第二章【19】「騒がしい後輩 神守真白」
神守真白と出会ったのは三年前。
丁度中学であの事件を経て、こちら側へと関わるようになってすぐだった。
当時は自分の正体やら妖怪やら転移者やら、色々と聞かされて酷く混乱していた。自分の姉が鬼であったことも、まさか交友のあった千雪までもが雪女と知らされて、混乱と同時にある種の疑念を抱えていたくらいだ。
この世界の隠された秘密を知った。その代償は、更なる秘密への不安と恐怖だ。当たり前だった常識が覆され、突如足の踏み場を失った感覚。
そんな折だ。
隠れ家で働く神守と出会ったのは。
人間として秘密に関わる、彼女を知ったのは。
「片桐裕馬さん。いえ、同じ学生なので先輩ですねっ! そして片桐先輩は妖怪の鬼と! なんだか危険な感じで格好いいですっ!」
初対面の時から、印象は大して変わらない。
どこかズレていて、煩いくらいに騒がしい。人間でありながら俺たち外れた存在へも容赦なく距離を詰めてきて、あっけらかんとした笑顔を浮かべる。
――なんなんだコイツは。疲れる女だ。
そんな感想も今と変わらないか。
けれど神守の明るく公平な態度に、救われていた。変わらず接してくれる人間も居るってことが、どれだけ安心出来たか。
そしてそんな神守に接する姉貴や千雪の態度も、俺が知っていた彼女たちと同じだった。小馬鹿にしながらも可愛がって、和気あいあいと楽しげに触れ合っている。隠れ家の他の従業員たちも、みんな神守とは笑顔で接していた。
それは元々隠れ家にあった雰囲気だろう。けれどそれを俺に教えてくれたのは、人間である神守だった。
明るく元気で快活な少女。能天気でお馬鹿で可愛らしい後輩。
けれどそんな彼女にも、抱えているモノがあった。
「待たせた、神守」
大体二十分程で隠れ家に到着した。
日が沈み始め、薄らと空が茜色に落ちていく。頬を撫でる風も涼しいものへと変わり、田畑や木々が静かにざわめきを鳴らした。
神守真白は、隠れ家の前で待っている。
「先輩、お疲れ様ですっ!」
到着した俺へと元気に声を上げて、見慣れた笑顔を浮かべて。
神守はパタパタと、こちらへ走り寄って来た。
「状況は大丈夫そうか?」
「はいっ、今のところは順調です。真白が休憩をお願いしても、皆さんすんなり許して下さいました」
「休憩って。まあ、お前も朝からずっとか」
「はいっ。ちょっぴりくたくたです」
えへへと舌を覗かせる神守。
そんな調子なら、多少話し込んでも大丈夫だろう。
「ここでいいか?」
「お願いします。いざという時には連絡が来るので、出来るだけ近くの方が助かりますっ」
「見られたり聞かれたりはいいのか?」
「これくらい離れていたら聞こえないと思いますし、見られても逢引きって言えばおっけーですっ」
全然良くないんだが。
そんな言い訳はさておき、とりあえず問題はなさそうだ。神守の言う通り隠れ家とは一定の距離があるし、周囲の森や田畑にも人影は見られない。
第三者に聞かれて困る事態は、そうそうないだろう。
「それじゃあ、いきなりなんだが。神守の話ってのは」
「……はい。黒音お姉ちゃんのこと、です」
ここまで来て隠される、ということはなかった。
それから「まずはごめんなさい」と、神守が頭を下げる。
笑顔を潜ませ、神妙な表情を浮かべて。
「真白、先輩にずっと黙ってました。お姉ちゃんのこと。もしかして他にも、色々と知ってるんじゃないですか?」
「……ここに来る前に病院で、姉貴と、中居さんと話した」
「中居暮男さん。真白やお姉ちゃんの、義理のお父さんです。やっぱり、聞いちゃってますよね。全部、秘密にしてたこと」
「悪い」
「どうして先輩が謝るんですか」
「知られたくなかったんだろうな、って。なのに全部、勝手に知っちまった」
「それを言うなら、真白が勝手に隠してた、ですよ。お姉ちゃんが居ることも、お姉ちゃんが悪いことをしてるもの、話すべきことでした」
「そんなことねぇだろ」
「ありますよ。特に今朝の通信では、大変失礼しました。先輩を動揺させて、サポーター失格です」
今朝の通信。テロの時だ。
黒薔薇と相対する俺に、神守はなにも言ってくれなかった。彼女の姿が顕わになり、動揺していた時でさえも。
それは確かに、本来であれば致命的な判断ミスだろう。
けれどあの同様のお陰で、俺は正気を取り戻すことが出来た。
それに。
「……その件は不問でいい。神守のお陰で助けられたことが多すぎて、攻める立場にねぇよ」
姉貴は俺に、やるべきことをしっかりやったと言ってくれた。
だったらそれは神守にも当てはまることだ。神守が俺の連絡を受けて姉貴たちに伝達してくれたから、あの場でアッドが助けに来てくれた。病院の用意もスムーズに進んだ。
「助けてもらえて文句はねぇって」
「でも……」
「黙っていたことも、別に構わねぇ。俺もお前に話してないことが十や二十はあるし、そういうのは個人の事情ってモンだろ。必要となった今、話してくれればそれでいい」
「先輩……」
俯き、目を背けられる。
ああ、まったくもって「らしく」ない。いつもの騒がしさはどこへいってしまったのか。
それとも騒がしさってのは、ずっと造られていたものだったのか。姉や養子、両親を失った悲しみを隠していた、仮面のような外身だけだったのか。
「えっとな、神守」
ああくそっ。
だとしたら、なんて誤解をしていたのか。
だから、次は俺が頭を下げた。
「片桐先輩?」
神守が顔を上げ、首を傾げる。
俺は彼女に言った。
「あー、俺も悪かったよ。お前のこと勘違いしてた」
「勘違い、ですか?」
「ああ。ただの馬鹿だと思っていた。能無しのあんぽんたんだと見下げていた。その誤解を謝らせてくれ」
「へ?」
俺は今一度頭を上げ、神守を真っ直ぐ見つめて言ってやった。
「本当にすまなかった」
「い、いやいやいやいや。ただのバカって、ええっ?」
神守は、真ん丸と目を見開いて。
いや、なにをそんなに驚いているのか。
「え? ええ? 普段の真白って、そんなですか?」
「自覚なかったのか?」
「酷いですっ! 言い過ぎですっ! 真白バカじゃないですっ!」
「いやだから、馬鹿を演じて後ろでは色々抱えてたんだよなーって」
「演技じゃないですよっ! バカぶってるわけでもバカでもないですよ!」
「ぶってるわけじゃないなら馬鹿そのものだろ」
「違いますっ! 真白、色々抱えてるじゃないですかっ! それでも乗り越えて笑ってるんですよっ! 楽しく生きてるんですよっ! それをバカって、バカってぇ!」
「おおう、マジか」
だとしたら乗り越え過ぎというか、楽しみ過ぎというか。
完全にネジが外れているのでは?
「……そうか、ショックが強すぎて頭が壊れちまったのか」
「そういう訳でもないですから! いや実は真白に自覚がないだけで、そうなんですかっ? 真白、異常なんですかっ?」
落ち込んだかと思ったら一転。今度は瞳をうるうると潤ませ、不安げに見上げてくる。
異常か否か。なかなか難しい質問だ。そもそも彼女は正常な人間が知り得ないことを知っていて、触れ合っている訳で。じゃあ根本的に正常ではなく異常である訳だから。
神守真白は異常。これが大前提として、なら。
「……やっぱ、馬鹿なんじゃないのか?」
「バカじゃないですっ! 真白は悲しみを背負う女の子なんですっ!」
「オイ、自分で言うな自分で」
「お父さんともなんか距離感が難しいですし、お姉ちゃんとは全然会えなくて不仲で一切連絡もなくて! 毎晩一人で枕を濡らしてるんですよっ!」
「お、おおう。マジか重いな」
「まあ枕が濡れてるのは涎なんですけどっ!」
「言わなくてよかったと思うぞ」
「とにかくっ! 真白バカじゃないですっ! 色々抱えて頑張ってるんですっ!」
「色々抱えて頑張ってる馬鹿なんじゃないのか?」
「はうあっ!? その説はあるっ!?」
あるのかよ。
てか、ちょっと待て待て。
今結構大事な情報も混ざってたぞ。
「神守お前、姉と不仲なのか?」
「なんで掘り下げようとするんですかっ! 鬼ですかっ!」
悪いとは思っている。
あと、お前の言う通り鬼だ。容赦はしない。
「一切連絡もないって、マジで?」
「ないですよっ。お姉ちゃんが家を出て一年ちょっと。音信不通で行方不明で、噂ではテロ組織に所属してるとかどうとかって。そしたら今日、本当にテロに関わってて、もう意味分かんないですよっ!」
「じゃあ姉のことって、詳しく知らないのか」
「知らないですよっ。だから片桐先輩に話を聞こうって、こうやって時間を作ってもらってるんじゃないですかっ!」
なるほど、そういう考えだったわけか。
参ったな。姉妹ならではの情報を色々と引き出せるかと思っていたが、どうやら宛が外れたらしい。下手すりゃあ中居さんの方が事情を知っている可能性もあるぞ。
「ったく」
念の為にこっちに来たが、どうやらそんなもしもは起こらなさそうだ。
むしろ不仲で一切音信不通だというなら、全力で神守を避けて動くだろう。
この様子だと、手を組んでいるようにも到底考えられないし。
「あー。不仲って一応聞くけど、恨みとかじゃないよな?」
「恨み? そういうのはないと思いますけど。でもでも、ケーキとかプリンを勝手に食べたりとかはしたので、恨まれていないとも言い切れない?」
「それで攻撃しに来たりってのはないよな」
「攻撃? ああ、なるほど。もしかして先輩、お姉ちゃんが真白を狙ってくるかもって考えてます? それは多分ないと思いますよ」
だってそうでしょう?
神守は真っ直ぐに俺を見つめて、言った。
「片桐先輩だって、お姉さんを攻撃したいとは思わないですよね?」
「――――ああ、それはそうだな」
不意打ちで驚いたが、すぐに応えはこぼれた。
なるほど。確かに神守の言う通りだ。
「真白から見れば、先輩方お二人も不仲かなーって。ちょっと距離があるじゃないですか」
「不仲って訳でもないと思うけどな。必要以上に干渉しないっていうか」
でも最近は割と一緒に居るような気もする。
まあ図書館の手伝いもやってるし、事件に関わる時も仲間だし。ある意味一緒なのは必然だ。
それを敢えていうならば。
「仕事の関係ってやつでしょうか?」
「寂しいけど、そうかもな」
神守の言葉に頷く。
残念ながら、それが一番近い感じだ。
「はは、真白たちも真白が案外気にしているだけで、お姉ちゃんはそんな感じかもしれないです。だからお姉ちゃんが真白を攻撃してくることは、ないと思いますよ」
神守は、眉を寄せて笑った。
多分、俺も同じような表情をしているんじゃないだろうか。
ただ悲しいかな、神守と違い、こちらは姉だけでなく俺も気にしていない。別段姉貴に嫌われているとも思わないし、嫌いだとも思わない。不仲だなどと、そんな風に考えることもなかった。
それが少し寂しく思えたのは、感情なのか感想なのか。
「って、俺と姉貴は別にいいんだよ」
「ごめんなさい。今は真白のお姉ちゃんが、ですよね」
「そうだな。っても、なんか話せることってあるか?」
「お父さんが話した以上のことはないかもしれないです。真白と違って、色々深くまで調べてたみたいなので」
「神守はそういうの苦手そうだしな」
「そんなことありませんっ……って言いたいところですけど、実は勝手に情報が入ってくるかなーって下心で、隠れ家のお手伝いをしていたり」
「物凄く他人頼りな上に、運に任せてるな」
「なにもしないよりはいいじゃないですかっ!」
言われてしまった。その通りだ。
実際その成果もあり、こうして姉と戦った男と話せているのだから。
申し訳ないのは、俺もまた彼女について、まったく話せることがないっていう。
「神守。悪いが俺も、大した情報は持ってないぞ」
「それでも、実際に会った感じとか教えて下さい。人相描きとかもお願いしていいですか?」
「絵は苦手だ」
「じゃあモンタージュしましょう。きっと千雪ちゃんに言えば簡単なソフトとか教えてくれる筈です」
「あー、合成写真的なヤツだっけ。それならやってみるのもアリか」
などと話しながら、気付けば俺たちは隠れ家に向かって歩き出していた。
お互いに有益な情報は握れていない。大きなパズルのピースを、一つ二つ持ち合わせている程度だろう。
それでも積み重ねていくことで、なにかが生み出せるかもしれない。やらないよりは、一歩先に踏み出せるかもしれない。
今は互いに、それが確認出来ただけでいい。
なら本題だ。
俺たちの役目を果たさなければ。
「まーこんな風に言ってて隠れ家に入った途端、お前の姉貴が無事捕まったとか、そんな情報が来てたら最高なんだけどな」
「世の中そう上手くはいきませんよっ。きっと逃亡が確認されたとか、最初からその現場には居なかったとかに違いないです。その辺り、抜け目のないお姉ちゃんなので」
「だろうな」
まったくままならないと、大きく息を吐く。
そうして再び息を吸って、スイッチの切り替えだ。
「っし」
完全に雑用係となったが、それもまた必要な役目だ。気を引き締めて、隠れ家の玄関へと歩みを進める。
ゆっくり歩いても、三十秒とかからない。
俺は先導して扉へ手を掛け――。
「片桐先輩、最後に一つだけ、いいですか?」
「おう?」
振り返る。
神守は立ち止まり、俺を見ていた。
話し始めた時と同じ、静かに落ち着いた視線。日本人離れした、蒼い瞳に姿が映る。
目立つ銀色の髪や、派手な黄色い着物衣裳。満面の笑顔でおちゃらけた彼女もまた、紛れもない彼女の姿だ。喫茶店狐の隠れ家で働く、神守真白に違いない。
けれど今一度向き合うのは、双子姉妹の神守真白だ。
今日初めて知って、そして恐らく本当の意味で、今日初めて俺の前に現れた彼女。
妹、神守真白は俺に尋ねた。
「もう一度お姉ちゃんに会ったら、先輩はお姉ちゃんと戦いますか?」
「……そう、だな」
思わず、言葉を濁してしまう。
けれどそれではいけないと、頭を振るった。
俺もまた、神守真白の友人ではいけない。
百鬼夜行の片桐裕馬として、彼女に応えなければならない。
「――戦うことになる」
だから、はっきりとそう伝えた。
勿論言葉を続ける。
言い訳や詭弁ではなく、俺が成すべきことを伝える。
「戦うけれど、必要に迫られない限り、無事な状態で捕まえるつもりだ。中居さんにもそう頼まれているし、姉貴もそれを了承した。だったら俺も、それに従いたい」
「それが先輩の意志ですか」
「そうだ。それが俺の役目で、俺のやりたいことだ」
神守黒音はテロを引き起こした。
神守黒音はサリュを傷付けた。
それでも俺は、出来ることなら殺したくない。中居さんや姉貴の言った通り、捕まえることで事態を終わらせたい。
「これは、俺の意志だ」
「……そう、ですか」
神守は頷いてから、にこりと笑った。
見慣れたいつもの笑顔で、彼女は俺に言った。
「分かりました。それじゃあお願いしますね、片桐先輩」
「ああ、任せろ」
それで本当に話は終わりだ。
彼女に背を向け、扉に手を掛ける。
もしかしたら今の会話、中に聞こえていたかもしれないな。なんて、そんなことを考えながら。
と。ふと、気付く。
扉の向こうから音が聞こえない。
隠れ家が静か過ぎる。
「……っ」
気付いた瞬間、背筋に寒気が走った。
咄嗟に一歩後退し、背後の神守へ声を上げる。
「神守、下がれ! なにかへ――」
なにか、変だ。
振り向き、異変を訴える言葉。
けれどそれは、重なる声によって遮られた。
「お願いします、片桐先輩っ」
再び視線を交わした彼女は、にこりと笑顔を浮かべていて。
――笑顔。
いつもの笑顔。知ってる笑顔。見慣れた笑顔。満面の笑顔。太陽のような笑顔。楽しそうな笑顔。元気な笑顔。馬鹿っぽい笑顔。騒がしい笑顔。遊んでいる笑顔。神守の笑顔。隠れ家の神守の笑顔。神守真白の笑顔。
では、なくて。
「真白たちの為に、死んで下さいっ」
口元が反り上がった、だけの。
仮面のように張り付いた、造られた『笑い顔』だった。
それを認識して、俺は意識を失った。
プツリと、暗闇へ落とされてしまった。




