軒家のようだった。


 画面の端にはうっそうと茂った雑木林が描かれ、家のまわりには丈の高い雑草が生えている。


 何より家の右側には一台の乗用車が駐められているのだが、どれほど雨風にさらされたのか廃車寸前に見まがうほどに汚れがひどい。


 ともすると、この家も廃屋か何かなのかと思わされるが、二階の窓のところにこちらをじっと見ている一人の少女が描かれている。


 一体、上東は何を見、何を考えてこの絵を描いたのだろうか。


 何ともちぐはぐなアンバランスさが見る者の不安を呼ぶこの絵の題名は『小さな家』といった。




 母が危篤である、との知らせを受けて、わたしは高校卒業以来帰ることのなかった実家に向けて車を走らせていた。ハンドルを握っているのは夫だが。


「君にお母さんがいるとは知らなかったよ」


と夫は驚いたように言ったが、色々な理由があって母とわたしの折り合いは悪くずっと疎遠にしていたのでそれは受け入れるより仕方のない非難だった。

夫は育ちの良いお人好しの性格で家族仲もそれほど悪くもなかったから母と娘がこれほど距離があるということに納得がいきにくかったのだろう。夫はわたしを天涯孤独の身の上だと思っていたし、主観的にはわたし自身もわたしをそういう身の上だと考えていた。


 だが、母が死にかけている、との連絡を受けた時、思っていた以上にわたしは動揺した。


 うろたえているわたしから事情を聞いた夫が、大きな仕事は一段落ついたところだから、と勤め先に連絡を入れて早めの夏期休暇をとってくれたおかげで、家族そろって自動車で実家に向かうことができている。


 後部座席には小学校三年生の息子と幼稚園児の娘という二人の子供が興味津々で窓の外の光景に見入っていた。都会暮らしの子供たちにはこんな山の中の景色は珍しいだろう。わたしが子供の頃に都会の景色に憧れたのと同じことだ。


 山奥に建つ一軒家である実家はほとんど昔の記憶のままだった。オレンジ色の屋根も白い壁も思っていたほどには古びていない。さすがにそこまでは手が回らなかったのだろう家のまわりには雑草が生い茂っていたが。


「失礼だけど、意外と普通の家なんだね」


「ログハウスとかだとかえって手入れが大変なの。別荘ってわけでもないから生活も不便だと困るし。何より普通の家の方が安く建つでしょ」


わたしの説明に、夫は「なるほどね」とうなずいた。


「ママ、森に遊びに行っていい。セミ、採りたい」


長いこと自動車の座席に閉じ込められていた息子は見慣れない森に興奮していた。今にも駈け出しそうな息子の肩を捕まえて夫が言い聞かせる。


「待ちなさい、その前にママのお母さん、おばあちゃんに挨拶を済ませてからだ」


 こうしてわたしたち一家はわたしの実家、おばあちゃんの家に入っていった。結婚した時にはその知らせを手紙で送ったような気がするが、考えてみれば孫たちが生まれたことは知らせなかったように思う。今更ながら自分のあまりの親不孝ぶりに驚くほどだ。




 母の寝室は一階の居間の隣にあった。


 ベッドに横たわる母の姿を見て、こんなに小さかっただろうか、と意外の念にかられた。


 娘と大して違わないようにさえ思える。わたしが大きくなったのか、母が小さくなったのか、多分、その両方なのだろうけれど。


 わたしがこの家にいた頃、母は間違いなく大きかったように思う。日々、圧倒されるような気持ちで暮らしていた記憶が残っているのだ。


 母ははっきりと内向的な人間だった。他人とも会いたがらず家からも出たがらず、職人的というか芸術家的な仕事で生計を立てていた。


 外へ出たがるわたしとは違う。わたしは手先も不器用だし細かい作業を続けるとイライラしてくる方だ。こういう性格の不一致も折り合いの悪い一因だった。母の性格は娘が受け継いだようだ。


 母は死にかけている人間にしてはしっかりとした眼差しでわたしをとらえ、そして夫と息子、娘へと視線を移した。


「よく来てくれたわね、……来てくれないと思った」


でも、声はさすがにしゃがれ弱々しいものだった。


「ひとつだけ、どうしても言っておかなくてはいけないと思っていたの……ううん、違うわね、謝っておかなくてはいけないわ」


「……母さん」


「ごめんなさいね、お願い、わたしを許して。許せないと思うだろうけど」


翌日の朝、母は亡くなった。




 母こそが天涯孤独の身の上だったので葬儀はわたしたち一家だけで簡素に済ませた。


 事前に母が手配していた近くの町の葬儀社に連絡を入れると彼らが段取りよく全てを済ませてくれたのだ。彼らの手配してくれた送迎の自動車であちらこちらに行き、気がつくとそれで全てが終わっていた。後はこの家を片付けてしまうだけだ。


 母とは関係のない人生をこれまで歩んできたとはいえ、いざ母を失ってみると結構こたえるものがあった。心の結構な部分が空っぽになってしまったような心地がするのだ。


「子供たちの面倒はぼくが見るよ、まだしばらく休みはとれるし、君はゆっくりとお義母さんと向き合った方がいいような気がする。手伝った方がいいようなことがあれば、いつでも声をかけて」


 夫はわたしの顔色を見ながらそう言うと、息子と娘をつれて部屋を出て行った。


 息子は家のまわりの森に好奇心を刺激されているようだ。気をつけないと後先考えずに雑木林に突撃して迷子になるかもしれない。夫にまかせておけば大丈夫だと思うが。


 夫もわたしも都会での生活がある。


 この家にいつまでもいられる訳ではないので、遺品を整理しこの家も処分しなくてはならない。寂しいけれど仕方のないことだ。この家の中にあるものもほとんど捨てなくてはならないだろう。ゴミ袋を手に母の作業部屋から手をつけることにした。


 母はドールハウスやミニチュアなどを作る仕事をしていた。


 手先も器用だったし芸術的なセンスもあったのだろう。国内だけではなく海外からも依頼があったらしく、どこの国かは分からないけれど外国語の手紙などもやりとりしていた。最近はどうだったのだろう。


 状差しにささっていた手紙類を並べてざっと確認する。


 母本人も自分の体調を自覚していたのだろう、ここ最近は仕事量も抑えていたらしくやり残しの仕事などもないようだった。


 あまり重要な手紙もないようだから全てゴミ袋に放り込む。思い切らないと片付けは進まない。ミニチュアを作るための道具や材料などもゴミ袋に押し込もうとしたところで、


「お母さん、わたし、それ欲しい」


と娘の声がした。


 娘は作業部屋の入り口のところに立って、わたしの方を遠慮がちに見ている。両手で胸のところにミニチュアの家を抱えていた。オレンジ色の屋根に白い壁。この家の模型だ。


「それ、どうしたの」


「お祖母ちゃんにもらったの。ねえ、いいでしょ、お母さん。わたし、このお家が壊れた時用にお祖母ちゃんの道具と材料が欲しいの」


 確かに母愛用の作業道具を全部捨ててしまうことにはためらいがあった。どうせ使い方もわからないしわかったとしても使えもしないのだが、母の仕事を全否定してしまうようにも思えてさすがに親不孝が過ぎるような気がするのだ。


「いいわよ。でも全部は駄目。お家に持って帰れないからね。好きなものを選びなさい」


 母が直接娘に何かを遺した、という事実が何か心中もやもやする。馬鹿馬鹿しい、わたしは娘に嫉妬しているのだろうか。母とわたしでは趣味が一致しなかった。せめて娘が母の興味と趣味を引き継いでくれることを喜ぶべきだろう。


 それにしても、いつの間に母と娘とが話をしたというのか。


 わたしたちがこの家に到着した次の日の朝に母は亡くなったのだが。夜、わたしが目を離した間のことだったのかもしれない。


 娘はとことこと作業机の方にやって来て椅子の上によじ登った。きょろきょろと机の上を見回しているが何がいいのかわかるはずもない。それはわたしも同じだ。


 多分、頻繁に使っていただろうペン立てに収まった古びた道具類がいいのではないか、と視線を向けると、娘もそれに気づいたらしく「これにする」とペン立てを手に取った。


「これ、もらっていってもいい」


「……いいわよ」


「ありがとう、お母さん」


 歓声を上げて部屋を出て行く娘を見送って、ふと妙なことに気がついた。わたしのことを息子も娘もママと呼ぶのだ。部屋を出て行く娘の背中が、娘ではなく、母の背中のように見えて、わたしは息を呑んだ。大急ぎで部屋を出て廊下を歩いて行く娘の名前を呼ぶ。


「なあに、ママ、どうしたの」


 名前を呼ばれて振り返ったのは間違いなく娘だった。


「……本当に持って帰るのはそれでいいのか聞いておこうと思って。後は捨てちゃうから」


「うん、わたしもよくわからないけど、ママが選んでくれたんだから、これでいい」


「わたしが、選んだ……」


「うん、お祖母ちゃんがよく使っていたのがこれじゃないか、って教えてくれたでしょ」


 ママ、ありがとう、と娘は廊下を歩いて行った。もしかして、わたしは疲れているのだろうか。かすかに痛み出した頭をかかえて、わたしは作業部屋の整理に戻った。




 母の遺品の整理は遅々として進まなかった。


 わたしがあまりにも母のことを知らな過ぎたせいだ。何も考えずに捨ててしまえればいいのだが、何やら意味ありげなものも出てくるのでそのたびごとに手が止まってしまう。


 例えば、母が寝室に使っていた部屋の書類棚から複雑な模様の描かれたラテン語っぽい文書が出てきた時などがそうだ。


 その文書に何か不吉な気配を感じて背筋がびくりと震えた。できるだけ触らないようにして、後で夫に見てもらったところ、どうやら母がミニチュア作成の修業時代にイタリアの職人とやりとりした手紙の一部らしいことがわかった。描かれていた模様は工房の紋章なのではないか、と夫は言った。


 夫と一緒に見た文書は、最初に見た時とは雰囲気がまるっきり変わってどこにも不吉な印象などなく単に重々しい権威を感じさせるだけになっていた。何かに化かされたような気分だ。


 こういう書類も捨ててしまっていいのか、残しておいた方がいいのか、迷いの種になる。


 家の外ではセミの鳴き声がうるさい。


 息子はセミを捕まえようと森の中を走り回っているようだが、まだ一匹も捕まえられずにいる。


 夫は息子が無茶をしたり迷子になったりしないように見張っている一方、この家の中でおとなしくしている娘の方には手がかからず助かっているようだ。娘は母からもらったミニチュアの家がお気に入りらしく、じいっと眺めている姿をよく見かける。


 夫や子供たちの協力のおかげで遺品整理作業に専念できるのはありがたいが、一方で母とわたしでは考え方や生活の仕方が違いすぎることに疲労を感じさせられることにまいってもいた。このところ頭痛を感じずにいられる時間はさほど多くない。


 母は死んだはずなのに、ここが母の家であった以上当たり前のことだが、この家にいると至る所に母の気配を感じる。


 この家に戻ってくるまで母と絶縁状態で生活していた気楽さが嘘のようだ。


 思い出してみれば確かに母は心理的にとても重たい人だった。愛情深い人だったのだろうとは思う。だが、粘着質で過干渉だった。


 「子供はこうあるべき」「女の子はこうあるべき」という母なりの理想や規範もあったのだろう。小さいうちは迷わず母に従っていたが、育つにつれて次第にそれがしんどくなってもくる。


 「自分のことは『お母さん』と呼ぶように」と厳しくしつけられた反動で、息子と娘にはパパ、ママ呼びをさせるようになってしまったように。


 この家にいた頃は母に一挙手一投足を監視されているように感じたこともある。


 今だってそうだ。


 何者かに監視されているような気がしてならない。多分、この家に帰ってきて母のことを思い出しているせいなのだろうが。


 もう母はいない。


 わたしも子供の頃のわたしではない。


 なのに、気がつくと未だに母に見張られている子供の頃のわたしにもどってしまったような気分になってしまうのだ。


 遺品整理作業が思うように進まない原因はそうした神経過敏のあまりわたしの気が散ってしまうせいもあったろう。


 夫が時折わたしを心配そうに見てくることさえわずらわしいと思ってしまうことすらあった。夫は何も悪くないというのに。


「……疲れているようだね。大丈夫かい」


 母の遺品を前に途方に暮れていると、遠慮がちに夫が言う。


「もし良ければ代わろうか」


「ううん、気にしないで。これは、わたしがやらなきゃいけないことだもの」


 実の娘であるわたしにさえわからないものが血縁関係のない男性であるあなたにわかるとでも、という苛立ちを押さえ込む。これは八つ当たりだ。夫のこちらの様子を心配する視線が不快でならない。わたしを見ないで、と言いたくなる。


「そう、そうか。何も一度で大急ぎに片付けてしまわなくてもいいからね。また来ればいいんだから」


 もうここに戻ってくるのは二度とごめんだ、と喚きだしそうになるのを奥歯を噛みしめこらえて


「ありがとう、大丈夫よ。まだ、もう少し頑張れるわ」


とわたしが言うと、夫はまだ気がかりなことがあるような表情で部屋を出て行く。


 わたしは夫の視線がなくなったことに安堵の吐息をもらした。


 息子は息子でセミを捕まえられずにいることに苛ついているようだった。


「鳴き声はあんなにするのに、全然見つからない」


と唇をとがらせて不満を言っていたのだが、おとなしくミニチュアの家を眺めていた娘に


「なんで、お前だけお祖母ちゃんからそんなの貰ってるんだよ、ずるいぞ」


と八つ当たりをし始めた。


「ぼくにも、それ、よこせよ」


「いや、やめて、お兄ちゃん」


 なんでお前ばかり、という息子の言葉はわたしの胸にずきりと突き刺さった。


 鈍い頭痛を抱えていたこともあって、息子を止めるのが少し遅れた。


 息子は娘が抱えていたミニチュアの家を取り上げようとし、娘はそうはさせまいと懸命に抵抗していた。せっかくのきれいな家がこのままでは壊れてしまいそうだ。


 どこかでみしみしときしむ音が聞こえる。


「妹をいじめるな。他人のものをとるようなことをしちゃ駄目だ、と前にも言ったろう」


 わたしが口をはさむ前に夫が息子を叱りつけた。


「だって、なんでお祖母ちゃんはあいつにだけあんなものをあげたんだよ」


「お前はお祖母ちゃんと話をしようともしなかったろう。早く遊びに行きたくてうずうずしてたじゃないか。それなのに、お祖母ちゃんから何かをもらうつもりでいたのか。お前こそずるいだろう、それは」


「ずるいよ、あいつばっかり」


息子は顔を真っ赤にして叫ぶと家の外へと駈け出して行った。


「お兄ちゃんのばか、お兄ちゃんなんて嫌い」


娘はそう叫び返すと大事そうに家の模型を抱えて二階へと駆け上がっていく。


「……そろそろ、限界なのかもしれないわね。あなたの言うとおり、一度帰った方がいいのかも。迷惑をかけてごめんなさい」


「それは後で話そう。あいつが心配だ、追いかけてくる」


「うん、お願い」


 夫はそれほど間をおかずに息子の後を追ったはずだった。


 だが、夫はすぐに「息子を見失った」と家へと戻ってきた。


 わたしと夫は外へ出て家のまわりと森とを息子を探して歩き回った。子供の足だ、それほど遠くに行けるはずはない。それでも息子は見つからなかった。


 憔悴した表情で夫は居間の椅子に座り込みわたしの方を見た。


「こうなったら、警察に連絡して探してもらうしかない……だけど、その前に」


気になることがあるんだ、と夫は頭を振った。


「言おう言おうと思ってはいたんだが。ぼくたちがこの家に来てからどのくらいになる。一週間か、もっとか、ぼくにはわからないんだ。そもそも、お義母さんの葬儀をすませてから夜になったか、ぼくたちはどこかで寝たか。食事だってそうだ。ぼくたちがここで何日か過ごそうと思えば買い出しにだっていかなきゃいけない。食べるものがあったとしても、お義母さんの分くらいしかなかったはずだから。でも、ぼくらはそんなことをしていない、そうだろう。この家についてから自動車を動かしていないんだ」


 そうだ、何かがおかしい、鈍い頭痛を訴えてくる頭を働かせようとしてわたしは呻いた。


「ぼくの知るかぎりここに来てからずっと昼間だ。ぼくらは食事もせずトイレにも行かず眠りもしていない。いや、ぼくらだけじゃない。病気になったお義母さんは、どうやってこんな山奥の一軒家で一人暮らしをしていたんだ。君にお義母さんのことを連絡してくれたのは誰だ、ぼくたちがここについた時、そんな人いなかったよな。てっきり、誰か看護師みたいな人がいるかと思ったのに」


 話し続ける夫の表情が抜け落ちて次第にのっぺらぼうのようになり始めた。


「君はここで子供時代を過ごしたんだろ。だけど、じゃあ、どうやって小学校や中学校に通学したんだ。こんな山の中からじゃとても子供の足で歩いて通学できるとは思えないぞ」


 のっぺらぼうのようになった夫が怖くなってわたしは椅子ごと後ずさった。しかし、夫の言うことは正しい。何かが致命的におかしいのだ。おかしなことしか起きていない。


 ぐるぐると頭が混乱する。聞きたくない。怖い。


「決定的だったのは、あいつが行方不明になった今だ。ぼくたちは歩き回って息子を探したよな。でも、君、あいつの名前を覚えているか。普通、いなくなった子供を探す時には名前を呼びながら探すだろう、だけどぼくらは呼びたくても名前が出てこなかった」


 それ以上言わないで、言っては駄目。


「あいつだけじゃない。君、ぼくの名前がわかるか、ぼくには思い出せないんだ。君の名前もそうだ。君の名前は、何だ」


 そうだ、わたし。わたしの名前は。わたしは本当にここで育ったのだろうか。目の前の人はわたしの夫なのだろうか。息子は。わたしは誰だ。


『あああ、やっぱりお祖母ちゃんのようには上手くできないなあ。せっかくお祖母ちゃんの契約を引き継いだのに』


 唐突に声がして天井の方から大きな幼い手が伸びてきた。


『今度はもっと上手くやるからね。ごめんね、パパ、ママ』


 わたしも夫ももう動くことはできなかった。表情さえ動かすことができない。


 今までずっと何者かの視線を感じていた。あれは「娘」の視線だったのだろうか。


 一体、いつからこんなことに。この家に帰ってきた時から、それとも母が亡くなった時から、もしかするともっと昔。


 大きな手につかまれたわたしたちはミニチュアの家からつかみ出され雑草の生い茂った庭へと投げ出された。


 捨てられたのだ、と呆然となったわたしに大きな黒い影が上空から覆いかぶさってきた。


 わたしは悲鳴をあげた。意識のある限りあげ続けた。




 不審な様子がある、との通報を受けて山道をパトカーが走っていた。


「先輩、本当にこんなところがうちの所轄なんですか」


「残念ながらな、ぎりぎりうちの管轄だ。確か身寄りのない婆さんの一人暮らしだったと思うんだけどな。あれ。そう言えば、その婆さん、この間亡くなったんだっけ」


「勘弁してくださいよ、婆さんのお化けかなんかが出たってことですか」


「やめろやめろ、余計なことは考えずにさっさとすますぞ」


 通報してきたのはアウトドア趣味の学生たちだった。山奥の一軒家にもう随分と誰も使っていないような薄汚れた自動車が駐められている、もしかしたら何かあったんじゃないか、というものだった。


「そのお婆さん、自動車の運転は」


「できた、と思うけど、結構以前に運転免許を返納してたぞ。自動車も処分してしまったはずだ。買い物には配達を頼むから、とか言ってた、と思うんだけどな」


「先輩、そこはっきりさせといてくださいよ」


 通報を受けた現場には確かに風雨にさらされて汚れたままの乗用車が駐められた一軒家があった。こんな山奥だ、ここまで来るには自動車が必要だろう。


 二人の警察官は顔を見合わせ一つうなずくと、若い方が玄関のドアをノックした。


「失礼します、警察の者ですが」


 返事はない。ドアノブを回すと鍵がかかっていなかったらしくドアが開いた。


「どうしましょう、先輩」


「何かあったのかもしれない、緊急事態だと思おう。何もなかったら後で謝り倒すぞ」


「そんなんでいいんですかね」


 警察官たちはそのまま屋内に踏み込んだ。


「失礼します、警察の者です」


 声をかけながら各室を見て回る。台所には家族四人が食事をとった後らしい食器が洗われて置かれていた。


 居間には大きなゴミ袋が四つほど積まれ、何か片付け作業が行われていたらしい様子だった。一階の他の部屋は家具は残されてたけれど他は空っぽだ。


「何か変な雰囲気ですよね」


「言うな言うな」


怖くなっちゃうだろ、と先輩警察官は後輩の背中を叩き、上を指さした。


「一階には何もなかったから二階に上がるぞ」


 二階に上がった最初の部屋でソファに座った女の子を見つけた二人は一瞬息を呑んだ。ミニチュアの家を宝物のように抱え込んだ女の子も驚いているようだった。


「お嬢ちゃん、どうしてここにいるのかな」


 女の子は小学校低学年か、もしかすると未就学児かもしれない。怖がらせないよう先輩警察官は身をかがめて女の子と目線の高さを合わせるようにして声をかけた。


「ここはお祖母ちゃんのお家なの。だったの。パパとママとお兄ちゃんと来たんだけど、パパもママもお兄ちゃんもいなくなってしまったの」


「いなくなった。パパやママがどこに行ったかわかるかな」


「わからない」


 先輩警察官は後輩に下のパトカーから本部に報告を至急入れるように指示を出した。


 行方不明者の捜索と幼児の保護が必要だろう。家宅不法侵入に育児放棄の疑いもある。後輩はうなずくと一階に降りようとして動きを止めた。天井の方を見上げながら、


「先輩、今、悲鳴みたいなのが聞こえませんでした」


「カラスだろ」


先輩警察官は言った。


「ここに来た時、何羽か飛んでいたじゃないか。カラスだろ」




 絵の家の二階の窓辺に立ってこちらを見ている少女は胸のところに家の模型を抱えている。


 オレンジ色の屋根に白い壁。少女のいる家と全く同じ。


 もしかすると、模型の家の二階の窓辺にも少女が家の模型を抱えて立っているのかもしれない。合わせ鏡の鏡像のように家の中の家の中の家の中の家の中の……永遠の繰り返し。


 一軒家の上空には三羽のカラスが飛んでいる。くちばしに何かをくわえているような気もするが、多分、気のせいだろう。上東杭雄の細かい描き込みには本当に驚かされる。

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