第二章【32】「出来ることを/逃げない選択を」
巨大な爆発によって、夜空へ投げ出される。
あまりの衝撃に呼吸が息詰まり、手足が痺れて感覚を失った。合わせて遠く離れていく地面や森の木々たちに、背筋が凍る。
落ちればただでは済まない。硬化した身体であっても、幾つの骨を砕かれるか。
だけど、そのお陰で。
「……っ、し」
あの場所を離れたからなのか、それとも爆発によって中居さんの注意が逸らされたからか。しつこく身体に纏わりついていた冷たさが、急速に離れていくのが分かった。
これ以上の傷は増えず、今度こそ鬼の血により正常に回復が行われる。
しかし、安堵の息を吐く暇もない。
遥かに高い夜空の上で、並走する少女の影がある。
「サリュ!」
風に煽られ飛ばされる中、すぐ傍の彼女へ手を伸ばした。
サリュは息を荒げ、無抵抗に投げ出されている。額を真っ赤な血で汚し、大粒の汗を幾つも浮かべたままで。
彼女にも治療の術はあるだろうが、それも俺や姉貴たち鬼のようにはいかない。傷を塞ぎ血を止め、痛みを取り払う程度だろう。俺と同様か、それ以上に身体を傷付けられているとしたら、とても無事な状況ではない。
その上、サリュへと近付いた左手の指先が、異様に冷たい空気へ触れる。
彼女はまだ、解放されていない。
「……魔法が上手く発動しない。治療も、風の魔法も」
その独白は、俺へ向けられたものではない。
サリュは一人、虚空を見上げて呟く。
「通用しない、力の正体も曖昧で分からない。――わたしは今、確かに死んでた」
「サリュ!」
もう一度、彼女の名を呼ぶ。
それでようやく、サリュがこちらを向いた。
その弱々しく、憂いを帯びた瞳と、視線が合わされる。
「……ユーマ」
彼女が俺の名前を返す。
果たして俺は、なんと言葉をかけるべきなのか。
諦めるな? まだ戦える? ――きっとそうじゃない。
じゃあ諦めろ? もう逃げよう? ――それも違う。
「……ッ」
なにも、思い付く言葉はなかった。
がむしゃらに手を伸ばす。それだけしか出来なかった。
けれど、きっとそれでよかった。
だってそれを決めるのは俺じゃない。判断など出来る筈もない。
俺に出来ることは、ただ。
「……っ、サリュ」
「……うん、そうね。まだ生きてる。助けてくれようと、してくれている」
頼りなく揺れ動く瞳。
そのまぶたが、ゆっくりと閉じられた。
「弱音は捨てなさい。まだ、やれるでしょう」
それは自問自答のように紡がれ。
「まだ、戦えるでしょう」
再び開かれた赤い瞳には、力強い意志が宿っていた。
それでようやく。
「ユーマ!」
彼女もまた、その手を伸ばしてくれた。
「ごめんなさい、ユーマ! 着地をお願い!」
「ッ!」
「治癒の魔法が上手くいかないの、風の魔法も失敗する可能性がある! だから、もし構わないなら……」
最後の言葉に口籠る。
その先は、聞かなくてもわかる。
「任せろ!」
かざされた右手へ、自分の左手を重ねる。
そのまま小さな身体を引き寄せ、抱きしめる。
「謝らなくていい。俺に出来ることはこれだけだ」
彼女をこの空中から、無事地面へ降ろす。
その為なら、この身体がバラバラになったって構わない。俺はどうせ死なない、全部元に戻る。それが鬼の血を持つ、俺に出来ることだ。
それこそが、今の自分に出来る最善だ。
だから、
「だからその後は頼む!」
彼女を抱えたことで、より強く大地へと引き戻される。予想以上に大きく飛ばされていたらしく、地上までまだ二十メートルはあるか。
加速する落下の中、少女をしっかりと抱きしめ、全身を鬼血で硬化させる。
着地の直前、彼女は胸の中で。
「――ええ、任せて。絶対に決めてやるんだから」
確かにそう応えてくれた。
◆ ◆ ◆
たった一つ、灯されていた希望が消滅した。
未来を切り開く焔の輝きは、より深い闇によって握り潰されてしまった。
炎と黒腕。圧倒していた筈の炎がやがては拮抗し、炎柱の内幾つかが消失する。解放された腕は暫し再生に動きを止めているが、間もなく少女へ襲い掛かるだろう。
強大な力を有した転移者。魔法と呼ばれる異能を操る、絶対的な少女。
彼女の力を以ってしても、この男を打ち倒すことは出来ないのか。
「……私は」
私にはもう、この男の要求を呑む以外に選択肢はないのか。
今の自分を殺すことでしか、先へ進むことは許されないのか。
諦めかけた、その時だ。
「あ――」
私は見た。
炎の向こうで血を流す少女。そんな彼女へ、
――片桐裕馬が、駆け寄ろうと踏み出す。
同じように血を流し倒れても、黒腕が迫り来る絶望的な状況の中であっても、この状況を打破出来る手段など持ち合わせていないと、自身で分かっている筈なのに。
彼の瞳は、ただ真っ直ぐだった。
「どうして」
果たして、絶望がないようには見えなかった。眉間には深い溝が刻まれ、力強く歯を食いしばっている。その危機的状況を正しく理解した上で、それでも彼は行動を止めない。
それは、彼だけではなかった。
未だ持ち堪え炎を放ち続ける少女も、傍で控え腕たちを睨む片桐乙女も、恐らくは彼女らへ襲い掛かる、中居暮男でさえも。
なにより、私を支え続けている妹が、まるで諦めていない。
どこまでも真っ直ぐな瞳で、私を射抜いている。
「――――」
真白はなにも言わない。
変わらずただ、お姉ちゃんはどうするのと、それだけを待っている。
分からない。
私には、彼ら彼女らが分からない。
どうして?
……どうして、なの?
「…………ま、しろ」
分からない。
分からないけれど、私は。
「私は、――逃げない」
逃げることだけはしない。
それだけは、してはいけない。
「私は、逃げない。――逃げないッ!」
私は間違っている。
間違った私は死ななければならないと、中居暮男はそう言った。死んで未来へ進むか、死に絶えここで終わってしまうか、選べと。それ以外にはないと、それ以外は許さないと。
逃げることに意味はない。
逃げればただ殺され、ここで全てを終わらされてしまう。前進も後退も学びも反省もなく、ただ不正解の烙印を突き付けられる。
神守黒音は出来損ないとして、その生涯を閉じる。
そんな無様は他でもない、この私が許容しない。
「……戦え」
だから、逃げるな。
死ぬのであれば、死ぬことを選べ。
生きるのであれば、自らこれまでの自分自身を殺せ。全ての主義主張を、正義を捨てろ。
その両方が不可能だというなら、受け入れ難いと抗うなら、
「戦え、神守黒音!」
戦い、この先を切り開け!
抗いの果てに殺されろ!
「私は、逃げない!」
だから、戦え!
前だけを見据え、足掻き続けろ!
「真白、お願い!」
その為に、私は。
ようやく彼女へ向き合うことが出来た。
巨大な爆発は、私と真白が持つ、一度きりの必殺だった。
特別な経路で入手した、異世界特注の特殊スーツ。その能力は、スーツに創られた異空間へと、あらゆる物体を収納することが出来るというもの。生地へ触れた物を自由に取り入れ、好きな接触部へと取り出すことが出来る。私たちはこのスーツの能力を活用し、状況に応じて武器を持ち替えていた。
大きさに関わらず、様々な武装を持ち歩くことが可能だった。私の数々の銃や、真白の巨大な鉄杭や鎚も、装備する必要なくいつでも構えられる。デメリットとして収納した物体の重さがスーツに加算されてしまうが、私たちならそれを別の対象へ肩代わりさせられた。
そうしなければ、私はスーツの自重によって圧し潰される。
この必殺は、その危険からも私を解放した。
「ッッッツツツ!!!」
激しい爆風に煽られ、後方へと飛ばされる。
それにより真白と離れてしまったが、この身は無事に健在だ。そのまま背中を木に衝突させ、痛みを歯噛みし立ち堪える。
今一度、両足で大地を踏み締め、前を見やる。
「……やって、やったわよ!」
その爆発は、私が持ち得ていた全ての武装を叩き付けてやった結果だ。
スーツの中に取り込んでいた銃火器全てを、私は男へ目掛けて吐き出したのだ。
数十の拳銃や数千にも及ぶ弾薬各種。手榴弾やら徹甲弾等爆薬に加えて、刀や槍といった刃物まで、まとめて爆発してやった。
それにより、私のスーツに重みは失われる。同時に巻き起こされた巨大な炎や武具の破片たちが、あの男へと襲い掛かった。
私が溜め込んでいた全ての火力。一度に重ねて解き放った威力は、恐らく少女の魔法にも匹敵した筈だ。
その証拠に。
「……それでいいんだね、黒音」
立ち昇る硝煙の奥。男が苦しげに声をこぼし、薄っすらと見えた影は前のめりに折れ曲がっていた。
向こうに見える巨大な腕の影たちも、大きな音と共に大地へ落とされている。
恐らくはすぐに立ち直られてしまうだろう。腕たちは高い再生能力を持ち、男は私から奪った神守の神具を持っている。肩代わりの力によって、元の脅威へ戻されてしまう。
だけどそれを、簡単には許さない。
「中居、暮男ッツ!」
男の名を叫び、全身を奮い立たせた。
そして硝煙の中へ、一気に走り出す。
「ああああああああああアアアアアアア!」
体勢を低く、素早く駆け抜け距離を詰める。
遠く伸ばされダメージを受けた黒腕たちは、まだまともに動かせる状態ではない。私の接近へ、対応手段は限られる筈だ。どころか有効な抵抗はないとすら考えられる。
私の知る限り、あの男本体の戦闘能力は皆無だ。
今なら私でも、勝ち目がある!
「アアアアアアアアアア!」
入り込む。
彼の懐へ、戦いの距離へと踏み出す。
――しかし、そんな安易な想定は簡単に崩されてしまう。
「腕の再生に間に合えば勝てると、そう思ったのか?」
「――あ」
嫌な風が頬に触れ、髪を流す。
煙が吹き荒れ、視界が開かれる。
君臨する男は、鋭い目付きで私を見据えていた。そして握り締められた右手が、真っ直ぐ私へかざされる。
その拳がまたしても、指の隙間から光をこぼす。合わせて彼の周囲に、言い知れない重圧感が広がり、
「――ゴ、ば」
私は喉から血反吐を散らした。
冷たい異物感が、体内で暴れ始める。
たった一歩、あとほんの少し踏み込めば、触れられる距離。私はまんまと、最後の踏み込みを阻害された。
「なにも持たず、神具すら奪われ、そんな状態で本当に勝てるつもりだったのか?」
「――ハ」
思わず、笑ってしまった。
なにも持たないこの身だけで、なにも成せる筈がない。そんなの無理に決まってる。
馬鹿馬鹿しいにも程がある。
そんな無謀をする程に、私は自分を見失っていないというのに!
「肩代わりを!」
叫び、命じる。
スーツの下、胸元が光を放つ。
この身を蝕む全ての障害を、大地へと肩代わりさせる。
「な、に?」
男が表情を歪めた。
その動揺が、ほんの一瞬の制止を作り出す。
なにも持たずに突っ込む訳がない。
爆発を起こす寸前、私は真白から神具を受け取っている。
私の神具、真白の神具。そんな分け方をしたことなんてない。
この力は私たち、神守のモノなのだから!
最後の一歩を踏み出す。
私は空の左手を、彼へと突き出した。
変わらずその手のひらには、なんの武器も握られない。全ての武器を解き放ったこの身には、取り出す武器など残されていない。
だって、ただの攻撃では意味がない。全ての傷が肩代わりの力によって逸らされる現状、どれだけの数を畳み掛けたところで、有効打にはなり得ない。
この接近は、私の手のひらが狙うのは、一つだけだ。
「その力は私たちの、神守の力だ!」
突き出したその手が、指先が、男の右手に触れる。
彼が神具を握り締めたその手へ、勢いのままに掴みかかる。
――そのまま神具を奪い返すのか。
違う。きっと奪取することは敵わない。正体不明の異能や彼の肩代わりによって、あらゆる攻撃は届かないだろう。
奪い返すことは、敵わない。私では、正面からこの男を上回ることは出来ない。
それだけは諦めている。その敗北だけは呑み込んでいる。
だから、
「勝手に使うことは絶対に許さない!」
声高々に宣言する。私たち神守の意志を。所有者としての感情を。
その力は、私たちに与えられたモノだ。勝手には使わせない、そんなのは許せない。
それを奪おうというのなら、取り返せないというのなら!
――私たちは、それを破壊する!
「肩代わりをッッッツツツ!」
胸の内に秘めた神具、その力を解放する。
対象は中居暮男ではない。彼の右手の内に隠された、神守の神具へ。
――肩代わりの神具を対象に、肩代わりの力を発動させる!
「アアアアアアアアアアアアアアアアア!」
私に纏わり付いた冷たい闇を、今も体内を暴れ回り傷付ける負の螺旋を、この身に降りかかる痛みの全てを肩代わりする。
叩き割って二つになっても、力を失わなかった神具だ。きっと並みの攻撃では砕けるだけで、最悪破片の全てが力を持ち続ける可能性もある。神の名を持つその力は、簡単には消滅されない。
だけど肩代わりによって、折り重なったダメージを刻み付けるなら。その上その傷が、神の力によって与えられたモノであるならば。
同じ神の名を冠する、この不幸ならば、その力を破壊出来る筈だ。
「やってくれたな! 黒音ェェェエエエ!!!」
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
叫びが交わり、そして。
一際甲高い炸裂音が、周囲に響き渡った。
それは石と石がぶつかり合うような、鉄鎚によって叩き割られるような。
硬いものが、砕けた音。
「――馬鹿、な」
男が声を上げ、右手を開く。
その内側には、もはや欠片とも言い難い小さな粒が重なり。
「ッ!」
直後、私は目にした。
彼の背後に迫る、二つの影を。
一方の少女は地を這い、銀色の髪をたなびかせて。
もう一方の女は跳躍し頭上から、全身を赤黒く硬化させて。
「うああああああっツ!」
「ハアアアッッッツツ!」
――研ぎ澄まされた日本刀、その白刃が半身を裂き。
――鬼の右腕、鋭い爪先が首を断つ。
容赦のない連撃が、男へと致命傷を叩き込んだ。




