第二章【36】「エピローグⅠ」
戦いの果てに得たものは、なにもなかった。
広い目で見れば、潜在的な脅威が取り除かれた。そういう考え方をしなさいと、姉貴は言っていた。事実、一夜百語という管理不足な組織を解体出来たのは大きな成果だろう。
百鬼夜行という組織や、藤ヶ丘の街、日本国という目で見れば、きっと事態は好転している。
だけど俺は、なにも得ていない。
失った人と傷付いた仲間がいて、大切な居場所の一つが壊されただけだ。
夜が明けて、朝が来た。
時刻は午前九時を回ったところで、眩し過ぎる太陽が残暑を煽る。
暗闇も脅威も、全ては過ぎ去った後。開かれた視界には、傷痕が残されているだけだ。
なのに未だに、心の奥がざわついて。
「……」
少し離れたところから、修繕中の隠れ家を見る。
大きく開かれた壁の穴が目立ち、そこから綺麗になった内装が見られる。まだ壊れたテーブルや椅子が撤去されたばかり。建物の傍に並べられたまだ使えそうな物たちは、小さな傷があるだけで真新しく思える。
果たして全ての修繕には、どれくらいの時間がかかるだろうか。
きっと終わってしまえば、一週間とかそれくらいかもしれない。ちょっと長い正月休みとか、その程度の。
けれど昨日まで、当たり前に在ったその場所に踏み入ることが出来ない。
それが途轍もなく、不安だった。
「……なんでだよ」
別に毎日通っていた訳ではない。
それでも、困った時にはすぐに来られた。なんとなくの気分で、いつでも立ち寄ることが出来ていた。
それが奪われて、――俺は。
「なーに黄昏てるのよ、ゆーくん」
などと悩んでいると、不意に。
いつの間にか、隣立つ千雪にポンと肩を叩かれた。
「う、おっ」
気付かず、思わず声を上げてしまった。
「脅かすなよ、千雪」
「いやいや、普通に店の方から歩いて来たんだけど」
「……そう、なのか」
「まー全然目が合わないから、見えてないとは思ってたけどねー」
「マジか」
まったく見えてなかった。
我ながら呆れるな。
「ぼーっと見てるんなら、ゆーくんも手伝ってよ。人手足りないんだからさ」
「悪いが俺も仕事だ。気になったから寄っただけでな」
「じゃあ仕方ないね、残念残念。乙女さんのお手伝い?」
「いや、姉貴は休み」
振替休日。しかも昨日のテロ事件で休日を潰されたからと、そんな理由で。
図書館の職務とは関係ない件だったが、その休みを通していいのか。まあ街の一大事だし、姉貴の役割も役割。妥当な報酬ともいえるだろうが。
そういう訳で、今日は姉貴の手伝いどころか、姉貴の仕事を全てこなさなければならない。……とはいっても、普段から動く仕事は全部俺に回ってきているのだが。
「書類とか苦手なのに、大丈夫?」
「一応サリュも一緒にやってくれるから、二人ならいけるだろ」
「大変になりそうだね」
「そりゃあお互い様だろ」
「そうなんだよねー。隠れ家の修復もだけど、倒れた人たちもさ」
言って、げんなりと肩を落とす千雪。
倒れた人たち。先日の夜、神守によって眠らされ血を抜かれた人たちだ。妖怪や転移者たちはすぐに回復したみたいだが、純粋な人間は簡単にはいかない。本調子とはいかず、三人程入院しているらしい。
死者こそ出なかったが、あまりに好ましくない事態だ。
「真白め、徹底的にやってくれるんだから。今度会ったら説教よ」
「……それで済むってのもなんだかな」
思わず悪態をこぼし、眉を寄せてしまう。
俺とは対照的に、千雪は明るげな怒り顔だ。言うことを聞かない子どもを叱る、母親や姉のような。
俺はますます、胸の内を渦巻くモノがあって。
「ゆーくん、目付き悪いよ」
そんな悪感情を、すぐさま指摘された。
悪いと応え、大きく息を吸って、吐き出す。
千雪は、澄ました表情のまま言った。
「別に、悪いのは目付きだけだよ。真白を簡単に許せない気持ちは、至極当然なんじゃないかな」
「あー、いや、違うんだ。許せないって訳じゃなくて」
「どんな顔して会えばいいか分からない?」
「そう、だな。それに近い」
隠れ家を壊して、隠れ家の人たちを傷付けて。俺もまた、何度も致命傷を叩き込まれて。敵対し、殺すか殺されるかのところまでいってしまった。
そんな神守を相手に、どう接すればいいのか。
と、改めて考えていたところで、ふと。
「……あー」
なにか、親近感があるような気がした。
同じような感情を、どこかで……?
答えに躓いてしまった、俺より先に、
「別に、そのままの顔でいいと思うよ」
千雪が言った。
「――初めてじゃないでしょ、そういうの」
それで判った。
そうだ、初めてじゃないな。
壊して傷付けて、殺し殺されの間柄にまでなって。
それでも近くに居る奴が、何人も思い当たる。
「そうだな、経験あるよ」
「その時だって簡単じゃなかったでしょ? 関係性だけじゃなくて、気持ちとかも」
千雪の言う通りだ。
どこにも引っ掛からずに呑み込めたことなど、なかった。
傍に居てくれる少女も、先の戦いで共闘した男も、テロの際に味方だった騎士たちも。俺は全員とぶつかって、それでも手を取り合うことが出来たんだ。
いや、それは言い過ぎか。
手を取り合うことは出来なくとも、歩み寄ることが出来たんだ。
「っても、納得出来ねぇけどな」
「そういうものでしょ。慣れないね」
「多分、一生慣れねぇよ」
だからといって、反発する訳にもいかない。
俺だって事を起こして、受け入れて貰っている立場なのだから。
認めて貰えている以上、認めざるを得ない。
それが組織に属するってことか。
結局、姉貴は神守姉妹を不問にした。
黒薔薇の正体も限られた数人だけが知り、神守の裏切りも周知はさせない。北地区ビルのテロも隠れ家の崩壊も、全てはがしゃどくろが率いる一夜百語の仕業だった。
それが事の顛末として、百鬼夜行やアヴァロン国には伝えられる。
姉妹も反発はしなかった。
中居さんが消え去った後、二人は驚く程素直に、姉貴の指示に従っていた。再び戦いになることも、逃げることもない。姉貴の「後日改めて」という提案にも、頷くだけだ。
果たしてどういう心変わりがあったのか。その後二人が何処へ帰ったのかも、俺は知らない。これからのことについても、姉貴は一切伝えてはくれなかった。
なにも知らないままに、傷付いたサリュとアッドを病院へ送って、それで終わりだ。
あれだけ懸命に戦ったのが、嘘のように。
それが俺の限界だ。それが俺に出来る精一杯だ。
だからこれ以上は関わるなと、遠ざけられたような気がした。
けれども、あっという間に日は登って、次の朝が始まった。
与えられた仕事をこなすために、千雪と別れ図書館へ向かう。
騒ぎが落ち着くこともなく、気持ちの整理も曖昧なままで、それでも日常を回さなければならない。当たり前の生活をこなさなければいけない。
「……クソっ」
あまりにも力尽くに弾き戻されて、一体どうしろってんだ。
やっぱり煮え切らない。上手に呑み込めなくて、胸焼けがする。それは納得出来ないとか、無力感とか、神守のことだけじゃなくて。
こんなことをしていても、いいのかって。
そんな、急かすような気持ちだ。
「……でも」
今の俺に出来ることは、きっと多くない。
与えられた仕事をこなす。姉貴の手伝いで図書館を回す。それが最善だ。
それでいい、筈なのに。
「……」
気付けば視線は俯き、億劫に進める爪先を見送っていた。
だから、
「おはよう、ユーマ!」
彼女に呼ばれて、はっと、辿り着いたことを自覚した。
顔を上げれば、サリュが大きく手を振っていた。
図書館の裏口、職員用の扉の前で。見慣れた黒のワンピースを着て、待ってくれていたサリュが、ぱたぱたと走り寄って来る。
日に照らされた肌色の両腕に、傷の痕は見られない。元気いっぱいに躍動する脚部にも、動作の異常はなかった。
開かれた満面の笑顔にも、曇りの色なんて一切感じられなくて。
「……おはよう、サリュ」
自然と、肩を下ろして息がこぼれる。
――帰って来た。
そんな風に、思えた。
「おいおい、走って大丈夫なのか?」
「大丈夫、傷は全部塞がってるわ。……ちょっと疲れるのが、いつもより早いけど」
「無理すんなよ」
駆け寄り立ち止まったサリュは、確かに肩を激しく上下させていた。五十メートルもない距離で、全力疾走でもあるまい。まだまだ全快には程遠いって感じか。
「辛いなら今日は休むか?」
「お仕事を? それならユーマもお休みにしましょう。一緒に食べ歩きとか、遊んだりとかしたいわ!」
「俺は休めないって」
というか、それじゃあ意味ないだろ。
「疲れてるんだから休めって言ってんだよ。部屋に居ろ部屋に」
「じゃあ大人しくしてるから、遊びに来てくれる?」
「だから、俺は遊べないって。俺は仕事だ仕事」
「じゃあわたしも手伝うわ。手伝わせてよ」
「いやいや、なんで――」
なんでそうなるんだよ。
そう言った俺に、サリュは。
「だって、そんなの勿体ないじゃない」
楽しそうに笑ったまま、そう、返答した。
「勿体、ない?」
予想外の物言いに、反芻してしまう。
サリュの表情は変わらない。
彼女は飾ることなく、ただ純粋に言った。
「ええ、せっかく戻って来れたんだもの。ユーマと一緒がいいわ!」
――ああ、それはなんて。
「休みたいのも山々だけれど、それより遊びたいし、お仕事もしたいわ!」
――なんて当たり前で、ありふれた。
「ユーマも、そうでしょう?」
「…………」
当たり前の毎日。
ありふれた日常。
暗闇の先に迎えられた、行き着くことの出来た朝。
それを遠ざけられたなどと、弾き出されたなどと、どうしてそんな風に考えてしまっているのか。
どうしてこんなにも、足を重く引き摺っているのか。
「――そう、だな」
なんて、馬鹿馬鹿しい。
「その通りだよ、サリュ」
満足なんて出来ていない。
与えられた役割を、百点満点こなせたなんて思えない。多くの失敗があった。頭を抱える程の反省もある。怒りも悲しみも辛さも、ごちゃ混ぜで整理出来てない。妥協なんてレベルにも到達出来ていない、無惨な結末だった。
それでも間違いなく、居合わせた全員が全力で、必死で、懸命で。
それで、辿り着けた朝だ。
「じゃあ、決まりね!」
サリュがぎゅっと、両手で俺の右手を握った。
柔らかくて力も弱くて、あまりに小さい少女の手のひらは、けれども俺を引き連れていく。
踏み出した一歩はまだ重くて、気を抜いたらそのままその場に埋まってしまいそうだ。
「――――」
だけどこの場で立ち止まっているなんて、あまりに勿体ない。
続く一歩はまだ引かれたままで、その次でようやく、地面を踏み締める。
今は強引で構わない。
無理矢理連れられて、それでもいい。
それが今の自分に出来る、力一杯の前進だ。




