第2プロムナード
せっかくの上東の追悼展覧会だというのに来場している観客はほとんどいなかった。
上東のイラストでお世話になった小説家たちや編集者たちだって来てもおかしくない、むしろ来るべきだろう。上東のイラストのファンだっていたはずだ。
それなのに、ぼく以外の観客が数えるほどしかいない。事実、一枚目の絵が展示されていた部屋にいたのはぼくの他に二人だけだった。しかも、そのうちの一人は、絵を傷つける人間がいないように見張りを兼ねたスタッフの青年というありさまだ。実に寂しい光景だと思う。
上東杭雄は思っていたよりも危ないところに踏み込んでいたらしい。
一枚目の絵『人形の島』、あれは危険だ。廃棄された神社と人形の組み合わせが何をもたらすのかを考えると慄然とする。
閉じられた神社、ご神体を失い空っぽになった聖域なんて、いなくなったカミの代わりに何が潜り込むか知れたものではない。
例えて言うなら何かの事情で空き家になった豪邸に入り込んだ浮浪者が住みついて主人面するようなものだ。その浮浪者がおとなしい性格であることは期待できない。空き家であるとはいえ豪邸にぬけぬけと侵入するような大胆な性格をしているのだから、大概、調子に乗ってろくでもないことをやらかすというものだろう。
そこに見た目だけは人間にそっくりだが中身のない人形が安置されるとなると、これまた空っぽの器にろくでもない何かが入り込む。そんなものが百体をくだらないほど置かれているとなると、そこはもう得体の知れない何かどもの支配する魔境としか言いようがない。
物騒きわまりない禁域だ。君子危うきに近寄らずと言うが、君子ならざる凡夫としてはさわらぬカミに祟りなしと言うより他はない。
私も取材で色々なところに出かけはする。
できるだけ危険がないように事前に念入りに調査をしてからだが、それでも奇妙な経験をすることはある。例えば、過疎化と少子化とで今は廃校になった中学校に特別な許可を得て入った時のことだ。
動画を撮ろうとカメラを向けていたら、軽やかな笑い声を上げて二人の女学生が廊下の向こう側から走ってきた。
平日の昼間だ、こんなところに入ってきたら駄目だろう、と声をかけようとしたら、そのまま三つほど先の教室に入っていった。
あわてて歩いて行ってその教室の中に入ると、そこには誰もいない。
ただ、教室の後ろの壁に貼られた古いポスターが残されているばかりだった。女子生徒が二人楽しそうに笑っている、廃校になる以前の文化祭のポスターだった。
怪異の前において現実は簡単に揺らぐ。虚構と現実の境界は案外曖昧なのだ。
それにしても、大展示室を使うのではなく複数の会議室を展示会場に使うこのやり方は、むしろ上東の作品一枚一枚をじっくりと見ることができるという点で、かえって良かったのではないだろうか。
上東のスケッチブックまで展示されているので、作品に至るまでの素材や下絵までを見ることができる。
手間を惜しまない上東らしく、彼はこの『人形の島』を描くために現地へと足を運んだようだ。スケッチブックには現地(疋馬島というらしい)へ行くまでの道のりと何枚かの写真が残されていた。
写真だけでも荒れ果てた雰囲気がものすごいのだが、さすが上東の描いた『人形の島』はその雰囲気を写真以上に捉えている。
それだけにこの観客の少なさが残念でならない。