第三章【20】「時間は際限なく、止めどなく」
「……少し、熱が入ってしまったのう」
やがて一通りの話を終えると、東雲八代子は大きく息を吐いた。
小さな両肩をぐるりと回して、ほぅと車椅子に身体を預ける。心なしか、色の白い頬も僅かに朱色に染まって見えた。
こちらもようやく彼女と同様に、ほんの少しだけ気を休められるが。
「……っ」
奥歯を噛み締める。
悔しいが、彼女に暴かれた至らなさは全てが事実だ。
俺はあまりに無知で、経験もなにも足りていない。
なにも自分が優れているなどと、そんなつもりは毛頭なかった。第四級の下級、姉貴や百鬼夜行に使われるだけの下っ端に過ぎないと、そう弁えてはいた筈だ。
けれどそんな自覚より更に下回って、俺はなにも及んでいなかった。
なんてザマだ。
「厳しい言葉が過ぎてしまったか。まあ痛い勉強になったと許せ」
「いや、ありがたいと思ってるよ」
「ならよいが。……まったく上から躾けておきながら、妾もまだまだ下手くそ。もう一方の案件に力が入ってしまい、こちらも平静では居られなかった」
「もう一方の?」
「気にするな。久々に複数の傀儡を展開しているが故じゃ」
くぐつ。
聞き覚えのある言葉だが、果たしてどういう意味だっただろうか? 確か妖術とかそういった類の単語だったと思うが。
考えていると、もう一度、神守黒音が新たなティーカップを運んできた。
それを、東雲八代子は右手をかざして制する。
「よい、話はこれにてお終いじゃ。片桐乙女もこれで満足するじゃろう。店主に会ったら長々と説教されたと、そう伝えよ」
「お、おう」
果たしてそれで満足するのだろうか。でもまあ、会って来い以上のことも頼まれていないのだから、無事目的は達成されたと言えるか?
もっとも失敗していようが、説教されたなどと言えば喜んで笑うだろうが。
話は終わり。宣言通り、東雲八代子は細腕で車椅子のタイヤに指をかけた。そうして動き出そうと身構えて、ふと。
「おお、そうじゃそうじゃ」
思い付いたように、傍に控える神守黒音を見上げた。
「黒音よ。確かこの後、先に休憩時間であったな」
「はい、まあ。一時間程後の予定ではありますけど」
「ならば客人を見送り、ついでに休んでくるがよい」
「え、嫌です」
驚く程に即答だった。
加えて心底嫌そうに眉を寄せ、これでもかと言うほどに不満を爆発させている。
「一応、店主の命令なんじゃが」
「じゃあ命令と言って下さい。そんな気を利かせたような言い方をされますと、拒絶してしまいます」
「はて、拒絶する程のことかのぅ」
「まだ開店してすぐじゃないですか。そんな早くに休憩取ったら、色々とペースが狂うんですけど。それにどちらかと言えば、後の方に休憩を入れたい主義なので」
「細かい女子よ。妹の方であれば、大して考えもせずに喜んで飛んで行きそうなものを。お主のようなタイプは真面目ではなく、石頭というべきであろうな」
「はいはい。それで、行けばいいんですね」
「そうしろ。――話したいこともあると、そう言っておっただろう?」
言われた途端、神守黒音は静かに口を噤んだ。
話したいこと。
神守黒音が、俺に?
「……行きましょう」
彼女は俺に一瞥をくれると、そう言い残して向こうへ振り返った。手に持ったティーカップをカウンターテーブルへ置いて、丁度通りかかった他の店員へひと声かけて、そのままそそくさと入口の扉へ向かってしまう。
まさに有無も言わせない、強引すぎる速さ。
「行くって、オイオイ」
なんの説明もなしかよ。
しかし放っておくなど出来る訳もなく、慌ててそれを追い、店を後にする。
と、会計は――。
「会計はよい。お主は頼まれて来たのだから、今度姉の方に徴収しておこう」
思った途端、そんな風に先んじて断られてしまう。
加えて。
「よもや帰りに不幸な事故にまみえ、妾の叱責を無下にするではないぞ」
東雲八代子は、そんな不吉な忠告をくれるのだった。
結局、八ツ茶屋には一時間も居なかった。
先導する神守黒音について店を出て、再び東地区の街を歩く。どこか目的地があって向かっているのか、彼女はぐんぐん置いていくかのように歩みを進めていた。
その道中は、当然互いに無言だ。
「……」
「…………」
一心不乱に歩く彼女を追うばかりで、なんの会話も始められない。
それは俺と神守黒音の間に、決して軽くない遺恨が残されているから。そう易々と軽口や世間話を触れるような仲になど、なれる筈もないから。――と、いうのもあるが。
一番の要因は、彼女の様相だ。
なにしろ神守黒音は、店からそのまま白黒のエプロンドレスを着ているのだから。
白昼堂々メイド服で、しかも身に着けている本人も年頃の女の子で。日中の人通りの少ない街道では、あまりに目立ち過ぎている。
それでも本人の大人びた見た目故か、それとも見るからに仕事着だからか。俺のように不良なサボり学生を疑われ、声をかけられるといったことはない。
に、しても、視線を集めた状態では話もままならない。
恐らく彼女が向かっているのは、そういった人の目をはばかることの出来る場所だろう。八ツ茶屋で案内された奥の席同様に、会話が漏れないように工夫が施された空間。
でなければ、話し合いなど出来ようもない。
神守黒音が俺に話があるというなら、そういう類のものでしか有り得ないだろうから。
そうして早足で歩き続け、二三分程か。
辿り着いたのは、開けた公園だった。
見渡す限り、鉄棒と滑り台、それからベンチが点在するばかり。大した遊具もない、本当に小さな公園だ。
周りにはコンビニやドラッグストア、カラオケやゲームセンターといった遊戯施設が取り囲み、お世辞にも静かな場所とは言い難いだろう。
しかし、平日の日中となれば話は変わる。学区として栄える東地区においては、昼間にもっとも人通りの少ない場所となる。勿論完全にゼロという訳ではなく、普通に利用する一般の人たちも複数人見られる訳だが。
公園入口のバリケード、その向こう側へ踏み込んだ瞬間、身体が知覚した。――この公園は、そういった対策がされている場所だと。
それを裏付けるように、彼女もまた、ようやく言葉を発した。
「人避けにしては過剰すぎるでしょう。お店の奥の席みたいな『気に取られない』なんてレベルじゃない、正真正銘『感知されない』。まさしく、結界よ」
「……やりすぎじゃねぇか?」
「まあね。だけどそもそも、この公園の昼の利用者なんてゼロよ。賑わう夕方辺りからは開放してるんだから、日中の間借りくらい構わないでしょう」
言って、神守黒音は悪びれもしない。
そんな彼女の様子に、東雲八代子の叱責が思い出される。
じゃあ公園は誰が作ったものなのか。上から目線で、当然のような顔をするのは何故なのか、などと。そういう考えが頭を過ぎってしまう。
「……笑えねぇな」
消え入るように呟く。
言えば神守黒音は、なんと返事をするだろうか。我ながら大袈裟すぎるが、否定もしづらい。
まったく、厄介な価値観を学んでしまった。
「それで、なんだって公園まで来たんだよ。周りに配慮が必要な話だってんなら、あのまま店で話してよかったんじゃないのか?」
「決まってるでしょう。配慮も必要だし、店の人たちにも聞かれたくない話があるのよ」
つまり、他の従業員や店主の東雲八代子。
加えて、妹の神守真白にも、か。
「それでメイド服のまま、慌てて飛び出したと」
「着替えるのが面倒だったのもあるけどね。まあ、わざわざ休憩室まで行ってたら、あの子に見つかって手間がかかりそうってのが一番」
「嫌われてるんだな」
「そこまでは言ってないでしょう。知っての通り面倒なのよ、妹は」
言われて頷く。違いない。
この件も下手に気取られていたら、アイツも休憩を懇願して騒ぎ立てていたかもしれない。そうなれば説得も時間がかかるし、そんな喧しい神守を同行させることも、出来れば御免だ。
そしてまんまと姉の狙い通り、こうして無事手早く喫茶店を抜け出せた訳だが。
「じゃあその話ってのは、なんなんだ?」
本題を切り入れる。
そうまでして話したいことってのは、一体なんなのか。
「――そうね、時間も多い訳ではないわ。本題を急ぐに越したことはない」
神守黒音は、静かに息を吐く。
直後、柔らかな風が、仄かに彼女の髪を吹き上げた。同じくして頬を撫でる涼しさは、近付く秋の始まりに身を震わせた。
叱責や警告、忠告。問答無用で詰め込まれる学びや経験たちを、ゆっくりと噛み砕いてはいられない。
そう、時間は多い訳ではない。
成長など自覚を許さないままに状況は変わり、あらゆる事柄が押し寄せてくる。絶えず進んでいく中で、必死に追い縋るだけではいけない。未熟な己のままでは、いつかついていけずに、力無く倒れてしまうだろう。
ああ。今この瞬間さえも、余裕も予断も有りはしない。
「片桐裕馬。貴方の力を貸して欲しい」
神守黒音は、俺に言った。
「私たちを取り囲むこの状況から、何者かの策略から、共に抜け出す為に」
なにかを変える間も、与えられはしない。
状況はより速さを増して、この身に叩き付けられる。




