第1話:死神と少女1
・暗闇の中で燃える炎がある。
「~!! ~!!」
耳に届かない叫びがある。一人じゃない。何人かの届かない叫び。声。
届かないものに意味はなくやがて消えていく。でも確かにそこに叫ぶ声は存在していたのだ。その最期を見届けていた自分だけがその存在を知る。
他の誰もが知らないその存在を自分だけは覚えていたかった。そうじゃないと消えた事実すら、生きていた証すら誰の記憶にも残らず完全な消滅を示してしまうから。
・意識を取り戻したら知らない天井が見えた。混乱はしなかった。試合が終わった後にはたまにあることだ。ただ今回は少しだけ眠っている時間が長かったようだ。
「……」
起きあがろうとして、しかし出来なかった。意識を集中させると右足が動かない。見ればギプスを編められた上でベッドに固定されていた。
「……お、目が覚めたか」
「……宇治先生……?」
大倉病院のドクターであり、大倉道場のOB。甲斐も今までに何度か世話になったことがある。となればやはりここは大倉病院なのだろう。
「……俺はどうなったんですか?」
「ん、ああ。右膝関節の完全破壊。靱帯も神経も切断されてるから膝から下の感覚がないだろ?靱帯の縫合が馴染み終えればとりあえずギプスは外せる」
「……それって、また試合できるんですよね……?」
「…………悪いな」
「…………どう言うことですか」
「大倉機関の技術は日本でも結構上位だ。だから神経をなくした手足でも切断する必要なく義手義足化が出来る。現に膝関節部分は既に人工化手術を終えた後だ。靱帯再接合手術も同時に行ったから、術後24時間もあれば歪ながら歩けるようにはなるだろう。だが空手は無理だ。少なくともまた同じ舞台に立てるとは思わない方がいい」
「……分かりました」
返事はした。だが、理解したとは言えない。この人が何を言っているのかが理解できない。だがそこだけ何しても動かせない右足が事実だと語っている。手術をしたということは全身麻酔もかけたのだろう。その影響で脳がしっかりと起きていないのかもしれない。よく見れば時計は2時を指していた。
「……今は夜中の2時ですか?」
「ああ、そうだ」
「……宇治先生、大丈夫なんですか?」
「夜勤をするつもりはない。これはただの残業だ。お前は……まあ、もう一回寝てろ。そして起きた頃にはもう少し自由に動けてるはずだ」
「……分かりました」
目を閉じる。話している間は気付かなかったが鼻から喉に掛けてチューブが挿入されていた。目を閉じてから少しの後にイヤな感じがするといつの間にかチューブは抜かれていた。そこから先はまたあの自分にしかない炎の記憶に戻るだけだった。
・最初にそれを見た時は松ぼっくりの進化系かと思った。
家で出されたこともないし学校の給食でも寮の食堂でもない。もちろん自分から食べようとしたこともない。完全に未知の食べ物だった。
果物だと言うことは知っていたがしかしその中では決してメジャーな部類ではないだろう。少なくとも16年間(満366日)食べたことがなかったのだからそうに決まっている。
長い時間、鼻から喉に掛けてチューブを挿入され続け、痰が溜まり続けて食事はおろか水すらろくに喉を通らない状態でそれを出されたとしよう。積極的に口に放り込めるだろうか?いや、普通は無理だろう。昨夜はよく喋れたなと言うレベルで言葉より先に痰が口からあふれ出るような状態で今まで食べたことのないそれを食べられると思うだろうか。
確かに柑橘系は水分を多く含んでいるから喉が渇いている時には推奨されるだろう。拳魔邪神もよく食べてたし。それに別に苦手意識があるわけでもない。そう。タイミングが良くないと言うだけで別に嫌いではないのだ。ただ、こんな絶望的なタイミングで未知のそれを食すつもりにはどうにもなれなくて。
「いいから食べよ?ね?ほら?ほら!」
と、見舞いに来た最首に口の中にぶち込まれた。恐る恐る租借し、その成分の全てを喉を通していき、
「う、うまい……何だこれ!なんだよこれ!何ですかこれは!」
「だからパイナップルだよ!廉君が一度も食べたことないって言うからもって来たんじゃないか!」
「最首。一応そいつは病人なんだから手加減してやれって」
「板東先輩は廉君を甘やかしすぎなんですよもう……」
病室。時刻は12時30分。見舞いとしてきてくれたのは最首遙と板東慎一郎。どちらも空手の関係者である。どちらも結構長い付き合いだ。
「はむはむむしゃむしゃ」
「もう、そんなにパイナップル気に入ったの?明日また持ってきてあげようか?」
「いや、明日午前中に退院だからいい」
「え、そうなんだ。早いね。宇治先生からは骨折よりひどいって聞いたけど」
「逆だよ。下手に骨折とかみたいな適切な治療の下現状維持みたいな奴だったら今の大倉の技術でも2週間は入院してないといけないけど今回の場合は人工義足化で済む話らしいからな」
パイナップルを貪る手は止めない。
「……それって空手はどうするの?」
「……」
パイナップルを貪る手は止めない。質問する最首とは別に板東はどうやら答えを知っているようで難しい表情をしていた。やがて何か言おうと口を開いた時だ。
「…………たぶんもう無理だろうな」
甲斐が代わりに答えを出した。夢であってほしいと願った昨夜の会話。しかし頭の中ではもう受け入れていたのかすんなりと話せた。
「…………どう言うこと……?」
「膝が完全にお釈迦になったんだ。周囲の靱帯と神経ごとな。膝と膝から下を人工化したことで明日にはもう日常生活を送る分には問題なくなってるみたいだが、たぶんもう戦えない。よしんば畳に上に立ったところで遥か格下にさえ勝てるかも分からないだろうな。宇治先生曰く今の俺じゃ一般人よりかも遅い蹴りしか出せないらしい。いくらパンチがメインだからってそれじゃもう全国なんてねらえない」
「……じゃあ、い、引退するの……?」
「目的を果たせないのなら潔く別の道を選ぶしかないさ」
「……そんなの廉君らしくないよ」
「……最首……」
「腕を怪我してパンチが少しの間出来なくなったって廉君はパンチ一筋で頑張ってきてそのまま全国に立てたじゃない。それなのにメインじゃない足を怪我したからって空手そのものを諦めようだなんてそんなの……」
「もうよせ最首」
板東が最首の肩に手を置いた。
「一番つらいのは甲斐だ。俺達に出来るのは支えることだけだ。責める事じゃない」
「……ごめん、廉君」
「いいよ。逆にそういってくれたからこっちも冷静に受け止められたんだ。ありがとう、最首」
そう言って最首の頭を撫でてやった。
「子供扱いはしないでよ」
「いや、癖でな」
「……10年くらい言い続けてるのに」
膨れる最首。やがて板東が口を開いた。
「甲斐。後で加藤先生が来るそうだ。たぶんこの先の進路について話すことになると思う。その時は自分に素直に話すんだぞ」
「……ありがとうございます、板東先輩」
一礼をする。その後13時になるまで二人と他愛ない話をしてから加藤、そして大倉がやってきた。
「遙、慎一郎。悪いけど廊下で待っててくれるか?」
「「押忍」」
同時の挨拶。同時の一礼。同時の退室。そして甲斐の正面に加藤が立つ。
「元気そう……と言っていいのか分からないが思ったよりは元気そうでよかった」
「押忍申し訳ございません。こんなことになるなんて」
「謝る必要なんてない。むしろ謝るのは俺達の方だ。容態も宇治から聞いている。……残念なことになってしまい、申し訳ない」
加藤が頭を下げた。直後に大倉もまた頭を下げた。
「そ、そんな、頭を上げてください!自分なんかにそんな……」
「……そこで1つ聞きたいんだがこの先どうする?」
「え?」
「今回の件、試合中の事故として扱われ入院費も手術代も機関から出される。もしこの先日常生活や進路において不具合が出た際も可能な限り補助しようと思っている。その上でお前はどうしたい?確かにこの先またあの全国の舞台に立つことはかなり難しいと思う。それでもお前がまた続けたいって言うなら全力でサポートする。もう空手なんてイヤだと普通の生活に戻りたいとしても大学や就職先などのフォローも全力で行う」
「……自分は……」
言葉に詰まる。最首や板東相手なら多少の軽口は問題ないだろう。どんな答えを出しても後からの訂正などいくらでも出来よう。だがこの二人を前にして軽々しく発言などは出来ない。きっとここでの回答は一生ものの決断になる。そう思うと途端に緊張して冷や汗が出てきた。
「……甲斐」
そこでこれまで沈黙していた大倉が口を開いた。
「もしもまだ決めかねないと言うのなら1つ、頼まれてほしい」
「何でしょうか?」
「とある生徒のコーチをしてもらいたいんだ。その子はこの前の試合を見て是非お前にコーチをしてほしいと言っていてね」
「……コーチ?自分が指導員にですか?」
年下や初心者に稽古をする指導員。甲斐もこれまで何度かバイト感覚で行ったことがある。だからどんなことをすればいいのかは分かっているし抵抗もない。
「その言い方だとまるでその生徒にだけ指導をするように聞こえたのですが……」
「そうだ。その子は少し特別な事情を抱えていて、まだ他の生徒達と一緒に稽古が出来ない。だからもしお前がいいと言ってくれるのなら専用の道場を用意してマンツーマンで指導をしてほしいんだ」
「……」
「もちろん毎日送迎は手配する。指導員としてのアルバイト料ももちろん用意しよう」
「……自分でよければ」
填められたと思わなくもない。けどこれはいい餌だった。どんな形でも畳の上に残りたいーーーその思いにコレ以上内ほど中途半端に応えられる選択肢だった。
「……ありがとう。明日確か退院だったな。その足で迎えを用意させるから対面をしてほしい」
「分かりました」
「……じゃあ、私達はこれで失礼するよ」
「あの、あの後大会はどうなったんですか?」
甲斐の質問には加藤が代わりに答えた。
「まずお前と早龍寺の試合は引き分けに終わった。準決勝が引き分けに終わったことで決勝戦が発生せずそのままAブロックの奴が優勝を果たした。ただ、そいつはこんなものに意味はないと言ってトロフィーは受け取らずに辞退。結局そいつと早龍寺が倒した相手同士で決勝戦を行って勝った方が今年の全国優勝者となった」
「……そんなことが……」
ここに来て悔しい想いがにじみ出てきたのは贅沢だろうか。そんな絵に描いたような武人と全国の決勝で戦えたらと思うと全身の血液が沸騰しそうになる。……その中に右足は含まれていなかった。
・夜。午後10時過ぎ。夕方頃に少しだけ歩いたりしたものの基本的には寝たきりだった。ここ数年でここまで運動しなかった日はないだろう。しかしそれでも程良い眠気が来るほどには体力を消耗していた。宇治曰く右足にはまだ痛み止めの薬が効いている状態であり、気付かぬだけで体は人工化と戦っているらしい。
「……」
かつてないほど静寂の夜。と言うか一人で眠るのはかなり久々だ。仕切の向こうから僅かな寝息が聞こえる程度とは言え蒼穹の存在は大きかったのだろう。
かつては一人だったくせに、いつもは一人であろうとしていたくせに、いざ一人で夜を迎えただけでここまで孤独を感じる己が情けなくて仕方がない。
「本当に……情けない……」
そんな情けない自分の声しか聞こえない暗闇の病室で甲斐は今日何度目かの睡眠に沈んだ。
・見覚えがあるようなないような朧気な景色を歩んでいく。意識はあるが感覚がない。ならばこれは夢だろう。自分の部屋のように馴染んだ足取りでしかし見慣れぬ場所を進んでいく。
右足に違和感はなくなおさらここは夢なのだろうがしかし夢心地ではない。むしろ逆に悪夢でさえあると思えるそんな恐怖色で染まった感触が歩む両足から沸いてくる。
人工義足化された右足ではないかつてと同じような足取り。だからこそ覚える恐怖の足取り。予感めいた鼓動ーーー今にも崩落しそうな石橋を渡るような感覚。それまでの確かだったものが全く頼りない。
歩むことをやめない両足。前へ進む度に募る焦燥ーーー前に進みたくないと心が叫びたがっているかのようにーーーその先に何が起きるか分かっているかのようなデジャブ。
「…………あ」
モニタ越しに見る景色のような実感のない視線の先に存在してはいけないいくつかの笑顔が見えたような気がして。
「うああああああああああ!!!!」
慟哭。そして甲斐が起きあがった。荒い呼吸と無意識にかつてと同じ動きをしようとしたことで悲鳴を上げる右足からの僅かな痛み。その二つが少しずつ心を冷静にしていく。
「……夢……」
時計をみる。まだ夜中の3時過ぎだ。
「……何でそんなに情緒不安定かな」
一息ついて呼吸を整えてからベッドに背を預ける。暑すぎも寒すぎもしない適温に調整された部屋が今は少し寒く感じるーーー闇の毛布が恋しかった。両手で思い切り引き寄せて右足以外の全身にその温もりを感じる。
「……出来ることが怖かったのかな」
戯れ言。そう感じながら甲斐は再び意識を闇へと落としていった。
・朝7時に自動で点灯する照明。やがて看護師達がそれぞれの病室に赴いて患者達の健康状態を素早くチェックしていく。
甲斐もまたやってきた看護師に現在の体温とか具合が悪いところがないかの報告を済ませた。
その報告の後で思ったよりかは右足を動かせるようになっていることに気付いた。ついでに下半身が結構あれな感じになっていた。古代ローマとかギリシャとかの人がしてそうな腰布。足をあげれば当然のようにめくれあがりおむつが見える。そしてそのおむつの中に管が入っていて尿道を貫いていた。昨日一日トイレに行かなかった理由である。
「……こんな感じのまま最首や先生達と話してたのか」
若干の羞恥心。その後、朝食を済ませてから退院の準備をするまでの間にそれらは全て取り除き、用意されていたほとんど着たこともないような私服に着替えた。会場には胴着しか持ち込まなかったため誰かが寮から適当に私服を持ってきてくれたのだろう。それも含めて間違いなく蒼穹には話は行っている……
「と思ったけどそうでもないな」
思い出す。同級生達は昨日から京都に修学旅行に行っていた。当然本来なら自分も参加する予定だったがいつの間にか断念していたようだ。
「確か修学旅行は金曜日までだったな。それまでは穂南も部屋にはいない……気がしないな」
授業こそ出席しているが蒼穹は学生寮と学校以外には行きたがらない。中学時代の林間学校にも確か参加していなかった。……自分も当日は大会があったため参加しなかったが。高確率で今回もサボってることだろう。となればやはり自分の事情を蒼穹も知っている可能性が高く、この服は蒼穹が選んだものかもしれない。
「……逆をしたら殺されそうだ」
小さく笑い、退院までの時間に病室に別れを済ませることにした。
やがて、時間になると宇治と大倉がやってきた。
「大倉会長まで……」
「かしこまらなくていい。迎えを用意すると言っただろう?……宇治」
「押忍。甲斐、退院するに当たっていくつか注意事項がある」
「押忍。何ですか?」
「まずその足だがまだ完全に馴染むまでには2、3日かかるだろう。それまでは激しい運動は控えるように。外れることはないだろうが変な形で硬直したら面倒だからな。最悪また手術をする必要がある。とりあえず来週日曜日にまたここには顔を出すように。それ以外の普通の日常生活なら問題はないはずだ」
「押忍。分かりました」
「少しでも異常があったらすぐに知らせろ。人工義体化はまだそこまで確立された技術じゃない。完璧に制御された技術じゃないんだからな」
「……何でそれなのに義体化を?」
「あのまま放置していたらお前の右足は膝から下が神経通わなくなって壊死していた。そうなる前に膝から下を加工することで壊死を防いだんだ。この技術は確かにまだ完全になったわけじゃない。だが国内でも既に何人かがこの手術を受けて元通りの生活を送れている。まあ、つまりは壊死する可能性がある足を切断して金属製の義足を填めるよりかも遥かに効率がいいんだ。年寄りやまだ成長が見込める子供には出来ないがお前くらいだったらまあ、こっちの方がいいだろう」
「……確かに最近身長が伸び悩んでいますが」
「と言うか絶対読んでないだろうけどうちの機関の保険に入った時にそう言う説明と誓約書があったと思ったんだがな」
「いや、別にイヤだったわけではないですよ。ありがとうございます」
「おう。必要な書類とかはこの袋の中に積めた。行ってこい」
「押忍!」
「……では行こうか」
三者三様に一礼をしてから甲斐は大倉の後をついて行く。途中何度か転びそうになったが駐車場に着く頃には普通に歩けるようになった。自転車に乗る練習に近かった。
「例の道場まで」
「承知しました」
駐車場。二人を乗せた車。黒服の運転手が静かに車を出す。大会とかでもよく見るスタッフだろう。
「……数の黒」
「は?」
「いや、何でもないです」
厳つい外見とは裏腹に運転は静かで丁寧だった。
「道場と言いましたが胴着に着替えなくてもよろしいのでしょうか?」
「今日は挨拶程度だからかまわない。それに君が着ていたあの胴着は破れていたり血だらけだったりで破棄された。新しいものは既に用意してあるから後で受け取りなさい」
「押忍。分かりました」
病院を出て20分程度。まるで和館のような場所。田舎のおばあちゃんの家とかサザエさんの家とかそう言う感じの建物の前の駐車場に車が泊まった。
「ここだ」
「……押忍」
車を降りて大倉の後に付いていく。表札はあったが黒く塗りつぶされていた。戸を開けて中に入る。靴を脱ぎ、廊下を進む。こうしてみると本当に昔ながらの一軒家にしか見えない。
「右手に居間があるがまあ使うことは少ないだろう。一応そこに冷蔵庫があるから飲み物などを入れておく分には問題ない。更衣室が存在しない事もあってここで着替えるといいかもしれない」
「押忍」
「まっすぐ行くとトイレがある。君の足に合わせたわけではないが洋式に工事されたばかりだから問題ないだろう。その隣には風呂もある。電気と水道は通っているから汗を流すことも出来よう」
「押忍」
「で、左手の和室。基本そこで君には稽古をしてもらいたい」
大倉が襖を開ける。
「…………あ」
小さな声。覗いてみると襖の先の和室。畳の上には一人の少女が正座していた。
「彼女が?」
「そうだ。彼女の名前は赤羽美咲。中学2年生だ」
「……赤羽美咲です」
「……甲斐廉だ。よろしく」
入室し、一礼してから畳の上を進む。赤羽と名乗った少女は立ち上がり甲斐を眺めていた。
「……ん、どこかで会ったような……」
「先日は客席の場所を教えていただいてありがとうございました」
「…………ああ、そう言えば一昨日」
客席の場所を聞いてきた少女だ。1分に満たない会話なのと現在と違ってあの時は制服姿だからすぐに気付かなかった。それに今彼女の姿の方が気になる。
「……全身赤の胴着……」
見たこともないほど真っ赤な胴着を着ていた。まるでつい先ほどペンキの海にダイブしたかのような色褪せることない真紅だ。そして帯がない。初対面に近い女性の服をじろじろ見るのは気が引けるがしかし気にするなという方が無理がある。
「……どうして自分を?」
「一昨日の試合を見たからです」
「……」
それだけ?まさかと思うが自分のファン?勝っていないのに?
流石に不思議があったため大倉の顔を見るが応答はない。
「空手の経験は?」
「基礎を少しだけ」
「……帯は?」
帯がないけどその胴着どうなってんの?って意味と階級とを同時に聞いている。空手も柔道もそうだが帯にはその人物の名前と階級が刻まれている。多くは色で判別がつくがこの少女にはそれがない。後者も気になるが前者がメインで聞きたい質問だ。
「一応10級となっています」
しかしあっさりと階級で答えられてしまった。もう少し仲良くなってからにしよう。
そして10級ということは本当に結構素人なのだろう。道場にも依るが空手は全くの初心者である白帯からスタートして一ヶ月すると最初の進級審査が受けられる。それに合格すると10級となりオレンジ帯を与えられる。最初の審査など本当に基礎レベルだから誰でも合格できるも同然であり、彼女はまだその壁にも満たない壁を越えただけという事になる。
「審査は通ったんだよな?」
「はい。ここで大倉会長からご指導を受けていましたので」
「……」
会長自らが稽古指導をすると言う言葉を聞き逃せなかった。大倉会長は既に大倉道場からは引退している身だ。年齢も50以上。加藤や岩村は大倉の弟子だと言うが加齢もあって既にあの二人の方が実力は上だろう。要はそこまで前線を離れている会長自らが稽古指導をしたと言うのはどこまでイレギュラーなのか。
「会長、彼女は一体……」
「……私からは話せない。興味があるのなら彼女の信頼を買って直接彼女から聞きなさい」
「……押忍」
納得は出来ないがそれ以上食ってかかることも出来ない。想像も出来ないような特別な事情があるのだろう。それに自分が巻き込まれているというのがいまいち実感がないのだが。何となく後戻り出来なさそうなところに足を踏み入れた感があった。
「……稽古はいつぐらいがいい?週に何回希望とかあるか?」
「あなたの無理でない限り」
「へ?」
それはもしも自分がいいと思えば毎日でも週1でもいいと言うことだろうか。偉く積極的というかやる気がある。小学生くらいならともかく中学生になってから始めたであろう女子にしては異様なほどの積極さだ。もしやそこに何かしらの意図が隠されているのかもしれない。
「甲斐、これが新しい胴着だ」
「あ、押忍。ありがとうございます」
大倉から新しい胴着を受け取る。以前の胴着は高校に進学してからずっと使ってきたものだから新鮮な感じと少し寂しい気持ちがする。
「本当なら最初にどれくらい型が使えるか見たいところだけど10級じゃまだ何の型も教えられてないだろう。ちょっとだけ基本稽古を見て今日は終わりにしよう」
「押忍。分かりました」
大倉は何も言わない。それを確認しながら甲斐は赤羽に指示を掛ける。以前指導をした時には少々無理があった。何せ教わったことはあっても教えたことはなくそして甲斐は少々周囲よりも出来がよかった。それ故に無自覚なしごきを与えてしまった。あまりにも可哀想だから一週間ほど地獄を見せただけで勘弁してやったが流石に見ず知らずの女子中学生を相手にするには些か手加減を心がけるべきだろう。
結果として15分ほどで基本稽古は終わった。甲斐の見立てとしては思ったよりかは悪くなかった。初心者故のぎこちなさもあるがそれ以上に真面目に基礎を積んできたのが分かる丁寧さだった。今の彼女に必要なのは復習ではなく先に進むことだろう。
「どうでしょうか?」
「ああ、悪くないよ。じゃあ早速だけど明日から稽古を始めようか。マンツーマンがいいんだっけか?」
「はい。出来れば……」
この辺りの事情が分からない。しかし、ただのわがままではないことは大倉の言動からしても間違いない。
「押忍。分かった。じゃあ明日の午後3時から……って学校があるか。じゃあ5時からで大丈夫か?」
「押忍。問題ありません」
「……で、よろしいでしょうか?」
「構わない。送迎のスタッフを向かわせるよ。君もあまり無理はしないように」
「押忍。分かりました」
そうして一度この場はお開きになった。大倉は赤羽と話があるらしく甲斐だけが先に黒服の車で寮に帰ることとなった。
道場から車で30分ほど。かつてなら体を温めるにはいい距離だったかもしれないが流石に今この足でやるには少々勇気がいる。
「明日16時15分ほどにお迎えします」
「押忍。ありがとうございます」
駐車場で黒服と分かれて甲斐は荷物を持って寮を目指す。二日ぶりだがやけに久々に感じる。このくらい離れることなど合宿に行ったりで珍しくはないのだがどこか涙腺が緩むような気がした。
「……」
自室前。一応ノックをしてから中に入る。
「……帰ってきたんだ」
「……行ってなかったんだな、修学旅行」
急いでドアを閉じた。何故なら同居人は下着姿だったからだ。
「……私、そんなに優等生じゃないから」
「……そっか」
なるだけ見ないようにしながら右側に入る。
「この服、穂南が用意してくれたのか?」
「……ちょっと違う」
「?」
「私は案内しただけ」
「……そうか」
「……もういいの?」
「え?ああ、足のことか。人工義体化することですぐに退院できたよ」
「……何それ」
「放置してたら壊死する右足を加工することで生身のギプス……生身の義足?みたいにする技術だとかでまだ世界的にも珍しい技術だそうだ」
「…………そうなんだ」
ひどく興味なさそうな声色。聞いた感じ正反対なのにどこか先程の赤羽の声に似ているような気がした。
・1月17日。水曜日。設定したままのアラーム通り朝6時半に目を覚ました。普通に立とうとしてやはり起きあがれなかった。まだ馴染むには時間がかかりそうだった。
「つかうるさいんだけど」
「あ、悪い」
隣からの苦情を受けてアラームの鳴動を止める。まだ同級生の多くは修学旅行に行っている。しかし同級生しかこの学校にいないわけではない。そのため食堂や浴場などは普通に利用できた。
最首から聞いたのか後輩達が心配で見に来てくれたりした。俄には信じがたいが信じられないわけでもなく、素直に感謝を伝えられるほど素直でもなくなあなあに答えた記憶しかない。ちなみにまだ浴場と言うか風呂に浸かることは出来ない。そのためしばらくはシャワーだけで済ませる予定なのだが昨夜は失敗した。
狭い間取りでシャワーを浴びていただけなのに何度も転んでしまい、様子を見に来た蒼穹に全部見られてしまうという大事故。蒼穹としては同級生の異性の裸よりかも手術したという右足に興味があったらしいが当然怒られた。
「…………見たり見られたりしたのに夜に退屈してるわけ?」
「は?」
朝。学校に行く代わりに突然蒼穹に問われた。意味が分からなかった。いや、言っている意味は分かるのだが何でそんなことを聞くのかが分からない。
「……どういうことなの?」
「それは私の……いいよ、もう」
それだけ答えて蒼穹は私服でどこかへ行ってしまった。一応修学旅行に行かない生徒は課題を与えられているのだが蒼穹がそんなことやる訳ない。しかしなぜ突然あのようなことを言ったのだろうか。そりゃ一緒に住んでいる以上、手出しこそしないがだらしないところを見たり見られたりはするだろう。着替え中の遭遇だってそこまで珍しくはない。……流石に全く服を着ていないところまでは今回が初めてだったが。しかし互いに性欲を向けないことが同棲の条件だったろうに。意識しないわけではないがしないようにはしているつもりで、最初の方はともかく既に何年も一緒にいる以上ドキマギする事もほとんどない。いろんな意味で父娘みたいな感じだと勝手に思っていたのだが蒼穹は違うのだろうか。
「……課題を進めよう」
また、スマホを出して新着メールを読む。入院中はバッテリーが切れてて一切確認が出来なかった。それだけで京都から斎藤などの心配メールが届いていたのだ。昨夜はその確認で忙しくそのせいでアラームの解除を忘れていた。
「ん、」
ノックの音がした。人はさせておいてあれだが蒼穹の方はノックせず躊躇なく入ってくる。だから別人だろう。
「はい」
ドアを開ける。そこには少し年下くらいの男子生徒が立っていた。
「あ」
「何か用か?」
「…………いえ、何でもありません。部屋間違えました」
それだけ言って彼は去っていった。
「……」
表札があるしここに住んでいる以上部屋を間違えることなどそうそうない筈だ。かといって自分と面識がある訳でもなく。
「……穂南か?」
少し考えて噴き出しそうになった。あの穂南蒼穹が男子中学生と懇ろしているなど想像できない。それとも意外と年下好きで彼氏に甘えるタイプとか?
「……ぷっ!!あははは!!ありえねえ!!!」
「…………うるさいんだけど。何してんの?」
噴き出すと同時に蒼穹が部屋に戻ってきた。
「……朝食いに行くか?」
「……行くけどあんたとは行かない」
「あっそ」
予想できていた答え。外出の準備をしている間に蒼穹の方が先に部屋を出ていった。だから少し時間をあけてから甲斐も部屋を後にした。
「……ん、」
食堂。当然と言えば当然だが蒼穹の姿があった。ただ一人ではなかった。
「どうしたの?」
立ったままで居ると目の前に最首が居て軽く体を横に傾けていた。
「最首か。おはよう」
「おはよう、廉君」
「あの穂南の隣にいるの誰?」
「穂南って……ああ。あの二人ね。廉君もう答え言ってるよ?」
「は?」
朝食をトレイに乗せながらの会話。
「穂南蒼穹先輩の隣にいるのは穂南紅衣ちゃん。蒼穹先輩の妹だよ。私の1つ下」
「……妹が居たのか」
長いこと一緒に住んでいるが全然そんな話は聞いたことがなかった。
「ちなみにその近くにいるのが矢尻君ね」
「矢尻?」
最首と共にテーブルにつく。確かに穂南姉妹の手前には男子が座っているように見える。ここからだと角度的にちょうど見えない。
「中等部で空手部やってる子。私も一回行ったことあるんだ」
「……中等部の空手部。何か斎藤が言ってた気がするな」
自分の知らない空手関係者が蒼穹と一緒にいる。それがどうも奇妙でならない。女湯に平然と男がいるような、陸地に平然と魚がいるような、そんな奇妙な感覚だ。
「戦ったのか?」
「うん。まあまあ強い方だと思うよ」
「勝ったのか?」
「まあね。全国大会どころかその下のカルビレベルだと思うよ」
カルビ大会。全国の1ランク手前で地区大会の通称のようなもの。何でカルビって呼ばれるようになったかは詳細は不明だが甲斐達は全国=中腹の下にあるからじゃないかって冗談混じりに推測している。
「大倉にいないのか?」
「うん。どこかの道場には所属してないみたい。でもあの実力で全くの独学な筈はないから昔所属してたとかはあるんじゃないかな?」
「……それで今は学校の空手部だけか」
「訳ありなんじゃない?」
「……さあな」
ゆっくりとした朝食。しかし誰かと食べる朝食はこの前の金曜日以来だ。
「そう言えば大倉会長からの依頼ってどうなったの?」
「ああ。生徒を一人見てほしいって言われてとりあえず引き取ることにした」
「大丈夫?病院送りにされた人が誰かを病院送りにしたら問題だよ?」
「何をそんな前例でもあるかのように」
「……思い切りあるよね?前例」
「大丈夫だ。今度は女子中学生が相手だ。手加減はするつもりだよ」
「え、女の子なの?それなのにどうして廉君に?」
「分からない。本人はあの馬場早龍寺との試合を見てファンになったからだとか言ってるが冗談にしか聞こえない。どんな事情があるのか知らないが大倉会長からの指示だし他の誰かと一緒じゃだめらしい。だから普通の稽古も出来ない」
「何それ。おかしいことに巻き込まれてるんじゃないの?」
「悪い子ではなさそうなんだがな」
「……相手の子、可愛いんだ?」
「どうしてそう言う話になる。……まあ、悪くはないかな」
「稽古にちなんで変な意味で手を出したらだめだからね」
「出せるほど名前負けしていたら穂南との同居なんて許されてないよ」
「まあ、それもそっか。けどもし私が必要だったらいつでも言ってね」
「そう言う意味のは間に合ってる」
「誰もそんな意味では言ってないよ!?」
「知ってるよ。本当最首は可愛いな」
「…………もう」
ちょっぴり拗ねた最首を見ながら甲斐は朝食を終える。しばらくぶりにまともな朝を迎えたような気がした。
朝食を終えて部屋に戻る。蒼穹の姿はない。既に授業が始まっている時間だから妹と一緒にいるという事もなさそうだ。どこか買い物にでも行っているのだろうか?それとも贅沢にも一人で大浴場を満喫しているとか?
「そう言えばどうして矢尻とか言う奴と一緒にいるのか最首に聞いてなかったな」
嫉妬とかそう言うのではない。どうしてホッキョクグマとペンギンが同じ部屋で飼育されているのか、どうして水族館にラクダがいるのかの理由が知りたいだけだ。つまりは不可解に対す知的好奇心にすぎない。
甲斐は課題をある程度まで終わらせると時計を見る。まだ赤羽との約束の時間どころか昼食にまですら時間がある。
「……行ってみるか」
そしてその知的好奇心を満たすため、表向きには足のリハビリのためにと自分らしい私服に着替えた上で行動を開始した。
まず真っ先に大浴場に向かった。いろんな好奇心はあったが結果としてみれば当たり前だが生徒くらいしか使う事のない学生寮の大浴場なのだ。生徒達が普通に授業して居るであろう時間帯は男女両方とも掃除中だった。
次に食堂へ来た。さっきまで食堂にいたとは言え既に2時間程度経過している。当然ながら食器も食品も片づけられていてもぬけの殻だ。休日以外は昼食は出ないため今から8時間くらいはここに人が集まることはないだろう。
「……風呂でも食堂でもないとなるとあいつどこ行ったんだ?」
少し椅子に腰掛ける。やはり思った以上に足に負担がかかっているのか気付けば汗をかいていた。これは体力も落ちていると見ていいだろう。空手に復帰出来る出来ない云々以前に体力づくりもしなくてはいけなそうだった。
「次どこに行こうか」
5分ほど休憩すると再び行動を開始する。しかしもう足で回れる範囲は回った。行ってないところと言えばせいぜい学校くらいだ。制服を着ていけば悪目立ちはしないだろうが良心がどうにも阻んでくる。詰まるところ暇なのだ。その暇つぶしが出来ればいい。
「……一度部屋に戻るか」
自販機でボルビックを購入してから部屋に戻ると、
「………………」
何故かドアの前に蒼穹がいた。
「何してるんだ?てかどこに行ってたんだ?」
「こっちのせりふなんだけど……!ちょっと鍵持たずに外出てたらあんたいないし帰ってこないしで待たされてたんだけど……!」
「……あ~、悪い」
まさか鍵を持っていないとは思わなかった。懐から鍵を出してドアを開ける。
「けどどこ行ってたんだ?」
「……あんたに言う必要があるの?」
「そう言う訳じゃないけどこっちも暇つぶしの相手がほしくて」
「一人でやってろ」
「……とげっちい」
部屋の中。左右に分かれてそれぞれため息をこぼしながら生活圏に座る。
「けど、お前あの矢尻ってのと知り合いなんだって?」
「……だから?」
「こっちも詳しくは知らないけどあいつ確か空手部なんだろ?どこでおまえと接点あったんだよ」
「……別に。妹のクラスメイトってだけ」
「妹……紅衣ちゃんとか言ったっけ?」
「何で人の妹の名前知ってるの……紅衣のストーカーなの?私のストーカーなの?学校側に言いつけられたいの?」
「違うしそうして困るのお前だと思うぞ?」
何せ一応入寮時は甲斐の部屋だったところ蒼穹が条件付きで住まうことになったのだから蒼穹がどこか別の部屋に行くことになる。……何かの間違いで甲斐が退学とかにならない限り。
「……最首に聞いたんだよ」
「……最首遙だったっけ?1年生の」
「お前、最首のストーカー?」
「あんたとよく話す女子なんて他に高が知れてるでしょうが」
「まあな」
そうでなくてもこの寮にはほぼ全生徒が長年住んでいるのだ。同性ともなれば知っていてもおかしくはない。
「……そっか。お前妹さんの部屋に行ってたのか」
「……好きに妄想してれば?」
「……姉妹百合?」
「……あんたは自分で自分のメッキを剥がすのが好きみたいね」
「メッキ張ってるように見えてたなら光栄だよ」
「ちょっとキモい程度だが結構キモいって思うようになったわ」
「……本当にとげっちいなお前」
暇つぶしの雑談のつもりがどうして心を抉られなくてはいけないのか。
「矢尻ってどういう奴なんだ?」
「……男同士なら自分で調べたら?」
「けどさっき話してたろ?お前にしては気持ち悪いくらい素直に」
「誰が気持ち悪いって?」
「……いや、話の内容は聞こえなかったけどさ」
「……あの子は、」
「ん?」
「……やっぱいい。自分で調べろストーカーらしく」
「……ストーカーなんてやってないっての」
朝は冗談で年下彼氏にべたべたとか妄想していたが何だか微レ存くらいありそうだった。
・何だかんだあって午後。課題を全て片づけて職員室に提出してから寮に戻り準備を終えるとそろそろ約束の時間だった。
「……あんたまだ空手やるの?」
「まあ、たぶんもう全国とかは目指せないかも知れないけどな」
「……怖くないの?」
「え?」
「だってあんた右足とれたんでしょ?」
「……物理的には外れてないぞ?神経的には外れて人工義体化したけど」
「……だからそんな大けがをしてまだ一週間も経ってないのにまだやるつもりなの?……あんたにとって空手ってなんなの」
「……」
途端に襲いかかるその問いに脳が停止する。
「……突然そんなことを言われても分からない。けど今はこれしかやりたくないんだ」
「……現実逃避が夢になってるならそれもいいかも知れないけど、現実をも挫く悪夢になってるんじゃないの?」
「……随分優しいじゃないか」
「……勝手にしろ」
「夜は遅くならないと思うから」
「……ふん、」
荷物を整えて部屋を出る。
「…………二度と悪夢は見ないさ」
小さく呟いてから駐車場に向かった。
・スタッフの車に乗って30分。昨日ぶりに到着した和館。何度見てもサザエさんとかちびまる子ちゃんとかの家にしか見えない。
「昨日の内にサンドバッグとミッドをいくつか用意しました。他に何か足りないものがあったら申しつけてください」
「ありがとうございます」
車から降りる。玄関で靴を脱いで荷物を置くためにリビングに入った。
「……あ」
「……あ」
そこではまさに赤羽美咲が胴着に着替えようとしている瞬間だった。セーラー服は綺麗に畳まれて桃色の下着が上下ともにばっちりと見えていた。
「……その、荷物を置こうかと」
「……カウント1」
「へ?」
「いいから出て行ってください……」
「あ、ああ。悪い」
荷物を置いて急いでリビングから出た。女子中学生の下着姿などかつての蒼穹以来だから結構ドキドキしてしまった。中々迂闊だった。
やがて5分ほど経過して赤羽が出てきた。真紅の胴着姿だった。
「……もういいですよ」
「あ、ああ。悪い」
とは言え既に胴着姿。荷物もさっき置いた。だから彼女と一緒に和室に入った。
「……胴着姿のままここに来てるんですか?」
「え?ああ、別にこだわりとかないしな」
「……私服持ってないとか?」
「いや持ってるけど一々道場に来て着替えてって言うのが面倒で……」
実際小学生時代から朝起きる→学校で授業を受ける→道場と言う流れを毎日のように過ごしているため私服で行動すると言うことはほとんどなかったりする。斎藤や最首から注意を受けることもままあるのだが別におしゃれなどに興味もない。
「……おしゃれとか気をつけた方がいいとか?」
「……いえ、あなたらしくていいと思います」
「そうか。じゃあ、準備運動から始めようか」
「押忍」
ラジオ体操ではないが、大倉道場では準備運動がある程度ルール化と言うか一連の流れとしてメドレー化している。筋トレなども兼ねているため一般人にしてはこの時点でそこそこ体力を持って行かれる。慣れていれば息を切らすことも汗をかくこともない。
だから、赤羽に対してそれを行うことでどれだけ体力があるのかを見定めようとしたのだが。
「……膝が曲がらん」
自分の方がうまく出来ずに何度もバランスを崩していた。
「……右足を義足にされたんでしたっけ?」
「ん、ああ。膝から下を人工義体にしたんだ」
「義足と何が違うんですか?」
「100%の人工物を使っていない事かな。完全に切断されているとかならともかくあのままだといずれ壊死すると言う状態だから義足にするとなると足を切断しないといけない。けど人工義体にすると壊死させないんだ。神経遮断して患部を生のまま固定するというか、ミイラみたいにすると言うかそんな技術らしい。こっちも詳しいことは分からないけど」
「……そうなんですか」
「技術として確立はしているけどまだ生まれたばかりの技術だから完璧に理解された技術ではないらしい。少なくとも文系には分からない話だ」
しかし、準備運動の段階でこれではまだまだ一般人程度にも体を使えるとはいえない状態だ。元の調子に戻そうとするならかなりの時間がかかるのだろう。
対して赤羽の方はぎこちない動きだが特に息を切らすこともなくついてこれている。むしろ追い抜かれている。まだ空手独特の動きになれていないだけで体力や肉体能力的には何も問題はないようだ。
準備運動が終わった後は基本稽古を始める。昨日行ったものに多少のアレンジを追加したバージョンでぶっちゃけて言えば10級から9級になる審査で見られる太極と呼ばれる型の卵みたいな動きを兼ねている。これを基本稽古に混ぜることで審査を受ける際には既に自然と太極の動きが出来ていると言う寸法だ。ついでにまだ早いかも知れないが組み手を行う際に覚えておくと便利なコツなどを覚えることが出来る移動稽古も行うことにした。
「……」
「どうしました?」
「いや、結構すんなりこなしていくんだなって。空手の動きって派手じゃないけどその分少し覚えづらい事が多いから最初の内は見よう見まねでも難しいと思ったんだが、君勉強できるタイプ?」
「……一ヶ月だけですけど大倉会長に教えていただいていましたから」
「……そう言えばそうだったな」
ともなれば基本稽古に何か小賢しいものを仕込んでもあまり意味がないかも知れない。まあ、損はしないだろうからしばらくは続けてみるとしよう。しかし、それにしても赤羽は優秀だった。一度聞いたことは初めて行うことであっても失敗することなく行える。動きのぎこちなさはあるがそれを差し引いても優秀と言わざるを得ない。同じ階級の多くの後輩たちにも見習ってほしいレベルだ。
だが、ここまで優秀だと逆に困ってしまう。今日は基本稽古と移動稽古だけで十分だろうと思ってあまり稽古内容を考えてこなかった。これは明日の稽古のためにいろいろ計画を練っていかないとまずいかも知れない。
「……ちなみに理由は明かさなくていいが、他の誰かと一緒に稽古してもいいと思える基準とかあるか?」
「…………明確には。ただ会長からは3月の交流会には参加してほしいと言われています」
交流会。正確には三道場交流大会と言い、大倉道場が加盟していて協力関係にある他の二つの道場ーーー三船道場と伏見道場とで初心者同士を出させて試合を行わせる大会だ。おそらく何か特別な事情がない限りこの道に身を置いているものが最初に参加することになる大会及び正式な試合となるだろう。それ故に大会参加者で言えばその次のランクである清武会に並んで多いとされる。この間の全国大会で言えば参加者は多くても100人を越えないだろうが交流会と清武会では最低でも200人以上は参加する。交流会でベスト8以上に進出するか5回以上出場したものが清武会に参加できるようになる。
「けど、中学生で交流会は珍しいんじゃないのか?」
「はい。会長からは小6男子の部で参加するよう言われています」
「小6男子ねぇ」
中2女子とならやや有利くらいだろうか。個人的には今の赤羽の優秀さを考慮すれば余裕でベスト4くらいまでならいけそうな気がする。実際交流会参加者の実力はピンキリだ。基本のきの字だけ教わった程度の初心者が出ることもあればきっちりと基礎と応用を詰め込み、体力と技を磨くことでその時点で清武会でも通用するレベルの微中級者が参加することもある。そしてそれだけ空手に真面目ならば小学校低学年くらいにはもう清武会出場を決めている事も多い。逆説的に小学校高学年で交流会に参加そているとなれば小学校高学年に突然空手をやり出したばかりの初心者か、何らかの理由があって清武会への出場を決められていないけど数年間空手をやっているものかのどちらかだろう。
そう考えると中2女子である赤羽が交流会に参加することは中々レアケースだろう。ちなみに男子だったら中学に入った時点で素人だろうと交流会には参加できずいきなり清武会に出場することになる。清武会の次はカルビ大会になり一気にランクが上がる。その影響で清武会は玉石混合が激しい。さながら受験戦争のような厳しさに突然送り込まれる中1男子初心者ほど気の毒なものもない。そして赤羽に関してももし空手を続けるのであれば、交流会を抜ければすぐにその清武会に参加することになり、自分より年下の遥か格上ばかりが跋扈するステージに赴くことになる。
「聞いておきたかったんだが」
「なんでしょうか?」
「どうして空手を始めようと思ったんだ?」
「……憧れている人がいたんです。本当はもっと前から始めたかったのですがいろいろ事情がありまして中2の冬からの開始となってしまいました」
「……そうか」
他人を理由に使うのはあまり好ましくはない。それでもきっかけとしては別に悪くないだろう。
「交流会は遊びみたいなものだ。名前の通りにただ3つの道場の初心者がこぞって戯れるだけ。ただその後の清武会は全く違う。特に君のように経験の浅い癖に年齢だけはそこそこある奴にとっては地獄のようなものだと思う」
「……年齢って私はまだ中学生ですが……」
「早い奴は小学校あがる前に清武会に参加している奴だっている。きっちり統計取った訳じゃないが清武会への出場を決めた奴の平均年齢はだいたい9歳か10歳くらい。多くの奴は小学校高学年には既に清武会で地獄を見ている。そしてその内半分以上がそこから先に進むことが出来ずに道を閉ざす。……だいたいその頃には中学生にあがっているから年齢を理由に諦めるんだ。汗くさいスポーツなんてダサいとかって大義名分でな。それを行わずにまっすぐ自分の道を進んで中学生になってもなお空手を続けている奴は本当に強い奴ばかりだ。そう言う壁を越えた強い奴らばかりの環境に年齢だけを理由に進んでしまうことには正直同情してしまう」
「……あなたはどうだったんですか?」
「……中1の時に全盛期に近い活躍を見せていた。小2で空手を始め、小4で清武会に行き、小6でカルビに行った。そして中1の頃から拳の死神だなんて大げさな名前で呼ばれるようになってその1年間、2回行われたカルビ大会両方に参加してどっちも優勝。中2と言う早い段階で全国が約束された。……けど、中2の時にある事件が起きてな」
「事件?」
「そのせいでしばらく空手に行かなくなった。とてもそんな気分じゃなかったんだ。けどその1年後。中3の頃に復帰してカルビで優勝するまでに今度は1年以上かかって、そして今年。高2で3年越しに全国へ出ることになったんだが結果はこの様だ。……君がどこまで行けるかは分からない。けどその誰かさんへの憧れだけでは清武会の地獄は越えられない。もしもその予想が覆ったならその時は君を一人のライバルとして認めよう」
「……清武会優勝までは師匠と弟子でいてくれるんですね?」
「……優勝できるならな」
目の色が変わった。挑発した事もあって彼女の闘志に火がついたようだ。これが出来るなら彼女は十分こちら側の人間と言うことになる。
「……明日、一人だけ連れてこようと思う。構わないか?」
「……組み手をするんですか?」
「そうだ。女子を選ぼうと思うからそこは安心していい」
「……彼女さんとか?」
「……そんなんじゃない。それより、サンドバッグをたたいてもらう。腕力などを鍛えられるだけじゃなく筋肉の持久力を鍛えられる。これを1セット2分で10秒の休憩を挟んで3セットやってもらう」
「押忍。分かりました」
それから思いつく限りの稽古をすることにした。基本稽古で動きに慣れさせながらサンドバッグで持久力などを鍛える。流石にサンドバッグを叩き終えると汗もかいてたし息も切らせていた。
まずは女子というハンデを克服するために筋力を育てることにした。
「……筋肉痛になりそうですね」
「……最初はみんなそんなものだ」
1時間後。時刻は18時30分程度。意外と結構絞ってしまったことに少々反省しつつ甲斐はその日の稽古の終了を宣言した。
「奥にシャワーがあるらしい。浴びていいそうだからどうだ?」
「はい。いただきます。……覗かないでくださいね」
「……さっきのは何度も謝ってるだろうに」
赤羽がシャワーを浴びている間に甲斐は掃除を行うことにした。稽古していて思ったがやはり思うがままに体を動かせないのは厳しい。一日でも早く元の動きを取り戻さなくてはならないと思った。ついでにスマホで最首にメールを送って置いた。事前にある程度話してあったからか問題なく明日は来てくれるそうだった。
赤羽がシャワーから戻ってきたら一緒に掃除の続きをして、甲斐は先に帰ることにした。別に何か用時があるわけでもない、ただの順番だった。大丈夫だとは思うが先に赤羽を帰すことで甲斐を一人にしてもし何かあったら困るからとのことだった。
「……」
「明日は如何致しますか?」
「同じ時間にお願いします」
「承知いたしました」
黒服に挨拶をして車を降りる。時刻は19時過ぎ。空腹の状態で寮に戻る。汗くさい胴着姿だが自分一人のためにまだ残っていてくれている食堂スタッフのために着替えもシャワーもせずに夕食を食べることにした。
「……」
食後。部屋の前でノック。
「どうぞ」
蒼穹の返事。中に入る。左側のベッドで横になったまま蒼穹がスマホをいじっている。
「……汗くさくしないで」
「悪い。すぐにシャワー浴びてくる」
「……それと、」
「ん?」
「……三日遅れだけど誕生日おめでとう」
「……ありがとう」
甲斐は喜びを声に出さぬようにして支度を整えてからシャワーを浴びに向かった。
・1月18日。木曜日。少しは慣れるかと思った朝の起床もやはりまだ慣れずに足をさすりながらゆっくりと起きあがる。
「……そっか」
いつもより15分だけとは言え早い時間にアラームをセットしたあのは理由がある。少しだけだけどジョギングをして体の不自由をなくそうと思ったのだ。
蒼穹を起こさないようにジャージに着替えて外へ出る。一応宇治先生に無理するなと念を押されていることもあるため寮の外周を一周回る程度にする。それでも途中何度か転びそうになった。
「ふう、やっぱ体力落ちてるな」
20分程度の軽い運動でありながら汗を流す。この程度は先週までなら全く問題もなかったはずなのに。
確か昨日湯上がりにふと体重計に乗ったところ体重が6キロも減っていた。右足の膝周りをほとんど解体したと言っていたし、日曜日はほとんど口にせず月曜日もパイナップルしか食べていない。けどそれだけで6キロも体重が落ちるだろうか。
「……鍛え直さないとな」
一度部屋に戻る。流石に朝からシャワーを浴びれないためタオルでしっかりと拭う。
「そう言えば、」
時計を見れば7時30分を過ぎている。既に食堂で朝食の時間が始まっている。だが、蒼穹は起きていなかった。ここの生徒に合わせて食堂は開いているのだから朝食の時間は結構短い。遅くとも8時30分にはもう閉まっているだろう。
「……おい、穂南。起きろ。もう7時半だぞ」
仕切を挟んで声をとばす。しかし返事はない。
「穂南?」
仕切をめくる。確かに蒼穹はベッドで眠っている。
「おい、穂南。朝だぞ」
「……………………ん、」
声をかけても起きる気配がない。昨日ああ言われてからアラームを無音のバイブにしたため実質蒼穹はアラームなしで寝ていることになる。
「食堂閉まるぞー。穂南ー。紅衣ちゃん待ってるぞー。……矢尻待ってるぞー」
「…………うう、」
ちょっと効いてる。って言うか握りしめたままのスマホを見るに着信ありになってるからマジで紅衣か誰かが待ってそうだった。
「おい、穂南。穂南蒼穹。蒼穹ちゃん?」
「……くっ!」
苦虫を噛みしめたかのような表情を取った後、ようやく蒼穹は目を覚ました。
「……あんた何してるの?」
「それより時間。早くしないと食堂閉まるぞ?」
「……そう」
まだ寝ぼけているのかぼーっとしている。このままだと二度寝しそうだった。
「……紅衣ちゃん待ってるんじゃないのか?」
「……な、」
蒼穹はあわててスマホを見る。本当に何か書いてあったらしく大慌てで寝間着を脱いだ。
「お、おい!?」
「いつまで見てるのよ……!」
胸丸出しで睨まれた。昨日の赤羽より普通に大きかった。
「さ、先食堂行ってるから」
「あんたは待ってなくていい!」
怒鳴り声を背に甲斐が部屋を出る。と、
「あ、」
下級生らしき少女が部屋の前にいた。ちょうどノックするところだったらしい。
「甲斐先輩ですよね?おはようございます!」
「あ、ああ。おはよう。えっと、穂南紅衣ちゃんかな?」
「はい。姉がいつもお世話になってます」
どうしてあの姉の後にこんな礼儀正しい妹が生まれてくるのかと甲斐は軽くDNAに感動を覚えた。
「穂南は……蒼穹ならもうすぐ来ると思うから。中入って待ってたら?」
「ありがとうございます!」
再び感動を覚えつつ紅衣の笑顔を背に甲斐は食堂に向かった。
・食堂でいつも通りのざるそばとパイナップルを貪っていると、
「いつもそれだね」
「最首」
最首がいろんな種類のパンを持ってきた。
「今日行けばいいんだよね?赤羽美咲さんのところに」
「ああ。彼女は基本稽古は完成度高いからどうしても組み手が必要になる。けどこっちじゃまだ出来ないからな」
「でも、その子まだ10級でしょ?私でいいの?同じ中学生くらいの女の子連れて行こうか?後輩に何人かいるけど」
「……今日はまだいい。あまり他の人と交流したくないらしい。どんな理由があるのか知らないが。けど、交流会までには何とかしないといけない」
「で、そのファーストコンタクトに私が選ばれたわけね。うん。いいんじゃない?」
「頼んだ」
「……で、あっちで蒼穹先輩がなんか激おこなんだけど何したの?」
「…………さてな」
「廉君は本当に知らないことはさあなって言うからさてなってことは何か知ってるって事だよね?」
「……イヤな癖を知られてる。いや、大したことないよ。朝寝坊したあいつを起こしただけで」
「……ふぅん。まあ、この学生寮で唯一の例外を勝ち取れるだけの信頼がある廉君だから大丈夫だと思うけど何かやっちゃったら大変だからね?」
「こっちは何もしないさ」
「……どう言うこと?」
「何かするとしたらあっちの矢尻後輩じゃないのか?或いはもうしてるかも知れないが」
「……何想像してるの」
「いや、結構誰に対してもとげっちい穂南がどうもあの矢尻ってのには甘いような気がしてな。そう言う関係なんじゃないかって思ってる」
「……矢尻君と蒼穹先輩がねぇ……」
二人で遠く離れた食卓に座る3人を見た。
「なんか見られてるね」
紅衣が言う。
「……ごめん、紅衣。あの馬鹿には後で言っとく」
続いて蒼穹さんが。
「大丈夫だよお姉ちゃん。ほら、お姉ちゃんも達真君もご飯食べよ?」
「そうだな」
朝の時間は大抵いつもこの姉妹と一緒にうどんを食べている。鍛えている身であれだが1月に冷たいそばを率先して食う奴はあそこの死神先輩くらいしか俺は知らない。しかも朝からだぞ?
「甲斐先輩と最首先輩って達真君みたいに空手やってるんだよね?」
「ああ、そうだ。最首先輩は初段で、確か甲斐先輩は3段だったと思う」
「……あんたは?」
「俺はまだ3級程度で」
それももう道場そのものはやめたわけだから意味のない数字だ。2年ほど独学で修行を続けて少しは強くなったかと思ったんだが初段の最首先輩にこの前軽くあしらわれてしまった。あの人が女子としてはかなり強い部類なのは知っていたがあそこまで差があるとは思わなかった。やはり、独学と道場通いじゃ仕方がない部分もあるのかも知れない。
「あの二人って付き合ってるのかな?よく一緒に見るけど」
「さあな」
「……あの男にそんな気概なんてないよ。信頼を勝ち取った疫病神みたいなものし。……あっちの子はどうだか知らないけど」
「疫病神って、甲斐先輩何かしたの?」
「……知らなくていいことだよ。達真君も空手でどうだかあるかも知れないけど間違ってもあいつの真似しようなんて思わなくていいし、憧れもしないでいいから」
「……はい。蒼穹さん」
甲斐廉。拳の死神と呼ばれた世界級の選手。手合わせしたことは一度もないし、実際にどの程度の実力者なのかも詳しくは分からない。
ただ、この前の大会で右足を失ったと蒼穹さんに聞いた。よくわからない技術で切断こそしてないけどあの足ではもう並の選手程度にも動けるかどうかと言ったところ。
蒼穹さんや最首先輩が言うには10年近くも空手をやっているとされる。そんな男が空手を失い、どうして生きていられるのか。
蒼穹さんはああ言うし、憧れなんて微塵も感じないが少しだけ興味はあった。
・最首が学校に行っている間。甲斐は部屋で稽古のメニューを考えていた。赤羽にやる気があることを前提にして交流会までのスケジュールも考えておく。
スタッフに聞いたところ次の交流会は3月最初の土曜日。だいたい1ヶ月半の猶予がある。これが正真正銘初心者の小学生とかなら短いと感じるのだろうが、基礎が完璧な中学生の赤羽ならば十分すぎるといえるだろう。
一応次の清武会の日程も聞いておいた。4月の中旬らしい。
そしてそれを鑑みて清武会まで残り3ヶ月とするなら厳しいといえるだろう。交流会を余裕で勝ち抜ける実力があっても清武会では一勝できるかも怪しい。そしてその清武会で優勝できる実力があってもカルビ大会へはそもそも参加できるかも怪しい。さらにカルビで優勝できたとしても全国の舞台に立てるかは選抜戦の結果次第となる。
交流会はおろか清武会で優勝できた実力者であっても全国大会の舞台に立てる確率はかなり低いだろう。このひたすら長く厳しい戦いのレールに赴こうとするのならそれ相応の覚悟と実力が必要となる。
「……とは言え、」
甲斐は背もたれに体重をかけた。
右足がこうなっている今の自分では選手として復帰したとしてもせいぜいカルビ大会に参加できるかどうかくらいの結果しか得られないだろう。清武会に参加してもカルビに通用する程度の実力者が参加していれば敗北する可能性もある。
自分と赤羽、どちらが全国の舞台に立てる可能性が高いかと言われればまだ未来が確定していない可能性が未知数の赤羽だと言わざるを得ない。
その事実を思い知らされるほどに甲斐は深いため息を吐く。
嫉妬とまでは行かない。絶望などもうしたくない。それでも自分の運命を呪わざるを得なかった。
・放課後。制服姿の最首と共に黒服の車に乗る。
「この人達って大倉機関の人だよね?」
最首が小さな声で甲斐に囁く。
「ああ、そうだな。この件は加藤師範よりも上。大倉会長が直接管理している部分らしいから」
「赤羽さんは一体どういう子なんだろうね。大倉機関がこんな積極的に動くだなんて」
「……さあな」
赤羽美咲については基本的なプロフィールしか知らない。中学2年生で、10級で、一ヶ月ほど大倉会長直々に稽古を付けられていた。それくらいだ。
不思議に思わないと言えば嘘になる。少しだけ大倉会長の娘ではないかと疑ったこともあったが年齢が離れているし、顔も全然似ていない。親戚と言っても若干違和感が残る。けど何かしらの縁はあるのだろう。
「たとえばどこかの病院の重役の娘とかかもな」
「へえ、なるほど。それはあるかも」
「けどそれにしたってこっちを選んだ意味が分からないんだよな。何らかの理由で誰か一人しか選べなかったとしても普通同じ女の子を選ぶだろうに」
「そうだよね。……もしかして前にどこかで廉君と会ったことがあるんじゃない?」
「……う~ん。記憶にないな。大倉会長にここまで関与させられるほどの大物の女の子って何さ」
「……いやいや、あの子自体にそんな力はないでしょ。親御さんは違うかもだけど。でも廉君を選んだのは廉君と何か関係があるからじゃない?」
「……かもな」
実際その辺りに心当たりは全くない。あの全国大会で道を教えた時。それが初対面だったはずだ。あそこで試合を見ていたとしても結果としては引き分けで敗退。ファンになるには少し物足りない筈。しかも甲斐がその試合で右足に傷害を負ったことはあの試合を見ていたものなら誰でも分かるはずだ。回復できるかも分からない怪我を負った相手に師事をするものだろうか。
「ん、そろそろだ」
「って道場らしき建物なんて見あたらないけど?」
「あそこのサザエさん家みたいなところが道場だ」
「……ただの古い家じゃん」
駐車場に着き、車から降りる。
「ちなみにスタッフさん、稽古中何やってるんですか?」
「客間で待機しています。リビングより手前の部屋ですので何かあったらお声かけください」
疑問が晴れるのは少々気持ちがいい。
玄関で靴を脱ぎ、甲斐と最首が中に入る。
「あそこがリビングで、着替えるところだ。先に彼女が着替えてるかも知れないから見てほしい」
「うん。分かった……って着替え見たの!?」
「…………まあ、その、うん」
「……一応神聖な道場で何やってるの……」
呆れながら最首がノックをしてからリビングに入る。
「……誰もいないよ?」
「……着替え終わって和室にいるのかも知れない。最首、先に着替えててくれ」
「分かった。…………覗いちゃだめだよ?」
「……覗きません」
リビングに消えた最首。着替える音がする。誘惑を払うためにも和室へと向かう甲斐。
「……いない」
しかし和室にも赤羽の姿は見あたらなかった。
「……ん」
荷物をおいてから廊下に戻る。と、奥の方に階段があることに気付いた。
説明にはなかった領域だ。しかし甲斐が上ろうとして断念する。
「……盲点だったな」
段差が高く、今の膝の曲がり具合では登り切るのは難しそうだった。しかし、
「……いらっしゃったんですね」
上から声。見れば胴着姿の赤羽が降りてきた。
「……ここに住んでいるのか?」
「……どうしてです?」
「いや、2階の説明なんてなかったし。2階から来たし」
「……そう言うわけでもありませんが、2階への立ち入りは禁止とします。これは大倉会長にも言われていることなので」
「……まあいいけども」
「……すぐに稽古を始められるので?」
「ああ。けど今最首が着替えている」
「最首?」
赤羽が首を傾げると、
「あなたが赤羽美咲さんね」
そこへ胴着姿の最首がやってきた。通常の胴着。しかしその黒帯も含めて全身に緑色のラインが走っているデザイン。何も改造しているわけではない。一種の称号のようなものだ。
「私は最首遙。今日は一緒にあなたの稽古に付き合おうと思ってるからよろしくね」
「…………はい、よろしくお願いします」
どこか緊張しているのか赤羽は辿々しい。無理もない。よく思い返せばスタッフとすら赤羽は直接対話していなかった。ひょっとしたら対人関係で何か問題を抱えているのかも知れない。
「最首は君の2つ上だ。実力もかなり高い方だから勉強になると思うぞ」
「え、あ、はい。……同い年か1つくらい下かと思いました」
「ま、最首ちっちゃいもんな」
「廉君正座」
「出来ないっての」
3人揃って和室に向かい、稽古を開始する。まずは基本稽古から始める。赤羽の基礎能力を最首にも見てもらいたかったからだ。
「……確かに10級にしては動きに切れがあるね」
「だろ?だからそろそろ組み手が必要だと思うんだ」
「いきなり直接組み手をするのは厳しいと思うけど、まあせっかくサンドバッグやミットがあるんだしそれを使おうよ」
そこから稽古の音頭は最首が握ることになった。
「女子は男子に比べて筋力で負けやすいから必要なのは瞬発力。どんなに強くても人体には限界がある。人も神経で動いているから弱点がある。女子が男子に勝つには最低でも瞬発力やスピードの面で上回るしかない」
「お、押忍!」
反復横飛び、シャトルラン、ジャンピングスクワット。いずれもあまり空手と言うか畳の上でやるイメージがない練習だ。しかし中学以降は男女で分かれる関係上、最首の言うとおり女子の方ではスピードを重視した稽古を行うのかも知れない。だとすればやはり最首を連れてきたのは間違いではなかったようだ。
実際最首は甲斐が知る中では女子最強クラス。もし今回赤羽ではなく最首が組み手の相手を求めていたとしたら少なくとも女子の相手を用意することは甲斐には出来そうになかった。男女の差はあれど2年のブランクがある斎藤でももしかしたら最首には抜かれているかも知れない。
つまり、赤羽にとって最首は理想の1つ。小学生から始めた多くの人間はしかし清武会という大きな壁にぶち当たり、中学生を迎えた際にはそれを理由にして引退することが多い。男子でそうなのだから女子に関して言えばそもそも空手に入門する数ですら大きく劣る。実際中学以降も残る女子は男子のそれと比べて3分の1でもいれば多いほどだ。だが甲斐同様に小6で清武会の壁を越えて中学以降もカルビで活躍している最首はかなり稀な存在。清武会までならまだ男女で分かれているがカルビ以降は参加できる女子の数が著しく限られている関係上、男子の中に混じって戦いを重ねていき、勝ち抜いていく必要が出てくる。それを中学3年間と高校1年間続けている最首は正直すごいと思うし、甲斐などではなく最首の方にファンとしてつくレベルだと思う。
「はあ、はあ、」
とは言え最適な稽古ほどきついものもなく、30分ほどで赤羽は畳の上で膝を折ってしまった。
「最首、少しハードだったんじゃないのか?」
「う~ん、出来がいいからちょっと無理させちゃったかも。ごめんね、赤羽さん」
「だ、大丈夫です……。つ、続きを……」
「そう?じゃ次はミットを叩こうか」
マラソンの次は短距離走をしようと最首は言っている。鬼か何かだろうか?
ミット。野球のキャッチャーがしてるような防具。空手のそれも同じタイプの奴はあるが盾みたいな形状が多い。腕に持って使うこともあればキャッチャーのように上半身に掛けて使用することもある。甲斐のような男子高校生などの場合は上半身しか覆えないため蹴りの練習にはあまり使えないが女子の場合特に小柄な最首の場合は首から掛けたとしても全身を覆えるため下段蹴りの練習にも使える。
……ぶっちゃけそこそこの重さがあるし、その上であいてから叩かれまくるため装着する方より叩く方が楽だったりする。それはそれで筋力のトレーニングにはなるから無駄がないのだが。
「……これで直接攻撃していいのですか?」
「うん、結構威力抑えられるからね。打つ方も打たれる方も練習になるよ。さあ、まずは60秒ずつやってみようか。廉君、タイマーお願いね」
「ああ」
すっかりてぶらになってた甲斐はスマホのタイマーをセットする。本来道場ならキッチンタイマーがあるのだがここにはない。
「せっ!」
その場から一歩も動かない最首に赤羽が次々と攻撃を加えていく。頭1つ分とまでは行かずとも身長で言えば10センチ近く差がある最首に対して攻撃を仕掛ける赤羽の図は少し暴力的なところがあるように見えるが実際には全く問題がない。相手がいないからって男子中学生や男子高校生相手にも喜んで向かっていく最首はその小柄に合わないタフさを持っている。
「赤羽さん、基本稽古で練習した技を思い出して。ただ闇雲に腕を前に出しているだけじゃそれは殴ってるって言わないから」
「お、押忍!」
ミット越しとは言え直撃を何度ももらっていながら最首はびくともしていない。ばかりか赤羽の方が疲れているように見える。実際1分経過する頃にはどっちが攻撃サイドなのか分からないくらい赤羽が疲弊していた。
「じゃ、交代ね」
「え……?」
「耐えることも必要だから」
最首からミットを渡された赤羽はそれだけでよろめく。
「じゃ、耐えてね」
再びタイマーの開始音が響く。そして最首の攻撃が始まった。実際半分くらいしか力も速さも出していないだろう。それでも赤羽はミット越しでも著しく体力が削られているのが分かる。
「さっ!はっ!」
「あ」
最首が跳躍した。そして左右で時間差のあるドロップキックのような跳び蹴りが放たれた。
「くっ!」
「あ、ごめん」
着地した最首よりやや遅れてミットを装着したままの赤羽が畳の上に倒れる。
「はい。そこまで」
赤羽が立ち上がるより前に甲斐が割って入る。
「最首、少しやり過ぎ」
「……ごめん。どうも手加減が難しくて。私より背の高い女の子とかみんなライバルみたいなものだし、つい……」
「畳の上でコンプレックス炸裂させるなっての。……大丈夫か?」
甲斐は倒れた赤羽を引き起こす。
「は、はい……」
「ごめんね、赤羽さん。今日はもうお開きにしようか?」
「い、いえ。もっと……」
「え?」
「あの人が知る限り最強とまで言われているようなすごい女性から稽古を受けるなんて誇らしいです。この上ないほど勉強になります。だから、今度はもっと直接技を学びたいです」
「……それって……」
「……組み手をやりたいって事か」
「……」
甲斐の投げかけにうなずく赤羽。当然中々無理な相談だ。最首側は全く問題ないだろう。毎日行っているであろうメニューだからかほとんど息も切れていない。この後も自分の稽古を行う可能性もある。
だが、赤羽の方は誰がどう見ても満身創痍と言った様子だ。今の時点でも明日の生活に支障が出そうな消耗具合である。
とは言え赤羽の言うとおり最首との組み手はこの上ないほど勉強になるだろう。
「……じゃあ、最首側は寸止めでやってもらおう」
「……それならまだいいかもしれないけど。でも、この子もう結構限界だよ?」
「寸止めの組み手でも得るものは多いはずだ」
何より、と言い掛けて甲斐は止めた。自分の限界を認めてしまいそうになったからだ。
「……いいよ、もう。じゃあ180秒セットして。私は寸止め。可能な限り攻撃は当てないつもりで行くから。赤羽さんは普通に当てていいから」
「お、押忍!」
甲斐がアラームをセットする。スタートを押すと同時に赤羽が前に出る。最首に言われたとおりの教科書通りと言ってもいいようなスピードタイプの速攻。開始と同時に全力疾走を掛けて相手の顔面向けての跳び蹴り。いくら筋力が劣る女子といえどもこれをまともに受けては男子でもそこそこ堪えるだろう。しかし最首はこれを半身を切るだけで回避する。そこから赤羽が着地して構え直すまでの間に最首の攻撃は4発、赤羽の急所を捉えていた。
「……!」
当然寸止めのためダメージは一切ない。が、もしもこれが寸止めじゃなかったら……。赤羽はそれを想像したのか僅かに怯む。
それを見た最首は今度は自分から攻め出す。最小限の動きから繰り出される無駄のない攻撃。女子故の滑らかさから繰り出される速攻。
男子としてみればこれらはどう防御するかだけ見ればいいかも知れないが女子としては違うだろう。最首が繰り出す一挙手一投足の全てが赤羽にとっては水とスポンジのようにくまなく取り込む必要がある勉強材料の塊。超速で動く辞書のようなもの。消耗しきった今の状態であっても最優先で吸収したいのも無理はないし、たった180秒の組み手であっても得るものはごまんとある。
実際後半の30秒ほどはスピードと精度以外は最首そっくりの動きを出せるようになっていたのだから。
「はい。3分。後半いい動きしてたよ」
「あ、ありがとうございます……」
アラームが止まると同時に赤羽は糸が切れたように畳の上に座り込んでしまった。きれいな顔には滝のような汗が流れている。この上ないほど勉強になったのだろうが。
「これは明日は休みかな」
「だね。って言うか10級の子に週7シフトはしちゃ駄目だよ。7級になるまでは週3が限界だよ?」
「……あー、そう言えばそんなルールあったっけ?」
「と言うわけで赤羽さん。明日はゆっくり休んでね。私でよければいつでも来るから」
「……分かりました。けどそれなら連絡先を交換した方がいいのでは?」
「そうだね。廉君と私と赤羽さんの3人で」
とは言え胴着姿だからスマホはなく、着替えた後に行うことになった。
・赤羽がシャワーを浴びている間。
「……じゃ、本番始めようか」
最首が畳の上で構えた。
「……見破られてたか」
甲斐もまた構える。
「当然。そこそこ付き合い長いんだから」
二人同時に小さく笑み、スマホのアラームをセットする。
「180秒、今の全力で行かせてもらう」
「赤羽さん相手にはかなりセーブしてたからちょっと運動させてもらうよ」
右足がほとんど使えない状態で甲斐はどこまでやれるのかを試したくなったのだ。その相手として最首は相応しい方だろう。
アラームが開始すると同時意に甲斐は左足から踏み込んで接近した。同時にワンツーを繰り出す。
「っ!」
最首は防御。が、ガードごと両腕が弾かれて無防備な上半身をさらす。そこから第二打が来るまで瞬間に最首は距離をとりつつ下段蹴りで甲斐の左足を削ぐ。
「……」
甲斐は予想以上の衰えを感じていた。もし右足が健在だったならば今の動きだけで十中八九最首を仕留めていただろう。出来なかった原因は慣れない左足での踏み込みのせいでワンテンポ遅れた事。だが、今度は外さない。二度目の失敗はない。そう踏んで前に出ようとした時、今度は最首が攻め込んできた。
先程赤羽に対して行ったものとは比べものにならないスピード。一秒で3発の蹴りを全く異なる軌道で放つ。
「……」
甲斐はそれを左手だけで全て防ぎつつ最首の動きを見切る。
「せっ!」
「っ!」
カウンター気味に繰り出した右手の一撃。拳速なら恐らく最首でも見切れたか怪しいほどの最大速度。しかし最首は反射的にバックステップする事で回避に成功した。
目にも止まらぬ速さの攻撃を回避するスピードと反応。最首ほどのスピードファイターと言えども難しいのではと予想していた甲斐は驚きと喜びを隠せない。
「……」
それを確認し、同様の感情を覚えながらも最首は踏み込む。時間が経てば経つほどに洗練され、加速されていく動き。目で慣れた頃こそ危険な最首のスピードに最大限の警戒をしながら左手のみの制空圏で防ぎつつ右手で反撃の機会を伺う。
「……せっ!」
そして甲斐の右手が最高速度よりやや下程度の速度で最首の顔面に向かって放たれる。
「っ!」
咄嗟にその手を払う最首。しかし、そのわずかな間隙に甲斐は一歩を踏み込んでいた。
「「せっ!!!!」」
その激突はまるで火花のように。その攻防は一瞬に極まった。
「…………」
終わってみれば甲斐の右拳は最首の胸に触れていた。だが、ほとんど触れているだけだった。逆に最首の右足の前蹴りが甲斐の下腹部に命中していた。
互いに制空圏を築き、それを交差させ、わずかな間隙にそれを突破して放った決着がこれである。
「………………負けだ」
甲斐が手を引き、わずかな汗を拭う。
「あくまでも腕試しだからね?こんなつまらない結果でぬか喜びさせるようなことを言わないでね?」
「そうだな。じゃあ、最首のおっぱいがもう少しでも大きければ発勁に切り替えてたんだがな」
「む、」
「最首、小学生から胸も背も成長してないからそこが敗因かな?」
「むむむ!」
「…………少し言い過ぎた?」
「反省!!!」
そこから歴代最速と言うほどのスピードで最首の空中三段蹴りが炸裂して甲斐は背中から畳の上に倒れるのだった。
・赤羽がシャワーからあがると今度は最首がシャワーを浴びることにした。
寮と合宿先くらいでしか使わないシャワー。初めて使う場所のシャワーというのはそもそも経験が少なくて緊張してしまう。
どうせ寮に戻ったらいつも通り入浴するのだから軽く汗を流す程度にしよう。
「……やっぱり小さいのかな、私」
高1で身長が150センチに到達せず、胸もまだAカップのまま。女子としての成長はそろそろ絶望しかねない。
悪い想像をしてしまわぬ内にさっさと体を洗ってしまおうとした時だ。
「……リンスが2種類ある?」
リンスだけじゃない。体を拭くタオルも2つあった。1つは赤羽のものかも知れない。だがもう1つは……?
「……本当に謎な子だよね。赤羽美咲」
とりあえず片方だけ使って手短にシャワータイムを終えるのだった。