日出処の転生者
「新しいクラスメイトの諸君、俺は相川・A・新人。イニシャルAAA、トリプルAの男だ、よろしく!」
初めて入る高校の教室の扉を開け、俺は気合と共に挨拶をした。
俺の声が響き渡り、教室がシンと静まり返る。
「そうか」
一番に反応したのは、俺のいる入り口から最も離れた窓際の後ろ、超羨ましい席に座る少年だった。
ふっ、正反対の位置にまで届くとはさすが俺の声の威力よ。
よく日焼けした肌に、左右対象に整った顔付きのそいつは、髪が艶を持つほど綺麗な黒色をしたイケメンだ。
因みに、俺は地毛が明るめの茶色で、ふわふわの猫っ毛。中学の時には、猫みたいで可愛いと、女子に撫でてもらったもんだ。
銀フレームの眼鏡をさり気なく直すと黒髪イケメンは、だから何だと言わんばかりに腕を組んで、顎を俺に向けた。
存在感のある奴だなあ、ってのが第一印象だ。飛び抜けて体格が良いわけでもないのに、既にクラスの空気の半分くらいを制圧している。
主に女子のチラチラ目線て奴な!
俺のライバルになるのはこいつだと確信を持って俺は黒髪イケメンの席に近寄る。
「お前のイニシャルは何だ?」
俺がそいつに話しかければ、教室はまたザワザワと騒ぎ始めた。
それでもいくつもの意識が俺達に向けられているのを感じる。今ここに、クラスの頂点を争うであろう二人が揃ったからな。
「H・Wだ」
黒髪が答える。
「うわ、お前Hのことエイチって言うんだ。ああ、もしかして栄光とかの叡智と掛けてる? 叡智のダブリュー、いい響きだな。いやでもその場合は日本名の方が合ってるよな。お前、名字は?」
「……後で自己紹介とかあるだろう。その時にでも聞いてくれ」
黒い目が真っ直ぐに俺の目を見て、なのに素っ気ない言葉が返された。
「ええ、勿体ぶるなよ。名前教えるぐらいいいだろう? これから一年間は同じ教室で学ぶ仲間同士なんだし。あ、この場合の同士は志を同じくするって意味も含まれてるからな」
「よく喋る奴だな。恥ずかしくないのか、そんな事ばっかり言ってて」
失礼な奴め、俺が一生懸命会話を盛り上げようとしてるってのに。
「ああ、こういう時は先に名乗るのが礼儀だよな。俺の名前は新しい人って書いてアラトって読むんだ。ふふふ、何を隠そういずれ俺は、世界で初めて人を超えた新たな存在、新人類と呼ばれる事になる男だ」
左腕を腰に、首は少し斜めにして背筋は伸ばす。椅子に座った黒髪イケメンを意味深に笑って見下ろしてやる。
「新人類。クロマニョン人か、似合いそうだな」
「黒魔ニオン? ふむ、日本語と外国語を合わせて造語を作るとはなかなかいいセンスしてるな」
俺が黒髪を褒めている時、教卓の方から女の人の声が聞こえてきた。
「おーい、新入生どもー。旧石器時代に戻るなー、現代人らしく席に座れー」
特徴的に語尾を伸ばした喋り方をするのは、恐らく担任の教師だろう。
俺も慌てて席に着く。
「ほらほら座れー。後ろの奴に私の美貌が見えないだろー」
「よく言う、先生。ってぅおー! まじ美人じゃん!」
教壇に立つ先生は、真っ直ぐな黒髪に大きめな瞳で、可愛い系の顔に薄い化粧、そして濃い灰色のパンツスーツ姿だ。
それと、背が小さい。
多分150センチメートル位。クラスの女子の中でも低い方だろう。
「そーそー。まじ美人だけど縮めてマジンとか呼ぶなよー。これ以上縮めると先生、小学生に間違われるからなー」
梅橋小鳥、と綺麗な字で黒板に書くと先生は振り返った。
「今日からこのクラスの担任になる梅橋小鳥ですよー。社会科担当だから、社会はちゃんと受けてなー」
全体的に力の抜けたような喋り方をする先生だけど、不思議とその声はよく通っていると思う。
「それじゃー、端から自己紹介してくれー」
よしきたっ。いよいよ俺のターンだ。
相川新人、人生で自己紹介はほぼ最初だぞ!
「皆、俺の名前は相川・A・新人! 新しい人と書いてアラトだ、女子も男子もアラトって呼んでくれ。イニシャルはAAA、好きな物は漫画という名の読書とゲーム。趣味は筋トレ! 将来の夢は異世界に行く方法を見付けて、人を超えた力を身に付け、新人類と呼ばれる事だ」
よし、用意していたセリフは言い切ったぞ、どうだ!
黒髪イケメンの声で黒魔ニオン人と聞こえた気がしたが、今は俺のターンだ。お前の出番はない。
「んー? 相川ー、出席簿にミドルネームの記載がないけどいいのかー?」
「小鳥先生、書いといてください。俺はAAAとして新人類になる男です」
「先生は梅橋だけどまあいいかー。相川、正式なミドルネームは何だー?」
「Aです先生」
「んんん? エー何だー?」
「アルファベットのAですよ先生」
何を隠そう、中学までの俺はAAのアラト・アイカワだったが、高校からは超高校生級、AAAを名乗る事にしたんだ。
いずれは名字がSで始まる俺の事が大好きな可愛い子と結婚してSAになると言う野望を秘めているが、これは口にしない。秘密は心を強くする気がするしな。
今は理想のSを探している。
「そーかー。わかったー。先生は生徒の名前も大事にするぞー。じゃ、次の人自己紹介してー」
特徴的な先生の声を聞きながら黒板に書かれた文字を見返す。
梅橋小鳥。
UAって言うのも悪くないな。
むしろスーパーとかスペシャルより上のイメージがないか?
うん、Uも候補に入れていいかもしれない。
そんな事を考えている間にクラスの自己紹介は進んでいた。
まあ、可愛い子の名前はバッチリ覚えたからね。
そして最後の一人、窓際最後列の黒髪イケメンが立ち上がった。
前を見据える黒髪イケメンの銀フレームの眼鏡がキラリと光った。
こ、こいつ。まさか眼鏡に何か仕込んでるんじゃないだろうな。
見たものの強さを計るとか、嫌な相手に怪電波を送るとか。ハッ、もしや調べた能力を実は国の機関に送っているという可能性もあるのか?!
よし。それならお前のターン、俺はお前の手の内を全て探ってやる。
「藁池光だ。趣味は特にない。以上」
こいつ、座りやがった。
情報が名前だけだと?
いや、姿勢はいいと言うか身体全体のバランスがいい事から、普段から何かスポーツをやっているはずだ。
それに堂々とした態度。自分に自信を持っている。
自信を持つと言うことは、それに見合うだけの努力をしてきたはずだ。
委員長とか呼ばれてそうだな。でなきゃ生徒会とかやってそうだ。
こいつの名前、何だっけ? ワラなんとかって。
配られたプリントの中に多分名簿が、っとあったあった。
「なんだ、これ。藁、池? 初めて見る名字だ。ハッ、ってことは藁池君の家はワライケ家になるのか! ぶふぅ」
ワライケケ、もう一度口の中で唱える。思わず笑いたくなる呪文のようだ、肩が震えてしまう。
「そんなにおかしいか?」
低く威圧的な声に振り返れば、黒髪イケメンもとい藁池光が鋭い目つきで俺の事を睨んでいた。
「いや、ほら珍しいから。でも名字聞いただけで人を楽しくさせるなんていい名前ってことじゃないのか」
ワライケケ。パニック系の魔法に使えそうだ。
「現実を見ろ」
藁池の声がピシャリと俺を打つ。
「他人の名を笑って楽しいか? お前のやってる事は相手を不快にさせる事だ」
「俺はそんなつもりは……!」
「ほーい、その辺で落ち着けー。藁池もなー。先生は藁の池があったら飛び込んで昼寝するくらい喜ぶぞー。相川はちょっと考えてから喋ろうなー。はーい、皆静かにー」
小鳥先生が近日の予定を話していたが、俺の頭には入ってこなかった。
俺が、あいつの名前を笑った? 違う! きっと皆を楽しくさせる魔法だって思って。
いや、そうなんだ。俺は笑ったんだ。
あいつを、藁池を嫌な気持ちにさせたのか。それは、怒るよな。
誰かを怒らせたら。簡単だ、謝ればいい。
そう簡単だ、謝ればーー。
「ごめんって俺、いつもどうやって言ってた?」
考えに沈む俺には、その言葉が口から出たのかどうかも分からなかった。
「先生、俺は人類の古代史に興味があるのですが、この学校に初期の鉄を使った鏃や槍の穂先の再現模型があると聞きました。直接見る事って出来ますか?」
藁池の真面目くさった声が聞こえてきて、俺は意識を取り戻した。
いつの間にかホームルームは終わっていたらしい。
早い生徒はもう帰宅を始めている。
「おー、いいねー。若人は知識に貪欲でないとー。資料室にあるから見るだけなら何時でもできるよー」
鏃に槍、だと?
「小鳥先生、俺も興味ある! 見に行きたい!」
「相川もかー、いいぞー。今日は先生、とても忙しいから案内できないけど、資料室は北棟の1階にあるから二人とも見てくるとよーい」
「先生、社会科の担当ですよね。今度メソポタミア文明や鉄加工の始まりと言われているトルコの遺跡についての資料の手に入れ方を教えて下さい。出来れば紀元前2000年から1000年頃で、青銅器時代から鉄の加工がいつ頃始まったのか知りたいので」
捲し立てるように早口に言う藁池はどこか焦っているようにも見える。
「やる気だなー。藁池は、インディー・ボーンズになれそうだなー」
小さな肩を上下に揺らして、小鳥先生がころころと笑う。
はあ、と深くため息を付き藁池は額に指をついていた。
「現実を見ろ、先生。インディー・ボーンズは架空の考古学者だ。映画に出てくる冒険もアクションも、古代人の使う魔法やら遺跡の罠もみんな作り物だ。俺は本物の歴史を知りたい」
おういっ!
こいつ、小鳥先生に現実を見ろって言ったぞ。
強気だ、ってか普通にヤバイだろう。
「藁池ー、大人にゃー現実は辛いもんよー?」
小鳥先生は相変わらず、脱力系の声で小首を傾げて返答していた。
思わずホッとしてから何で俺がホッとするのかと、頭をぶんぶん振って正気を取り戻した。
「藁池や〜、小鳥飛び込む、草の音ぉ」
小鳥先生が教室を出て行ってすぐ、藁池の前に男子が三人現れた。
拍子をつけて歌のように藁池に聞かせている。
ニヤニヤとした顔は善意からだとはとても思えない。
つまり、悪役登場か。
しかし今の歌、聞いたことあるなあ。俳句、だっけ。
【古池や かわず飛び込む 水の音】誰だったかな、小林一茶、いや、松尾芭蕉だな。
こんなくだらないからかいに使われるなんて、芭蕉もかわいそうだ。
大きな溜息とともに、低い藁池の声でボソリと聞こえてきた。
「分け入っても……」
これは確か種田山頭火の、5・7・5じゃないので有名な俳句。
【分け入っても 分け入っても 青い山】だったかな。
「分け入っても……青い野郎」
「ぶふぁははっ、何だよ青い野郎って」
真面目に俳句呟いたかと思ったら、青い野郎って。
やる事がガキだって事か。
「くくっ、俺、お前結構好きかも。いいセンスしてるよ。なあなあ、藁池、資料室に行こうぜ。俺も興味あるんだ、昔使われてた弓矢の鏃とか槍とかが見れんだろう」
藁池の肩に手を掛けて言えば、一瞬眉を上げたもののフッと息を吐いて口の端を上げた。
「おいふざけんなよっ、お前AAAとか言ってる馬鹿な奴だろ。格好いいとでも思ってるのか? 厨二病かよ」
「ダサいよな」
「恥ずかしいと思わないのかよ、俺たちに近寄るなよ仲間だと思われる」
三人組が俺にも突っかかってきた。これはゲームで言うなら強制的な戦闘、エンカウトか。
相手は身体が大きいボスタイプが真ん中に1体、左右は小柄なヒョロイのが2体。
からかってやろうぜって悪意が見え見えだ。
主人公の出会う初期の敵と考えるなら、力技のオークにゴブリン2体ってところか。
伊達にAAAを名乗ってるわけじゃない。日々の筋トレの威力はプロの格闘家に近いレベルだぜ。最近じゃシャドーボクシングの相手を5人にして修行してる。
こんな連中、俺の相手じゃないんだよ。
だがここは場所が悪い。
たくさんの生徒の目がある教室の中で、他クラスの先生だって廊下を頻繁に歩いている。
三十六計逃げるが勝ちって言葉がある、ここは戦闘を避けるのが勝ちだな。
「近寄ってきたのはお前らの方だ。俺たちは今から用事があるからもう行くな」
そう言って鞄を持って藁池をうながせば、藁池も荷物を持って廊下へ向かう。
「おい、変人ども。お前らちょっと頭のネジ外れてないか?」
オークが身体のデカさを活かして威圧してくる。その横に定位置とばかりに二体のゴブリンが付き添う。
ああ、こんな時に言いたい句を思いついたぜ。
【すずめの子 そこのけそこのけ お馬が通る】小林一茶。
弱く小さな存在が、傷つくまいと大きなものより逃げ去る光景が目に浮かぶ。
俺はオークに目を合わせて声に力を込めた。
「エキストラ、そこのけそこのけ、主役が通る」
俺が何と言ったのか理解出来なかったらしく、オークもゴブリンも首を傾げている。
「現実を見ろ。誰が鬼だ、大馬鹿の間違いだ」
藁池だけが、横目で俺に指摘してきた。大馬鹿はひどいぞ。
オーク達も、意味は分からずとも、俺に馬鹿にされた事は感じたようで、向かい合う俺と藁池対オークゴブリンチームは、戦闘に突入しようとしていた。
が、その時大歓迎の横槍が入ってきた。
「ねえ、藁池くん。光君て呼んでいい?」
「あー、私も光君て呼びたい」
「ねえねえ、光君、スマホ持ってる?」
クラスの女子の集団が、廊下に先生達の気配がなくなったと見て藁池に群がったのだ。
スマホは授業中の使用禁止などの決まりがあるため、先生の前だと堂々とは切り出し難かったようだ。
「皆でトークグループ作ろうよ。クラスの女子はね、皆もう入ってるの」
「そうか。じゃあ俺だけじゃなく、ここにいるこいつらも入れてくれ」
「うんうん、もちろんだよぉ」
律儀に鞄からスマホを取り出すと、藁池は女子達にアドレスを教え始めた。
「お、俺も!」
「あー俺も俺も」
「よろしくお願いしますっ」
と、オークゴブリン軍団も仲良くトークグループに仲間入りだ。
俺もしっかりグループ入りしてきた。
「お前、大人だな」
登録を済ませてさり気なく廊下へと進んでいた藁池を追いかけ、俺はすっかり感心していた。
悪意丸出しの馬鹿な男子に、クラスの女子と喋る機会を与えるなんて、こいつ懐がでかい。
ふん、と鼻だけで息を吐いて藁池は黙って歩き出した。
「ここが資料室かあ! すげえ、色んな物がある」
北棟の資料室に入れば、そこは日常とは違う空気が住んでいた。ガラスに展示された品物の数々に、まるで本物の歴史資料館の中にいる気分になる。
「さすが時代研究に活発な部活がある高校だな」
藁池は興味深く資料を覗き込み、目的の鏃や槍を見つけたらしい。
「なんかボロボロだな」
本物の武器が見れると思って来た俺だが、ここにあるのはどれもボロボロに崩れた形もはっきりしない塊ばかりだ。
「4000年、形が残ってるだけでも凄いと思わないか? その間に戦争や災害にも遭っているんだぞ。これを作るために、どれだけの苦労と、使う時には……。いや、それもまた歴史だな」
流暢な喋りを突然止めた藁池に振り向けば、全身にびっしりと汗をかき、青を通り越して土気色の表情をしている。
「おい、藁池っ。顔色悪いぞ! 大丈夫か? ちょっと座れ、横になってもいい。部屋の空気が悪かったか? 今換気してくる」
慌てて窓へと走り寄る俺の背中で、藁池が何かを言っているがそれどころじゃない、後回しだ。
「相川、この部屋の窓は固定されてるから開かない。換気扇のスイッチを……」
立て付けが悪いのかなかなか開かない窓を、俺が勢いに任せて力一杯開いた時だった。
ガラガラガラッと沢山の物がぶつかり合う音で鼓膜が破れるかと思った。
それから、床の揺れる地震のような衝撃。
資料室の棚が、いくつも壁から剥がれて床に倒れていっている。
AAAを名乗る俺の力は伊達じゃないって言っただろう。
俺の背中を冷や汗が流れた。
割れたガラスの破片を踏まないようにと一歩踏み出した時だった。足の下で透明なガラスのカケラが消えていく。
いやそれどころか床の色まで消えていくようなって、周囲にはいつの間にか壁や学校すら無くなっていた。
「な、んだよこれ」
茫然と見回してみれば、高い山の上にいるようで、空が近く、遠くの景色が遥か下に美しく広がっている。
俺の知っている日本ではない。電柱も電線も、道路やビルも視線の限りに無いのだ。
「まさか、異世界っ! よっしゃーあ!」
身体の奥から湧いてくる喜びに、俺は思わず拳を握っていた。
「ぃってててて」
小さく聞こえた声に振り向けば、そこに地面に座り込んだ藁池がいた。
「お、お前も一緒だったのか。巻き込まれって奴か? ん、おい顔色悪いぞ。大丈夫か?」
資料室でも、具合の悪そうだった藁池は、今も吐き気を堪えるような顔をしている。おそらく、異世界転移の際に身体に負担がかかったんだろう。
俺は全く平気だけどな。
「大丈夫だ。すぐに落ち着く。それより、ここはどこだ? どうしてこんな所に。学校はどうなったんだ?」
その疑問は無理もない。普通の人間がいきなり見知らぬ土地にいたら不安を感じないはずがない。
俺はワクワクしてるけどな。
「落ち着いて聞いてくれ。藁池、ここは多分異世界だ。俺たちの住んでいた地球とは違う。魔力があったり、魔物が出たりするかもしれない。とりあえず力を合わせて……」
「現実を見ろ。俺たちには影がある。角度から言っても光源は一つ、影の長さから真南に近い位置に太陽が来ているはずだから今は昼頃だ。人間の視力は4、5キロメートルだそうだが、ここから見える範囲で、南側から少し西寄りに海のような水のきらめきが見える。4キロ先に見える地平線。丸く見える空、呼吸のできる空気に身体に感じる重力。ここは高確率で地球だ」
「何を、言ってくれてるんだ、藁池。不安なのは分かるが、学校にいたはずの俺たちが突然見知らぬ場所にいるなんて、そんなの異世界転移しか考えられないだろう!」
「異世界なんて馬鹿げている。現実を見ろ、異世界に行った人間なんているのか!?」
「っ、だったらこの状況はどうなんだよ。なんなんだよ! お前ならどう説明するって言うんだ?」
周囲に人の姿は見つからない。この世界に人がいるのかも分からないし、最悪見知らぬ人間は殺されるか、奴隷扱いなんてハードモードの可能性もある。
「……夜に星が見えれば、星座の位置から地球かどうかが判明するだろう。見える天体から北半球か南半球かも分かるバズだ。今は日光が当たって暑い位だが、空気が乾燥しているように感じる。夜には冷えるかもしれない」
「お前は何なんだよ。きっちり説明しやがって」
嫌味な奴だな。状況の変化に戸惑ってたらまだ可愛げもあるってのに。
「そうだっ、こう言う時はまずはスマホの確認だ」
そんな簡単な事を忘れていた。
「当然、圏外っと。時間は11時20分か、資料室にいた時間と変わらないな」
「なるほど、太陽が真南に来る時と日没の時間で何か少し分かるかもな」
そう言って藁池は地面にルーズリーフを1枚置くと真ん中に鉛筆を突き刺した。
現在の影の形を書き写し、分度器を添える。
「正午まで約30分と言った所か」
「まめな奴だな。と言うか、お前何でそんな事知ってんだよ」
「太陽と時間の関係は小学校で習うだろう」
「あれが太陽ならな!」
だらだらと喋っていたが、ここでじっとしていても得られる情報は少ないだろう。
少し辺りを探索してみようと思う。
藁池の顔色はまだ悪いので、ここに残して俺だけで情報収集をした方がいいだろう。
「藁池、俺は少し周りの様子を探ってみようと思う。お前はここにいてくれ」
「ならこれを持って行け。同じ方角に歩き続ければ迷う事はないだろう」
そう言って藁池が鞄に付いていた小さなストラップを外した。方位磁石だ。
「北側が下がっているから、北半球にいる可能性が高い」
「地球だったらな。いい物持ってるな、借りてくよ。そうだ、これ掛けとけ」
顔色の悪い藁池に制服の上着を貸して、俺はまず南側へと足を進めた。
「で、これが周囲の様子を撮ったムービーな。あと食べれそうな木の実も見付けたから採ってきたぞ。どうだ、俺は出来る男だろう」
一時間程で周囲の探索を終えて、俺は藁池のいる山の頂上付近に戻ってきた。
この高い山の上からだと、周囲が一望できて分かりやすい。
南側の山の麓には村らしき人家のような建物も見られた。
「念のためにスマホの充電は温存した方がいいんじゃないか?」
不安げに聞く藁池に俺は胸を張る。
「ふふん、こんな事もあろうかと、俺は太陽光式モバイルバッテリーを持っている。太陽の光があればスマホの充電は出来る。もちろん、お前も使っていいからな」
リュックサックに付けたソーラーパネルと、黒いバッテリー本体を見せて俺は白い歯を見せる。
本当に、俺ってば出来る男だ。どうして一緒に転移したのが可愛い女子じゃなかったんだ。神様も気が利かないな。
「用意がいいな。なら遠慮なく使わせてもらう。撮ってきた画像を見せてくれるか?」
藁池に俺のスマホを渡して、替わりに藁池のスマホを受け取り充電する。
鉛筆の日時計には真南の位置に12時とその先に1時2時3時と続いて書き込まれている。
日没予想位置に春とか秋とかまで書いてあった。本当にまめな奴だ。
「海の色が違うな」
ポツリと呟いた藁池に振り返ると、スマホの画像を見ながら眉間にしわを寄せていた。
「別に、海の色は普通だろう。ピンクとか紫でもないし。そうだ、南の麓に人家みたいなのを見付けたんだ、動けるようならそっちに行ってみようぜ。川もあったから水分の補給もできる」
「生水は飲むなよ」
「えっ……」
「飲んだのか。腹を下すかもしれないぞ。沸騰させてから飲むようにしろ」
そうだ、そんな単純な事も忘れていた。現代日本にいると水が貴重だって事は知っていても、水中の細菌に気を使う事なんてないもんな。
「相川」
真剣な顔の藁池に呼ばれて俺もキメ顔を返す。
「ここは、もしかしたら、アナトリア半島かも知れない。それも……多分、大昔の」
藁池の声は震えていた。
「アナトリア半島ってどこだ? 有名な世界なのか?」
「有名な世界ってのはなんだ。アナトリア半島はヨーロッパとアジアをつなぐ位置にある半島の地名だ。南に地中海、北に黒海、西側にはエーゲ海がある海に囲まれた地形だ。そのほとんどをアナトリア高原が占めている」
「ヨーロッパに、アジア? ここは地球だって言うのか!」
異世界だろう、どう考えてもこんな不思議体験は異世界転移だろうがあっ!!
叫びたくなる気持ちを指先に込めて開閉を繰り返す。
「これがお前の撮ってきた画像だな。こっちを見てくれ、俺のスマホに入っているマップアプリの衛星写真だ。陸地の形がほぼ一致する」
「お前は、方位磁石持ってたり、容量馬鹿でかい地図アプリ入れてたり、何なんだよ。異世界経験者か!?」
「現実を見ろ。ここは異世界じゃない、地球だ。ただ文明が余りに21世紀らしくない。近くで見なければはっきりとは分からないが、少なくとも2000年以上は昔だろう。キリストの生まれる前の時代だ」
「だから、お前は何なんだよ、歴史博士か! 地球大好きっ子か! そんなに自分の考えに自信を持てるのかよ」
「お前は駄々っ子だな」
うがーっ! 頭にくる奴だ。
「簡単に言うなら金属オタクだ。その方位磁石も俺が自分で作った。地図も世界中の採掘場をいつでも確認できるようにだ」
金属オタク? それで地球かどうかが分かるのか?
「金属の中でも鉄は最高だ。炭素を混ぜ合わせる事でできる鋼と、それをさらに鍛え上げて作られる玉鋼の産み出す作品はもはや芸術の域すら超え、神の領域に達していると俺は感じている」
「そ、うか。まあ、俺はそこまで金属への愛はないかな。武器とか鎧は好きだけど」
「その武器や鎧を作り出すために、金属を溶かし加工する冶金を考え出した者達の熱意はまさに生命を生き抜こうとする……」
「あー、その辺で止まってくれ。取り敢えず今の状況を知るためにはやっぱり人里に降りるのがいいと思うんだ。山の中ならこれから寒くなってくるだろうしな」
「それもそうだな」
現在の影の位置をルーズリーフに書き記すと、藁池は方位磁石を確認して立ち上がった。顔色は大分良くなっている。
藁池の書いたルーズリーフ上の時刻は15時40分。俺のスマホは15時38分を示していた。
こいつ、怖ぇ〜。
「それで、ここがそのアナトリアだとしたら結局どこなんだ?」
俺たちは川伝いに、獣道もない山を下っていた。
日本から出た事のない俺には、世界の国の場所もあやふやだ。西にヨーロッパ、東側がアジア、南半球にアフリカやオーストラリアがあるって位の知識しかない。
「アナトリア半島は現在ではトルコの一部だ。アジアの中でも西アジアに分類される。ローマ、エジプト、ギリシャなどの古代文明と呼ばれる時代、ヨーロッパにとってアナトリアはアジアの全てだった。その先に、広い東の国々と地域があるなんて知らなかったんだ。大航海時代の先に、今の地域がアジアと呼ばれるようになり、ヨーロッパにとってのアジアだったアナトリアは小アジアと呼ばれる事になった」
小アジア、初めて聞く言葉だ。小さいアジアみたいな名だけど、今の話を聞くなら逆にそこが最初のアジアだったのか。
「アナトリアの語源を知っているか?」
「知るわけないだろ。初めて聞いたんだ」
「いや、中学でも一度くらいは聞いてるはずだが。まあいい、アナトリアの語源はギリシャ語の『アナトリコン』日出る処って意味らしい」
藁池がニヤリと笑う。
日出る処、それって日本の事じゃなかったか!
「金属を産み出す東の国、まるで日本の事みたいだよな。俺がアナトリアに親近感を持った理由でもある」
かなり傾斜もきつく足場も悪い山道を、藁池は喋りながら歩いている。
汗はかいているが苦しげな様子もない。
かく言う俺も、まだ体力に余裕はあるんだけどな。
こんな時は、一緒にいるのが体力のある奴で良かったと思う。
「鉄の加工を人類で初めて行ったのが世界四大文明の一つ、メソポタミア文明と密接するアナトリアだと言われている。ヨーロッパとアジア、アフリカを繋ぐ位置にあるため歴史上何度も戦禍に見舞われてきた地だ。争いを生き抜くため、より強い武器を人々は求めたんだろうな」
「なあ、藁池」
熱く語っている藁池には悪いが、今の俺にはもっと別の情報が欲しい。
「もしここがそのアナトリア半島だったとして、日本に帰るにはどうしたらいいんだ?」
数日間のサバイバル生活や古代風生活だったら構わないが、もしも本格的にここに住まなければならなくなったらと思ったら、さすがに血の気が引いた。
今はスマホが使える。でも1年後は? 2年後は? 特別な力も何もない状態で、戦争を繰り返すと言う地域にいたなら。俺は、生き残れるのか?
「……知るかっ。船でも陸路でも日本に戻れると思うか? 三蔵法師が中国からインドに旅したよりも遠いんだぞ」
「そうか。それにそうだ、日本は昔は鎖国してたんだよな。行けても入れないかも」
日本が西洋から身を守るために鎖国してたってのは知ってる。それなら、日本の情報を集めるのも難しいかもしれない。
藁池の歩みが止まった。俺を見たまま口をぽかんと開けて固まっている。
「鎖国は江戸時代の話だ。古代期には鎖国どころか、日本って国がない」
「えっ! じゃあ日本は海の中なのかよ」
陸地って確か火山の噴火で出来るんだよな。じゃあ日本はまだ海の中か。富士山はいつ日本を作るんだ。
「頭が痛い」
藁池が頭を抱えている。
元々悪かった具合が悪化したのだろうか。
「日本はまだ大和の国にも黄金の国にも、東の国にすらなっていない。ヤマトタケルも卑弥呼もまだ誕生していないんだ」
俺、すげー昔に居るみたいだ。
「結構歩いたし、少し休もうぜ。焚き火熾そう」
人家に辿り着く前に日が暮れ始めてしまった。どんどん濃くなる影の色に、疲労と緊張が積み上がってきた。
俺たちは暗闇を歩くよりも、火を熾して夜を越す事にした。
歩きながら拾った小枝を積み上げ、ノートの切れ端を中に突っ込む。
「ジャーン!」
俺は鞄の中から秘密道具を取り出した。マジックペン型火打石だ。これでどこでも火が付けられるってもんだ。
「面白い物を持ってるな」
興味津々に見てくる藁池に、俺の鼻も高くなる。異世界で最初にサバイバルは基本だからな、日常持ち歩いても違和感のない形を探すのに苦労した品だぜ。
俺の採ってきた木の実と、リュックに入っていた簡易食糧で腹を満たす。
「お湯が沸いたな、もう飲めるぞ」
そう言って藁池が差し出したのは金属で出来た水筒の蓋だ。熱いのでハンカチタオルでくるんで受け取る。
藁池はと言うと、こいつ皮手袋持ってやがった。金属の加工に必要だとかで普段から使ってるらしい。
奴の鞄から湯たんぽみたいな水筒が出てきた時は驚いた。
「こいつも俺が作った水筒だ。直接火にかけられる水筒はなかなか売ってないからな」
方位磁石に続いて、水筒も手作りとか、さすがに金属オタクを名乗るだけはあるな。
いつの間にか、辺りを濃い闇が覆っていた。直ぐそばにある木々でさえ、墨で塗りつぶしたように真っ黒な森を作り出している。
一歩先の暗闇が、鳥肌が立つほどに怖いと初めて感じた。
「やはり北半球だな。北斗七星がある、地球に間違いない。月が、すごく近いな」
見上げる藁池の視線を辿って俺も空を仰いだ。
黒を彩る無数の輝く星に、夜空が美しい物だったと思い出せた。この感動は忘れたくない。
ウヲーン! ヲオオーン! ゥオーン!
夜空を引き裂く遠吠えに、電流が走ったように身体が跳ねた。
「今の、やばいやつだよな」
「コヨーテか狼か、生息する動物までは知らないが、厄介な肉食獣がいるのは間違いないだろうな」
藁池と顔を見合わせ頷き合う。
「薪を集めよう、火を絶やさないように」
「武器になる物の確認も」
小鳥先生、藁池が銃刀法違反で捕まりそうです。
「刃は付けてない、ただの金属の棒だ。アルミ製だから強度も大して無い」
藁池の鞄のポケットに並ぶペンのような形をした金属棒の数々。忍者の使う棒手裏剣に似ている。
それがひいふうみいよお、四十本ほど。学校に持ってける物じゃ無いよな。
それからさらに藁池の鞄から出てきたのは弁当箱を模した武器庫だ。
箸は金属、箸箱も金属、食事用ナイフはもちろん、フォークにスプーン、串に、肉叩きに、おろし金。これでこいつ、食べ物は何一つ持ってなかったからな!
「俺のことより、お前はどうなんだよ! 異世界だ何だ言ってるんだから、何かあるだろう」
「まあ、って言ってもカッターと十徳ナイフくらいだぜ。あと5キロの鉄アレイ二つ」
「……鉄アレイを持ち歩いてたのか」
「身近で一番武器になりそうだと思ったんだよ」
武器はこれで何とかなりそうだな。魔物じゃなくて普通の生き物なら大丈夫だろう。
なんて思ってた時期もありました。
「怖え! 怖えよ、こいつら!」
暗闇の中から近づいて来たのは茶色い毛をした、大型犬に近い大きさをした狼らしき生き物だった。
実際に狼かは知らねえよ? だって俺狼見たことないもん。
でも、狼っぽい雰囲気だから狼って呼ぶ事にする。
低い声でウーウー唸って、いつ飛びかかろうか見計らっているようだ。今見えてるだけで4頭。
足音とか鳴き声とかからするとその倍は居そうだ。
焚き火の明かりに反射して、沢山の目が銀色に光っている。
鉄アレイを握りしめた掌が汗で滑る気がする。
狼から体を背けず、視線だけで藁池の様子を伺う。棒手裏剣もどきを手の上で転がして、やたらと落ち着いている様に見える。
藁池の眼鏡が炎をキラリと反射した。
「おい、お前の眼鏡の機能は!?」
「はっ? 眼鏡の……機能? 視力を補助するものだが」
「違うっ! なんかこう周りを解析したりとか、強さを計ったりとか、特殊組織の中で通信できたりとか!」
このピンチにこそお前のその能力を発揮しないでどうすんだよ。
「お前は眼鏡に何を求めてるんだ? 現実を見ろ、ただの眼鏡だ」
そう言って渡された眼鏡は、余りにも軽く。俺の心を地の底に埋める程重たくした。
戦うしかない。覚悟を決めろ! 俺は、アイカワ・A・アラトだ。
「はぁはぁ、はぁ」
「う、おーーっ、やってやったぜ!」
俺たちは、何とか狼どもを追い払った。
やはり鉄アレイは効く。振り回す筋力とバランス感覚が必要だがな。
それに、藁池が焚き火に投入した金属の粉とかいうのが閃光と軽い爆発を起こして、最終的に狼たちは逃げ出したのだ。やっぱ藁池は銃刀法違反だと思うぞ。
狂犬病の恐れのある狼に噛まれはしなかったが、軽い裂傷や打撲があるのは仕方ない。
命があっただけ本当にありがたいと思う。
「どうだ、藁池。狼に鉄アレイで挑む、これが新人類、黒魔ニオン人になる男だ!」
ニヤリと笑って見せれば、藁池は困ったように視線を泳がせた。
「どうした、見惚れたか?」
ははは。狼に対して、人間の戦い方ってのを教えてやったぜ。
あーでも、ボロボロの制服に「現実を見ろ」とか言われそうだな。
「いや、その。クロマニョン人は石器時代の人類だ。あの時はからかうような事を言って悪かった」
藁池が謝った、だとーぉっ!!
「いやいやいや、そうだ、俺も悪かったな。自己紹介の時、名前をからかったりして。でも俺本当にいい名前だと思ったんだぜ、魔法の呪文の名前にしようとしてたんだからな」
「そうか。よし、じゃああの事はお互い水に流そう」
「おう! それでさ、どんな魔法か気にならないか? ワライケケの呪文はな、どんなに争ってる最中の人間でも戦いや怒りの気持ちを鎮めて楽しい気持ちになるんだ。友好的な態度に変わるから新しい地域に旅立つ時にはあると有利に進展して……」
「いや、別にその話はいい」
「いやいや、聞いてくれよ。それでな、どんなに怒ってても楽しくなるのに、このワライケケは泣いてる奴には効かないんだ。悲しい気持ちを無理やり消す事は出来なくて」
「頼むから、やめてくれその呪文の話は」
「え〜」
せっかく考えた設定なのに、藁池のやつは耳を押さえてまで聞いてくれなかった。なんだよう、残念。
夜明けまで、俺たちは交代で見張りをしながら休んだのだった。
倒した狼の死骸を持って村を訪れると、俺たちは大歓待を受け、死骸は直ぐに解体され、毛皮と肉に分けられていった。
少し濃い肌の色に、癖を持った黒髪、左右対象に並んだ黒目は少し垂れ目がちな人が多い。
皆、白、というよりかは生成りの毛糸で作った、布を紐で縛ったような格好をしている。
俺たちは藁で覆った小さな小屋に案内され、麦を煮たスープと果物、牛乳の様な温かい飲み物をご馳走になった。
牛はいない様だったのでヤギか羊の乳かもしれない。少し野生くささはあったが、腹が減っていたので吸い込む様に完食してしまった。
ここの人たちはもちろん、何語を喋っているのか分からない。村の中でも見た事のないものばかりで、やはり俺は異世界にいるのではと思えてくる。
誰も知らない世界。
「相川、毛布もらって来た。この家は使っていいみたいだから休ませてもらおう。さすがに昨日の仮眠じゃ疲れが取れていない」
「ああ、そうだな」
言葉の通じない場所で、こいつは凄い行動力だな。むしろ、いきいきしている様に感じるぞ。艶のある黒髪に濃い肌色の藁池は、村の中でも馴染んでしまいそうだ。もっとも、眼鏡をかけてこんな綺麗な身なりをした奴は居ないけどな。
「ウウヲアルーヲア」
何と言ってるのか分からない言葉で話しかけながら、何人かの村人たちが小屋に入ってきた。
背が高く余計な脂肪など無い、筋肉質な村人たちだが、皆ニコニコしているので、害意はない様だ。
「ヲヲアア、ヨールウヴァー?」
うん、でもやはり何と言ってるか分からない。
ただ、毛糸で作られた服や毛布、藁で編まれたカゴのようなものを持っていることから、それらを俺たちに渡しに来たことが伺える。
藁池はその人の良さそうなおじさんおばさん達に頷くと、鞄から何かを取り出した。掌に入る大きさの、四角いプラスチックのケースだ。
その中から取り出したコインを差し出すと、藁池は村人たちと服や食べ物を交換しはじめた。
「藁池、いつの間にここの金なんか手に入れたんだ?」
「勘違いするな、これは俺がいつも持っている物だ。銅って言うのは加工しやすく、初期の頃から使われていた金属なんだよ」
また金属かよ、俺の頬がヒクと引きつる。
「お前も少しくらい持ってるだろう?」
そう言って藁池が見せてくれたコインケースに入っていたのは、大量の10円玉だった。
「日本は金属加工の得意な国だぞ」
10円玉を指で弾き上げた藁池は自慢げだった。
深い眠りについていたんだと思う。知らない場所で、慣れない山下りや狼との戦闘なんかして、本当に疲れていたようだ。
目を覚ますと藁池がルーズリーフの日時計に時間を記しているところだった。12時10分。
ポケットからスマホを取り出そうとして俺は手を止めた。
「寝なかったのか?」
「いや、寝たぞ。相川より早く起きただけだ」
日時計や鉛筆を鞄にしまい、藁池は持ち物のチェックをし始めた。アルミ手裏剣の数、ルーズリーフの残り枚数、革手袋のほつれ具合の確認。
「本当に寝たのか?」
昨日もそうだったが、こいつの顔色は悪い。元の色が濃いから分かりにくいが、もしかしたら出会った当初から具合が悪かったのかもしれない。
「何か、していなければ落ち着かない」
「確かにこんな状況じゃそうだよな」
生きていけるのかも分からない世界。俺はこれを望んでいたはずなのに、心が落ち着かない。
俺の特殊能力はいつ目覚めるんだ……。
「いつもだ」
「え?」
聞き逃しそうになった藁池の言葉を聞き返す。
「俺にとってこれはいつもの事だ。生き延びるためには自分に、身体に何かを詰め込まなければ。何でもいい、生き抜くために何かをしなければーー」
ぐっと藁池の眉間にしわが寄った。
「きっと俺は死ぬ」
死、という言葉が俺の胸にも突き刺さった。怖い。単純にそう思う。
「大丈夫だ! 俺がいるから大船に乗ったつもりで寛いでろ。なんて言ったって俺は、黒魔ニオン人になる男だからな」
ビシリと額に指を突きつけ、ニヤリと笑って見せれば、大きく見開いた黒目が俺に向けられる。
「生き延びられる。お前も、俺も!」
ふっと藁池の顔が和らぎ、心なしか顔色が良くなったように感じられた。
ヴヴヴヲオオオオオ!!!
外から地響きのような声が聞こえてきたのはその時だった。
同時に聞き慣れない悲鳴や意味不明な叫び声が乱雑する。
ガツンとガツンと硬い物同士のぶつかる激しい音が鳴り響いた。
「村が襲われてる!?」
入り口から外を見た藁池が真っ青になって震え出す。
俺も音を立てないようにしながら外を覗き見た。
最初に来たのは匂いだった。鼻を覆いたくなるような悪臭が漂っている。
肉の腐ったような吐き気を催す、大量の血の匂い。
「うおおおおお!」
「ヤアオオォォ!」
言葉とも怒声とも取れない命をかけた叫び声が空気を振動させる。
屈強な男ばかり、鈍く光る金属の鎧らしき物を身につけた人間が、槍や斧を振り回して、村人達に襲いかかっている。
逃げる者、武器を持つ者、ひたすら叫ぶ者。地に伏せて命乞いをしている者。
阿鼻叫喚とはこのような地獄の様を表した言葉だったろうか。
「逃げるぞ」
藁池が鞄を抱えながら絞り出したような声で言う。
「村人を助けないのか!?」
リュックサックを背負いながら俺は鉄アレイを手にする。
「この状況で、俺たちに何が出来るって言うんだ。真っ先に逃げ出した所で逃げ切れるかも分からないだろう!」
押し殺しながらも気迫のこもった声で説かれれば、確かにその通りだ。本物の武器を持った相手に、俺たちに何が出来る。
俺は藁池と共に、慎重に周囲の様子を伺いながら走り出した。物を殴る音、悲鳴、悲鳴、悲鳴!
「何で、こんな事に」
走りながら足の感覚がおかしくなる。指先が酷く震えていた。
「言っただろう。アナトリアは戦禍に見舞われ続けた土地だって。つまりはこう言う事だ。土地を奪い、物を奪い、人を奪う。人類の歴史はこの繰り返しだ」
まるでこうなる事が分かっていたかのように、藁池の足の運びは淀みない。
その叫び声はすぐ側から聞こえた。他の声よりも耳に付いたのはどの声よりも高かったから。
血に塗れた母親らしき女性に庇われた子供が、まさにこの世の終わりと言う声を上げていた。
「ッアアアアアー!!!」
俺の足が動いた理由は分からない。あんなに必死に逃げようとした時にはもどかしかった足が、最良のパフォーマンスで動き出す。
走る勢いのまま子供を抱き抱えた俺は、襲いかかる男の剣からまろび出た。
「相川っ!」
藁池の声が俺を呼ぶ。
すまない藁池、俺はここで死ぬ運命だったのかもしれない。異世界だ何だって言ってたけどな、結局俺は、誰かのヒーローになりたかったんだよ。
それが一瞬で終わる人生でも、誰かのために生きたかったんだ!
「藁池、お前は逃げろ! 俺は」
どうせ死ぬなら、最後の最後は。
「死ぬまで戦ってやるっ!」
後ろに守る者がある奴は、どんな時だって、強くなれるんだよ!
振り下ろされる剣を避け、男の顔面に鉄アレイを送り込む。鼻の潰れる音と、大量の血が降りかかってきた。
「フーッ! フーッ!」
漏れ出る熱い息を荒いまま吐き出し、俺は男が動かなくなるまで殴り続けた。
体が沸騰するように熱い。暑い熱い熱い!
俺に気付いた襲撃団が、一人また一人と集まって俺に近づいて来る。
死ぬ。死ぬ、でも死にたくない!
俺は近づいて来た一人に殴りかかる。鉄アレイがまた人の骨を砕いた。
「フーッ、フーッ!」
俺は、こんな獣じみた息を吐くんだったか。冷静な俺が小さな窓から俺を見ている様に感じる。
だが、俺の体は本能のままと言えるように殴り付け、殴り付け、命を燃やすようにして襲いかかる武器を躱す。
「フーッ、フーッ、ヲオオーッ!」
苦しい、息が苦しい。腕が重い。ほんの数瞬しか戦っていないのに俺の体力はもう消耗していた。
重い拳は振り回しても当たらない。
「フーッ、フーッ」
死ぬ、ここまでか。かっこ悪い、何もしてねぇじゃねえか俺は。
子供は逃げられたのかも分からない。
鉄アレイがもう持ち上がらない。
俺は最後の力を振り絞ってファイティングポーズをとった。
振り抜かれる、剣に頭の骨を突き破られるかと想像していた俺は、
「相川ーっ!」
この世界に一緒に来た相棒に、助けられていた。
いつの間にか鉄アレイを握った藁池が拳を振り抜くと、男の持っていた剣が、鉄アレイにぶつかり粉々に砕けていった。
「青銅は鉄より脆い」
やばい。藁池、カッコいいぜ。
その藁池の背後で別の襲撃者が振りかぶっていた。銀色の剣が鈍く光り、藁池の背中へと突き刺される。
「うわぁぁぁ藁池ぇええ!」
俺は声の限りに叫んだ。
「何だー、様子見に来てみれば何を騒いでるんだー」
真っ直ぐな黒髪に小さな身長、間延びした口調は小鳥先生だ。
資料室の入り口からヒョコリと顔を出している。
「えっ?」
資料室。そう、資料室だ。俺たちは何もなかったように静かな資料室に蹲っていた。
だが俺の身体の疲労感は本物だ。蒸気の昇りそうなほど熱い体は、適度を超えた倦怠感により動かす事も難しい。
「そうだ、藁池は!?」
刺された筈の藁池は、目の前で未だに蹲っている。
「藁池、藁池! 大丈夫か、しっかりしろ!」
俺が叫んで駆け寄れば、ウッと藁池から呻く声が聞こえた。
「小鳥先生、早く救急車を!」
俺の鬼気迫る声に小鳥先生は驚きながらもスマホに指を伸ばしている。
「まて。先生、大丈夫です。相川が大袈裟なんですよ」
ふーと息を吐くと、ゆっくりと藁池が起き上がった。
「かなり痛かったが、大した傷じゃない」
本物の剣で刺されて、大した事ない訳がない。
「いいから、傷口見せてみろ! 早く止血を!」
藁池の背中を見れば、確かに制服の切れた跡がある。なのに、
「傷が無いっ、だと?」
切れたワイシャツの下、白いシャツには剣による血の跡まで付いているのに、肌までは突き抜けていなかった。
ドンドン、と藁池が自分の腹を叩いた。人の身体からは出ない硬い音がする。
「防刃ベストだ。傷はできていない」
「防刃ベスト、だとっ」
俺は絶句していた。どれだけ準備がいいんだ、こいつは。
「なー、先生よく分かんないんだが、何でお前らそんなにボロボロなんだー?」
首を傾げた小鳥先生、可愛い。
「これは、今まで俺たちここじゃ無い場所にいて……」
俺の説明に小鳥先生は目をパチクリさせて反対側に首を傾げる。
「藁池ー、何があったー?」
小鳥先生、何で藁池に聞くんですか? 俺の説明聞いて?
「相川が窓を開けて換気するって聞かないんですよ」
服の埃を叩きながら藁池は立ち上がった。
「相川ー、資料室の窓は閉め切りだぞー。換気は換気扇でしろー」
間延びした声で小鳥先生が電気の下のスイッチを押す。
ブゥーンと天井から小さな音が鳴り始めた。
「いや、だって、藁池、何がどうなってんだ?」
「現実を見ろ、相川。俺たちは資料室にいる。スマホの時刻は4月6日11時20分だ」
突き付けられた藁池のスマホ画面に俺は、その日時を思い出した。
「異世界転移する前!」
「あそこは異世界じゃ無いぞ」
深い溜息を吐いて、藁池は呆れたように頭を振り被っていた。
「お前、一体何者……」
「そうだ相川」
俺の言葉を遮って藁池が口を開く。
「俺は一つ、異世界を知っている」
「何っー!!!」
「美しく誰もが苦しみを知らない場所だ。ずっと昔から、俺たち人類は知っていた」
「どう言う事だ??」
藁池の言葉に俺も小鳥先生も頭にクエスチョンマークを並べている。
「天国という場所だ」
「あー、確かに異世界かもなー」
小鳥先生が大きく頷いている。
俺は、虚を突かれた気分だった。天国が異世界。考えた事も無かった。
「ふむ。という事は、やはり死んだら異世界に行ける」
「地獄に堕ちなければ、な」
この時の藁池の悪い笑顔をニヒルな笑いと呼ぶのかもしれない。
ボロボロの制服を着た俺たちは下校の途にいた。昨日と今日、体験した出来事がまだ頭の中で理解し切れていない。
だがもしこの経験を解明できたなら、俺は、きっと異世界に行ける筈だ。
「俺は多分、前世の記憶を持っている」
隣を歩く藁池がポツリと呟いた。
「日本とは違う土地で、その国の言葉を話し、ある日突然集落を襲った連中に殺された。そんなのが日常茶飯事な場所だったんだ」
口を挟むのを憚れる真剣な声音に、俺はただ耳を傾けた。
「その時俺は、母に庇われた命を逃げる事もできず、落とそうとしていた。恐怖でただ泣き叫んでいたんだ。そうしたら、見知らぬ格好をした男が、見知らぬ言葉を喋りながら、俺を庇って助けてくれた。ようやく叫ぶのを止めた俺は、無我夢中で逃げたよ」
その光景が、どうしてか俺の頭の中で鮮明に再生された。艶やかな黒髪、泣き叫ぶ子供、驚愕に見開いた黒い瞳。
「生き延びて伴侶を得て、そうして年老いた先で、俺は天の国に至った。誰もが幸せで、笑っていて。とても気持ちのいい場所なのに、そこでは誰も理解しないんだ。目の前で俺を庇って死んだ人間が、そこにいない苦しさを」
眼鏡越しに真っ直ぐに俺を見る黒い瞳が、泣き叫ぶ子供と重なった。
「命を貰ったのは俺だ。ありがとう、相川」
ここにもう、顔色の悪い藁池は居なかった。
「っっっ前世の記憶持ちか! いや、もしかしたら憑依って可能性もあるかも知れない!」
異世界への扉が近付いたことを、俺は確信した。
だからだろう胸の動悸が止まらないのは。
読んでいただきありがとうございます。感想・評価等いただければ、とても嬉しく思います。
誤字修正しました。
資料室に先生が来る前に、ワンシーン書き足しました。