第二章【37】「エピローグⅡ」
午前十時を過ぎた頃。
待ち合わせ場所に指定された、北地区の喫茶店へと訪れた。
私を呼んだ片桐乙女は、既に席に着いていた。店内ではなく、オープンテラスのテーブル席にて、新聞を眺めコーヒーカップを口元へ傾ける。
四人掛けのテーブルを独占して、平然とした表情。一見、贅沢に朝のひとときを満喫している。
こんな場所を指定しておきながら。
「……悪趣味な人」
店の反対側へ振り向けば、昨日のビルがよく見えた。
壊され剥き出しになった鉄骨や大きな亀裂、取り囲む何台ものクレーン。破壊の傷跡を、ありありと見せつけられる。
億劫ながらも彼女の元へ向かうと、片桐乙女が新聞から顔を上げた。
「ここは結構人気な店でね。普段ならテラス席も満員御礼なのだが、流石にあんなモノが見えては、皆控えるようだ」
「嫌味ですか」
「勿論だとも、神守黒音。おはよう」
言って、僅かに口の端を持ち上げる。
私は応えず、対面の椅子を引いた。
「つれないな。こちらは休日を返上して時間を作っているというのに。しかも昨日も含めて二日連続、どちらもお前が用件だ」
「……だから来ました。それ以上をお求めですか?」
「いや、そう聞こえたならすまないね。ついつい高圧的に出てしまう」
敵対していたからか、日頃からの癖が抜けきらないのか。
呟き、彼女は店内をうかがった。
「メニュー表をお願いしようか。勿論、私の奢りだ」
「別に、結構です」
「遠慮しなくてもいい。それとも朝食を済ませたところかな?」
「まだですけど」
「おいおい。まさか今さっき起きたところ、って話ではあるまいな?」
「……喉を通らなかったんですよ」
食欲なんて湧くはずもない。まともに寝られてすらいないくらいだ。
昨日の今日で、そんな図太い神経は持ち合わせていない。
だっていうのに、この人は。
「じゃあ簡単にトーストを頼もう。飲み物は牛乳で構わないかな」
そう断って、左手をかざし店員を呼んだ。
私の意見を聞くまでもなく、テキパキと注文を済ませてしまう。
「……なんで勝手に頼むのよ」
店員が去ってから、私は大きく息を吐いた。
一体なんの嫌がらせだ。
対して、片桐乙女は至極真面目な様子だ。
「大事な話をするんだ。寝不足に関しては寝てもらう訳にもいかないが、せめてしっかり食べて頭を回してもらわないとな」
「大事な、ね」
「まったく、過剰に落ち込みやがって。考え過ぎ、悩み過ぎだな。うちの愚弟にそっくりだ」
「……愚弟って」
「ご存じ、お馬鹿で手のかかる弟だよ。ま、あいつの場合は身体が正直なのでな。悩んでいようと腹を減らしてがっついている。健康的でいいことだ」
などと言いながら。
彼女はテーブルの下から、一枚の封筒を取り出した。
「どうやら世間話という気分でもないみたいだな。あまり空気を悪くしても問題だ。それならとっとと、本題に入ろうか」
ふと覗けば、足下に四角い黒の鞄が立てられている。他にも複数の紙束が溢れているが、なにか他にも用事があるのかもしれない。
もしかすると、私はその用事のついでということも――と邪推するが、そんな思考は一瞬で遠ざかった。
「――これ、は」
提示された封筒には、
――黒音へ。と、見覚えのある筆跡で記されていた。
片桐乙女から、それを手渡される。
「この封筒は昨晩、私の部屋の郵便受けに投函されていた。これ以外にも複数あり、当然お前だけでなく妹にも、私に宛てられた物もあったが」
「……暮男さんから」
「悪いが中身は確認させて貰っている。まあ私の家に突っ込んであった物だ。検閲が必要な物など、紛れさせる筈もなかったが」
だから中身は一切変えていない。
彼女の言葉通り、取り出した書類たちには一切の問題が見られなかった。だってそれらは、住民票や税金の手帳、覚えのない私名義の積立通帳などだ。とても人伝に渡される様な物ではないだろうが、一般的な範疇の話だ。
常識を外れた物や、危険を伴うような物は含まれていない。
私が今まで通りに、これまでと同じ神守黒音として生きて行く為に、必要な物たちだ。
「ちなみに私に宛てられた封筒の中身は、中居ハウスの権利書や一夜百語の情報。それから謝礼金と名を打たれた金銭だな」
「…………」
それは一体、どういうことなのか。
そんなの、少し考えれば分かる。
「本当に逃げるつもりなら、私たちを殺すつもりなら、こんな用意はしていない。全てはあの男の手のひらの上だった、とでも言うつもりなのかね」
押し黙る私へ、片桐乙女は続けた。
それは彼女なりの推測、そこから語られるイフの可能性だ。
「これはあくまで私の想定だが。暮男が動かなかった場合、朝のテロの時点で君たちは終わっていただろう」
わざわざ蒸し返されなくても、自覚はある。
百鬼夜行は、私たちの上をいっていた。あの人の横槍がなければ、確実に制圧されていただろう。
私もあの場から逃げられていたかどうか、正直分からない。
「それに、被害に関してもどうなっていたか。あの時点では不殺の作戦が守られていたように思われるが、制圧が進めば、連中の動きも変わっていただろう」
人質が傷付けられ、殺される可能性も十分に有り得た。
だからいってしまえば、テロが行われた時点で、被害者が居ないなんてことは不可能で。
やっぱり私は、根本から間違えていたんだ。
「まあそんなことを言い出してしまえば、君たちが殺す覚悟で動いていたなら、事態はどうなっていたか。私たちは要件を呑まざるを得なかったかもしれないし、こちらも人質を捨てる覚悟で突入していたかもしれない。そうだったら、より酷い有様だったろうね」
「……そんなつもりは、なかったわ」
「それもそうか。そうだったらなんて、有り得ないことだ」
結局はそういうこと。
考えたって仕方がないこと。
「君は殺しを許容した策を立てるつもりはなかったし、暮男も尻拭いで殺してでも動くつもりだった。他の結果はなかったんだ」
だから、そんな「もしも」を考えるくらいなら。
私たちは、選んだこの未来の先を思案しなければならない。
「中居暮男は死に、一夜百語も事実上解体された。そしてお前たち神守姉妹のこれからは、私の判断に委ねられている」
「……媚びろとでもいうの?」
「そんなことをされても困る。どう扱うかもどれだけ譲歩出来るかも、完全に私の都合だ。お前がなにをしようとも、私に出来ることは変わらない」
それ故に、媚を売る意味などない。
必要なのは、要求。
それだけだと、片桐乙女は言った。
「なにが欲しい?」
自由は与えられない。勝手を許すことも出来ない。
私はもう、この女に支配されざるを得ない。尋ねるということは、そういうことなんだ。
子どもがお菓子をねだるように、行き先を告げるように。
私たちは、管理されている。
言葉にしなければいけない。
なにが欲しいのか。
なにを求めるのか。
私の答えは――。
「――今は、なにも」
私は、応えた。
その条件に反するだけのものを、行動原理を、私は持っていないのだから。
正しさも作り直しで、生憎間違ったモノも持ち合わせがない。
だから。
「今は、いいです。貴女の指示で動きます」
「そうだね、分かってきたじゃないか、黒音」
彼女は、私をそう呼んで、頷いた。
「今はそれでいい。けれどなにか思い付いた時には言いなさい。森でも言ったでしょう」
片桐乙女は、いたずらっぽく笑いながら。
「知人の娘ということで、ある程度は見過ごしてやってもいい――ってね」
そう言ってくれた。
ようやく届いたトーストにはソフトクリームが載せられ、蜂蜜のシロップがたっぷりかかっていた。見ているだけで胸焼けしそうな、なんとも甘ったるい一品。こんなおやつみたいな物を朝食にするなんて、とても受け入れ難い。
けれど強過ぎる香りが、嫌でも味わいを連想させる。丁度よく小麦色になったパンの生地も、きっと素敵な食感だ。
「……」
一緒に並んだナイフで小さくカットし、フォークで刺して口元へ運ぶ。
味わいは、予想通り。
「…う」
甘い。甘過ぎる。
じわりとお皿に、溶け出したソフトクリームが広がっていく。
「…ん」
だけど、その強過ぎる甘さが。
きっと今の私には、ようやく感じられたものだった。