第三章【16】「同じ頃の出来事」
その日の朝は、悪夢によって目を覚ました。
別段恐怖を感じるような内容でも、悲しさや怒りを覚えるようなものでもない。だから起きたら汗でびっしょり濡れていたということも、涙が流れていたということもなかった。
ただ、気分が最悪に落ち込んだ。
その夢は、空想と記憶を掛け合わせたモノ。
なにもない真っ黒な空間で、俺はある人物と対面させられていた。
黒い薔薇の仮面を付けた、テロリストの少女と。
『――落ちぶれたわね、片桐裕馬』
なにも言えない俺に、彼女は一方的に叩き付ける。
『私は貴方を、あの日を目撃している』
『当然でしょう。忘れられる筈もない、あんな光景』
『可哀想な人、自分の功績を知らないなんて』
功績。
彼女はそう言っていた。
俺の失敗が、惨劇が、最悪が、そんなモノを残したと。
『私は貴方が消し去られた後の変貌を知っている。クラスが、学校がどうなってしまったのか。――事件の顛末を』
結局その先を聞かされることはなかった。
だからこの夢はここで終わりだ。
なんの答えを得ることも出来ない。ただ、それを知っているというだけの事実を再三叩き付けて来る。
私は覚えている。
お前も決して忘れるなと、そんなことは許さないと、そう言うように。
ある種それは、予知夢の類だったんだろう。
そこまで大仰にいわず、予感や危機感、虫の知らせとでもいうべきだろうか。
この先至る場所で、今一度、その過去に向き合わされることになると。
時刻は午前十時。
丁度サリュが招待された、特級会議が始まる時間。
俺は姉貴から頼まれた別件で、東地区に来ていた。
藤ヶ丘東地区。学校や学生寮が多く集まった、いわゆる学園都市と呼ばれる街だ。日本国でも有数の進学校が複数あったり、その為全国から寮へと大勢集まって来ていたり。今は平日だからすれ違う人も少ないが、これが休日や夕方になれば、そこら中が学生だらけになる。
もっとも、治安が悪い訳でも騒がし過ぎる訳でもない。そういった元気が有り余った連中は、若者街の西地区へ飛んで行く。残ってこの街で放課後を過ごす学生たちは、ほとんどがお行儀よく静かなもんだ。
なんて、学校行ってない俺がなにを偉そうに考えているのか。
そしてここはそんな、朝っぱらから学校へ行かずほっつき歩いている十代を、そう易々と見過ごしてくれる街でもない。
「最悪だった」
警官三人に、地域住民二人。合計五人にも呼び止められ、足止めをくらってしまった。
こんな時間にどうして私服でうろついているのか? どこの学校に所属しているのか? 家族はこのことを知っているのか?
畳み掛けられた質問は面倒極まりないものだったが、無視や逃亡を図った方が返ってややこしくなることを知っている。この街へ引っ越して来たばかりで、来週から学校へ通うことになっていると、そんな風に答えてなんとか乗り切った。
それでようやく、辿り着いた目的地。
そこは一軒の、こじんまりとした喫茶店だった。
赤い煉瓦造りに、深い緑色の看板。
名前を、『八ツ茶屋』という。
隠れ家の落ち着いた木造りとは違った、明るく温かな色合い。店先も丸い小さな植木や花々で彩られ、全体的に華やかな印象を受けた。
周囲に立ち並ぶ近代的な建物の中で浮いているのは、時代錯誤な故だろう。独特なレトロな雰囲気、とでもいえばいいだろうか? けれども決して悪目立ちをしている訳でも、派手で騒がしいという訳でもない。なんとも不思議な喫茶店だ。
姉貴からの頼まれごとは、この『八ツ茶屋』を訪れること。それから店の様子を窺い、出来ることなら店主と話をしてほしい。後者については、不在等で合わなければ素直に諦めて構わないらしいが。
つまり来店するだけで、大凡の目的は達成されるということだ。
「でも、まあ」
改めて店を見やる。
煉瓦造りのレトロな喫茶店。独特な雰囲気の店でこそはあるが、これといって怪しい部分は見当たらない。窓硝子から覗く店内も、当たり前のテーブルや椅子が並んでいる。――従業員の格好が少々珍しい装束だが、これもまた見掛けることの多いものだ。
白と黒を基調とした、ロングのエプロンドレス。いわゆるメイド服。気付いて一瞬ぎょっとさえしたが、物珍しさでいえば隠れ家の着物メイドの方が上だろう。
一見は、普通に代わり映えのあるお店。それでも姉貴直々に頼まれたということは、恐らく件の店主が関係者かなにかだろうと予想出来るが。
もう一つ。
様子を窺えというのは、どういった意図があるのか?
「……また変なごたごたが待ってなければいいが」
なんの説明もなかったところに、言い知れない不安がある。流石に単独だし、真昼だし、すんなり終わると信じたいが。
あの姉貴故、ちっとも安心は出来ない訳で。
などとげんなりし、遅れて考えるだけ無駄なことに気付く。ここまで来て帰るつもりもない。堂々と正面突破がもっとも手早く、安全策だろう。
そう考えなおして息を吐き、とりあえず来店しようと、ひと思いにドアへと手を伸ばして。
――不意に、そのドアがゆっくりとこちらへ開かれた。
出迎えてくれたのは、一人の従業員だ。
「お帰りなさいませ、ご主人様っ!」
明るい定型文の挨拶。
一緒に、現れた少女が満面の笑顔を浮かべる。
と、
「――え?」
その笑顔に、思わず目を見開いた。
驚いたのは、そのお決まりの挨拶にでも、本当にメイド服の女の子と対面したからでもない。その子がとびっきりの美人であったからとか、目を惹く見た目や装飾を付けていたからという訳でもない。
知っていたからだ。
俺は、メイド服を着たその子を知っていた。
「――なん、で」
それも、良くない印象の相手として。
とてつもなく、良くない印象の知り合いだった。
「って、あれ~? ご主人様かと思ったら、片桐先輩ですっ!」
元気一杯の声を上げて、俺を先輩と呼んだ。
落ち着いたメイド服に相反して、煌びやかな銀色の長髪。丸々と開かれた大きな瞳と、ぱっと明るく愛らしい表情を浮かべて。
全身全霊で可愛らしさを振り撒く、虫も殺せなさそうな小さな女の子。
しかし俺は、その笑顔の裏に隠された正体を知っている。つい先日、この身と心に嫌というほど刻み付けられている。
ああ、どうして、コイツがここに居る。
神守真白。
「神守。お前、なんで」
「あれれ? もしかして、知ってて遊びに来てくれたんじゃないんですか?」
「知らねぇよ。大体、知ってても遊びに来るような間柄じゃねぇだろ!」
思わず声を荒げてしまう。
にも関わらず、対する神守は悪びれる様子もない。明るい表情を崩さないままだ。
「な~に言ってるんですかっ。仲違いしたのも、もう先々週の話ですよっ。ビルや隠れ家の修理も無事終わりましたし、ばっちり問題解決済みですっ!」
「いやいや、そんな簡単な話じゃねぇよ」
「それに、今は真白もお姉ちゃんも、片桐先輩のお姉さんの部下ですっ。残念ながら百鬼夜行からは除名されちゃったみたいですけど、同じくお姉さんの私兵である先輩とは、完全にお仲間ですよねっ!」
「誰が私兵だオイ。……つーか、それも初耳なんだが」
なにがどうなってやがるんだ。
正直意味不明で理解不能だが、しかし神守の言葉を鵜呑みにしてしまえば、この状況が説明出来てしまう。
コイツがあの事件の後、本当に姉貴の下に加わったってことなら。
「……マジかよ」
店の様子を窺って来いってのは、つまりそういうことだ。
この店で働いている、神守の様子を窺って来いと。
「やってくれる」
まんまと押し付けられた。もはや嵌められたと言ってしまっても過言ではない。これは絶対に、自分で行くのが目に見えて面倒だから任されたんだ。
しかも神守は言っていた。――真白もお姉ちゃんも、と。
そしてその言葉の通りに、店の奥からもう一人の従業員が姿を現す。
神守と同じ白黒のメイド服を着た、大人びた黒髪の少女。
神守姉妹の、姉にあたる彼女が。
「ちょっと真白。知り合いが来たのはいいけど、入口に居ないで席に案内しな、さ――い?」
透き通る凛とした声色。
穏やかながらも、吊り目で冷たい表情を浮かべる。
神守黒音。
『黒薔薇の仮面』の異名を持つ、敵対し、争い合った少女だった。




