第二章【28】「知っている」
大地を震わせるほどの一撃が、森へと叩き込まれた。
中居暮男の背後から伸ばされた五本の白い右腕が、少女の身体を打ち潰す。
俺も姉貴も動けない。ただその光景を、目撃していることしか出来なかった。
「……冗談じゃねぇ」
家族だと、娘だと、そう言ってはいなかったのか。
それをどうしてあれ程までに、容赦なく。
「……くそ、っ」
それに、このままいけば俺は、俺たちは、アレと戦わなければいけなくなる。
一夜百語の首領、大妖怪と。
やがて、巻き上げられた土煙の中から、一本の腕が掲げられる。その手のひらには、神守黒音が握られていた。
男がその少女を見上げ、語り聞かせる。
「残念だが、僕の腕たちは自立している。死に体の腕と生者の肉体で別たれている所為か、腕と僕は同一の存在ではないんだ。だからね、この距離で黒音の肩代わりは僕には影響されない。君に触れた腕が、その身で引き受けてくれる」
即ち中居さんは、骨手を使えば肩代わりを避けられる。俺たちのように、傷を返されることがない。
「そして僕の腕は頑丈かつ治癒が早いのも取り柄でね。君の骨にヒビが入る程度の肩代わりであれば、幾らでも背負ってくれる筈だよ」
だから、と。
少女の身体が、ミシミシと音を立てて握り潰される。
バキリと、時折大きな響きすらも交えながら。
「が、ガガ……ヅ、グ」
零れる呻き声。少女は口を開き、夜空を仰ぐことしか許されない。
握り潰す手の甲や腕の骨へと走る亀裂は、瞬時に消え去り、同時にすぐさま刻まれる。繰り返されるその現象は、それだけの痛みの肩代わりが発動し続けているということだ。
彼女がどれ程の苦痛に晒されているか、容易に想像がつく。
「偉いね、黒音。手の中で簡単な鉄砲玉を使って抵抗しているみたいだけれど、それ以上はいけない。取り分け爆発物は危険だ。僕の腕を爆発で粉々にしてしまったら、黒音も無事では済まない。そして宙へ放り出されれば、肩代わりを受けてくれる対象も無くなってしまう」
「ッ、ぐ」
「バラバラになっても、意識が消える前に地面へ落ちれば助かるかな? でもそれなりに距離も離れている。賭けにすらならないだろう」
「ぐ、ぐ――ふざけ、ゴ」
「大人しく街を出るまで耐えていなさい。――と、いう訳で乙女さん。苦しむ娘の顔を見続けるのは大変心苦しいんだ。手早く取り逃がしてもらえないかな?」
そう言って、くらりと、張り付いた笑みを向けられる。
気持ちが悪い。
娘と、そう呼びながら、なんでそんなことが。
そんなものを見せられて。
「――お父さん」
当然、その状態を許容出来ないのは、俺だけじゃない。
「お姉ちゃんを、離して」
姉に遅れ、神守も飛び出した。
地面を踏み締め大きく前進し、同時に右手に構えられていた鉄杭を、力一杯振り被り投擲する。
巨大な刺突は空を裂き、けれども男へ到達することはない。かざされた手のひらによって正面から迎え撃たれ、阻まれてしまう。
が、無意味ではなかった。大きく開かれたその手のひらを貫いたのだ。鉄杭は骨手の丁度中央部へ深々と突き刺さり、先端を手の甲まで貫通させている。
「通るっ! 真白の攻撃は、有効っ!」
神守が声を上げ、続く左腕の鉄杭を構え引き絞る。
それを男は、一歩たりとも身じろぐことなく、ただ肩を落とした。
「やれやれまったく。真白もお姉ちゃんと同じく反抗期、か。お義父さんは悲しいよ」
「大丈夫だよ。真白は別に、お義父さんを嫌いなわけではないから。反抗って程の大層な意識もないかな」
だけど知ってるでしょ?
神守真白は、揺るがないその立ち位置を明確に示す。
「お姉ちゃんはお義父さんを許せないみたいだし、真白もお姉ちゃんを傷付けることは許せない。それだけだよ」
「お義父さんのことも考慮してほしいなあ」
「してるよ? 真白はその上で、お姉ちゃんを尊重してるの」
容赦がないというのなら、神守にも手心が感じられない。
俺へ向けられたものと同様の戦意が、父と呼ぶ相手へも向けられている。
「お姉ちゃんを尊重、か。そのお姉ちゃんが間違っていると言ったら、真白はどうする?」
「言ったらっていうか、間違ってるよね」
「気付いていながら、か。真白はそれでいいのかい?」
「いいよ」
即答だ。
考える必要も無く、神守の答えは既に用意されていた。
「お姉ちゃんがここで死ぬなら真白も死ぬし、お姉ちゃんがここで捕まるなら真白も捕まる。――お姉ちゃんが間違っているなら、真白も間違ってていい」
宣言の後。
もう一度、彼女の手から投擲が放たれた。
再び空を裂き、男へ迫りくる刺突。
だがそれは、先刻同様に骨手を貫くことにはならなかった。
「生憎だが、真白」
投げ放たれた鉄杭。それが男へと穿たれる直前、その先端が制止した。
それは骨手が刺突を止めたからだ。正面からではなく、側面から。まんまと掴み握り締め、杭を受け止めたのだ。
衝撃で微かに骨身を震わせるも、その勢いは完全に殺された。指を開けばカラリと、速度を失った鉄杭が地面へ無為に転がる。
「僕の腕たちは図体に見合わぬほど機敏だ。硬度に対して有効な攻撃とはいえ、通用するかどうかはまた別の話だよ」
男がまたしても、にへらと口元を緩める。
そして、次は向こうの攻勢へと移行する。
「っ!?」
変化は突然だった。
突如として、神守の身体が浮き上がった。正確には足元の地面が切り取られ、宙へと浮かび上げられた。
持ち上げるのは、白い細腕たちだ。四つの骨手たちが、地面諸共に少女を掲げている。
「下から、っ!」
驚愕するも、神守はすぐに態勢を立て直す。
続け様に足場が握り潰されたが、それより早く地面を蹴り、大きく後退してみせた。
だが、それこそが敵の狙いだ。
「君たち姉妹の弱点は空中だ」
「しまっ――」
中居さんの指摘に、神守が失態を悟る。
既に手遅れ、そこはなにもない空中だ。足場までの落下には数秒を要する。
「神具の肩代わりも含めて、空中では途端に手段を限られてしまう」
「く、っ」
「もっとも恥じることではないよ。君たちの弱点とは言ってみたが、大凡の人間にも当てはまる。悲しい現実として噛み締めなさい」
身動きの取れない神守へと、左右計六本の腕が放たれる。
爪を広げた無骨な手のひらが、彼女の小さな身体を圧し潰そうと迫り来る。
姉と同じように、痛めつけられる。
「――それは」
そんなのは、違う。
「裕馬!」
姉貴の声が聞こえた。
それは行けと命じていたのか、それとも制止を訴えていたのか。
考える間などなく、どの道動き出した身体は止まらない。
「――そんなのは、駄目だろッ!」
感情のままに叫び、地面を蹴り付ける。
硬化した足で、強化した跳躍を。ビルからビルへと飛び移ることが出来た脚力は伊達じゃない。一直線に、目的の場所へと突き抜ける。
まばたきの間もなく、この身体は少女へ追随し、その側面を通り抜けた。
開かれた六つの手のひらたちへと、鬼血に覆われた右腕を振るう!
「おおおおああああああああアアアッツ!!!」
繰り出した拳へ衝突した、先頭の骨手。
ぶつかり合った腕に亀裂が走る。鬼血の黒肌に赤い線が刻まれ、流血が零れる。分かっていたことだが、完全に打ち勝つことなど出来ない。
だけど無為には終わらない。打ち合わせた手のひらには大きなヒビが入り、その衝撃で続く腕たちも小さく震えた。
たった一本の腕で、一瞬であれ向こうの六本を留めてみせた。
小鬼程度が大妖怪を相手に、十分過ぎる成果だ。
「神守ィ! 行けェ!」
「っ!」
その僅かな一瞬に訴える。
思惑通り、その声は神守へと届いた。
神守が右手に鉄鎚を握る。先刻俺へと振るわれていた、巨大な戦鎚だ。当然重みも相当なモノで、神守の身体がカクリと地面へ引かれた。
神守の武装は破壊力が高い物が多い。あいつさえ地上へ逃がすことが出来れば、この腕たちとも戦える筈だ。
少なくとも俺が潰される方が、理にかなっている。
「畜生、任せたぜ!」
だから再び動き出した指が閉じられるのを、俺は甘んじて受け入れた。
「ッ、があああああアアアアアアアア!!?」
閉じられた骨手。その鋭い指先が突き立てられ、鬼血を貫き肉を抉る。更にその上へと重ねられた残る手のひらたちも、更なる力で抑えつけてきやがる。グジャリグジャリと、畳まれ潰され捻じ曲げられる。
腕も足も背も首も、あらぬ方向へ折られる。意識が何度もブラックアウトし、戻って来てもすぐに落とされる。その繰り返しだ。
だけど間もなく、彼女が状況を打破してみせる。
「勝手なことしないで下さいよ、先輩っ!」
遠くから響いた声。
遅れて、全身を苛烈な炎が燃え焦がした。
「――ガ」
それはそれで地獄だ。潰されグチャグチャのミンチにされて、それが明けたら今度は丸焦げときた。溜まったものではない。
だがその炎、続く断続的な爆発が、周囲の障害物を全て吹き飛ばしてくれる。
「ッッッ」
耳元で響く爆音。その後に音が途切れたのは、鼓膜が破れてしまったからだろう。痛みと熱さに身悶えようにも動くことは出来ず、ようやく解放された身体は力無く地面へ落下し転がった。
満身創痍とはこのことだ。指一本動かせない。
「あ、が……」
それでも音が戻り、自分の呻きが聞こえた頃には、バチバチと放電の音が聞こえてきた。視界の端にも紫電の光が映り、少しずつ身体から痛みが消えていく。
「……便利な身体だよ、畜生が」
呟くも、重なる爆発に掻き消される。
「っ」
連鎖する衝撃に風が吹き荒れ、視界を埋め尽くす炎と硝煙。剥き出しの土や倒れていく木々、燃えていく草花。
荒れ果てた光景に息を呑む。
そこに君臨する男の笑みに、背筋が凍り付く。
「ははは、やるじゃないか真白。流石の大雑把な火力だ」
幾度も銃弾や爆弾を叩き込まれ、炎に包まれた森。それは男の足元までも、例外なく加熱し焦がしている。
にも関わらず、中居暮男は両手を左右へ広げ、笑っている。やれやれ随分抵抗されてしまっているな、などと、飄々と肩をすくめている。
未だに自らの娘を圧し潰し、その妹へと巨大な手を振るいながら。何度も何度も、地面を叩き割る程の攻撃を、躊躇いなく繰り出し続ける。
その男と、目が合った。
横たわる俺へ、男は見下ろし尋ねる。
「どうした裕馬くん。回復に時間がかかっているのかな? そうこうしている内に真白を捕まえたら、僕らは逃げるよ」
「く、そっ」
回復は順調だ。
立ち上がり、再び中居さんへと対峙する。
だが、その次の行動が続かない。
「……どうすれば」
どうすればいい?
どうすれば事態を好転させられる?
そもそもこの状況、俺はなにが出来る?
迷いは動きを鈍らせる。けれども容赦なく、中居さんは俺へも一本の腕を放った。
「っ、おッ!」
上空から振り下ろされた手のひらを、後方へ飛び下がり回避する。衝撃に煽られるも無事着地し、崩れた態勢を立て直した。
すぐさま続いた二本目の骨手。突き出された握り拳も、間一髪で右方へ転がり避けることに成功する。僅かに遅れた右足の爪先が削られたが、その程度ならば動きが止められることもない。
そうして空振りした腕たちが、再び浮かび上がり上空で構えられる。五本の指を目一杯に広げて、今度こそ壊さんと関節を鳴らす。
中居さんは、もう一度俺に問うた。
「諦めるつもりはないかな? 協力しろとは言わないけれど、裕馬くんが大人しくしてくれるなら、君への手出しはやめよう」
「ハッ。んなもん、聞けるわけねぇだろ」
「やる気は十分のようだが、果たして実力は伴っているのか。裕馬くんは確か、第五級じゃなかったかい?」
「つい先日、第四級に昇格したところだっての」
「それはそれは、おめでとう。まあ言うまでもないだろうが、五十歩百歩だ。僕からすれば第五級も第四級も大して変わらない。これでも僕は、――特級という評価をいただいているのでね」
「……は?」
なんだと?
特級、だって?
「アヴァロン国より与えられた戦士としての位、その頂点たち。それが僕、がしゃどくろだ」
「んな、馬鹿な」
それが事実だとしたら、そんなのは。
その宣言を、姉貴が声を上げて制する。
「真に受ける必要はない裕馬! 正体不明のがしゃどくろが、噂話だけで付けられた架空の評価だ! まったく大きく盛られたもんだな!」
「言ってくれるよ、乙女さん」
中居さんがまた、クツクツと笑みを鳴らす。
「確かにお姉さんの言う通りだ。いやあ脅かしてやろうと似合わないことを言ってみたが、上手くいかないものだね」
だけど事実であることは揺るがない。
たとえそれが架空の評価であったとしても、がしゃどくろは特級の大妖怪としてアヴァロン国に登録されている。
「それが称号だけの飾りでないことは、君もよく分かっているんじゃないかな」
「――――」
迫り来る二本の骨手。鬼血で硬化した腕であっても、ヒビを入れ一瞬動きを止めるのが精一杯だ。向こうでは神守が爆発を起こし続けているが、壊れた腕もすぐに再生してしまう。徐々に回避へ専念し始めているように見え、決着は時間の問題だろう。
神守黒音もまた、未だに捕まり苦しめられている。中居さんの後方に掲げられ、その周囲を腕たちが旋回している。
姉貴は倒れていたアッドの傍に控え、今は攻撃に参加していない。だから一旦攻撃対象から外れているだけで、行動を起こせば、控えている腕たちが姉貴にも牙を剥くだろう。その時果たして、姉貴は打ち勝つことが出来るか。
「……特級、ね」
呟く。
第四級程度の俺など適う筈もない、遥か高みの上位戦士。たったの一瞬打ち合うことが出来ただけでも、大したものだろう。
あの十四の腕たちが全て向けられれば、ひとたまりもない。細切れにされて潰されて、ただ治癒を繰り返すだけの、体のいいサンドバッグだ。
勝ち目などない。
抵抗に意味など、ない。
「……でも、よぉ」
生憎逃げようという気は起きない。
何故か絶望的に思えない。
――それはきっと、知っているからだ。
「俺も姉貴の意見に賛成だ。特級は言い過ぎだと思うぜ、中居さん」
「……まったく、君も言ってくれるね」
「言ってやるよ。まあとんでもなく強いのは確かだ、第一級くらいはあると思うぜ」
第一級。あの男、ヴァン・レオンハートと同じ上級戦士。
ああそうだな、それくらいが丁度いい。
「アンタは特級じゃないよ」
いけ好かない聖剣騎士様。アイツとも戦ったことがある。鬼血もまるで歯が立たず、好き放題に刻まれた。手も足も出ないままに殺されかけ、実際、運が悪ければ殺されていただろう。
あの時も勝ち目などなかった。抵抗も無意味だった。
けれど逃げなかった。立ち向かっていた。
――真っ先に逃げ出したのは、彼女ら二人に対してだ。
――俺はその本物を、知っている。
「実績のないアンタが特級で、あいつが第一級ってのは本当にどうかしてるぜ。どう考えても、レベルが違うのはあいつだってのに」
「……あいつ、ね」
「アンタもご存じだろ。俺との噂で持ち切りだもんな」
そうだ。あいつが、彼女こそが本物だ。
だから覚悟を決めた。
今一度、中居暮男へ立ち合う。
「陽動だかなんだかで西地区に居るが、直に来る筈だ。それまでお前に噛みつき続けりゃあ、俺の勝ちだよ」
俺個人では勝ち得なくても、俺たちになら勝ち目はある。俺たちで勝つなら、この抵抗には意味がある。
「忠告どうもありがとう。では今すぐに終わらせてあげるよ、裕馬くん」
中居暮男が笑う。
そして彼の背後で控えていた腕たちが、一斉に放たれた。
先にかざされていた二本に重なり七本、計九本の骨手が指を広げ、上空より迫り来る。
「上等だァ!」
全身を鬼血で硬化し、迎え撃つ。
潰されようが千切られようが構うものか。立ち上がり続けろ、喰らいつき続けろ。這いつくばってでも、絶対に縋り続けろ。
逃がさないこと。それがたった一つの勝利だ!
「おおおおおおおおあああああああアアアアアアアアア!!!」
声を上げ、走り出し、腕たちへ向けて右腕を振り被る。
だが、それら全ての覚悟は掻き消されることとなった。
――たった一人の、少女の声によって。
「――ユーマぁぁぁあああ!」
視界が、紅蓮の炎に包まれる。
前方に映ることごとくが、骨手諸共焼き尽くされる。
それは更に上空から降り注いだ、真っ赤な炎による強襲だった。




