「夏の記憶」(夏のホラー2021投稿作品)
今日も少し前から耳鳴りがするようになった。
珍しいものじゃ無い。
キーンと甲高いいつもの耳鳴りだ。
すっかり梅雨らしさを失ってしまった日本の初夏は今日も激しい雨が降ったばかりだ。その雨上がりの出来事だった。
誰しもが経験があるだろう。周囲の音が遠くなったかと思うと代わりに耳の奥で甲高い音が響き渡るあの現象。
僕は勝手に気圧の変化のせいだと思っている。こういった雨上がりや逆に台風が近づいて来ている時などによく起こるもので、特に珍しいものでも無い。
その日も(あ、またか)と思っただけでそのうち治るものとばかり気にすることもなく過ごすことにした。
雨が降っていたせいか電車の中はいつもより少し混んでいるような気がする。濡れた服や傘で湿気がかなり多く、たまにそっと届くエアコンの風が心地よくて早く次の風が来ないかなぁ、などと吊り革に掴まりながら考えていた。
不快指数はかなり高い。しかし社会人二年目、雨の日だから営業に出ないなんて事は口が裂けても言えなかった。突然のスコールでも先輩はにっこり笑って「行ってこい」と送り出してくれる。
ブランドものの皮靴の中まで濡らしてやっと駅に辿り着いたところで雨が上がり、その残念さも相まって僕の気分はかなり落ち込んでいた。
そんな時に耳鳴りのひとつやふたつ、誰も気にしないだろう?手にカバンと傘を持ってなければスマホに現実逃避していたところだ。
でも、その日の耳鳴りはいつもとちょっと違ったんだ。
一言で言えば「しつこい」
耳の奥にずっとノイズが残っている。鼓膜に変な圧迫感もあるしまるでトンネルの中にでも入ったようだ。酷い耳鳴りだった。
たまらず顔を上げる。
と、僕は雨上がりに輝く新緑に目を奪われた。
窓の外にちょうど河川敷が見えていた。この郊外の街並みに良く似合う、ちょっと田舎の風景。子供の頃によく遊んでいた場所、思い出の場所だった。
そう言えばよくこの河原でみんなと遊んでいたなぁ、なんて思い出に浸っていると耳鳴りがさらに酷くなった。
まるで耳元で怒鳴り散らされたようだ。
甲高い音は僕の耳に届く限界までボリュームを上げた。
思わず耳を押さえてしまう。周囲の人が変な奴という意味の視線を投げかけてくる。
でも僕はそれどころではなかった。
耳は無事だ。
大音量の耳鳴りは電車が鉄橋を通過する頃にはもう聞こえなくなっていた。問題はそちらでは無い。
僕の脳裏に蘇ってきた光景。
子供の頃の僕たち。
夏の日差しと草の匂い。
流れる川の水音と飛沫。
あの河原と激しい耳鳴り、僕はその二つを引き金に思い出してはいけないものを思い出してしまったのだ。
瞼の奥にその日の光景がフラッシュバックしている。
なんで、こんな強烈な記憶を普段は忘れてしまうのだろう?
一度思い出してしまったその記憶は僕の頭の中で耳鳴りに変わって大音量でそう問いかけていた。
あの日
小学校4年生の夏休み
僕は、僕たちは
友達を殺してしまったかも知れないというのに。
……………
その男の子の名前は確かカッちゃんと呼ばれていたはずだ。もうフルネームは思い出せない。
僕たちはその頃小学校4年生。何かを判断したり、しなかったり、何かができたり出来なかったり、そんな境目の年ごろだった。
僕たちは腕白な子供だった。まだ何が危険かもわからないまま、どこにでも出掛けて、どこまでも歩いて行ってしまう。よくいる背伸びしたい子供達だったと思う。
その中でもカッちゃんはリーダー格で1番の勇気がある子供だった。今、思い返すとただ無謀なだけだったのだが、鉄棒でも雲梯でもジャングルジムでもカッちゃんには怖いものなんて無かったし、上級生と駆けっこをしてもカッちゃんが勝ってしまう。月並みな言葉だがカッちゃんは僕たちのヒーローだった。
その日、僕たちはあの河川敷でかくれんぼをすることにしたんだ。
程よく木々の葉が生い茂り、隠れる場所には困らない。鬼にも隠れる子供にもやり甲斐のある楽しいゲームになるはずだった。
──── だった。
確か、最後の鬼は僕だったはずだ。
100まで数えている途中で川の方から大きな音が聞こえたんだ。
ドプン、だったと思う。
何か大きなものが水の中に落ちる音。バシャンではなくて重たい石が落ちるような、ドプン。
その後はあまりよくわからない。覚えていないのでは無い、わからないんだ。
誰かが叫んでいた。
その悲痛な声に驚いて顔をあげたのを覚えている。
誰かが駆け出していた。
僕はその場面を見ていない。その後の出来事も見ていない。僕はその時かくれんぼの鬼だったからみんなと離れて一人で居た。
ただ遠くにいたみんなが騒ぎ出し、なんとなく隠れていた子供達の間でただごとではない事が起こったのは子供の頭でも理解できた。
「カッちゃん!カッちゃん!」
友達の一人が叫んでいた。
僕はその時動かなかった。
動けなかった。
僕はそれを遠くからただ眺めていた。どこか自分には関係のない事なのだと思っていた。そう思い込もうとしていたのかも知れない。
だって、僕の足は竦んでその場から一歩も動く事は出来なかったのだから。
僕はただ、自分に割り当てられた役割だけをこなそうとしていた。
だって僕はかくれんぼの鬼なんだから。
「もういいかい?」
泣きそうな自分の声。僕は現実を見ようとせずかくれんぼが続いているかのようにそう呼びかけていた。
「もういいかい?・・・もういいかい?」
「カッちゃん!つかまれ!」
「早く誰か大人を連れてこい!」
僕の呟きが叫び声に消されてゆく。
「もういいかい?」
小声で何度も呟いたが、もちろんその声に答えてくれる友達は、
「もういいかい?」
一人も居なかった。
……………
僕たちは駆けつけて来た親にこっ酷く叱られた。
驚くほど多くの大人たちと、何台もの消防車、救急車も一台来ていたと思う。よく覚えていないがボートも何艘か出ていたのではないか?
すっかり日も落ちて僕たちはヘッドライトと回転灯の灯りの中で父親に拳骨をもらい、その後で抱きしめられた。友達の一人は消防署の人だと言うおじさんに色々と聞かれていた。
そしてひと段落した後、その場に何故かいた先生が僕たちに近づいて来て、
「みんな悪くない。これは誰も悪くないんだ。今日の事は忘れてしっかり寝てください。」
と、僕たちに向かって言ってくれた。その先生の気遣いで僕たちも駆けつけた親たちも皆、やっと解放された気分になり、確かカッちゃんの親だけを残して解散になったはずだ。
それから僕たちがその事件を思い出す事は無かった。
僕たちだけではない誰も彼もがあの出来事をまるで無かったかのように振る舞っていた。
今、こうして思い出してみるとその時、親も学校の先生も、ご近所の人たちも全て皆で力を合わせて僕たち全員がもうあの事件を思い出さないように、絶対話に出さないように気を遣ってくれたんだと思う。
まだ幼い当時の僕たちには、こんな事件はきっと受け止められない、そう考えたのだろう。
だから僕は今日、耳鳴りがするまですっかりあの日のことを忘れてしまっていた。
こんな大事件を。
その後、カッちゃんと一緒に遊んだ記憶はない。きっと、そういうことなんだろう。
なんで忘れていたのだろう、と僕は電車の中で周囲の目も気にせずに額に手をつけて俯いていた。額からも背中からも熱い脂汗のようなものが吹き出していた。
僕は
あの時、
友人を見殺しにしてしまったのだろうか?
友達はみんな何かしら動いていた。大人を呼びに行った奴、なんとか助けようとしていた奴、声をあげていた奴、けれども僕はあの時立ち竦んでいただけだ。
何もしていない、何も出来なかった。
泣き出した奴もいた。そんな友達を慰めることもせずにただ、かくれんぼの鬼なんだからここから動いちゃダメなんだ、と自分を言い聞かせていた。
今ならわかる、それはただの幼稚な言い訳だ。
かくれんぼの鬼なんだから、そんな理由は通用しない。あの時僕は助けに走るべきだったんだ。
目頭が熱い。
流石にこんな電車の中で泣きはしなかった。けど涙が溜まってくるのはわかる。あの時何も出来なかった自分が情けなくて、カッちゃんに申し訳なくて溢れ出たものだった。
僕には勇気が無かった。
友達を助けるための勇気も、現実を受け止める勇気も、何も無かった。
しかし、あの時の僕に何が出来たと言うのだろう?
確かに僕はあの友達グループの中では泳ぎが得意な方だった。スイミングスクールにも通っていた僕が飛び込めばカッちゃんを助けられたかも知れない。
しかし今の僕がその場にいて、そうやって飛び込もうとした子供がいたら100%止めることだろう。水難救助の難しさを知らないわけじゃない。子供が飛び込んでも犠牲者が増えるだけだ。
仕方なかったんだ。
そして、あれが正解だったんだと思う。
親も先生も、僕たちが危ないところで遊んでいた事は叱ったけど、救助しなかった事、救助出来なかった事を誰一人叱らなかった。
仕方なかった事なんだ。
仕方ない、と何度も言い聞かせて僕は顔をあげた。
雨はすっかり上がり、ビルとビルの合間にどんよりした雲がまだ残っていたものの、さらにその奥には真っ青な夏の青空が広がっている。
日差しももうすっかりと夏の強さで照りつけている。
僕たちがした事は消えはしない。僕はきっとこの記憶を一生抱えてゆく事だろう。
今はしがない新人サラリーマンだが、いつか結婚して子供を持ち、その子が腕白に育った時はこの話をまたするかも知れない。僕が抱えているものを打ち明ける時が来るかも知れない。教訓として知っておいてほしいと思う。
あれは仕方なかったんだ。
僕はもう一度だけ自分にそう言い聞かせて、そっと目を閉じた。もう濡れた皮靴の中は気にならなくなっていた。
あの事件は終わったんだ。
僕は瞳を閉じながら思い出と共に、その事実を胸に刻み込む。
そしてノスタルジーに駆られて最後にもう一度だけ、問いかけた。
誰にも聞こえない程度の呟きで。
「もういいかい?」
そう、ボソリと言った僕に
返事が来た
「まぁだだよ。」