第2話:飛べない百舌鳥達1
・3月は下旬。そろそろ春休みの時期だ。進路が決まった高校3年生や、理由あって転校するもの、高校からは別の学校にするものなどは寮からの退却を行い、それが終わり次第新入生達の受け入れが始まる。大体遅くとも3月2週目くらいまでには退去が行われて4週目くらいまでには受け入れが行われる。
「さあ、今年もこの時期がやってきました」
食堂。まだ10時過ぎと言うこともあって昼食は準備すらされていないそこに、ざっと2、30人ほど。斎藤が仕切って、その後ろの方で甲斐がため息着いている。
「今年は……まあ、穂南が残念なことになってあれだからやろうかやるまいか迷ったが恒例行事だからやることにしたぞトトカルチョ!果たして今年甲斐は男子とルームメイトになるのか現在同様一人のままなのか、それともラスト1年も女子と一緒の部屋になるのか!」
斎藤のマイクパフォーマンス。ちなみに既に退去したはずの卒業生も混じってる。受験などの関係で蒼穹の訃報を知らなかったものには寝耳に水だが明るいムードは続けられた。また、寮住まいではない逢坂も参加している。参加者の多くは男子だが中には女子も混じってる。
「……勘弁してくれ」
春休みにやることがなくて暇な寮住まいは毎年似たようなことをやっている。話題に興味がない者でも何かしらの暇つぶしを求めて食堂に来ている。
「……何あれ」
火咲もその一人だ。唯一まともに動かせる薬指を使ってコーヒーを飲む。
「……何か毎年やってるみたい」
正面には紅衣。姉の死から2週間が過ぎたこともあってだいぶ落ち着いたがどこか暗い。
「今まではお姉ちゃんが甲斐先輩と一緒だったからいつまで同じ部屋なのかをああいう感じで予想してたみたい」
「……そう」
「穂南さん、ご無理はなさらずに」
赤羽が紅衣の肩に優しく手を置いた。赤羽もつい先日退院したばかりだ。外見はあの試合より前と一切変わっていないが中身は変わっている。全く事情を知らない紅衣でも僅かに違和感を抱く程度には赤羽の体内の機械の比重が重くなっている。
「でも、赤羽さん。いつの間にお姉ちゃんと知り合いだったの?会ったことあったっけ?」
「……引っ越しの時に少しだけ。でも、私もどうしてあの大事な日に呼ばれたのかは……」
「……」
赤羽達の疑問を尻目に火咲はコーヒーを飲み続けた。すると、
「……ああ、またやってるのか」
いかにも寝起きという感じの達真がやってくる。
「あんた遅いじゃない。夜更かしでもしていたのかしら」
「別にそう言う訳じゃない。朝ジョギングに出かけて帰ってきたらその……二度寝してしまっただけだ」
「似たようなものじゃない」
達真は自販機でお茶を買って火咲の隣に座る。紅衣と視線が合うと、やや歪ながらも挨拶をされる。蒼穹の逝去以降紅衣とはぎくしゃくしている。別に何も悪いことはしていないのだがどうも歯車が狂ったかのようにうまく行かない。
「……そっちのあんたは確か、死神先輩が弟子にしている人だっけ?」
「赤羽美咲と言います。弟子と言えば弟子なのかもしれませんが正確な弟子の方は別にいます」
直後、世界のどこかで盛大なくしゃみが発生した。
「矢尻達真だ」
「……あ、そうだ。達真君。もう高校の制服は買った?」
「……そう言えばそんなのもあったな。確か男子はそんなに変わらないからこの前回覧板か何かで回ってきたような気がするな。何か、卒業生のお下がりをそのままもらうとか」
達真の発言に女子3人は表情を変える。
「まさかずっとたらい回しにしてるって事?不潔じゃないのそれ?」
「私も少しどうかと思います」
「だ、男子らしいね!」
三者三様だが引いているのは共通事項。
「……ここに来ているってだけで満足に衣食住手に入れられる奴ばかりだと思うか?そう言うことにも配慮しているんだろう」
基本的にここの生徒は8割以上が達真のように両親がいなかったり逢坂のように他の子供と同じような日常生活が出来ない者が多い。
「……それはお前達も一緒じゃないのか?」
達真の発言に答えられる者はいない。紅衣と言うか穂南姉妹の事情は既に知っているとして赤羽と火咲にも何かしらの事情はあるのだろう。実際にはどちらも三船の関係者なのだが。
「……で、あれはまたやってるのか」
達真が斎藤達に目線を戻す。
「毎年やってるよね。……今年はもうお姉ちゃんいないけど」
紅衣が表情を暗くすると火咲が達真の臑を蹴る。
「痛いぞ?」
「紅衣の方がもっと痛いわよ朴念仁」
「……俺もそこそこ痛いんだがな」
「達真、ここにいたのか」
と、そこへ新たなる来訪者。権現堂だった。とても15歳には見えない巨漢のルームメイト。
「部屋にいないから探したぞ」
「悪い。起きたからここに来てた」
達真が返事をすると、赤羽と権現堂が挨拶をする。
「そこのデカ物は制服どうするの?」
火咲が達真の臑を蹴り続けながら問う。
「ん?何の話だ?」
「男子は卒業生から制服をもらうことが多いって話だ」
「ああ。俺は見ての通り体格が体格だからな。高等部の制服は既に予約して購入済みだ」
「そこのデカ物はどんな家庭環境な訳?」
「……今日はずいぶんと口が軽いな、最上は。俺は母親が小さい頃に亡くなって親父が男手一つで育ててくれたんだが俺が小学校の頃に交通事故に遭ってな。幸い一命はとりとめたが全身不随になってしまった。今も大倉病院で入院していてそこから俺の生活費や学費が支払われている」
「大倉ねえ……」
達真が赤羽と火咲を見る。二人はその視線に気付いていながらも反応を示さない。
「そう言う最上はどうなんだ?」
「レディに聞くの?」
「お互い様だろう?」
「……」
火咲は一度赤羽を見た。赤羽は相変わらず無表情のまま。関係が関係であるが故に当然なのだが。
「見ての通りよ。私は両手が効かない。両親もいない。これまで住んでいたところはやばいところだったから逃げてきたのよ」
「そうだったのか。ムエタイもそこで?」
「私がいつあんたにムエタイなんて見せたの?」
「達真から聞いた。最上はムエタイを使うと」
「……あんたねぇ、」
「俺は空手をやっている。情報交換をしただけだ」
「なら俺も柔道をやっているぞ」
「権現堂くんはすごいんだよ。もう柔道の名門大学からスカウトされてるんだから」
紅衣が努めて明るく言う。
「……やけに紅衣とあんた達仲いいじゃない。ただのクラスメイトじゃないとか?」
火咲がストローかじりながら言う。
「……お前も気付いているかもしれないが俺達中3はクラスが妙に少ない」
「そう言えばそうね。私達だけ3クラスしかないわ」
「俺達が入学する前の年にどこかの誰かさんがとんでもない火遊びをしてその結果ここの近くにあった無人発電所が社員寮ごと焼失する事件があったんだ。散々マスゴミから叩かれたみたいで俺達の代は入学する奴が少なかったんだ。だから大体が顔見知りとなる」
「私達の場合は単純に3年間クラスが一緒だったって言うのもあるけどね」
「へえ、」
火咲が興味あるのかないのかよくわからないテンションで返事を打つ。
実際火咲の目からするとこの3人はまるで幼なじみのように呼吸が合っていた。どこか懐かしく、苛立たしく感じる。
「……あっち終わったみたいですね」
そこで赤羽が口を開く。それはトトカルチョの方。
「……何考えてるんだお前達は」
甲斐がうなだれる。投票の結果、意外にも去年までと同様に甲斐は女子と
相部屋になると言う予想が一番多かった。
「普通に考えたら男子が入ってくるかどうせもう1年しかいないんだから今年だけ一人って考えるのが普通だろうが」
「いやいや、大穴を考えての結果だよ」
「……で、今度は何賭けたんだよ」
「いやいや別に~?ただ今年も女子と相部屋だったらいろいろお裾分けしてもらおうかなっと」
「何だよお裾分けって。お前達そう言って毎年のように穂南にボコられたの忘れてるのか?」
「今年は穂南がいない」
「入ってくるとすれば中1の新入生か……高1の転入生だぞ?いきなりセクハラから始めるのかお前達は」
「セクハラじゃない!男子の夢だ!」
「ならその夢とやらはあそこの矢尻後輩を訪ねたらどうだ?あいつ、穂南の彼氏だぞ」
「ぶっ!!」
達真がコーヒーを吹く。直後、トトをやっていた輩の視線が達真に集中する。
「ほっほう、多少不謹慎な気もするがこういう雰囲気には突撃せざるを得ないなぁ~?」
そして一斉に達真へと突撃を仕掛ける。
「マジかあの先輩!」
達真が走り出して急いで食堂を後にする。当然追いかけようとするが、
「悪いがみなさん。ここから先を通りたければこの俺を倒してからにしてもらいたい」
権現堂が出入り口に立ちふさがった。190以上もありそうな巨漢。しかも柔道の黒帯である権現堂を前にさすがに怯む輩達。しかし、
「おけ。その勝負、乗った」
斎藤が指を鳴らしながら前に出る。
「む、斎藤先輩か」
「異種格闘戦と行こうぜ?権現堂後輩」
急な決闘ムードに沸く輩達。食堂の中央の空いた空間で斎藤と権現堂が構える。
「……いいんですか?あれ」
「いざとなったら俺が止める」
赤羽の疑問に対して答えながら甲斐と最首が歩いてくる。
「……あんたが余計なこと言うからこんなことになってるのよ?」
火咲からの視線。
「素人じゃない経験者同士の手合わせ程度ならまあ、怪我しない程度にやるだろ。あそこの連中も今やそっちに注目してくれているし」
自販機でコーラを買って赤羽の隣に座る。
「実際ルームメイトがどうなるかというのは聞いていないんですか?」
「ああ。けどさっきも言ったように余りでない限りいきなり新入生が高3の先輩と同居することもないだろうから今年はルームメイトなしになるんじゃないかって俺は読んでいる」
「もう廉君は今更男の子と同居なんてできないもんね」
最首の声で赤羽と火咲がジト目。
「空手やってる方ですよね?」
「女たらしだから強いのかしら?」
「はいそこ。変な想像しない」
いつの間に火咲と仲良くなったのだろうかと甲斐がため息。
「あ、始まるみたい」
最首が口を開き、甲斐達が人だかりを見る。
「俺はお前に上段打ち込めたら、お前は俺の背中を地面にたたきつけたら勝ちだ。制限時間は120秒」
「あいわかりました」
斎藤と権現堂が構え、そして同時に動き出した。
「……あの人がどんな奴なのかわからない」
中庭。達真がそこまで逃げてきた。この前甲斐にボコボコにされて以来の全力疾走で息を切らしていて衰えを感じる。同時に今度の春こそ空手部の新入生が来ることを祈って何か出来ないことはないかと考える。
「……今までは蒼穹さんがいたから目的を果たせなくてもいい……そう思ってた弱い自分がいる。その結果、あの人に殴られたんだ。俺も高校生になるなら自分の足と手で何かしないと……」
その足で空手部の部室へと向かう。部室と言っても権現堂に依頼して柔道部の部室を少しだけ間借りしているだけだ。そして空手部と言っても部員は自分しかいない。現状でもただ名前だけしか存在しないと言ってもいい。まずは部員集めから始める必要がある。しかし、実際には中々それも難しい。中学や高校から空手を始める者など滅多にいない。興味を持ってくれている人がいたとしても名前しかない空手部から空手を始めようなどとはそうそう思わない。何より設備がない。新しく入部したいと言う人が来ても胴着も用意できない。
「……どうしたものか」
「……ここが空手部ですか?」
声。少女の声。達真が振り向くとそこにはどこかで見たような気がする少女が立っていた。
「あんたは……どこかで……」
「何でしょうか?」
「……いや、それよりここは一応柔道部の部室だが……」
「空手部はやっていないのですか?」
「いや、やってるけど部員俺しかいないし」
「女子でよければここに一人」
「……あんたが?」
「はい。お手合わせしますか?」
少女はさわやかなワンピース姿だ。とてもこれから空手をやれるような雰囲気ではない。かといって冗談を言っているようにも見えない。
「……やってみるか」
部室を出て道場へと向かう。
「服はそれでいいのか?」
「今日は着替えを持ってきていないので」
「……今更だが新入生か?」
達真の視線が少女の姿をなめ回す。火咲ほどではないが突き出た胸は小学生には見えない。
「はい。来月からここの高等部に転入予定です」
「高等部……珍しいな」
4月からの転入生は9割くらいが中等部である。高等部への転入生は1年に一人いるかいないかだ。そして達真と同学年の新入生と言えば今までで初めてだった。それが女子でしかも空手部に入ろうとしているなどドッキリか何かじゃないかと達真はさっきから周囲をきょろきょろしている。
しかし何事もなく道場に到着する。
「今更だが男女で組み手は高1がやるものじゃないような……」
「私は気にしませんよ?」
どこかの令嬢。そんな感想を抱けるような、とても空手をやれそうな気がしない少女だ。本当に今から組み手をやれるのかと疑惑しかない。
「……じゃあ、軽く腕試しを」
やる気30%くらいで達真が動く。本気半分程度の前蹴りを放つ。
しかし、少女はたやすく受け流した。
「え、」
しかも足を下ろした達真は違和感を感じて膝を突く。
「……関節が外されている……!?」
「矢尻さん、本気でお願いしますね?じゃないと空手部の看板私一人のものになってしまいます」
「……っ!」
もはや疑惑などない。この少女、初心者などではない。何かの武術の達人であることは間違いなかった。あてずっぽで関節を戻し、立ち上がった時にはもう達真はしばらくぶりに試合の時の目になっていた。先ほどのそれとは比較にもならない速度と精度で前蹴りを放つ。
「!」
少女は再び受け流す。しかし今度は関節を外されなかった。受け流すだけで精一杯だったのだろう。そして達真は着地と同時に一歩前に出て少女の腹に膝蹴りを打ち込む。
「くっ、」
直撃。少女が一歩後ずさる。
「……一拍子……」
「……本当に素人じゃないみたいだな」
達真が行ったのは一拍子と言う技。制空圏に比べれば高等技術というわけではないが技術と経験と感覚を必要とする技に違いない。一拍子が何かと説明すれば移動、攻撃、防御を同時に行う事であり、達真は今移動と膝蹴りを同時に行った。言葉にしてみれば簡単だが実際に出来るかと言われれば意外と難しい。特に実戦中に出来るかと言われればかなり手慣れたものでなければ足運びが狂い、自滅しかねない。
しかし、上手く決まれば相手が達人であればあるほどそのリズムを狂わせられる。これが今目の前の少女に通用した。イコールでこの少女は少なくとも自分と互角程度の実力はある。
それがわかっただけでも十分空手部への入部は問題ない。だが、ここまで来たならばどちらが上なのかを確かめてみたくなる程度にはまだ達真にも武道家としての性根が残っていた。それが嬉しかった。
「たっ!!」
達真はリズムをあげた。時に一拍子を、時には通常通りの拍子で攻撃を、防御をそつなくこなし、少しずつだが少女の防御を崩し、体力を削っていく。見れば申し訳ないほどには少女のワンピースはしわくちゃになっていた。
「……朱雀みたいな真似を……」
「朱雀?」
どこかで聞いたことがある。いや、もちろん四神の朱雀なら知っているが空手関係で昔どこかで聞いたような気がする。達真も一時は大倉道場に通っていたのだ。その頃に聞いた話なのかもしれない。
「あんたもしかして大倉道場の?」
「いえ、私は大倉道場には通っていません」
「なら……」
「私は、」
直後、少女の動きが変調する。それはそれまで達真がやっていたものと同じ一拍子と通常拍子とを組み合わせた独特な動きだ。
「な……!?」
しかし決定的に違うのは一秒ごとに体幹や体の癖などすらも変えてまるで別人のようなリズムを刻んでいく事。達真はそれに合わせようとするだけで手一杯であり、瞬く間に手足すべての関節を外されてしまった。
「朱雀魔風……。不死鳥の羽ばたきに人々は意図せぬ間にただ這いつくばって見上げることしかできなくなる」
「……くっ、」
油断した。いや、調子に乗りすぎていたと言うべきか。この少女は自分とほぼ同格だと先ほどは判断した。だが、甘すぎた。この少女は自分より遙かに強い。遙かで思い出したがあの最首遙と同じかそれ以上の実力者だろう。男女による単純な体力の都合を技術で完全に上回られている。
「けど、あなたも中々の腕前でした。これからも……」
「チェェェェェェストォォォォォォォォォッ!!!!!!!」
少女が何かを言おうとした瞬間、目の前にいた少女の姿が甲斐のそれへと変わった。
「………………は?」
いや、右に10メートル以上離れた場所に障子がありそれが突き破られて、中庭の池で水柱が上がっていた。
状況から推測するに甲斐の正拳突き一発で目の前にいた少女がぶっ飛ばされたと見るべきか。
「災難だったな、矢尻」
甲斐は一瞬で達真の手足を元に戻す。
「ど、どうも……けど、その……」
「いきなりひどいことをするんですね」
低い声だった。大きな水音を垂らしながら池から少女が上がってきた。真っ白なワンピースはずぶぬれで上下の下着が透けて見える状態だった。しかも脇腹のあたりが真っ赤に染まっている。今の一撃の怪我だろうか。
「何だ。まだ立てるのか」
「鍛えていますからね。それでもいきなり縮地で接近してから青龍かましてくるなんてあなたは私を殺したいんですか?」
「殺した程度で死ぬようなら所詮そこまでだ。尤も半年くらいの入院生活くらいはくれてやるつもりだったんだがな」
甲斐がにらむ。少女はギリギリ畳の外まで歩み寄ってくるが畳の上には上がってこない。
「…………死神先輩、知り合いですか?」
「お前もこの前の夜に会ってるだろ。まあ、こっちがそこそこボコボコにしてたから気絶していたかもしれないが」
「夜……?」
そこで達真は思い出した。あの蒼穹が死んだ夜に火咲の後に現れた少女。「……あの時の……」
「そんなことはどうでもいい。さあ、後何発だ?何発あれば消えてくれるんだ?」
「……いいでしょう。今日はこのところで退散します。でも、次に会う時からはこんな熱烈な歓迎は出来ないと思ってくださいね」
それだけ言うと少女はかなりの速度でその場から去っていった。
「……食堂に来い。お詫びにコーヒーくらい奢ってやる」
「は、はあ……」
甲斐に連れられて達真は言われるがままに食堂へとやってきた。
関節を外された手足は状態自体は元に戻っていたがそこそこ痛みは残っている。その痛みがあの少女の実力の高さを思い知らせてくる。……尤もそれ以上にあの少女を関知させない程素早く一撃でぶっ飛ばした目の前にいるこの化け物先輩の強さに戦慄出来るのだが。
食堂に着いた。さっきまでのトトカルチョは完全にプロレス大会に変わっていた。
「あ、廉君。どこ行ってたの?」
そんなプロレス大会にまるで興味がなく女子同士での会話に花を咲かせていた最首が二人に気付く。それに合わせて赤羽、火咲、紅衣も振り向いた。
「……随分グダってるわね。あんたまさかまた負けたんじゃないの?」
火咲からの言葉が胸に刺さる。
「…………うるさい」
「本当に負けたんだ。でも、そこの人すごく強いから仕方ないわよ」
「この化け物に負けた訳じゃない。いや、勝てる見込みはさらさらないが」
「誰が化け物だ」
「俺がほとんど勝ち目がなかった相手を瞬殺して道場破壊したんですから十分化け物っすよ」
「……あ、すみません。ちょっと電話がかかってきたので」
言って赤羽が食堂から離れる。そして空いた席に達真が座り、思い切り披露のため息をはく。
「達真君大丈夫?」
「ああ。何か空手部の入部希望の人がいて腕試しをしたんだがめちゃくちゃ強かった」
「そこで何でそこの人がその入部希望をぶっ飛ばす訳よ」
火咲がストローをかじってると
「あ、何かジュース買ってくるね」
「ん」
紅衣が火咲のポーチからSuicaを取り出して自販機へと向かう。
「で?」
「矢尻、あいつはなんと言ったんだ?」
「……高等部からの新入生って言ってましたよ。空手部に入りたいとかで」
「……はぁ、」
ため息。
「最首は知ってると思うが、」
「えっと、もしかして……」
最首が何かを察する。
「矢尻。お前をボコボコにした奴はな、甲斐和佐って言うんだ」
「……甲斐ってまさか……」
「そうだ。俺の2つ下の妹だ」
「……道理でめちゃくちゃ強いわけだ」
達真が余計にため息をつく。
「でもどうして甲斐先輩は妹さんを倒しちゃったんですか?DV?」
戻ってきた紅衣がココアのペットボトルのふたを開けて火咲の前に置きストローを差す。
「それは……」
最首が何かを言おうとして言い淀む。
「今から3年前。この学校の近くの無人発電所で火事があったことは知っているか?」
「はい」
ついさっき話題になったばかりだ。
「それはな、俺達兄妹がやったことなんだ」
「……は?」
甲斐の言葉に達真、火咲、紅衣が疑問の表情を作る。
「俺達が2年生だった頃に友達集めて近くの無人発電所で肝試しをすることになったんだ。そこであいつのいたずらで火災が発生して大変なことになった」
「……それがどうしてあなたのせいなのよ」
「あいつが何かをしようとしていたことは気付いていたからな。状況が状況だからただ脅かすだけだと思ってた。だからそれに乗っかって集めた友達を誘導して……結果として死者は出なかったがほぼ全員やけどで大変なことになった」
甲斐がコーラを一気のみする。と、
「当時はマスコミとかひどかったんだがな」
斎藤がやってくる。
「まだ子供がやった事って事もあって甲斐達の顔は出なかった。ただそこそこここの学校もダメージ受けたみたいで次の年度の入学者はほとんどいなかった。まあ、ちょうどお前達の時代だな」
「……まさかそこにつながるとは」
「……あんたはその件で妹さんを毛嫌いしてるってわけ?」
「……まあな。ただのいたずらでどんな災害が起きるか」
「……それに、」
斎藤が何かを言おうとした時、甲斐がその脇腹を小突く。
「はいはい」
「?」
再び疑問の達真達。それを無視して甲斐は続ける。
「どうして今更俺のところに来たのかが分からない。しかも矢尻にちょっかい出すとは何がしたいのか……」
「和佐ちゃん、仲直りしたいとか?」
最首の控えめな発言。甲斐は一瞬すごい顔になる。
「その割にはその人、ものっそい一撃でぶっ飛ばしてましたけど。青龍とかって技で」
「あ、馬鹿」
甲斐があわてて達真をどつこうとするが
「……うわ、妹相手に青龍使うとか最低すぎる」
「廉君は数少ない肉親を減らしたいとでも思ってるの?」
「……いや、そんなわけではないけど……」
「おもっくそ連続で打とうとしてましたよね?」
「おい矢尻後輩。何か恨みでもあるのか?」
「ないとでも?」
にらみ合う両者。ただ今日の甲斐は妙に殺気が含まれているので根負けすることにした。
「でもそっか。和佐ちゃんここに来るんだ。本当なら3年前に来るはずだったもんね」
「あの、甲斐先輩」
紅衣が不安そうな目で見てくる。
「私達、和佐さんと仲良くしたらだめですか?」
「いや、そう言うわけではないが……」
見つめられて甲斐は深いため息をつく。
「あまり俺と絡ませてくれなければいいや」
今度は甲斐の方が根負けするのであった。
そして一週間後。
「宣告通り、お世話になりますね。お兄さま」
「………………まじかよ」
新入生が学生寮に入ってきた。そして甲斐の部屋に和佐が荷物を持ってやってきたのだった。男女だが実の兄妹だから問題ないと認識されたらしい。こうしていつぶりか思い出すことも出来ない過去以来に甲斐兄妹は同じ部屋で暮らすことになったのだった。
・4月。新しい生活が始まる季節。円谷学園にも新たな生徒が何人も入ってきた。理由あって両親がいない事が多いため、一概に喜ばしいことでもないがそれでもどこか在学生は浮き足立っていた。約一名を除いて。
「へえ、死神さんはまた女の子と一緒に暮らすことになったんだ」
道場。久遠が稽古を受けながらにやにやと甲斐に言う。中学生になった久遠はとりあえず大倉道場に在籍はしているが甲斐の下以外には通っていない。ちなみにテニス部に入ったらしい。
「……あまり愉快な話じゃないがな」
甲斐はスマホでメニューを考案しながら極めて不機嫌そうに答えた。
「死神さんどうしたの?」
「あまり仲良くない妹さんと同じ部屋になったのよ」
「へえ、死神さん妹がいたんだ。久遠ちゃんと同い年?」
「3つ上。中学卒業してから来たみたい」
「ふーん、」
久遠はまだ何か言いたそうだったが甲斐は本気で嫌そうにしていたので続けないことにした。
「そんなことはどうでもいい。それより赤羽も久遠も次は西武大会だ」
「西武大会……交流大会の次のランクでしたね」
赤羽が歩み寄ってくる。
「そうだ。3の倍数月にある交流大会に次いで4の倍数月にあるのが西武大会。4月、8月、12月と年3回ある」
「じゃあ今月あるじゃん。それ目指すって事?」
「いや、今月は出ないでもらいたい」
「え?どうして?」
「西武大会には交流大会でベスト8以上に進出した者だけが参加できる。もちろん優勝も含まれる。一年に交流大会で優勝した奴が4人増えていく中、西武大会で優勝できるのは年に3人だけ。交流大会で優勝した奴がそのまま次の西武大会で優勝したってケースは皆無に等しい。俺ですら準優勝だった。以前にも話したかもしれないが西武大会は最初の壁なんだ。誰でも参加できる交流大会でベスト8に残れれば西武大会には参加できる。けどその次のカルビ大会に参加できるのは優勝者と準優勝者のみ。入り口は広いが出口は極めて狭い」
「よく分からないけど、死神さんは久遠ちゃん達じゃその大会でまともな勝負が出来ないって言ってるの?」
「その可能性も十分あり得る。交流大会でベスト8入りした奴でも何回もこの西武大会で揉まれればかつての交流大会で優勝くらいは余裕で出来るだろう。つまり西武大会の出場者は最低でも交流大会で優勝できる程度の実力者しかいないと考えていい。並の交流大会参加者より遥かにレベルが高いのは認めるがそれでも今の二人が西武大会でいい成績を収められる可能性は低い。ましてやカルビへの切符を手に出来るとは思えない」
「……でも次8月なんでしょ?それまで大会に出ないのはちょっとつまらないかな?」
「甘えるな。西武で勝てず、しかし勝つために一年間特訓に特訓を重ねて練習試合を何回も行うってストイックな奴だっている。何度も言うが西武大会は交流大会ほど甘くはない。ほぼストレート勝ちだったお前達であっても場合によっては一回戦で負けることもあり得る。赤羽は遠山弟を覚えているか?」
「……はい。1月末に……兄さんを捕らえる作戦のために協力してくださった方ですね」
「ああ。あの遠山弟は西武大会クラスだがそれでも決して強い方ではない。西武で成績残したければ最低でも遠山弟には勝てる程度じゃなければいけない」
「……なら、もう一度練習試合出来ませんか?」
「何?」
「今度は三船関係なく、ただ大会に向けた練習試合として」
赤羽の提案。甲斐は意外な提案に少し考える。
「いいんじゃないの?廉君。伏見の人にお願いしてみたら?」
最首は賛同。
「……提案自体は悪くないと思うがどうやってするかだな。あの時は赤羽剛人を捕まえるのが目的の囮的な意味合いが強かった。だから伏見提督も協力してくれたが仮にも伏見総本山に所属しているようなレベルの奴をそうそうたやすく練習試合に使わせてくれるとは思えない。何より、大倉道場内でやれって言われたら何も言えなくなる」
言いながら甲斐は大倉内部で誰か練習試合にちょうどいいやつがいないか後で里桜にでも尋問しようかと企てる。
「一応私からもお願いしてみようか?」
「と言っても連絡先が分からないしなぁ……」
大倉会長経由なら連絡自体は可能だろうがそもそも大倉会長に連絡が出来るかどうかが不明すぎる。スタッフに一応頼んでみるのが現実的だろうか。
「……そう言えば」
甲斐は一人だけ心当たりがあった。
「……だからって普通ここまで来るか?」
町外れのキャバクラ。いつものように来客していた雅劉のところに甲斐達がやってきた。
「あの時一応見て置いたんでね」
「だからってお前さんはともかくここは女の子が来る場所じゃないぜ?ケツとか胸とか触られても文句言えないぞ?」
たばこを吸いながら雅劉がため息をつく。実際赤羽、最首、久遠は赤面していた。
「で、遠山に言えばいいんだな?」
「遠山というかは提督に伝えてほしいというか……」
「まあいいぜ。この前の奴を裏側抜きにして出来ないかって事だな。……そうだ、スマホの番号教えておいてやる。流石の俺も女子中学生にここに来られたら調子が狂う」
実際他の客やキャバ嬢もどこかぎこちなかった。
「甲斐、お前さんなら別に楽しんでもいいんだぜ?確か高3になったんだろ?そろそろ女を知ってもいい頃じゃないのか?」
「間に合ってますんで」
「……あ、そう」
最低限の会話をしてから甲斐達はキャバクラを後にした。
「もう廉君ってばこんなとこに来させるなんて……」
「雅劉さんならここにいると思って」
「……と言うかスタッフの人に総本山へと送ってもらえばよかったのでは?」
「……それもそうだな」
「もう死神さんってば本当はここに来たかったんでしょ?久遠ちゃんがサービスしてあげよっか?」
「久遠。小学校ならともかく中学以降でそう言う事したら冗談じゃ済まなくなるぞ」
「いやまだ久遠ちゃん12歳だし。中学1年生だし」
「……それを食べ頃とかいう奴だっているぞ」
「へ?どういうこと?」
「久遠は知らなくていい話です」
赤羽が久遠の頭をなで、最首と一緒に甲斐の足を踏んづけた。
甲斐がキャバクラに行っている間。達真は食堂でぼーっとしていた。
蒼穹が逝去して以来、どこか紅衣とも距離が出来てしまっている。そして妙に空手にも精が出ない。一応空手部そのものは和佐のおかげもあって何人か新入部員が出てきて達真は部長と言う肩書きになったのだが。
「……暇してそうね」
「お前か」
そこへ火咲が来た。
「待望の空手部員がたくさん入って来たのにつれない顔してるじゃない」
「ほとんどはあの死神妹目当てだ。勝手に人の部活をアイドルにされたら困る」
「でもあんたその妹に一度も勝ててないんでしょ?」
「……何が言いたい?」
「気になってたのよ。どうしてあんた道場通わないわけ?」
「……俺も昔一時期だが大倉道場に通っていた。小学校時代だがな。けど、事情があってやめることにしたんだ」
「この学校に通っているから?でもあの人のようにこの学校に通いながらも道場通いはそこそこいるじゃない」
「……」
「あんたに足りないのは一緒に強くなる相手よ。一人で何してたって机上の空論にしかならないでしょ」
「……知ったようなことを」
しかし、決して支離滅裂を言っているわけでもない。この前の和佐との組み手で達真は自分に出来ることを全部やれたとは思っていない。何度も練習した技がしかし体が着いていけずに出来なかったという瞬間はいくつかあった。
「まさか赤羽美咲のように死神先輩の弟子にでもなれという気か?」
「それは、」
「それはやめた方がいいっす!!!」
突然の大声。二人揃って振り向けばそこに里桜がいた。当然達真も火咲も面識はない。
「……誰だ?」
「あ、俺燐里桜って言います。死神先輩の一番弟子っす」
「あの人の……俺は矢尻達真だ」
挨拶する二人。しない火咲に視線がいく。
「私も?男同士でしてればいいじゃない」
「こいつは最上火咲。まあ、空手には関係ない。ところであんたはどうしてここに?この学校では見かけないと思うんだが」
「そうっすよ。俺別の高校っすから。ただあの先輩にTSUTAYAにDVD返しにいけって頼まれてここに来たわけっす」
「……パシリか」
「あの人たまに昭和入るわよね」
遠い目をする3人。やがて里桜が達真の顔を見て何かを思い出す。
「いや、矢尻さんあんた昔大倉道場にいたっすよね?」
「え、ああ。小学校時代に」
「今いくつっすか?」
「今月から高1」
「俺とタメっすね。たぶん白帯時代に少しだけ会ってると思うっす」
言われて達真は里桜の顔を見る。言われてみればどこかで見覚えがあるような気がしないでもない。
「そう言えば最首先輩からこの学校で一人空手部をやってる人がいるって聞きましたけど矢尻さんの事っすか?」
「ああ。もう一人じゃなくなったが」
「そうっすか。ちょっとだけ話聞こえたんですけど一緒に稽古する相手を捜してるとか?」
「まあ一応」
「じゃあ俺の道場に来ないっすか?タメの奴結構辞めちまって」
里桜の発言に達真は少し心躍った。同い年と空手をやれる喜びなど感じるのは何年ぶりだろうか。
「今日この後稽古あるんすけど」
「……稽古費払えない」
「指導員のバイトとして入ったらどうっすか?少ないですけど一応給料も出るっすよ?」
「……考えてみたい」
達真はいったん間をおく。しかし、答えは出ているようなものだった。
「……断る理由がどこにあるのよ。すぐに行けばいいじゃない」
「それはそうなんだが何でお前が嬉しそうにしてるんだ?」
「別に。でも、何だかおもしろそうじゃない」
「……お前には関係ないだろ」
「彼女さんも見学どうっすか?」
「彼女じゃない。私、手使えないから見学もいらないわ」
火咲は力の入らない両手をぶらりと見せる。
「あ~、こりゃ神経っすかね?骨に問題はなさそうっすけど」
「あんた、見ただけで分かるの?」
「……あの人の弟子をやってると自分の体の怪我くらいは自分で診れるようにしておかないと……」
突然遠い目をした里桜。達真と火咲は顔を見合わせてからしかしどうともリアクションできなかった。
「boring」
女子寮。とある一室。そこには同じ顔をした少女が二人入寮していた。
部屋の前には「croce」と書かれてあった。
「退屈って言われても……」
対応するのはやはり同じ顔の少女。どことなくこちらの少女はまだ日本人に見えなくもない外見をしていた。対して、もう片方の少女はどこからどう見ても日本人には見えない。
「please do something」
「芸って……スマホがあるじゃない。ちゃんとシフル用に英語仕様のを買ったんだから使い方分かるでしょ?」
「I'm not asking how to use my smartphone.I'm saying I'm free.」
「だからそう言われても仕方がないよ。あと、ここはイギリスじゃないんだから英語で話しても私以外には伝わらない。確か翻訳アプリ入れてあったと思うからそれを使って日本語で話すようにして」
少女の言葉を聞いてシフルと呼ばれた少女はため息をついてからスマホを操作する。やがて、機械音で日本語が発声された。
「リッツ、私達は日本の観光をしに来た訳じゃない。あの男を殺すために来た。せっかく同じ寮に潜入できたのだからさっさと殺してしまおう。何でそれをしない?」
対してリッツと呼ばれた少女は
「イギリスならともかく日本で殺人なんてやったら簡単に身元がばれるんだよ?シフルは一応赤羽美咲の監視と言う名目を持って日本にやってきて、その上でこの学校に潜入を果たしたんだから」
「私は三船所長に従いたいんじゃない。お父様と陽翼のために動いているんだ」
「そのお父様……クローチェ博士だってもう2年前に亡くなったじゃない。陽翼って人のことは私はよく知らないけど」
とは言えシフルから何度も陽翼なる人物の話は聞いている。かつて僅かな期間だけシフルの実家があるイギリスに在留していた、ラストネームが存在しない日本人の少女。そして、矢尻達真と言う人物に殺害されたらしき少女。自分はその事実を知ったシフルからクローンで生み出された三船の人造人間に過ぎない。記憶の継承はされているはずなのだが情報としてしか過去のことは知らずにいる。
「いい?リッツ。陽翼はね、」
「……はぁ、」
陽翼という単語を出すとすぐこれだ。我が母にして我が姉はレズビアンじゃないかってくらい彼女のことが大好きで仕方がない。たまに彼女のことを思い出しすぎて興奮した結果自分が相手になることもあるほどだ。
黙っていれば異国のお嬢様と言った風貌なのに勿体ないと思ってしまう。
「……ちょっと散歩してくる。くれぐれも軽率な行動は慎んで」
リッツは恍惚の表情で思い出話をするシフルを置いて部屋を出た。
入寮して一週間。おおよその地理は頭の中に入れた。シフルの標的である矢尻達真の居場所もとっくに判明している。やろうと思えばいつでもやれる状況は揃っている。しかし、自分のようなクローン体は主人の指示には逆らえない。この場合の主人はシフルではなく自分を生み出したクローチェ博士と三船所長だ。だが、クローチェ博士はリッツを生み出してすぐ亡くなってしまった。そして三船所長はいちいちクローン体の事など覚えていない。少なくともリッツはクローチェ博士より矢尻達真を殺害せよと言う命令は受けていないのだ。上位種であるシフルの指示には極力従うように設定されているがそれでも日本の法律の方が優先されるというのは理解している。
「はぁ、」
誰か生まれて2年も経たずに自分と同じ顔であっても一切躊躇せずに襲ってくるレズビアンを上司に持ちながらその上司のために中学校に通うことになった自分を慰めてほしい。そう思った時だ。
「……あ」
「……え」
廊下。食堂から一人歩いてきた火咲と目が合った。それが合図だった。
「かわいいいいいいいい!!!!」
まるで雷でも落ちたかのようにとんでもない勢いで床を蹴って爆進する火咲。対してリッツはただ恐怖からの反射だけで全力で逃げ出す。
何だあの爆乳美少女は。何だあの物の怪は。何で常時性犯罪者の視線で自分を爆速で追いかけるのか。何も理解できない故の恐怖だけがリッツの心を支配して足を動かす。
一本道の廊下じゃ向こうの方が足が速すぎてこちらが圧倒的に不利。そう判断したリッツは窓を開けて飛び降りる。普通の人間ではない、強化された肉体を持つリッツは3階から飛び降りても全く動じないまま着地して中庭へと逃げ込む。
「……はあ、はあ、」
10分走り続け、もう大丈夫かと周囲を見渡しながらベンチに座る。と、
「み~つけた」
突然空から火咲が降ってきて膝蹴りの要領でリッツが座っていたベンチを粉砕する。
「……ひいっ!!」
今まで出したことのない純然たる恐怖が由来の悲鳴を上げてリッツが後ずさる。それを決して文章で表現できないような表情をした火咲がでげへでげへ言いながら迫ってくる。
「あ、あの……」
「りっちゃんつっかまえった」
恐怖で全てを諦めたリッツをハグする火咲。
「……わ、私のことを知っているのですか?」
少なくとも同じクラスにはいなかったはずだ。
「昔見たことあるの」
「昔って……あなたもしかして三船の……?」
しかし、自分達以外に三船の使いがこの寮に潜入していることは聞いていない。
「まあ一応?どうしてあなた達がここに来ているのかは知らないから別に邪魔するつもりはないよ」
「……とりあえずハグをやめてもらっていいですか?綺麗な体ではありませんがかといってこう何度も汚されるのはクローチェ博士に申し訳ないので」
「ぶう。りっちゃんは全然汚くないよ」
火咲は全然離すつもりがないらしく、リッツも下手に抵抗したら却って危ないと悟ったのかもはや人形のように動かない。
「三船の製品番号は?」
「……AKBN-EX-002、リッツ=黒羽=クローチェ」
「……へえ、例外個体なんだ」
「……私は他のクローンシリーズと違って赤羽美咲から作られたわけじゃないので」
言いながらもし、この妖怪が三船に関係しない人物だったら即刻処分されるようなことを話してるなぁと自覚する。とは言え番号だけで例外個体だと見抜いたのだから三船の赤羽計画に関係している人物だというのは間違いないだろう。それにこの少女からはどこか懐かしさを感じる。……恐怖から来る感情のバグかもしれないが。
「で、目的は赤羽美咲の監視?」
「……一応は」
「本命は?」
「……私のクローン下であるクローチェ博士の長女……シフル・クローチェの指示に従ってある人物の抹殺」
「それは?」
「矢尻達真」
「……」
さすがに火咲も表情を変えた。リッツを抱きしめながら頭の中は少し混乱していると言っていいだろう。しかしどこか得心したかのようにすぐ妖怪フェイスに戻る。
「そっか。でもあいつ、私の獲物だから出来れば横取りしてほしくないかな」
「……シフルに直接言ってください」
「いいよ、案内してくれる?」
それから火咲に抱きしめながらシフルの部屋に向かう。
「リッツ?どこに行ってたの?」
部屋ではイギリスから持ち込んだのか少女マンガを読むシフルの姿。しかしそれも火咲の姿を見て豹変する。
「……あなたは……」
「やっほ。シッフルン」
火咲は片脇でリッツを抱きながら一瞬でシフルに詰め寄ってさらいあげる。
「あなたがどうしてここに……?」
「シッフルンがあの男を狙ってるって聞いて」
「……矢尻達真を知っているの?」
「あいつ、私の獲物だから。シッフルンには大人しくしててもらいたいかな」
「……そんなことは所長から聞いていない。私は私のやり方で矢尻達真を殺す。今回は私に譲ってほしい」
「……う~ん、さすがにシッフルンでもそれはちょっと許せないかな」
「コード19966」
「……!」
シフルのつぶやき。直後、火咲は脱力を感じた。思わずリッツを落としてしまうがそちらに気を蒔く余力はない。
「……今では私の方が上位種。それに本当に私は正式な命令を受けてここに来ているの」
シフルが指を鳴らすと、タンスからさらに二人の少女が出てきた。
「……白と青か。完成していたとは……」
「白の方は黒……つまりリッツと同時製作。青の方はつい最近クローチェ博士の遺した設計図からスタッフが完成させた。三船の方では赤羽美咲からこの青……青羽識を計画の主流にしようとしている。そうなれば赤の方の所属であるあなたには分が悪いでしょう。仲間割れをするつもりはないから今回はあなたが大人しくしていなさい」
「……くっ、」
そして火咲は青羽識によってカプセルの中に幽閉された。
夜。稽古を終えて、雅劉との約束も取り付けて甲斐達が帰ってくる。
と、ちょうど達真も稽古を終えて帰ってきたため寮の前で鉢合う。
「お前も稽古か」
「ええ、まあ」
「あれ、でもこっち空手部じゃないよね?ランニングでもしてたの?」
「いえ。実は俺も今度からまた大倉に復帰しようと思って」
達真の発言に最首は驚き、甲斐は表情を変える。
「ほう、正式に俺の後輩になるつもりか。なら弟子になった方が早くないか?」
「いや、あんたの弟子になるのは死を意味すると直接教えてもらったのでパスします」
その台詞を聞いた甲斐は即座にスマホを出して愛弟子へのメールを作って送信した。
「矢尻君、大会はどこまで行ったの?カルビ?」
「いや、ギリギリでカルビまではいけなかったので西武です」
「へえ、大会にはいつ出るんだ?」
「8月を目処にしています」
「ほほう、ほうほう……」
甲斐の表情の変化に赤羽と達真が悪寒を覚える。
「あの、何か?」
「いいことを思いついたぞ。今度赤羽と遠山弟が練習試合をする。それで赤羽が勝てれば4月の大会にお前達3人が出るんだ」
甲斐の発言に赤羽も達真も呆然。
「4月ですか?久遠は早い方がいいって言っていましたが私は8月でも……」
「お、俺まだ今日復帰したばかりなんですけど……」
「てか廉君今日ものすごい反対してたよね。4月の参加」
三者三様。しかし甲斐は続ける。
「確かに先月交流大会で優勝した程度の実力じゃ西武を勝ち進めることは出来ないだろう。それでも遠山弟に勝てるくらいの実力があればまあ、出来ないことはないだろう」
「……え、もしかしてだけど、赤羽ちゃん久遠ちゃん矢尻君全員を戦わせる気?いくらなんでも遠山君厳しいんじゃないの?」
「いや、遠山弟とやらせるのは赤羽だけでいい。その実力があればあとは赤羽と矢尻とで十分。4月は始まりの月だからな、暗い気持ちのまま過ごしたくないし」
「……それが目的じゃないの?」
最首にジト目で見られる。と、
「まるで近くに暗い気持ちになる要素があるとでも言いたげですね?」
そこへ和佐がやってきた。
「出たな元凶」
「実の妹を捕まえて第一言がそれですか?……矢尻さんが大倉道場に所属することになったそうですね」
和佐が達真の方を見る。
「……別に空手部が嫌だって話じゃない。ただ、なんか思ってたのと違う気がしたから少しだけ空気を変えたいだけだ」
「まあ、私のせいで多少変な人が集まるようになりましたけど決して素人な訳ではありません。中にはあなたに迫るほどの実力者もいるじゃないですか」
「まあな」
「なら……」
「はい、そこまで」
達真と和佐の間に甲斐が割って入る。
「そんなに言うなら先にこっちの方を決着しようか」
「どう言うことですか?」
「明日の放課後。交流戦をやろうじゃないか。そっちからは好きなのを出せばいい。で、こっちからは赤羽、久遠、矢尻の3人を出す」
「え、おい」
咄嗟につっこみを入れる達真。払って甲斐が続ける。
「そっちも3人出す」
「なるほど。で、負けた方はどうするんですか?」
「別に?こっち側から要求することは特にない。単純に実戦経験がほしいだけだからな」
「……分かりました。ではこちらも特に望むことはありません。空手部からも誰か3人出てもらいましょう。部員の問題から女子を出せるかは不明ですのでそこはあしからず」
「分かった」
「……それでは」
軽く会釈をしてから和佐は去っていった。
「……先輩さ、俺を軍団の一員にしないでくれませんか?」
「お前のためだぞ?お前が立ち上げた部活だってのにそのお前が部活を放り出して大倉道場に戻るからあいつが怒ってるんだ。それに確かにあいつのせいで変な部活になってるのかもしれないがお前がちゃんとお前の部活で戦友になれる奴だって思えるような機会を作ってやったんだ。感謝しろ」
「……意味わかんないっす」
ため息の達真。しかし甲斐が何を言いたいのかは微妙に理解できた。
要は、達真は戦友というか実戦経験ほしさに道場に行ったのだ。しかし実際には部活というものを達真自らの手で作って、部員も集まっている。それを頼りにしてもいいんじゃないかという話だ。
しかもそれに加えて自分の教え子達の実戦経験までフォローしようと言う魂胆。全く、食えない先輩だとしか言いようがない。
「赤羽は今日中に久遠にこの事伝えておいてくれ。明日の放課後、ここに来てもらうことになるから」
「分かりました」
「じゃあ、今日は解散だな。……くく、今月はまあまあおもしろくなりそうだ」
笑う甲斐。その15分後。
「……やっぱり面白くないかも」
部屋。競輪の番組を見て熱狂している和佐の姿を見て深いため息をつくのだった。
・4月最初の金曜日。授業らしい授業も行われず新しいクラスに馴染むためのレクリエーションがメインとなるこの時期も今日で最後。次の月曜日からは新鮮味はやや薄れてまたいつも通りの日々が始まってしまう。
「好きです!つきあってください!」
「……僕、語尾ついてる子じゃないと駄目なんだ」
「そ、そんな……そんなこと言わないで……えっと、えっと、言わないでぷり!」
「二毛作は辞めるんだ!!」
「ぷり~~!!」
とか言う謎の会話を聞きながら駐車場で久遠を待つ甲斐達。やがてスタッフの車に乗って久遠がやってきた。
「へえ、ここが皆が通ってるところなんだ」
「そう言えば久遠が来るのは初めてだったな」
「うん。美咲ちゃん達がいるなら久遠ちゃんもここに進学すればよかったかな?」
久遠の発言に赤羽がハグ。この二人はいつからそんな関係だったんだと疑いの目をしながら甲斐はバイブしたスマホを手に取る。
「……ん、分かった」
「矢尻君から?それとも和佐ちゃんから?」
「……いもーと」
そして甲斐、赤羽、最首、久遠が空手部の部室こと普段は柔道部が使っているアリーナへと向かった。
「ようこそ我が空手部へ」
襖を開けるとメイド服姿の和佐がいた。
「うわ、かわいい女の子!もしかしてこの子が死神さんの妹ちゃん!?」
「………………まあな」
「はじめまして久遠さん。甲斐和佐です」
「かずちゃんだね。久遠ちゃんは、久遠ちゃんだよ」
ほほえみ合う久遠と和佐。それを甲斐と赤羽は難しい表情で見ていた。
「……で、その辺の奴らが空手部か」
甲斐が和佐の後ろを見る。決して陽気とは言えなさそうな、しかし脆弱とは言えそうにない男子が8人そして女子が一人並んでいた。
「女の子もいるんだ」
「彼女は和田純華。中等部1年生。今回参加するメンバーに含まれています」
「……久遠ちゃんと同い年なんだ。じゃあ、その子の相手、久遠ちゃんがもらおうかな?」
久遠が純華に視線を送ると純華が一歩前に出る。
「よくも私のかずちゃん先輩を……」
「え?あれ?そっち系?」
若干引く久遠をにらむ純華。
「……矢尻はどこだ?」
「ここです」
隣の部屋から達真が出てきた。既に胴着姿だ。
「隣に更衣室があるんで使ってください」
「矢尻さんの相手は村上さんにお願いします」
「押忍、my姫」
「……やっぱ姫活動してんじゃん」
甲斐が鼻で笑う。しかし、村上と呼ばれた男はいろんな意味でただ者ではなさそうだった。
「最後に赤羽か」
「……」
赤羽が一歩前に出ると、
「木場さんで」
木場と呼ばれた気むずかしそうな少年が一歩前に出る。
「試合の順番はこのままでいいな」
甲斐が言うと、その場にいたものは久遠と純華を残して部屋の中心から離れる。
「……さっさと着替えてきたら?」
「そうだね。ちょっと待っててね。行こ、美咲ちゃん」
「……そうですね」
僅かな緊張を侍らせて赤羽は久遠と共に更衣室へと消えていく。
やがて5分程度で胴着姿の二人が出てきた。
「……久遠、がんばってください」
「久遠ちゃんなら大丈夫。美咲ちゃんもがんばってね」
赤羽と別れて久遠が再び純華の前に来る。
「ルールは西武大会の試合同様、本戦3分延長戦3分再延長戦3分とする。インターバルはそれぞれ30秒ほど」
甲斐が説明して主審として立つ。
「死神さん、主審似合ってるよ!」
「久遠、試合が始まるから私語は慎め」
「はーい。もう、そー君みたいだなぁ」
「では、正面に礼お互いに礼構えて……はじめっ!!」
甲斐の宣言、和佐がストップウォッチを起動して、純華が久遠へと蹴り込む。女子らしいスピードに長けた初動、しかしその蹴りは久遠には届かなかった。
「せーくーけん。純華ちゃんに破れるかな?」
「……無駄口ばっかり……!」
接近した純華が手の届く距離でしかし何度も前蹴りをまるでジャブのように連続で繰り出す。女子が足りない力をスピードだけでなく手数で補う戦術のようだ。しかし、久遠の制空圏には全て弾かれてしまう。
久遠の制空圏は一ヶ月前よりかもかなり精度を増していた。レベルが違う大倉道場での稽古を続けるよりも赤羽という近いレベルの女子がいる道場で稽古を続けたことによる成果だ。このレベルになると今赤羽と戦っても先月と同じ結果にはならないのではないかと甲斐は睨んでいる。
「ほら、どうしたの?純華ちゃん」
「……お兄さん!!」
「え?俺?」
組み手中に突然視線と声を向けられて甲斐が思わずうわずった声を上げた。確かに純華が明らかに慕ってそうな和佐の兄なのだから問題はないかもしれないが最首が吹き出しそうになってるのは少しいらついた。
「今は組み手中だ。私語は慎め」
「それをこの子にも言ってください!」
「……久遠。イエローカードだ」
「ええ!?何で!?」
「前々から思ってたがお前は組み手中の私語が多すぎる。交流大会でもそうだったがいつ退場処分になってもおかしくないぞ」
「……えぇ~。久遠ちゃん喋らないと調子出ないんだけど」
ぶすったれる久遠。そこへ迫る純華。純華の攻撃は相変わらず久遠の制空圏に阻まれるがその制空圏は見て取れるほどに劣化していた。
どうやら久遠のやる気が薄れた結果制空圏の質が落ちているようだ。
「まあ、久遠ちゃんも日常生活でまで制空圏使ってるわけじゃないだろうからね」
「使うつもりでいる間は無意識且つフルオートで発動するけど、そのやる気が薄れたら制空圏は発動しない……」
「そう。本当の達人というか日常生活に支障が出るレベルの世捨て人ならそれこそ寝てる間にすら高レベルの制空圏を使ってるんだろうけどそうはなりたくないよね」
最首と赤羽が同意する。その視線の先の久遠は明らかにげんなりしていたがしかしそれでも純華の攻撃は全く届いていなかった。
「くっ!」
純華は焦燥する。明らかに相手のやる気は落ちている。それなのに自分の攻撃が全く届かない。制空圏を知らない純華にとって今の久遠は何をしているのか全く理解できない超常現象も同じだった。目を瞑ってさえいるのに自分の攻撃がまるで申し合わせたかのように弾かれてしまい、そのたびにこちらの手首や足首が痛む。攻撃しているのはこちら側なのに相手方には全く攻撃が届かずに攻撃したこちら側の方が手足を痛めていく、まるでゲームのような展開が今目の前で起きているのだ。
「……はぁ、」
そして、1分が経過して久遠がため息をついたと思ったら下段の一撃で純華の体が宙を舞った。
「あれは……」
赤羽が胸を押さえる前で空中の純華に久遠が追いつき、その鳩尾に自身の膝を添えて着地する。
「膝天秤!」
「……っ!!」
落下の衝撃と急所への膝蹴りが同時に炸裂し、純華は着地と同時に悶える。
「……ここまでだな」
甲斐がつぶやくと同時、和佐がやってきて純華を抱き抱えた。
「はい。この勝負はこちらの負けです」
甲斐兄妹の宣言に会場内がざわつく。同い年の女子同士の試合で誰がここまで一方的な展開になると予想しただろうか。甲斐はともかく最首や赤羽でもここまでとは予想できずにいた。
「……怖いものですね、馬場家の天才少女は」
そう呟くだけで手一杯だった。
「……あんなに強いのか」
達真も呆然としていた。自分より3つ下、しかもまだ白帯なのにその実力は自分と遜色ないのではないかと疑えるほどだ。
「矢尻、次はお前だぞ」
「お、押忍!」
久遠と交代するように達真が前に出て、向こうから村上がやってくる。
村上。以前から達真が目を付けていた1つ下の後輩だ。しかしその身長は180を易々と越え、しっかりと黒帯を締めている。対して自身はその一歩手前の茶帯。ブランクもある。
「……弱気になるな」
己の頬を張り、意識を集中させる。
「準備はいいな?正面に礼!お互いに礼!構えて……はじめっ!!」
甲斐の号令に合わせて両者が前に出る。そのスピードは村上の方が上だった。達真が放った上段回し蹴りごと達真をふっ飛ばさんばかりのパワー。実際に吹き飛ぶのは何とか持ちこたえた達真だが全く間隙を与えないと言わんばかりに村上の追撃が続く。
「……」
甲斐は小さくため息。村上の実力は確かにそこそこある。西武で優勝してもおかしくないレベルだ。明らかに達真より格上だろう。しかしその達真が最初から諦めが入ってるように見える。少なくとも試合に対して積極的ではない。達真の攻撃が全く届かずに村上に一方的にボコられているのは制空圏とか手足のリーチの違いなどではない。明らかに達真の意識が遅れているからだ。
「くっ、」
何とか相手のラッシュ圏内から抜け出して一息つく達真。まだ開始して30秒程度しか経っていないのにもう息が上がっている。
「……俺が勝ったら、」
「ん?」
突然村上が声を投げてきた。
「あんたには部長の座を退いてもらう」
「……何だって……」
「俺が、部長になる!」
意気込み、村上は突進。将棋の棒銀のように前に進みながら攻撃を続けるムエタイスタイル。対して達真は防御すらおぼつかず、面白いように攻撃を受けては体力を激しく減らしていく。
「はあ……はあ……」
時計を見る。まだ試合開始してから……
「矢尻!!!」
「……!」
突然の甲斐の声。
「試合に集中しろ!!相手に失礼だ!!!」
「…………押忍!」
それは意識の切り替えと言うには余りにネガティブだった。どうにでもなれという思いが強いスイッチ。しかし、思い切りのいい諦めだ。故に村上の攻撃をどれだけボコボコ食らおうとも下がらず隙を見てはカウンターを入れていく。さらに時折は回避と同時に下段を織り交ぜる。
「……一拍子……」
甲斐が驚きの声を上げた。村上も僅かに表情を変える。10:0のペースだったものが9:1くらいにはやや達真が押し返してきていた。
「コォォォォォォ……」
やがて達真の呼吸が変わる。息吹と言う空手独特の呼吸法だ。それ自体に特に意味があるわけではない。だが、心なしか達真の動きは疲労を感じさせない流麗さを帯びてきていた。
「……なるほど」
甲斐が小さく呟く。これまで達真はたった一人で稽古を重ねてきた。組み手もしないただ基本稽古だけを。それ故に組み手には不慣れな部分が多いし、何より久々の組み手だろうからいろいろ不足がある。しかし、その中でも褪せないのが型の綺麗さ。当然だが基本稽古に無駄なものは一切ない。一見使い道の分からない技や構えであっても全ては実戦経験から必要な動きだと導き出されて取り入れられたものだ。基本稽古以外にも移動稽古、見取り稽古、応用稽古など様々な種類の稽古がある。その中で基本稽古は誰もがその身に覚える基本中の基本。当然後に覚えることになる移動稽古や応用稽古用の型や動きの方が難易度が高く、基本稽古は下に見られがちだ。しかし、そこに無駄はないのだ。
「……」
村上は目眩すら覚えてきた。支離滅裂とは言わないばかりも明らかに実戦慣れしていない動きをしていたと思えばいつの間にか基本稽古で誰でも習うような動きに変わった。しかもそれで先ほどよりも形勢がよくなってきている。
征遠鎮。その言葉が頭に出た。それは黒帯=初段になるための試験で試されることになる型だ。それ以前までの型と違い、別段変わった動きをするわけではない。動きの大半は基本稽古からの流用だ。しかし黒帯を締めるために必要な型だけあって難易度の高い型になっている。何故ならば毎日基本稽古を行っていたとしても試合をこなせばこなすほどに体の動きは基本から遠ざかり、己特有のものになるからだ。そうした末に基本に忠実な型を、しかし黒帯にふさわしいまでの体力、技術を以て実施するのが征遠鎮となっている。当然黒帯を締めている以上、村上も征遠鎮を扱える。だが、そうであっても達真のその動きには中々慣れない。
「……だが、」
甲斐は決着の時を予測した。最終的に7:3くらいまで盛り返せたが180秒と待たずに達真は膝を折った。
「そこまで。この勝負は矢尻の敗北とみなす。よって勝者は空手部の村上!」
「……ま、待ってくれ……俺はまだ……」
立ち上がろうとする達真だが思ったように体が動かない。
「オーバーヒートだ。どれくらいぶりかは知らないが長期間まともな試合をしていなかったが故にもう体が限界に達している。……格上相手によくやった方だとは思うがな」
「…………そんな、」
「……」
と、村上が達真を引き起こした。
「村上……」
「ハンデがあったくせに勝った後なんて条件付けても格好悪いだけだからな」
「……聞いてもいいか?」」
甲斐が村上に声をかける。
「押忍、何でしょうか?」
「どうしてそこまでの実力があって大倉道場に所属していない?十分カルビ大会くらいにまでなら出場できるだろう。と言うかその黒帯はうちの道場のものだ。だが、矢尻同様にお前の姿は見たことがない」
「……あなたは俺達空手部の面々をどう見ています?素人じゃないのは分かるでしょう?」
「……西武で止まった連中か」
「……その通りです。交流大会を1回目や2回目で勝ち抜けたとしても西武の壁は厚い。ベスト4まで行った奴が次の大会では一回戦負けすることも珍しくない。一度や二度負けたくらいならともかく年3回しかないのに5回も6回も負け続けたらどうなるか」
「……はっ、それで諦めて半グレ。で、うちの妹に惑わされてまた畳の上に戻ったって事か。情けないクソ野郎どもだな」
「……何とでも仰ってください。俺達はあなたのように調子よく勝ち進めるほど強くない」
「……お前は違うんじゃないのか?」
「……どういう意味ですか?」
「お前の実力なら西武程度なら越えられるはずだ。性根が腐っているようにも見えない。そしてこの学校にいる。つまり、お前には実力があった。そして一時期空手をやめなくちゃいけない何かもあった。だが今はない。そんなお前がどうして腐った奴らの代表になりたいんだ?うちの愚妹に騙されている訳でもなさそうだし」
「……怒」
一瞬和佐から炎が上がったような気がしたが気にしない。
「あなたは何が言いたいのですか?」
「何かのためにと自分を犠牲にしているつもりの奴ほど勿体ないことはない。人は人であって、星にはなれないんだぞ」
「……覚えておきます」
それだけ言って村上は達真を隅まで運んだ。
「……最後だ」
甲斐の宣告。それに合わせて赤羽と木場が前に出る。
「一勝一敗だね。美咲ちゃんが勝てば久遠ちゃん達の大勝利だね」
「まあ別に勝っても負けても何も起きないけどね。試合することこそが目的なんだし」
久遠と最首の声を背に赤羽は木場の様子を窺う。自分より少し年下だろうか。しかし先ほどの甲斐と村上の話を聞くに西武大会に出場しているメンバーだ。腕試しにはちょうどいい。
「正面に礼!お互いに礼!構えて……はじめっ!!!」
甲斐の号令により、両者同時に前に出る。木場の方が力強く、しかし赤羽の方が素早く蹴りを放った。
「……へえ、」
和佐が感嘆の声を上げた。
木場は赤羽の蹴りを受けながらも怯まず、何かぶつぶつ言いながら赤羽に迫る。
「……?」
ノーガードで迫り来る木場に前蹴りを放つ。それを胸で受け止めた木場は赤羽の足をつかみ、一気にその関節をねじ曲げんばかりに足を捻りあげる。が、予想以上に赤羽の足が頑丈だったのか、折れない。
「1秒以上拘束につき、木場に減点1!」
甲斐の裁定を受けて木場は赤羽の足を下ろす。直後、狂ったように赤羽に対して攻撃を仕掛ける。達真、赤羽には遠く及ばない基本のなってなさだ。
「……なんだあいつ」
甲斐が疑問する。木場の帯はオレンジ。赤羽と同じだ。つまりは素人に毛が生えたかどうかって程度なのだろうがそれにしたって動きに一貫性がない。まあ、この学校の生徒である以上はどこかしら問題がある奴だと言うことなのだろう。いきなりルール違反をする程度には予想できない奴だがしかし和佐が赤羽の対戦相手に選んだのだからただエキセントリックなだけではないはずだ。
「……」
そんな赤羽は木場の動きに驚きながらも惑うことなく疑似制空圏で対応していく。見つけた隙に下段を打ち込んでは相手のバランスを崩し、跳躍。
「せっ!!」
木場の右肩にかかと落とし。
「…………」
かかと落とし。有名な技ではあるがしかしメジャーではない。通常の蹴りとは違ってかかとを落とすために相手より背が高いか、今の赤羽のように跳躍をしないと行けない。それでいて狙えるのは脳天か、肩しかなく外れやすい。その分命中すれば落下エネルギーを踵という鋭角で打ち込めるだけあって、肩に命中すればしばらく激痛で腕が上がらなくなるだろう。
だが、木場は容赦なく右腕で攻撃を続ける。その異様に甲斐は気付いた。
あの木場という男は痛覚がない。それだけでなく色々感覚が狂っているのだ。自分の肉体を完全に制御できていないから基本稽古での動きもまともに出来ないが、痛みに怯むことがないために常に攻撃だけで事足りる。
この世界に於いて感覚異常はそこまで珍しい状態でもない。何せ実戦なのだから打ち所が悪ければ甲斐の右足のような一生ものの障害を負うこともあるし、早龍寺のように全身不随で人生そのものをほぼ失ったも同然な結末を得ることもある。そこまで行けば基本的に空手の道に復帰することは出来ないだろうがたとえば先ほどのかかと落としを肩に受けたことで腕が麻痺する事もケースとしてはなくはない。腕が全く動かないならともかく麻痺して感覚が鈍いだけならそのまま次の試合に臨むこともあるだろう。
「……」
今までにない恐怖に赤羽はやや怯む。相手の攻撃は全く通っていないのにこちら側が追いつめられているように思える。先ほどの久遠の逆の状況だ。これも和佐の差し金なのだろうか。
「……攻める」
赤羽はこれ以上怯まなかった。感覚がないと言うのなら動けなくなるまで叩けばいい。木場の攻撃は確かにめちゃくちゃだが所詮は人間の動き。完全にランダムに見えて法則性は必ず存在する。正拳突きもどきは腕を内側に曲げてから行う。ならば防御は簡単だ。正拳ではなく裏拳だと思えばいい。前蹴りは軸足でわずかにけんけんしてから行う。助走はつくかもしれないが隙だらけの欠陥技だ。
「せっ!」
赤羽は木場の蹴りに合わせて下段を放ち、木場の軸足を穿つ。腕を内側に曲げれば自分の方から腕を出して攻撃を外側に逃がし、膝蹴りを打ち込む。この応用で相手が何をしても赤羽はカウンター以上のどぎつい攻撃を打ち込んでいくことで見るからに木場の動きが鈍くなっていく。
木場が何をしても赤羽はもはや先手を打って攻撃を加えることで木場が動けなくなるまで……
「はい、ストップ」
「……っ!」
攻撃を加えようとした赤羽を甲斐が止めた。
「またあの時の過ちを繰り返すつもりか?」
「……あ、」
そこで赤羽はやっと木場の全身を見る。痛覚がないのは本当みたいで表情に変化はないが胴着や肌がぼろぼろになっていた。
立ち上がろうとしてもろくに立てない様子だ。
「そこまで。勝者は赤羽とする」
甲斐が宣言し、赤羽が一礼して後ろに下がる。
「……負けてしまいましたね」
和佐が一歩前に出て部員達が木場を抱えて下がらせた。
「……どうしてその3人にしたんだ?」
「はい?」
甲斐が和佐に尋ねる。
「村上の奴は確かに実力があった。だが他二人はそこまででもないように見える。その3人がトップ3と言うわけでもないだろう?」
「……あなたが言ったのでしょう?試合をするのが目的なのだと。勝つのが目的ではない。そちら側と同じで実戦経験が欲しかったんです」
和佐が涙目の純華の頭をなでてやる。
「それとも今度は何かを賭けた本当の試合にしますか?」
「……やめておこう」
「逃げるんですか?」
「実力が足りないのは今回ので十分分かった。うちの3人で一番強いであろう矢尻で歯が立たなかった奴がいるんだからな。だが、今度また何かあったら練習試合を申し込むかもしれない」
「……まあ、たまにはいいでしょう」
「……で、それはおいといて。どうしてお前がここで空手部をやっている?4年前に少ししか空手をやっていないお前がどうして矢尻を圧倒できるほどの実力を手にしている?少なくとも大倉道場でお前を見た覚えはない。どこで空手をやっていた?」
「やれやれ質問責めですか。言っておきますが、空手道場は大倉三船伏見の3つしかないわけではないんですよ?」
「……」
確かに和佐の言うとおりだ。甲斐も別にその3道場だけが全てだとは思っていない。今までだって実際に他の道場の選手と試合をしたこともある。だが、この関東で有力なのはやはりその3道場だ。
「ならどうして今更戻ってきた?」
「頃合いだから……というのはどうでしょう?」
「頃合い?」
「はい。まあ、ネタバレはしないタイプなのでこれ以上はまたの機会にしましょう」
そう言って和佐が更衣室の方へ向かう。
「今日はもうお開きにしましょう。木場君を病院に連れて行く必要もありますからね」
「俺が運びます」
村上が痙攣する木場を背負う。
「私は着替えますのでついでですから女子のみなさんもどうですか?」
「……最首」
「もう兄妹喧嘩に巻き込まないでよね」
着替えていない最首が赤羽、久遠、純華と共に更衣室へと向かっていった。ちなみに更衣室は1つしかないらしく男女、時間ごとに区切って交代して使っているらしい。
そして女子が消えたら残ったのは男子だけ。
「……矢尻、大倉に来るのは悪い事じゃない。だが、ここも決して悪くはなさそうだぞ」
「……かもしれませんね」
「4月の西武どうする?」
「……まだまだですよ。やはり8月を目処にします。それまではここと大倉道場とで自分を鍛え直します」
「……頼りない弟子で悪いがこき使ってやれ」
「押忍」
それから1時間もしない内に和佐と村上に運ばれて木場は病院へと送られた。
「……私、またやってしまったのでしょうか?」
それを見送りながら赤羽が呟く。
「……うちの愚妹のせいだ。あの木場をけしかけてお前にそう言う奴との実戦経験を積ませようとしたんだ。ただ俺の弟子と言うだけでな」
「……あの人はそんな人じゃありませんよ」
「……うちの妹とは初対面じゃないのか?」
「まあ、この前会っていますけど……」
「いや、そう言う話じゃ……」
「……それより気になる話があります」
「な、何だ?」
「最上火咲さんが昨日から戻ってないんです」
「……火咲ちゃんが?」
「はい。確かによく分からない人ですが一晩以上帰ってこないと言うのは初めてで……。今日帰ってもまだいなかったら寮長先生に報告しようと思ってて……」
「……」
最上火咲と言えば三船と何かしらの関係があったのを思い出す。実際に三船の少女をあっさりと殺害しているから三船から見て敵なのか味方なのかはよく分からない。もし彼女が普通の女子高校生だというのなら刑事事件を連想させざるを得ないのだがそこに三船が絡んでいる可能性があると考えたら警察で対処できるか分からない。
「……一応大倉道場のスタッフにも伝えておくか……?」
しかし実は火咲に関して大倉道場と言うか大倉会長には何も伝えていない。ほぼ確実に三船関係者とは言え大倉関係者にしていいのだろうか。
そう考えていた時にスマホがバイブする。雅劉からだった。
「もしもし」
「おう、甲斐か。遠山の奴に伝えたぞ。急な話だから総本山は使えないがそっちの道場使わせてくれるなら遠山兄弟だけ向かわせられるそうだ」
「分かりました。ありがとうございます。いつですか?」
「明日。俺が迎えに行くから」
「ありがとうございます」
電話を切る。
「明日、遠山弟との再戦が決まった。火咲ちゃんに関しては君の言うとおりで済ませて明日に備えて今日はもう休もう」
「……二日連続で試合ですか」
「大会になれば一日で7回くらい試合だぞ?」
火咲のことは確かに気になるが今は赤羽の試合のことを優先しよう。
甲斐は久遠や最首にもメールしてから寮へと戻った。
・土曜日の朝。
「……ん、」
物音を感じて甲斐はいつもより早く目が覚めた。
「あ、起こしてしまいましたか」
起きあがって最初に視界に入ってきたのは和佐だった。
「……どこか出かけるのか?」
まだ覚醒直後で頭が醒めていない甲斐。しかしその言葉はちゃんと和佐には届いていた。
「ええ。ちょっとショッピングにでも出かけてきます」
「………………ってまだ朝の6時じゃんか。魚市場にでも出かけるのか?」
「いえいえ。鈴鹿サーキットにでも行こうかと」
「……土曜の早朝から鈴鹿サーキットに出かける女子高校生」
無を感じながらつっこみを放つ甲斐。そうしていく内に少しずつ頭が完全に覚醒を果たしていく。少しだけ話している相手が蒼穹だった感覚がある。それを現実に引き戻し、
「あ、そ。こっちも今日は用があって外出るから鍵持って行けよ」
「はい。じゃあおやすみなさい」
そう言って和佐は出ていった。
「……はぁ、よりによって間違えかけるとは」
ため息をついてもう一度横になる。頭は完全に覚醒しているのだがどうにも感覚がまだ微妙におかしい。和佐だと分かっているのにどうしても先ほどまで会話していたのが蒼穹だと誤認してしまっているのだ。
「………………そう言えばあいつ、穂南のこと知ってたな。誰から聞いたんだ?」
それとも既にあの時にはこうなると分かっていたから前任者である蒼穹の事を知っていた?いや、たとえ新学期から転入してくることを知っていたとしても、同じ部屋になると言うことを知っているはずがない。何故なら蒼穹はあの日、病死したのだから。けど、もし蒼穹が実は治療のために入院をする。それを機に退学し、ここから出ていくなんて事になっていたとすればまだ可能性としてはなくはないのではないだろうか?
もし仮にそうだとすれば和佐は一体どこからこの情報を手に入れたのだろうか。
「……まあ、陰謀論か」
小さく笑い、スマホの着信を確認する。雅劉から今日の日程についてメールが届いていた。大雑把な風俗通いに見えて案外丁寧な男だ。さすがは軍人と言うべきか。
「……変に頭が冴えちまってるがまあ、二度寝するか」
他にメールが来ていないことを確認してから甲斐は目を閉じた。
「で、何か言いたいことはあるか?」
3時間後。メールに書かれていた予定の時間を1時間も遅れて駐車場にやってきた甲斐を雅劉が睨む。
「……すいません」
赤羽、最首がいる中謝ることしかできなかった。
「遠山兄弟なら先にお前さんところの道場に向かってる。悪いが住所を教えさせてもらったぞ」
「問題ありません」
いつもよりそこそこ飛ばしている雅劉。そんなに時間が危ないのだろうか?
「俺は今日仕事なの!さっきから親父から連絡が掛かってきてて面倒になってるんだよ。ただまあ、一応伏見側の人間もいた方がいいだろうから仕方がなく付き添いしてるわけ!」
「……すみません。今度男子の間でチェーンメールされてた女子の画像あげますんで」
「ちょっと廉君?それ一回見せてもらっていいかな?」
後部座席から殺意を感じた。
やがて、通常より数分早く道場へ到着する。ドアの前では遠山兄弟が立ち往生していた。
「悪いな。文句があるならこの寝坊の死神に言ってくれ。じゃあ俺はこのまま現場に行くから帰りは大倉のスタッフにでも送ってもらえ。じゃあな」
甲斐達を下ろした後、雅劉は遠山兄弟に早口で行うと、そのまま車を走らせていった。
赤羽が鍵を開けて5人が中に入る。
「遠山兄弟は悪いけど畳部屋で着替えてもらう。女子はいつも通りリビングで」
男女で分かれて胴着に着替えてもらう。
「……ん、」
甲斐は着替えながら違和感を得た。和室の襖が開いていた。よく見れば窓も開いている。一昨日はちゃんと締めて帰ったはずだ。
「……空き巣がいるかもしれないな」
遠山兄も同じ事を考えていたらしい。詳しい事情を知らないはずの遠山兄も先ほどまで玄関の鍵が閉まっていた家の窓が開いていればセキュリティを心配せざるを得ないだろう。
「…………いや、確かここは赤羽が1月まで過ごしていた家のはずだ。さっきも大倉のスタッフ抜きで鍵を持っていたし。ここの2階に誰か住んでいるのはほぼ確定しているからその人が朝開けたんだろう」
「……今この家に他に誰かいるって事か」
つぶやきながらもあまり納得していないような表情だ。無理もない、甲斐ですらその人が誰なのかを聞いていないし会ったこともないのだから実感が沸かないだろう。
「……さて、」
男子側が着替え終わって準備運動をしているとやがて赤羽と最首がやってきた。久遠は今日は友達と一緒に遊ぶ約束をしているため来ていない。せっかく普通の女子中学生になると言う目的を持っているのだから甲斐としても強制は出来なかった。
「赤羽、火咲ちゃんどうなった?」
「はい。昨日も今朝もまだ帰宅していません。なので昨夜既に寮長先生に伝えました」
「……そうか」
さすがに数日帰ってないとなれば警察が動いてもおかしくはない。そして火咲は大倉には伝えていないが三船の関係者だ。警察が動き、そして三船が絡んでいれば必ず大事になる。大倉を挟んでいればフォローが出来るかもしれないが。
甲斐は一度遠山兄弟を見た。今からでも伏見に情報を流しておくべきか悩む。自衛隊に繋がりがある伏見にこのことを伝えておけば警察に対しても三船に対しても何らかのフォローが出来るかもしれない。しかし、今のところ火咲の件に全く関係していない伏見を今回の件に巻き込んでいいものだろうか。
「じゃあ、練習試合を開始する」
遠山兄の号令で赤羽と遠山弟が正面に向き合う。甲斐よりも遠山兄の方が年上なのだから適任だろう。
「正面に礼!お互いに礼!構えて、はじめっ!」
そして開始の号令と同時に両者が前に突き進む。同時に甲斐がストップウォッチを押す。
「ん、」
遠山兄が僅かに反応。以前戦った時には遠山弟の蹴りをもろに受けてしまっていた赤羽だが今は同時に、しかし僅かに角度を変えた蹴りを激突させていた。互いにその一撃は胴体に当たらなかった。しかし赤羽の今の一撃は遠山弟のくるぶしを傷つけていた。ダメージとしてはそこまで重視するほどのものではないだろう。しかし僅か故の誤差があり得るかもしれない。
最初の蹴り合わせを終えた赤羽は下ろした足をそのまま再び蹴りへと変える。スピードタイプでの速攻スタイルだ。対して遠山弟は十分に軌道を見切ってから片手で受け流し、赤羽への距離を詰める。一歩前に進むと同時の膝蹴り、即ち一拍子だ。
「へえ、」
甲斐が思わず感嘆の声を上げた。茶帯である達真ならともかくまだ6級程度の遠山弟がたとえ偶然でも一拍子を行えたことはある程度の素質はあるという事だ。あの伏見提督が囮のためとは言え総本山での試合を執り行う相手として見繕うには十分な才能は持っているようだ。
が、その一拍子は赤羽がバックステップで回避。宙を切った膝蹴りを、赤羽は両手の甲で挟んだ。
「玄武鉄槌」
そのまま空中側転。赤羽の両腕で挟まれた膝を中心に遠山弟は無理矢理転倒させられる。不運にも赤羽が下段払いで技ありを獲得するより先に立ち上がってしまったためポイントにはならなかった。
「……」
遠山兄はただ衝撃だった。弟に何も出来ないまま叩き潰されてからまだ2ヶ月少ししか経過していないのにある程度は戦えるようにまで成長している赤羽を別人としか見れなかった。そして、今赤羽が行った技はかつて全国大会で自身が甲斐と戦った時に使われた技にそっくりだった。甲斐に使われた時は自身も半回転させられた挙げ句膝の関節を完全に決められた状態で頭から床にたたきつけられるというあの技の完成系だったが、さすがに赤羽にそこまでを求めるのは酷な話だ。それでも眼前では弟の動きが鈍くなっているのもまた事実。しかも、今関節をがっちりと決められたのは先ほどくるぶしを痛めたのとは別の足。これで遠山弟は試合開始早々に両足を負傷したことになる。
単純な技や動きだけではない。ちゃんと試合というのがどういうものなのか考えて戦えるようになっている事が遠山兄をどこまでも驚かせていた。
しかし、遠山弟もまた無造作にやられるような存在ではない。
赤羽が放った前蹴りをたやすく払いのけ、意表を突くように負傷している側の足で赤羽の鳩尾を穿つ。ほとんどノーマークだった事で赤羽はノーガードで後ずさり、遠山弟は追撃。男子故のパワーを最大限生かすため密着した状態での連続パンチへと切り替える。
前に出した左足を赤羽の右足のすぐ後ろに潜り込ませて後退を防ぎ、左手を赤羽の眼前へ突き上げることで意識を逸らしたのと同時に右手で赤羽の胸や腹へのパンチを打ち付ける。赤羽はこの状態では右手では何も出来ないと判断したのか左手で遠山弟を押し返そうとするが待っていたかのように遠山弟は右の膝蹴りで赤羽の左拳と激突。
「くっ、」
前に出すはずの力を無理矢理押し戻されて赤羽の左腕に悲鳴が生まれる。そして怯んだ赤羽に再びフェイントからのパンチ。
「……」
甲斐は少々大人げないと感じていた。今遠山弟がやっているのは同格同士が試合終盤に行う凌ぎ合いのようなものだ。互いに回避が出来ずどう攻撃してどう防御するかを本能で謀りながら相手が倒れるまでその状態を続ける。あれからかなり強くなったとは言え実際の実力としては赤羽はまだまだ遠山弟には遠く及ばない。そんな赤羽ではこれに対処するのは中々厳しいだろう。
「はあ……はあ……!」
遠山弟の密着攻撃が始まって30秒。赤羽は目に見えて体力を削られている。無理もない。基本稽古と最首による女子としての最適な戦い方をメインに学んできた赤羽にとって格上の男子から絶対有利の陣形で殴られ続けた際の対処法など想像も出来ないだろう。じわじわとなぶり殺しにするなんてものじゃない。クワガタムシが獲物を挟んだまま何度も地面に叩きつけているようなものだ。完全にがっちりと捕まった今の状態ではただ体力が尽きるのを待つだけ。本戦が終わればインターバルを挟むため、一度は解除されるだろうがたった30秒でこの様なのだ。あと120秒以上も耐えられるわけがない。赤羽の様子を見るもどうしたらいいのか分からない焦燥が見て取れる。が、そこで赤羽は突然前進した。
「!?」
赤羽と遠山弟はほとんど真っ正面から密着するような形となった。もしヘッドギアをしていなければキスしていてもおかしくないほどに。
「……かわいそうに」
甲斐が呟いた直後、赤羽はほぼゼロ距離での飛び膝蹴りを遠山弟の下腹部に両足同時に打ち込んだ。
「ぐっ!!」
全くの不意打ちに遠山弟が後ずさる。当然先ほどまでの密着状態など解除されている。
「今のどう言うこと?」
最首が疑問する。
「ん?」
「何で弟君は今動きが止まったの?有利だったのに」
「いや、何でって。そりゃ年頃の男子中学生からしたらいきなり目の前に美少女が顔近づけてきたら意識しちゃうだろ。しかも顔だけじゃない。手足と体しか当たらないだろうに体と体を密着させたんだぞ?下に血だってたまるだろうし、その状態で下腹部に両膝とか殺す気かってレベルだ」
「……色仕掛けって事?」
「期待してやったわけではないだろうけど、今回のは完璧だったわけだ」
二人の視線の先で試合が再開される。赤羽は先ほどの密着攻撃がトラウマにでもなったかのように十分に距離を取ったまま様子を窺っている。対して遠山弟は頭に来ているのか、やや攻撃的な動作を繰り返しては赤羽に冷静に対処されている。通常なら格上を相手にしていれば防御や回避などで気付けば相手の得意な距離へ誘導されるものだが今は赤羽が慎重すぎるほどに距離を作っているため遠山弟は先ほどまでとは正反対に一気に自分の得意な勝負が出来ずにいた。
「そこまで!」
180秒経過。遠山兄の号令で二人は構えを下ろす。
「判定は引き分け。60秒後に延長戦を開始する」
遠山兄の宣言を受けて互いに一礼してから一歩下がり、呼吸を整える。
「延長戦にもつれ込めただけでも十分な成果だな」
「そうだね。でも赤羽ちゃんはまだ十分勝つつもりでいるみたいだよ」
60秒のインターバルを終えて再び赤羽と遠山弟が激突を果たす。先ほどまでの激闘が嘘のように静まりかえった両者の戦場。蹴り合わせも起きずにじりじりと互いに距離を詰めていく。そして次の瞬間。まさに電光石火と呼ぶべき速さで遠山弟が動く。神経の全てを費やしたと言っても言いように無駄がない速度で赤羽へと密着し、赤羽の両手を封じながら再び打撃を開始する。しかし、遠山弟は焦りすぎていた。本来なら打撃を始めるより前に相手の後退を防ぐ方が先だった。故に赤羽は打撃を受けながらも一気にバックステップで後退。あわてて追いかけてきた遠山弟の前で跳躍し、
「白虎一蹴!」
超高速の飛び後ろ回し蹴りが遠山弟の顔面を薙払う。
「………………っ!!」
宙を舞い、うつ伏せの形で畳の上に倒れ込んだ遠山弟。
「せっ!!」
着地と同時に下段払いを行い、
「技あり!!」
遠山兄の宣言により、赤羽は得点を得た。
「……いいカウンターだ」
「うん。これで後は防御に徹しておけば得点で勝てるよね」
「……その未来はたぶんこれから打ち砕かれる」
「へ?」
最首が疑問をぶつけた直後、遠山弟は立ち上がり、
「キェェェェァァァァァァァァァッッッ!!!!」
奇声を上げたと思ったら一気に距離を詰めてきた。
「!」
身構える赤羽。しかしその防御より早く遠山弟が跳び蹴りを命中させる。
「くっ、」
後ずさった赤羽が身構え直そうとするがやはりそれより先に遠山弟が迫っては猛烈なパワープレイでひたすら赤羽を圧倒し始める。
赤羽が回避しようと思えば重心移動を行い、軸足になったばかりの足に強烈な下段をたたき込み、バランスを崩せば跳び蹴りで吹っ飛ばす。
「ううっ!!」
何とか倒れずに持ちこたえた赤羽が目を開けば既に遠山弟は距離を詰めていて赤羽のガードの間隙を狙ってパンチラッシュをたたき込み始める。
「何あれ……キレてるの……?」
「剛の気を解放させたんだな」
「剛の気?」
「交流大会で赤羽が後半に突然快進撃を始めただろう。あの時は異常なまでに冷静になり、相手の弱点だけを叩き潰す赤羽の静の気が解放されていた。だが今は遠山弟が剛の気を解放した。キレてるって言葉はそこまで間違っていないが様子見を辞めてひたすらパワーで叩き潰すことを最優先としたスタイルになったようなものだな」
「……男子特有の大暴れって奴?」
「……それも違うな。別に剛の気は男子だけにしかないわけではない。逆に静の気も女子だけのものではない。意識的か無意識かは別として自分にスイッチを入れるんだよ。激怒するタイプなのか静かにキレるタイプなのかって違いみたいだな」
解説しながら甲斐は視線の先の一方的な試合運びを確かに見ていた。
「……ううっ!!」
ガードした赤羽の両腕。その袖が破けてはすりむいて出血がこぼれる。うっかりガードを下ろして閉まったら直後に腹への蹴りが炸裂して吹っ飛ばされる。距離を取ったと安心してしまった赤羽は呼吸を整えようとするが一瞬後にはもう遠山弟が接近を果たしていてでたらめに赤羽を殴りまくる。本来パンチで狙う場所は鳩尾か腹か脇腹だ。だが、いま遠山弟は当たるならば肩だろうが腕だろうが構わずに強打を続けては赤羽の上半身をボロボロにしていく。
「うおおおおおあああああああ!!!」
遠山弟が叫び声をあげる。もはや彼にとって赤羽はサンドバッグと変わらなかった。防御は意味がなく、回避をしてもすぐに追いつかれる。延長戦が開始して80秒ほどでもう赤羽は両腕が上がらなくなっていた。打撲だらけだろう。しかしそれ故に赤羽は回避に専念する。遠山弟の攻撃はでたらめな乱打だが規則性がないわけでもない。ちょうど昨日戦った木場に近い。しっちゃかめっちゃかに殴ってるように見えてやはり人間である以上完全なランダムは存在しない。
「……ほう、」
しばらくぶりに遠山兄がまた感嘆の声を上げた。まだ一方的な試合運びとはいえ明らかに赤羽側の動きがよくなってきていた。遠山弟の攻撃はもはやそう簡単には当たらない。そしてそれに逆上して向かってきた瞬間に、
「白虎一変!」
赤羽が放ったのはまさかの飛び下段後ろ回し蹴りだった。極めて命中率も低く非効率的な一撃。しかしその一撃は迫り来る遠山弟の足を見事に掬った。
「……っ!!」
一瞬で天地が逆さまになった遠山弟は頭から畳に転がり落ちる。
「せっ!!」
赤羽が下段払い。しかし、腕の激痛により最後まで払うことが出来なかった。その間に遠山弟が立ち上がってくる。
「くっ!」
向かってきた遠山弟は先ほどまでとは打って変わって通常の様子に戻っていた。先ほど頭から転がり落ちた際に剛の気が抜けてしまったのだろう。しかし故に冷静さを取り戻した遠山弟は腕が使えない赤羽に対して上段を連発する。ガードが出来ないため赤羽は回避することしか出来ず、バランスを崩したところで遠山弟は一気に密着を果たした。今度はちゃんと赤羽の後退をふさぐ形で足を潜り込ませている。
「…………ここまでか」
甲斐が目を伏せた。それから11秒後に赤羽が崩れ落ちるまで遠山弟の連打は続いた。
「そこまで!」
遠山兄が制止。弟が一歩下がり、畳の上にうつ伏せで倒れた赤羽を見やる。
「……う、ううう……」
赤羽は立ち上がろうとしてももはや体力が尽きているようで呻くことしか出来なかった。
「勝者……黒!」
遠山兄が宣言し、弟の方が一礼した。
「……よくやった」
甲斐と最首が歩み寄り、一緒になって赤羽を起こし上げた。
「すみません……また負けてしまいました……」
「格上相手にかなり頑張った方だ。さっきの下段払いが決まっていたらその時点でTKOで勝利していたんだぞ。後一歩まで追いつめていたんだ。十分誇っていい」
「…………ありがとうございます」
「実際、驚いたよ」
遠山兄弟が歩み寄ってきた。兄弟ともに似たような表情をしている。
「この前とはとても同一人物には見えない。うちの弟もまだまだ稽古が足りないな」
「……兄さん」
弟は微妙に納得していないような表情だった。
「だが、まだその実力で西武に行くのは辞めておいた方がいい。うちの弟クラスはいくらでもいる。仮に一回戦を勝ち抜けたとしてもそう何度も戦えるほどにはまだ体が出来ていない」
「……やっぱりそうか」
甲斐もまた妙な表情でうなずく。仮に今の試合が勝っていたとしてもこの赤羽の様子ではあと一戦などとても出来そうにない。これが西武クラスなのだ。
「まあ、8月まではゆっくりするとしますかね」
「……すみません。前言撤回させてしまって」
「いいさ。ゆっくり休め」
赤羽を最首に預けて甲斐は遠山兄弟に向き直る。
「これからどうする?」
「午後から総本山で稽古が入っている。うちの弟もこれからまだまだ稽古を続けていくことになるだろう」
「そうか。なら、今回の礼としてこの俺がちょっと面倒を見てやろうか?」
甲斐が弟の方をみた。
「……お、お願いします!」
弟はそう答えた。それから30分ばかり甲斐の稽古を受けた弟はさすがにばてていた。赤羽や久遠に向けてのメニューでは足りないだろうからと甲斐が直接組み手の指南をしたのだ。当然甲斐は相当手加減していたがそれでもかなり実力に差があることも関係して遠山弟は無事、赤羽と同じように畳の上で大文字になるのだった。
「直太朗、邪魔になるし稽古もある。そろそろ行くぞ」
「も、もう……?また2時間ジョギングで……?」
「そうだ。時間は待ってはくれない。早く着替えるぞ」
「あ、着替えるんだったら私達はシャワー浴びるね」
「ああ」
ようやく立てるようになった赤羽と最首が部屋の奥に消えた。それを見てから男子3人が私服に着替える。
「女子達には悪いがもう行かせてもらう」
「ああ。今日はありがとう。たぶん今度はもう西武の試合で会うことになると思う」
「……或いは合宿だな」
「押忍ありがとうございました!」
少しだけ息をついてから遠山兄弟は道場を出て歩いていった。それを見送ってから甲斐は和室の掃除を始めた。
赤羽達が帰ってきたのは一段落ついてからだ。
「……と言うわけで残念ながら4月の参加は認められない」
掃除を終えてリビング。昼食を食べながら甲斐は切り出す。
「……はい。まだまだ実力不足でした」
「さっきも言ったが今回はかなり健闘した。負けはしたものの昨日までの君よりだいぶ成長したはずだ。8月の西武まで稽古を続けてもっと強くなるぞ」
「……押忍!」
それから最首が作った昼食を3人で食べ、一度寮に戻ってから夕方頃にまたここへ戻ってきて稽古を開始するのだった。
翌日。またも帰ってきていない火咲。それを確認してから赤羽が起床して着替える。今日は稽古が入っていないため一日フリーだ。何をしようかと考えていると、ドアがノックされた。
「はい」
何気なくドアを開けると、
「Hi,Misaki Akabane.」
そこにはリッツとシフルがいた。
「……あなた方は……黒と……!」
「please enter this?」
「え、えっと……?」
「シフル、だから英語は通じないって言ったじゃない。……赤羽美咲。少し入らせてもらう」
そう言って二人が部屋の中に入る。赤羽はドアを閉じてから続けた。
最初にリッツが切り出す。
「初めましてと言うのは演技だけでいい?」
「……どうしてあなた方がここにいるのですか?三船から話にも聞いていませんが」
「私達は表向きにはあなたの監視としてここに来ている」
「……本来の目的は?」
「……シフルがどうしても復讐を果たしたい相手がいるらしくて。最近のあなたの動向を見ていると、その相手とあなたは面識がある。だから邪魔をして欲しくなくて釘を差しに来たんだ」
「……それは?」
「矢尻達真」
「……」
当然その名前に覚えはある。一昨日一緒に空手部と練習試合をしたばかりだ。
「……彼に何の恨みがあるのかは分かりませんが……。もしかして最上火咲さんが帰ってこないのもあなた方の仕業ですか?」
「そう。彼女にはカプセルの中で眠っていてもらっている。両手の麻痺をそれで修復できればおあいこだと思うのだけれど」
「……あのカプセルで彼女を……!?」
「何か問題でも?」
「……質問があります。あなた方が矢尻さんを始末しようとしているのは分かりました。理由は聞きません。ですがどうして早く始末しないのですか?あなた方はおそらく先月からこの寮に潜入しているはずです。やろうと思えばその日にでも始末できるのではないのですか?」
「この学校は大倉機関が関与している。まだ私達が三船の人間だとは分かっていないと思うけれどもそうすぐに殺人なんて起こせない。それに厄介な相手もいるしね」
「……拳の死神」
「そう。いくら戦闘用に作られた羽シリーズと言っても全国区の怪物が相手じゃ数で挑んでも勝ち目がない。そこであなたにお願いがあります。私達の準備が出来たらあなたには甲斐廉を遠くに誘導して欲しいのです。その間に私達がここで矢尻達真を始末します」
「……」
赤羽は逡巡した。
「シフルにはコードの持ち合わせがありますのでいくらあなたでも最上火咲同様の運命をたどることになると思いますので逆らうようなことはしないでください。用件はそれだけです。それでは、」
リッツが一礼して、退室する。シフルもそれに合わせて帰ろうとしたのだが、
「……Faker」
「……」
赤羽にそっと耳打ちした。