第三章【19】「この世こそは、人間世界」
「片桐裕馬。――お主に異世界転移の経験は、あるか?」
重ねられた、東雲八代子の問いかけ。
異世界に行ったことはあるか?
関係者であると自称しながら、彼らを知り得ていると語りながら。常識とは外れたものに触れていると、大仰にも隠したつもりでいながら。
この身は本当に、ソレを知り得ているのか?
関わっていると、いえるのか?
思わず息を呑み、押し黙ってしまう。
けれど言い淀んだところで、返答は変わらない。はぐらかしても嘘をついても、突き付けられた事実は揺るがない。
だから答える。
「……転移をしたことは、ない」
俺に異世界転移の経験はない。
生まれてこの方、この日本国から外へ出たことはない。
言えば東雲八代子は、車椅子の肘掛けへ右の肘をついた。そのまま自らの小さな顎を手の甲へ預け、ゆっくりと息をこぼす。
不思議と、それは嘆息や哀れみではなかった。
「そうであろうな。故に浅く薄く、理解もまた遅い」
厳しい言葉と鋭い視線。突き刺さる叱責は冷たく、胸の内へ入り込んでくる。
だけどそれに終わらない。
彼女は無作為に、俺を切り開いた訳ではなかった。
「では一つ、聞かせてやろうではないか」
「聞かせる?」
「そうとも。お主の及ばぬ未熟さを、ほんの少しだけ前進させてやろう」
後に、考える。
もしかすると姉貴が俺になにも言わなかったのは、ただこの人に会えとだけ言ったのは、それが狙いだったのかもしれない、と。
遅れて、神守黒音がティーカップを運んできた。空になった俺の物を取り換える為にではなく、主人の手元へ言葉もなく渡される。
東雲八代子はそれを小さな両手で膝の上に抱え、時折口元へと傾けた。
それが甘いのか苦いのか、それともまったく違った味わいなのか。好みすらも知り得ない俺には、想像することも難しい。
それから彼女は小さく息を吐き、ゆっくりと語りを始めた。
「これは数年前に、妾が初めて異世界転移を経験した話じゃがな」
獣ノ国。
かの国はそのように呼ばれ、文字通り獣の姿をした住人が世界を統治していたらしい。
当時は発見から日も浅く、邂逅したアヴァロン国も交流の薄い状態。そんな中、軽いいざこざによって状況がヒリつき、特級であった彼女が呼ばれたのだという。
「小さな意見の食い違いから暴力沙汰に発展し、騎士共がその場を抑えるにまで至った。それ程の緊張状態でありながら、無関係の妾が用心棒として呼ばれたのじゃ。能力が適しておるからとか、信頼出来るだとかぬかしておったが、その実アレは戦力を鼓舞したかっただけじゃな」
曰く、もしもの為の特級の立ち合い。ただそれだけの為に、東雲八代子は生まれて初めての異世界へと転移させられた。
「転移事態は語ることもない。よく分からぬ技術によって光に包まれ、まばたきの瞬間には別の場所に移動しておった。痛みもなければ気持ちの悪さのようなものもなく、ある種物足りない程であったものよ」
だから不快感もなければ、感動もなかった。
そして訪れた世界の景色もまた、特別目を見張るものではなかったという。
「言うてしまえば、アフリカのサバンナとでもいうか。長い草が生い茂る広野に、藁や木で造られた前時代的な家々。全身を分厚い体毛で覆われた獣人たちも、既にこの国で何人も見掛けておった。だから目新しいものなどなく、――ああ、こんなものかと思うておったものじゃ」
――最初は、な。
そう付け足して、彼女は俺に尋ねた。
「聞くが、獣ノ国という国に覚えはあるかのぅ? 図書館職員に出身の者がおったり、姉の話に出てきたり」
「いや、まったく」
「ではその国の形など、想像も出来ぬだろう」
「国の、形?」
「獣ノ国の、その形よ。星の形とでもいうべきか?」
「……知らない、が」
果たしてそれがどういう話に繋がるのか。
耳を傾けていると、ひと息の後、東雲八代子は言った。
「ならば教えてやろう。獣ノ国は海に囲まれた島国。そしてその海の先には、――なにもなかったのだ」
「え?」
なにも、ない?
「比喩でもなければ冗談でもないぞ。ごたごたの傍ら、妾もこの目で確認する機会があった」
「……悪い。なにもないって言われても、まったく想像出来ねぇんだが」
「言葉通りじゃよ。海には終わりがあり、目に見える水平線に向こう側は存在しない。流水は行く先で巨大な滝を作り底の見えない闇へと沈んでいく」
住人たちはそれを、「世界の果て」と呼んでいたらしい。
「この世界でも古くはそう言われておったのぅ。海の果ては落ち、大地は象や亀によって支えられているとか。結局この大地は球体であり、海の向こうには別の海や別の陸地が存在している。それが真理であった訳じゃが」
それこそが、俺たちの知る世界の成り立ち。
国の形であり、星の形。
この世界に共有されている、当たり前の常識。
「驚きであろう。妾もその光景に大層目を見開き、大いに爆笑したものじゃ。自身を常識の外側と自称しておったが、まさか異世界とは、それ以上に違っておるとはな」
「……んだよ、それ」
「重ねて獣ノ国にとっては、それが発見されたのすら十数年前のことらしいぞ。かの獣人らに翼を持つ種族はおらず、殊更海を渡る術をも持っていなかった」
つまり国の住人たちは、なにも知らなかった。
自らの世界の形を、その特質を、知り得ていなかった。
異なる世界――アヴァロン国との交流が始まってようやく、彼らから異界の技術を得ることで、初めてその事実を測定したのだ。
「――――」
思わず息を呑む。
信じられない。俺たちの常識とは、まるで当てはまらない。
種族や文化の違いなんてレベルじゃない。
それはまさしく、世界が違い過ぎている。
「ま、これに至っては妾たちにも当てはまることではあるが」
東雲八代子は言った。
この世界――日本国もまた、無知であったと。
自ら世界の形を知り得ることは出来ていても、異世界という外側をまるで知らなかったのだから。
「もしもアヴァロン国が獣ノ国を発見し交流しなければ、かの国はどれだけの年月を経て真実へと辿り着いたのであろうな。妾たち日本国も、異世界などという存在に気付くことが出来たのかどうか」
「……それは」
口を挟もうとして、けれど言葉が続かない。
それは、どうなんだろうか?
日本国は、俺たちは、異世界という存在に気付けたかどうか?
そんなことは、考えたこともなかった。
当然のように与えられていた異界の知識。それがなかった可能性なんて、そんな「もしも」なんて、頭を過ぎったこともなかった。
ただ、享受していた。
なんの疑問を持つこともなく、反論や意見など浮かぶ筈もなく。
「それ故に、お主は第五級。いや、そういえば昇級したと聞いておったかのう。ま、どちらにしても下位の階級。立場と知識に見合った、まさしく協力者よな」
当事者などは有り得ない。歯車としてもあまりに未熟。
流れに身を任せ、時に手を貸すだけ。
協力者。
「もっとも、妾も無知でありながら特級を貰い受けておった。恐らくは他の特級たちも、ここまで考えていない者が多かろう。嘆かわしいことよ」
それはフォローのつもりだったのか。――いいや、恐らくはただの独白だ。
どの道そんなことを言われたところで、俺が遥かに及ばないことに変わりはない。
実力も、知識も、考えも。全てが未熟だ。
「もう一つ、尋ねようか」
言って、東雲八代子はカタリと、いつの間にか空になっていたカップをテーブルに置いた。仄かなコーヒーの香りが鼻孔をくすぐり、ひと時、気を取られて視線を泳がせてしまう。
その後、再度向き合った彼女は、膝の上で白い手のひらを重ねていた。
「お主は、何故、異界の者たちがこの国に訪れるか考えたことはあるか?」
「日本国に」
「そうじゃ。転移多発区域、異世界特区として定められている日本国。偶発的な転移が発生しやすくなっているのは、当然理由として含まれるが。それだけでなく、自らの意志で転移してくる者も多くなってきておる」
例えば図書館に勤めている職員たち。俺の知る中ではアッドや、サリュと交友の深いオークや彼らの子どもたちか。
彼らは自らの意志で、この国で暮らすことを望んで異世界転移を行ったと聞いている。
その理由は――。
「――それは、日本国が比較的平和だから、じゃないのか?」
「そうじゃな。この国は、この世界は平和じゃ」
彼女は、続けた。
「たとえ転移者たちが公に認められなくとも、正体を隠し身を潜め大手を振って歩けなくとも、雁字搦めに管理され束縛されようとも。――この国には、それを上回る安定した平和が約束されている」
「――――」
ああ、紛れもない。
今度のは、それは、知らなかったことではない。
「なにを驚いておる? なにを腑抜けておる?」
「っ」
「まったく。……片桐乙女の弟、百鬼夜行の鬼子。どうやらお主は随分と、丁寧に飼い慣らされてしまったようじゃな」
「飼い慣らされて、いる?」
「違いなかろう? ま、それも仕方がないというもの。優れた鳥籠は抜け出そうとすら思えない程に快適であるべき。心地が良くて、都合が良くてこそだ」
それ故に、誰もが飼われたがる。
それ故に、誰もがこの国を求める。
「それ程に、この国は完成されている」
だが、決して忘れてはならないことがある。
関係者を語り外側と触れ合うのであれば、忘却を許されない事実。
――ではそれを完成させたのは、果たして誰なのか。
――誰らが、この形を完璧なものに作り上げたのか。
「それはこの国の、この世界の歴史じゃ」
時に争い時に寄り添い、この世界は数々の困難を乗り越えて来た。多くの屍を積み上げ、比例する涙を流布させ、けれども負けない程の笑顔を咲かせてきた。
あらゆる事象の重なりによって出来上がった、真実なる過去。
現在を成り立たせる、必要不可欠な歴史たち。
「そしてその大きな舵取りを握って来たのは、他でもない人間だ」
だからこの世界は、人間という種族が率いている。
転移者も、隣人であった妖怪すらも。俺たち関係者と呼ばれる影の存在は、その歴史の中で矢面に立ったことなどない。
「文字通り、人脈によって形成された世界。人間世界、と呼んでもいい程であろう。で、ありながら、共存とはいかないが、異なる存在を隣人として成立させている。これ程の奇跡は、千を越える世界の中でも有数、指折りではないか?」
――だから、奢るでない。
彼女は俺に、そう言った。
無知を自覚しようとも、たとえこの先あらゆる知見を得ようとも、慢心だけはしてはいけない、と。
「お主たちは時に、自分たちが世界を守っていると、安寧を存続させていると語りおる。特級会議などといった大仰な集合会がその一端じゃ。関係者だけで世界の行く末を語り、考えを深めようじゃと? 笑わせるな。――その平和を紡ぎ続けているのは、紛れもない人間たちの所業よ。断じて妖怪の仕業でも転移者の功績でもない」
平和も、街も、場所も、技術も、倫理も。
全ては硬く揺るがない、人間たちの世界という地盤があってのもの。
だから決して違えるなと、東雲八代子は微かに声を荒げた。
「見下すなど、お門違いも甚だしい。認めて貰おうなど、よくもぬけぬけと抜かす。妾たちはそもそも異物、不要、邪魔者よ。決して混じり合うことは許されず、それ故に、混じり合おうとするモノを唯一取り除くことが出来るのじゃ」
毒を以て毒を制す。
そしてその毒は、欠片たりとも呑ませてはならない。
悪毒は勿論、たとえ良薬の働きをしようとも、人体には――この世界には、あまりに有害な異物なのだから。
「……助け合ってるって、考え方は出来ないか?」
「そう思えるのは、お主が混じり者であるからよ」
混じり者。
混血。
「鬼と人。両方の側面を持ち、取り立てて人間としての形を持つからこそ、そういう考え方が出来る。人も毒も支え合う、公平な立場などを夢に見る」
頭のめでたい馬鹿者。
彼女はそう言った。
「人間が彼らを受け入れられると思うか? 獣の凶暴な様相を、緑の肌を、身体を覆う鱗を、段違いの力を。お主とて、その拒絶を受けて距離を置いたのであろうに」
「……」
反論出来なかった。
他でもない自分自身が、この身でそれを体感していた。
それこそ、たとえ人と同じ風貌であっても、上手くいかなかったのだ。
分かり合うことも、許し合うことも。




