第二章【34】「妹の内側/骨身のココロ」
その光景を、私はきっと忘れないだろう。
射線を外れた遠くの間合いで、結末の灯を瞳に焼き付ける。
「――――」
一人の小さな少女に襲い掛かる、巨大な無数の骨手たち。増殖を続けるその数は、きっと百を上回っていたように思えた。
たった一人の人間を潰すには、手のひら一つで十分過ぎる。それが、空を覆う程に展開され、彼女へと叩き付けられる。
迎え撃つ少女の焔は、確かに強烈な光を灯している。けれどもほんの小さな一刀、たかが少女の身の丈を越える焔の大剣でしかない。途轍もない力を内包していることは分かっても、それが果たして、目前の強襲へと対抗しうるものなのか。
思えばその本質を、理解など出来る筈もない。
異なる世界の法則は、優に私たちの想定を凌駕し。
――撃ち放たれた焔は、視界を紅蓮の色で埋め尽くした。
草木も大地も、待ち受ける骨手も、その全てが呑み込まれ蒸発する。それは文字通り、影も形も残すことなく燃え滾り。
例外なく、あの男の姿をも呑み込んでいった。
「……これが」
これがことの結末だ。私が始めて、辿り着いた終幕。
戦いは、終わった。
「……私は」
喉の渇きにか細く呟き、まぶたを閉じれば緑の残像が浮かぶ。
肩を落として息を吐けば、同時にそのまま膝が崩れた。残っていない外傷は、けれどもこの身を立ち上がらせるには困難で。
「……私は、間違えてばかりだ」
それでも、視線を落とすことはしない。
焼け果て立ち昇る硝煙を、ただ見つめ続ける。
それがこの終わりに対して、私が出来る唯一のことだから。
一年前、藤ヶ丘を後にしたその日。
まさに街を去る道中で、私は中居暮男に会った。
「やあ、黒音。元気そうだね」
「……」
なんの因果だろうか。これもこの男の体質がもたらした、魔の悪さなのか。
取り留めのない街道で、偶然ばったり出くわしてしまった。
「品の良い白のブラウスに、短くて可愛らしいスカートだ。平日の昼間からお洒落をして、どこかへお出かけかな? 学校はどうしたんだい?」
「……なに、説教でもするつもり?」
「いやいや、若い子は勉強よりも遊んでなんぼだよ。――変な悪巧みがなければ、ね」
いつものくたびれた格好で、にへらと間の抜けた笑顔で、けれども変に核心を付いて来る。嫌いという程ではないが、気を許せない。真白は定期的に連絡を取ったり会っているようだが、私はとても自分から接そうとは思えなかった。
その時もきっと、彼は分かった上で、ある程度予想した上で笑っていたんだろう。
「危ないことをするなとは言わないけれど、自分を大切にね」
「フン。別になにもしないわよ。勝手に心配しないでもらえる?」
「やれやれ。随分敬遠されているみたいで、お父さんは悲しいよ。ま、僕なんて近くに置いておくだけ貧乏になるんだ、それも当然かな」
今になって思えば、それが彼と平凡に話せた最後だった。
拭えない憎しみを抱えたまま、けれども怒りや殺意を吐き捨てることもない。私たち姉妹を拾い援助してくれたことへの感謝と、そこからくる気まずさを呑み込んで。
結局どこへ向かうか告げることなく、私はその場を去った。
そんな私に、暮男さんは。
「出来ることなら仲良く一緒に――って言いたいけれど、贅沢は言わないよ」
――だからどうか、成長する君たちを見届けさせてほしい。
――勝手ですまないけれど、それだけは許してほしい。
そう、消え入りそうな声で呟いていた。
当時の私にその声は、喧騒の中で一際目立っていただけで。
「……なんなのよ」
こうなってしまった今も、その真意は分からない。
彼はどうして、なんの為にここまで。
「……貴方は」
貴方は一体、なにを望んでいたの?
◆ ◆ ◆
一歩を踏み出すごとに、身体が痛む。
呼吸をするだけで、すっと頭が軽くなる時がある。そのまま浮遊感に任せて倒れてしまえたら、どれだけ楽になれるだろうか。
きっと倒れたところで死なない。それ程の傷じゃない。ただ幾つか骨が割れて、疲れてしまっているだけだから。
「……お父、さん」
そう呼ぶことにしたあの人のところへ、歩みを進めていく。
焼けただれた大地を踏み締め、火痕の煙にむせ返りながらも、ゆっくりと進んでいく。
「……オイ、無理すンジャ、ねェヨ」
呼び止める声は後ろから。
間一髪のところで助けてくれた、片桐先輩の仲間のリザードマン。
「モウ終わリダ。逃げるノモ隠れるノモ、諦メロ」
振り向けば、息も絶え絶えに座り込んでいる。
私が肩代わりで与えた斬り傷は、なんらかの方法で止血され塞がっているみたいだ。さっき担がれた時にしていた薬品の臭いが、その要因だろう。
無理をするな、なんて、どの口が言うんだか。
右も左もお人好しばかりで、嫌気が差す。
「……別に真白は逃げるつもりないから、安心して寝てていいよっ、トカゲさん」
「リザードだッテ、言ッテんダロ」
「どっちも、一緒みたいなもんだよ」
「ケッ。……ッたく。逃げネーなら、そんな必死にドコ行くンダ? アァ?」
「……それこそ、真白の自由でしょ」
今一度、歩き出す。
正直、あの人が生きているとは思えない。火の海に呑まれていくのを、私も見届けている。
だけど、もしもがあったとしたら。
「……っ」
そんな淡い可能性を捨てきれず。
痛む身体を引き摺って、私はあの人の元へ向かった。
黒音お姉ちゃんは大きく勘違いしていることがある。
私の両親は、きっと人としては百点だけれど、親としては零点だ。
中居暮男が、その体質によって不幸を引き起こしたのだとしたら、貧乏神であるが故に両親が死んだというなら。
どうして両親は、その可能性を考えなかったのだろう?
どうして最悪それ以上の不幸もあり得ると、恐怖しなかったのだろう?
まさか私が買い被り過ぎているだけで、お父さんもお母さんも、そんな未来は思いもしなかったんだろうか? そういう存在と付き合うリスクを、まるで理解していなかったんだろうか。
だとしたら馬鹿過ぎる。どの道、救えない。救われない。
だけどきっと、そんなことはない。
社や神具を守り、妖怪たちと関係を築いてきた神守の人間が、その程度の知識に疎い筈がない。知らなかったでは済まされない。
両親たちは間違いなく、その危険性を知り得ていた。
それを考慮した上で、貧乏神に友人として接して来たのだ。
私やお姉ちゃんが居ながら、それを良しとしたんだ。
どんな不幸も乗り越えられるつもりだったのかな?
一緒に仲良く立ち向かうつもりだったのかな?
ああ、結局。やっぱり死んでしまった両親は、馬鹿なんだろうな。
それなのにお姉ちゃんは、見捨てた人たちを許せなくて。不幸を招いた中居暮男が許せなくて。まんまと、目をくらませて。
「やっぱりお姉ちゃんは、ちょっと、直情的過ぎるよ」
呟き、そうして。
「――あ」
言葉を失い、息を呑む。
奇跡的に、私は、辿り着いた。その場に居合わせてしまった。
その男は、まだ生きていた。
「……お父、さん」
地面に横たわる、彼の姿を捉える。
力なく夜空を仰ぎ見る、中居暮男を。
「……真白、かい?」
首を傾け、こちらに振り向く。
生きて残っていたことも驚いたけれど、その上、額が見慣れた皮膚を貼り付けていた。眉を寄せ、頬を緩ませ、苦く辛そうな笑顔を表現している。
当たり前だ。
だって彼の身体は、――崩れている。
上半身だけを残して腹部から下を、両腕は肩口から先を失っている。ボロボロと音を立てながら、端から少しずつこぼれて、なくなっていく。よく見れば頬や首元にも、薄い亀裂が張り巡らされていた。
「……参った、ね。ここまでなんとか、持ち直してくれた、けれど。……これ以上は駄目、……回復不能だ」
「……そう」
もう、時間の問題みたいだ。
一度死んで骨になって、火に焼かれて消し飛ばされて。それでもここまで直されたことこそ、奇跡。これ以上はない。
間もなくこの人は、失くなってしまう。
「……お父さん」
だから、せめてその最期までは。
「……は、はは。真白は、優しいなぁ」
「……そうでもないよ。真白はお父さんより、お姉ちゃんを優先したんだから。その為にお父さんを、殺したんだから」
「アレは誰がどう見たって、乙女さんの致命傷だと、思うけどね。頭をぐちゃぐちゃに、だよ」
「それでも真白も、殺したんだよ」
「殺そうと、しただけだ。死ななかった。……どうか、気負わないでほしいが」
「好きで背負うんだからいいでしょ」
「それを言われてしまうと、返す言葉が、ないな」
荒い呼吸で胸部を上下させ、時折息が詰まりながらも。
彼は言葉を続けた。
最期の時までに、少しでも話が出来るように。
「……真白は、僕を恨んでいるかい?」
「恨んでるよ」
「それじゃあどうして、お父さんと?」
「お父さんの養子だもん。それに、それだけのことをしてくれたでしょ?」
家をくれた。お金をくれた。私たちが姉妹で生きられるように、必要なことを揃えてくれた。
その上で、私たちから距離を置いてくれた。近くに居てはロクなことにならないと、私たちを遠ざけてくれた。
それはある意味で、両親たちよりずっと、私たちのことを思ってくれている。
「恨んでいるけれど、感謝してる。恨みだって、お父さんだけの所為じゃない」
真白はお父さんに貰った物を全部含めて、お父さんと呼んでいる。
たった一つの恨みだけで、他の感情は潰されない。
それが私の、神守真白の気持ちだから。
「……お父さんだけの、所為じゃない、か」
彼は言った。
違う。
君の両親の所為でもないんだよ、と。
「え……?」
「真白はもしかすると、両親のことも、恨んでいるのかな」
けれど、それは違うよ、と。
静かに首を左右へ振るう。
「……不幸と幸福は、表裏一体なんだ。僕が孤独であれば、不幸など、たかが知れている」
――だから不幸にも、傍に居てくれる友人に出会ってしまった。
――残酷にも、危険を承知して尚、離れていくことはなかった。
目に余る程に優しく、正しすぎる人たち。理不尽に背を向けることのない、出来過ぎてしまった両親。
出会った時点で、それはもう、逃れようのない不幸を約束されていた。
「そんな二人を突き離せる程に、僕も強くはなかった」
故に全ては、貧乏神として生まれた性。
それでも用意された幸福を享受した、自分自身の弱さ。
「結局は僕が、――貧乏神が悪いんだよ」
また笑う。
苦い苦い、作り笑いで。
そんな彼に、私は尋ねてしまった。
「……ねえ、お父さん。お父さんは、これでよかったの?」
答えなんて、聞くまでもないのに。
「お父さんは、これで満足なの?」
「……ああ」
お父さんは、言った。
いいわけがない。
満足なんて、出来る訳がない。
――嫌だ、と。
「この結末が、お前の最大不幸なんだね、暮男」
その声は、遅れて訪れたもう一人。
片桐先輩の、お姉さんだった。
「自分だけが死んで、姉妹が生き残る。――それがなによりも、不幸なのか」
お父さんは、大きく息を吐き。
クツクツと、歯を鳴らした。