第二章【22】「名残惜しい」
神守黒音は、俺を知っていた。
過去に、あの日の事件に立ち会っている。
「私は貴方が、貴方の同級生を殴り付けるところを、目撃している」
アレを、見られている。
「……なん、で」
どうして今更、こんな状況で、そんなモノと向き合わされるのか。
想定すらしていなかった横殴りに、思考が停止する。ただでさえ一杯一杯だってのに、余計にかき混ぜられて、散らかされた。
なんだってそんなことを。
知っていたとして、それが一体、今この瞬間になんの関係があるってんだよ。
「……お前は、一体」
「別に、深い意味はないわ。そこまで動揺するとも思っていなかった。ただ一方的に、そういう理由で知っていた。それだけよ」
「それだけ? それだけのことを、わざわざ覚えてたってか?」
「当然でしょう。忘れられる筈もない」
残酷で、悲惨で、見るも無残。
年端もいかない少年たちが倒れてうずくまり、少なくない量の血が、当たり前の教室に散りばめられている。
――その光景を、忘れられると思う?
神守黒音は、そう質問を返した。
「居合わせた生徒や教員の記憶は全て抹消された。貴方も転校し、存在そのものがなかったことにされた。事件も、起きてすらいないことになっている」
けれど当然、関係者であった神守家の彼女は、対象外となる。
彼女の記憶は消されなかった。
「忘れられるわけないわよ。あんな光景」
「っ」
「あの事件だけじゃないわ。私は貴方が消し去られた後の変貌も見ている。どうせすぐに居なくなったから、知らないでしょうけれど」
「変貌、だと」
「ええ。あの後クラスがどうなったのか、学校がどう変わってしまったのか」
貴方はなにも知らないのね。
鋭い指摘が突き刺さる。
彼女の言う通りだった。俺はなにも知らない。自分が引き起こした事件の顛末を、なに一つとして知らされていない。知ろうとすらしていない。
むしろ目を背けるように、話題にすることすら避けて。
「可哀想な人。――自分の功績を知らないなんて」
その言葉が、耳に留まる。
功績?
こいつは、なにを言い出しやがった?
「……どういう意味だ」
「落ちぶれた貴方には見合わない、立派な功績よ。今の貴方は、あの日の貴方に遠く及ばないわ」
「――ッ!」
んだよ、そいつは!
冗談じゃねぇぞ!
「ふざけんな! 功績だぁ? アレは、そんなモンじゃ――!」
だが、叫びは途切れさせられる。
「はい、お終いですよ~」
眼前に突き付けられた大斧。
神守真白が、遂に俺へと肉薄した。
額に扇状の白刃が添えられ、冷たい感触が切り入っている。もうほんの少しの力で、十分すぎるだろう。
「お姉ちゃ~ん」
「はいはい、分かってるわよ」
そして後頭部にも、今一度突き付けられる硬い感触。
前方後方、共に必殺の武具。たとえギリギリで躱すことが出来たとしても、この距離だ。どの道、身体を大きく削られるだろう。
それをなんとか脱したところで、元より二対一。明らかな不利を覆すことは不可能だ。
間違いなく、ここで始末される。
たとえ後に鬼の力で再生したところで、意識を取り戻し動けるようになった頃には、すでに手遅れだろう。
その時には、コイツら姉妹は、もう。
「……く、そ」
また、なのか。
また俺は、なにも、ッ。
「それじゃあ先輩、さよならです」
「逃げるのか」
「はいっ、勿論。もうこの街には居られませんので」
「逃げてまた、テロを起こすのか? 姉貴と一緒に、今度はお前も」
「そうですねぇ~。真白のことも知られちゃったので、その方が効率的でしょうか。先輩や百鬼夜行の方々が秘密にして下さったら、まだ裏方で動ける可能性もありますけど。だめですか?」
「ハッ、やめろよ」
この状況になってまで、なにを言いやがる。
それに、未だに先輩だのほざきやがって。
「最後まで後輩面すんじゃねぇよ。全部、嘘だったんだろうが。笑顔も、おふざけも、全部」
「残念ですが、そうでもないんですよね」
「……どういう意味だ」
「隠れ家での毎日は、凄く楽しかったんです。真白、さっき言いましたよね。真白が笑うのは、笑えるからですよ、って」
だから隠れ家での笑顔は、正真正銘、本物の笑顔でした。
神守は、そう言った。
「千雪ちゃんや妖怪たちとのお仕事はやりがいがありましたし、百鬼夜行のサポートも全力でこなしてました。今日新しく来たサリュちゃんとも、これから仲良くやっていけるかなって楽しみだったんですよ?」
「……………………」
「あ~あ、残念だなあ。先輩がお姉ちゃんの正体にさえ気付かなければよかったのに。それだったらもうちょっと居座って、最後は転校とか引っ越しとかで丸く済ませる予定だったのにな~」
「……俺の所為だってか」
「お姉ちゃんのミスも大きいですけどね」
その時初めて、神守が少しだけ眉を寄せた。
明らかな不満の色が、微かに覗いた瞬間だった。
けれどすぐに笑顔に切り替えられる。
「名残惜しいですけど、決めていたことです。真白はお姉ちゃんと一緒に、この街を去ります。先輩ともお別れです」
「……名残惜しいってんなら、考え直す気はねぇか」
「今更すぎますよ。それに、それはそれ、これはこれなのです。真白は皆さんとのこれからより、お姉ちゃんとのこれからを選びます」
先輩だって、そうでしょう?
神守もまた、俺に尋ねた。
「片桐先輩だって、真白と遊んでくれていました。おふざけに付き合ってくれていました。――なのに今は、真白のこと、睨んでます」
「……ああ、そうだな」
「先輩も、全部嘘だったんですか? そうじゃないですよね。きっと心底楽しんで、ふざけてくれてましたよね。それと一緒ですよ」
それはそれ、これはこれ。
つまりはそういうことだってか。
「真白としては、先輩が向こうの肩を持つのが残念です。一緒に逃げてくれればいいのにな~って考えちゃいます」
「おいおい、それは流石に冗談だろ。いきなり頭をぶっ放しておいて、よく言うぜ」
「ま~それはほら、先輩が真白たちの方に来てくれないのは、見えていたことなので」
だから仕方ないんですよ。仕方ないんですよね。
神守は、笑っている。
変わらない笑顔のままで。
「――さよなら、先輩」
神守真白が、両手で握った大斧を振り上げた。
「っ」
避けようにも、後頭部へ押し付けられる銃口。恐らくほんの少しでも動きを見せれば、その引き金が弾かれる。
いや、もしかすると既に。
「――――」
動くことは許されない。
なんの抵抗も出来ない。
間もなくして、俺は意識が奪われて――。
けれど、その刹那の間に。
「――銃を躱セ、弟ォ!」
突如、乱入した声。
それが耳に届くと同時に、考えるより早く身体が動いた。
「銃を――!」
行動を迅速に。
床を踏み締め、瞬時に身体を振り向かせる。左腕を引き、続けて上半身を、そのまま勢いよく、右腕を振り抜いた。
そしてその右の手のひらを、丁度火花を散らした銃身へと叩き付けた。
側面から弾き飛ばし、弾道を大きく逸らす。それによって、撃ち放たれた銃弾は空を貫くに終わる。
「――っ!」
再び正面から向き合い、神守黒音が目を見開く。
しかしその驚愕の表情と同時に、彼女の身体は後方へと逸らされていた。距離を取られる、追撃は好ましくないか。
だが、神守黒音を退けたということは、迫る大斧への回答を失うこととなる。
それは、俺一人であるならば、だ。
目前へと振り下ろされる白刃。対応は間に合わない。半ばそれを受け入れる覚悟を決めた、その瞬間だった。
大斧が、そしてそれを握っていた神守が、視界から押し出された。
代わりに左側から入り込んできたのは、緑の鱗に覆われた脚。そして鎧を身に着け、剣と盾を構えたリザードマンだ。
「アッド――ッ!」
どうしてアッドがここに。
彼は疑念に答えず、蹴り飛ばした神守を追撃する。
「アアアッ!」
「っ、常連のトカゲさんが、なんでっ!」
「リザードマンだッツてんダロ、お嬢チャン!」
腹部を抑え後退する神守へ、アッドが右手の刃を振るう。上段下段左右へ入り乱れる連撃を、神守は間一髪で躱し続けた。
攻防の果て、繰り出された一際鋭いアッドの刺突。
それを神守は、大斧を打ち合わせて弾く。
「邪魔、しないで下さいっ!」
「――オ、ラァ!」
巨大な武具による衝撃は力強く、攻勢だった筈のアッドが足を止める程だ。
その僅かな隙を逃さない。あろうことか神守は大斧を手放し、アッドの側面をするりと走り抜けた。そして壊された入口から、店の外へと躍り出る。
「逃がすカ、よッ!」
斧を振り飛ばし、アッドもまたその後を追い外へ飛び出す。
その光景を唖然と眺めていると、叱咤を飛ばされた。
――なにをやっているんだ、と。
「まったく。ぼーっと見てないで、アッドを助けてやりな」
声は、反対から。
神守黒音が後退した、その方向からだ。
立ち止まってしまった俺を、どうして彼女が攻撃出来なかったのか。それは他でもない。俺と彼女の間に、一人の人物が立ちはだかって居たからだ。
振り返り、その背中に鼓動が高鳴る。
どうして、ここに。
「――最初はお前の頭が吹き飛ばされるのを、見届けるつもりだった」
その来訪は、あまりに予想外だ。
俺にとっても、恐らく彼女ら姉妹にとっても。
「控え室が酷い有様だったからね。倒れたやつらを運び出したり、彼らの体調を伺ったり。それが終わってから、姉妹が逃げたところを不意打ちするつもりだったのさ」
なにも持たずに、構えることすらしない。
疲れて掻きむしったであろうボサボサの髪と、着崩された黒いスーツ。だらしがなくて頼がりない、この場に似つかわしくない風貌だ。
けれど、どういう訳か。
俺も、対峙する神守黒音も、まるで動けない。
「だけどどうしてかねぇ、救助も無事終わってしまった。そうなれば流石に、不死身とはいえ、頭が吹き飛ばされるのを眺めてるってのはねぇ」
彼女の言葉だけが、店内に響く。
飄々とおちゃらけた声が、どうしようもなくこの場を支配する。
「らしくないのは重々承知だけど、姉として、弟を助けてしまった訳だ」
片桐乙女。
百鬼夜行に所属する、俺と同じ、鬼の血を分けた人間。
作戦指揮を任された筈の姉貴が、どうしてこの場に居合わせたのか。
「さて、神守黒音。黒薔薇の女」
答えは簡単だ。
「いつまでも手の上で転がされていると思ったら、大間違いだよ」
姉貴はこの事態を、予測していたんだ。




