第二章【13】「最悪の結末」
この女は、なんなんだ?
「あ、ガ、ガがが、ぐ……ッ」
動揺に思考が混乱する。
それによって、あれだけ苛烈に燃え上がっていた怒りさえも冷まされてしまう。グググと、今度は内側へと入って来る痛みに頭部を抑える。
痛ぇ、畜生、俺は今まで、ナニを。
サリュが傷付けられて、血を流して倒れて、黒薔薇の女は神守と同じ顔をしていて。
いいや、そんなことよりも目前の女を、コロ……喰う、ナンデ、ナニが。
俺は、コイツは、■■□■、ナンダ、ソレハ。
「クソっ、クソが」
吐き捨て、狼狽える。
そんな俺へと、女が口を開いた。
「片桐裕馬、よね」
「ッ」
俺を知っているのか。いや、んなことどうだっていいだろ。
なによりも優先すべきことがあるだろ!
「サリュっ!」
サリュは無事なのか。
倒れたあいつは、まだ生きているのか。
「なんだって俺は、クソっ!」
振り返る。
壁を壊され、吹き抜けになった廊下の向こう。
真っ赤で血に濡れながら、横たわる小さな少女。
けれど、彼女の背中は、まだ小刻みに上下しているみたいで。
「サ――」
まだ生きている。
まだ、助けられる。
「待ちなさい、片桐裕馬」
ガチャリ、と。
後頭部に突き付けられた無骨な感触。それによって、動きが制される。
「っ」
「突然凶暴化して襲い掛かって来て。今度は元に戻ったかと思ったら、簡単に背を向けて。私、遊ばれてる?」
咄嗟に応えられず、押し黙る。
そんな俺へと、余計に強く当てられる銃口。
女は続けた。
「私の顔を見たわね」
「……お前は、ダレだ」
「さてね。でも、思い当たる節くらいはあるでしょう? 残念だけれど、見逃してはあげられない」
「だろうな」
「それに、今更過ぎない? あの子を助けるなんてさ」
「今、更」
「貴方はあの子を助けるんじゃなく、私と戦うことを選んだ。頭に血が上っていた、今はもう冷静さを取り戻した。そんな言い訳をしたところで、その選択は覆らないでしょう?」
ああ、違いない。
俺は選択を間違えている。
「じゃあ、またお前と戦えってか」
「それも無駄でしょうね。今の貴方からは脅威をまるで感じない。突き付けられていた死の感触も、まるで霧散している」
今の貴方では、私には勝てない。
そう断言された。
対して、否定の言葉は浮かばない。
「冗談じゃないわよ。しくじって仮面を落としたら、顔を見るなり萎えて戦意喪失って? 遊んでないなら舐められてるのね」
「そんなつもりはねぇが」
「だったら黙りなさい。口答えせず、跪きなさい。降伏を示せば、考えてあげるわよ」
「……」
「あの子、これ以上放っておいたら死ぬわよ」
わかっている。
だから考えるまでもない。
プライドだの意地なんてものも、とっくの昔に折られている。
「致命傷ではない筈だけれど、出血が続けば危険ね。早く応急処置をしなさい」
「……言ってくれるじゃねぇか。テメェが傷付けたくせによぉ」
「それって大切なこと? また熱くなって、優先的なことを見落としてるんじゃない?」
「……クソが」
俺は両手を上げ、その場に膝を付く。続いて額を下げ、床板に擦り付けてやろうと身構えた。
だが、それを行動に移す前に。
俺たち以外が、それを許しはしなかった。
「なにをやっているんだ! 殺せ!」
響いた声。
それは女の向こう側、部屋の奥で身を寄せ合った人質たちから発せられたものだった。
殺せ。
男がそう叫ぶ。
次に女が、「そうだ!」と同意の声を上げる。
「早くソイツを殺してよ! お願いだから!」
殺せ、始末しろ、――引き金を弾け。
彼らの怯えた瞳は全て、テロリストではなく、俺に向けられている。
他でもない、彼らを助けに来た筈の、この身に。
「……ハッ」
思わず、笑いが漏れる。
なあに、どうってことはない。至極当然の反応だ。
なんたって、彼らは目撃してしまったのだから。
自分たちと同じ人型に襲い掛かる、異形の化物を。
「その化物を撃って!」
「逆らわなかったら傷付けないんだろ! 人質の安全は保障してくれるんだろ!」
「従うから、大人しくするから! だからソイツを始末してくれよ!」
「今すぐその化物を殺してよ!」
「殺せ!」
「殺せ!」
「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」
――コロセ。
「ああ、くそっ」
結局は同じ失敗。
あの頃となにも変わっていない。
俺はまた、その場の感情に支配されて、なにもかもを滅茶苦茶にしてしまった。
助けるべき相手を恐怖させ、あなた方を助けに来たなどと、今更誰が言えようか。
傷付く仲間を放置して、駆け寄ることなど許されようか。
全部間違えた。
全てがちぐはぐで、支離滅裂。
「化物、か」
まさしくその言葉が相応しい。
それが俺の正体だ。
「……あの日と同じね」
何故か、女がそう言った。
一層力強く、当てられた銃が後頭部に突き付けられる。
「なんなんだよ、お前は」
あの日って、一体なにを知って。
女は答えない。
「さあね。それより貴方、どうせ頭を吹き飛ばしても死なないでしょ。だとしても、今は死んだフリくらいはしておきなさい。あの子も私が死なせないわ」
「なにを言ってやがる。どういうつもりだ」
「私の目的はすでに達成されている。だから後は些事なのよ。それで人を殺す必要、ある?」
そして、彼女の指に力が籠められ。
「それじゃあね、片桐裕馬。もう二度と会わないことを願っているわ」
引き金が引かれる。
寸前。
「ラアアアアアアアアアアアア!」
頭部への衝撃に代わり、響き渡る雄叫びが鼓膜を叩いた。
ギギィィィイイイイ!
同時に、耳元で慣らされた轟く金属音。
振り向けばそこには、銃身を弾き飛ばし、白刃の短剣が入り込まれていた。
「あ――」
その短剣を握るのは、緑の鱗が覆った細い手。
俺と女の間にぬるりと割り込む、人型の異形。大きな黄色い眼球を見開き、尖った口の先から長い舌をチロリと覗かせる。
ソイツは、間違いない。
「アッ、ド」
「ボサッとスんジャネェ!」
どうして。そんな疑問を挟む暇もない。
いいや、必要もない。
「嬢チャンのトコ行ケェ! 弟ォ!」
「ッ!」
左腕に握られた盾で、思いっきり背中を叩かれる。
力強い打撃が骨身に染み入り、前のめりに一歩を踏み出した。
「――ああ」
その勢いのままに、続く次の一歩を。
そうだ、ボサッとするな。
今はただ、サリュのところへ。
「ああ!」
それ以外の思考は要らないだろ!
一気に駆け出し、サリュへと向かう。
簡単なことだった。その選択を決めるだけで、動き出すだけでよかった。たったそれだけで、秒も掛からず彼女に辿り着ける。
駆け寄り、手を伸ばす。
「は――ア!」
そして、血濡れになった少女の身体に触れる。
ようやく、その身体を起こしてやれた。
「サリュ! サリュっ!」
抱き起し、彼女を呼ぶ。
身体を揺することはしない。下手に動かせば取り返しの付かないことになる。ただ抱えて、その名前を呼びかける。
返事はなかった。
だけど胸元や肩が上下し、唇を震わせ、か細い呼吸が繰り返されている。
どころか、よく見れば出血が止まっているようだった。着物も床も真っ赤に染まっているが、それ以上に流れてくるものはない。
「止血されてる。魔法か?」
けれど予断が許される状況ではない筈だ。早くここから連れ出して、専門の医療施設に向かった方がいい。
「神守! 俺だ片桐だ!」
『大丈夫です、繋がってますっ! 今アッドさんが向かった筈ですけど、ご無事ですかっ!』
「アッドのお陰で助かった! 俺は無事だが、サリュが危ない! 斬り傷でかなりの出血だ! 止血はされてるが、意識がないんだ!」
『傷が酷くて意識が無くて、分かりました! すぐに医療施設の手配と救助を――』
途中、耳打つ発砲音によって神守の声が遮られる。
しかし、伝えるべきことは全て伝わった。
「頼んだぞ」
それだけ言い残して、意識をマイクから逸らす。
廊下の向こう、奥の部屋で渦巻く戦闘へと視線を向ける。
アッドが、あの女と戦ってくれているんだ。
「オラオラオラオラァ!」
『――――っ!』
アッドは右手に短刀を、左腕に円形の盾を装備している。
リザードマンの脚力で天井や壁を縦横無尽に飛び回り、幾度も女へ交差し刃を繰り出す。加速し続ける跳躍も、止まることを知らない。
だが恐ろしいことに、女の動きもそれに匹敵している。
両手持ちの拳銃から弾丸を撃ち放ち、かと思えば、アッドが接敵した瞬間にはナイフに持ち替えていた。そうして刃物が互いを削り合い、距離が開けばまた銃へと持ち直す。
予備動作はない。どこからか取り出す様子もなく、気付けば手のひらに獲物が握られている。もはや紛れもない。なんらかの特殊な力によって、直接手元へ武器を出現させている。
そうして中距離近距離を自在に変化させ、アッドの攻撃をいなし反撃を繰り返す。アッドもまた銃弾を躱し、盾で防ぎ、刃を打ち合わせて切り抜けていく。
速度でほんろうするアッドに、手数で追い縋る女。
双方共に一歩も引かない。
その戦闘は、まさしく互角だった。
「でも、もし」
もしあの女が、転移者や妖怪でないなら。
強力な凶器や特異な装備、肩代わりの力を持っているだけの、人間であるなら。
先に崩れるのは、あの女の方だ。
そしてその可能性は、十分に有り得る。
『っ、ぐ!』
歯噛みし、眉を寄せる。
その表情は、やはり神守とは似付かない。だけど既視感の正体が想像出来るものであるなら、彼女の正体もまた人間である筈だ。
人間では、リザードマンの身体能力に敵わない。
だからこのまま削り合えば、アッドが勝ち得る。
けれど。
状況はあろうことか、――より最悪へと動き始める。
前兆となったのは震えだった。
「っ」
地響き、とでも言えばいいのか。足元が震える感覚に、思わずサリュを強く抱き寄せた。
戦っていたアッドや女も、互いに距離を開いて立ち止まる。二人とも肩を大きく上下させながら、足元を見下ろしている。
つまり、この現象は向こう側にとっても予想外ってことか。
女の後方で、人質たちも身を寄せ合うのが見えた。
「なん、だ」
徐々に大きくなっていく振動。
もはや軽い地震のようにすら感じられ、やがては建物全体を震わせる程のモノになっていく。
だけど、地震じゃない。
これは違う。
その震源が、近付いて来ている。
「なんなんだよ、これ」
すでに動くこともままならない。
遅れて、耳に届く巨大な音。
ズンと重く響いたのは、なにかが落下したような音だ。それが下の階から足元へと、断続的に近付いて来る。
「冗談、だろ」
気付く。
破壊音だ。
近付いて来ている――登ってきている。
なにかが建物を破壊しながら、とんでもない速度で登ってきているッ!
「不味い! 逃げろォ!」
すぐさま声を上げた。
だけどもう、その声が掻き消される程に破壊音が響き渡っている。誰一人として動けない程に、振動が伝えられている。
なにもかも手遅れで、どうしようもなくて。
そして、床に大きな亀裂が走った。
廊下と奥の部屋全体へと広がり、そのまま細切れになった床板を持ち上げ。
それから、
「あ――――」
――目前を、突如として『白い物体』が通過した。
まるでその場所にはナニモノもなかったかのように、全てを砕き割り、上階へと押し出し、平然と通過していく。
持ち上げられたモノタチを、まとめて天井へと叩き付けながら。
それでも尚、更に上階へと砕き登っていく。
その衝突で、ぶち撒けられた赤い流体が、瓦礫と一緒に溢れて来た。
「あ、ああ――」
言葉を、失う。
天井や床を貫通し、壁面を瓦解させ、人々すら圧し潰した謎の乱入物。
破壊されたビルから空へと、その正体を顕わにする。
『白い物体』は、腕だった。
皮膚のない、白骨化した右腕。
五本の指を広げ、太陽へと掲げられた、真っ白な手。
その上から、沢山の破片や血肉がボタボタとこぼされていく。
「なん、なんだよ、コイツは」
一体なにが、どうして、なんだってこんな。
なにも考えられなかった。もっとも、考えたところで、なにが起こっているかなど分かる筈もない。
常識を遥かに逸脱している。
理解の範疇を越えている。
俺に出来たのは、ただサリュを抱えていただけ。
掴んだ少女を離さずに、最後まで見届けることしか出来なかった。