第二章【12】「悪いのハ、俺ジゃなイ」
意識が泥に呑まれていく。
深い深い黒の波。もがいてももがいても纏わり付いて、どんどん重く圧し掛かってくる。覆われ潰され、沈んでいく。
その暗闇の中で、後悔を辿った。
俺は一体、なにを間違えてしまったんだろう。
サリュが負ける筈ないって、そう思っていた。圧倒的に、絶対的に、完全無欠の存在だって思っていた。
だからなにもかも彼女に任せて、俺はなにもしなかった。
「……出来る筈が」
ああ、それこそ間違いだったのか。
サリュに先導させたのがいけなかった。サリュの後ろに控えるべきではなかった。隣立って一緒に戦うべきだった。
だけど俺には、そうまで出来るだけの力がなかった。きっと邪魔になるしかなかった。なんの成果も挙げられなかった。
龍人には焼かれていただろう。髪の妖怪には窒息させられていただろう。その他の有象無象たちにも袋叩きにされて、黒薔薇の女にも銃弾で穴空きにされたに違いない。
それでもよかった。
俺ならそれでも、立ち上がることが出来た。
他でもない、鬼だから。
むしろ鬼を宿したこの身の利点なんて、それしかないとさえ言える。腕を吹き飛ばされても痛いだけで大丈夫だし、焼かれて黒焦げにされても気が狂いそうなくらい熱いだけだ。
「……馬鹿野郎」
どうして俺は、ほとんど無傷で立っている?
どうしてサリュが、血を噴き上げて倒れていく?
「何故」
何故俺は、それをただ見ている?
なにも出来なかったからだ。
なにを成すことも出来ないからだ。
「俺が」
俺がもっと強ければ。
俺がもっと知っていれば。
俺がなにかを言ってあげていれば。
「俺が、無力だからッ」
俺が、俺が、俺が。
俺が、俺ガ、俺ガッ、おレガ、オレガッ。
「――――――――」
いいや、本当にソウカ?
違うダロ。
悪いのハ、サリュを傷付ケタ敵ダロ?
テロを引き起こしタ連中ダロ?
ソイツらが全ての原因ダ。街を混乱に陥レテ、サリュを傷付ケタ。
全て、全部、なにもかも、ソイツらが悪イ。
「だったら、簡単じゃねぇか」
殺ス。
殺シテヤル。
それで、全部解決ダロ?
◇ ◇ ◇
「■■□□■■■!!!」
叫ぶ。
その声に、周囲が大きく振動したのが感じられた。空気を震わせ、床や壁が小刻みに破片を散らす。
だけどその声がナニを訴えているのか、自分でも分からなかった。
駄目じゃねぇか、しっかり、言葉にしなきゃ。
「■■コ■□ッ! 殺シテッ! ■■テヤルッツツツ■□!!」
『――っ』
女が俺の変化に気付き、右手をこちらへ突き出す。そこにはもう、血塗れになったナイフではなく、大きな拳銃が握られていた。
それがどうした?
その程度でどうにかなると思っているのか?
「がっ、ガガ■ガガ、ガガガガガ■アアア■■アアアア!」
全身を赤黒い鬼の血が覆い尽くしていく。
大きく膨張する筋肉。皮膚が硬化し、指先が鋭く研ぎ澄まされ、加速する鼓動は収まることを知らない。
気に障ったのは、頭部の痛みだった。額の二か所が、ゴリゴリと押し上げられていく。頭蓋の内側からナニかが突き出してくる。
痛エ、痛イ、煩ワシイ。
でも今はソンナ痛みよりモ、この女ダ。
「殺ス。殺シテ、八■裂キニシテ、ソノ肉ヲ□□ッテヤル」
オマエだけじゃナイ。
オマエの仲間ノ連中も、逆らうヤツは全部、まとめてブチ殺シテ喰ッテヤル。
だからヨォ。
「大人シク、死ネヨォ」
ゆっくりと、女へ歩み寄る。
倒れた少女の、すぐ傍にまで。
瞬間。
『化物め』
バンと、こだまする発砲音。
「ハッ、ハハ」
だから、ソレがどうシタっテんダヨ。
ソノ程度でどうナルっテんダヨ。
発砲音の後。
なにが起こされたのかといえば、なにも起きなかった。撃たれた銃弾が果たしてどうなったのか、俺には知る由もない。なにも感じられなかった。
一応銃口は真っ直ぐ俺に向けられているようだが、ソレがドウシタ?
「ナニか、シタカ?」
『――――』
「返事クライしろヨ。あと死ネ」
ゴギリ。
俺は彼女の身体へと、右の拳を打ち出した。
『――!?』
「ハハ」
破裂音に笑いが漏れる。風船が割れたみたいだった。
拳に感じた柔らかな感触。風呂の水を殴り付けたような、ペシャリと簡単に沈みこむ心地良さ。
いとも簡単に、あっという間に。あーあ壊れちまったな、なんて、他人行儀な感想が浮かぶ。
完全に終わらせてしまったという、確信があった。
「ガ、……ん?」
その筈が、どういう訳なのか。
「――――ハ?」
口元を、流体が伝う。喉の奥から競り上がって来る、とてつもない嘔吐感。
それから舌を、鉄の味が転がる。気持ちの悪さに口を開くと、何故か、真っ赤な反吐が撒き散らされた。
「ハ、ァ?」
なんだよ、これ。
なんでだよ。
なんでッッッツツツ!?
「ンデこうナルんダよォォォォォオオオオオ!!!」
叫び、気付く。
この身体の腹部が、大きくパックリと開かれていることに。
燃え上がるような熱を訴え、ビチャビチャと内側の液体を散らしていることに。
「ぐ、グガ、ガガゴゲガ」
『……ふ、っ』
対して、大きく息を吹き後退する女。
拳から離されたその身体には、一切の血痕がない。傷も開かれていなければ、骨折等も見られない。
平然と、素早い動きで後退し距離を取る。
それは許されない。
絶対に逃がさねェ!
「ごの、程度ォゴ!」
右足を踏み出し、床板を砕き割る。
勢いのままに右腕を振り被り、再び彼女の身体へと叩き込んだ。
ゴッと横薙ぎのスイング。衝突した細い体躯がくの字に折れ曲がり、女は仮面の端から流血をこぼした。
今度こそ間違いなく、――いや、今度も間違いなく、その身体を粉砕せしめた筈だ。
だが、結果はまたしても。
「ガ――ボゴバアァ!?」
何故か俺が血反吐を撒き散らされる。
腹部を突き刺す高熱に視線を落とせば、張り裂けた肉の奥から柔らかな管がボドボドとこぼれた。
「あ、あああががガガアアアア■■■■□■□!!?」
腹の中を灼熱が渦巻いている。
その発熱に意識が飛びかけ、視界は数秒の暗闇に落ちた。
「グ、グググゴゴギグググ!」
必死に這い上がる。
その意識を手放さない。決して逃がさない。
退くな、逃がすな、殺せ!
この女を殺セ! それを成スまで、眠るコトは許サレなイ!
「オオオ■オオアアアアア■■■アアアア!!!」
叫びを轟かせる。
灼熱をも上回る怒りを、殺意を呼び起こす。
止血、再生、硬化。鬼の力が、要求に応じ働きを示す。だからもう一度、もっと重ねて、何度だってだ!
そうして今一度、身を引く女へ追いすがり、渾身の左拳を撃ち放った。
『っ、ぐ!?』
手の甲に確かな感触。柔らかな肉の奥で、全身を支える芯を砕いた。
けれど一瞬の後、俺の内側が粉々にされる。
「ッッヅ、ガガ■ガガアアア■□アアアアアア!!!」
構ウナ、続ケロ!
踏み込み、殴りつけ、追って、蹴りつける。
その度に、血肉を散らすのは、この俺の身体だ。
何故?
沸騰した思考でも、ここまで繰り返されれば理解出来る。
この女に与えた全てのダメージが、そのまま俺へと刻まれている。その結果、何度殴りつけても、何度破壊しても、女の肉体が平然と元の形へ戻されてしまう。
完全な再生。
だが、それは俺も同じだ。
「■■■□■■■■!!!」
何度千切られようと、ブチ抜かれようと、傷口が紫電の光に包まれる。鬼の力が発動され、元通りの肉体へと治癒される。
だから、俺も倒れない。俺が意識を逃がさない限り、この繰り返しは終わらない。
そしてその条件は、お前も同じだ。
同じダロうガ、ナァ!
「■■■■□□■■■□■!!!」
『ッ、ガ――ゴっ!?』
四肢を千切られ、骨を砕かれ、血を吐き散らし。一瞬後には俺へと返しているが、女が破壊されていることに変わりはない。俺に与えられるモノと同等の痛みを、その身体に受けている。
コイツは紛れもない、死ぬ程の痛みってヤツだ。味わう度に意識が揺らぎ、正気を狂わされる。
だから同じだ。
どちらがこの死に敗北するか。
どちらが先にくたばるか!
「ハハッ! ハハハハババハハハ■■■ハハハ□ハハ!!!」
『こ、のッ!』
女が右手の銃を構える。
すぐさまその右腕を肩口から圧し折り、俺の右腕が肩から折れ曲がる。それでも銃口が逸らされ発砲は無為に終わり、その隙に左腕で胸部を殴りつけてやった。
勿論、それによって内臓が破裂するのは俺だ。心臓も肺も胃も、全部全部ぐっちゃぐちゃの巻き巻きで爆ぜる。
あー痛ぇ痛ェ痛ェ痛ェ痛エ!
「イイ加減に死ネやァ、このクソ女ガァ!」
再生した右腕を振り被り、一際力を込めて女を殴り飛ばした。
その衝撃で再び内臓がイカレるが、同時に、女を諸共コンクリートの壁を打ち砕いた。既にボロボロだった薄手の一枚が、バラバラと崩れ落ち砂埃を上げる。
「ハハハッ! 派手ニヤッちマッたな――――ア?」
それで視界が開け、彼らの姿が目に映る。
壁の向こうの部屋で身をすくませる、七人の人間たち。この部屋に監禁されていた、人質たちだ。
「オウ、元気カ? 助ケニ来タゼ?」
一応気さくに挨拶をしてみた。
が、こちらを見る全員の表情は、青褪め引きつったままだ。
どころか。
「――化物っ!」
誰かが、そんなことを言いやがった。
「アー、ハイハイ」
ま、ソウだよな。
ソウに違ィねェ。
「マーいい。聞かなかったコトにしてヤルから、黙って見テロ。コノ女をブチ殺スのが先だカラよォ!」
そして、足元に横たわる女を見下ろす。
力無く大の字で倒れ伏せ、手足を小さく震わせている。
それでもようやく俯せになり、膝を付き、立ち上がった。随分もたついているのは、やはり痛みの残滓が効いている証拠だろう。
そりゃあそうだ。誰だって痛いのは嫌だもんな。
だから、早く楽になれ。
「死ネヨ」
ふらつく身体へ、右腕を振り下ろした。
その衝撃で床板がヒビ割れ、破片と煙が舞い上がる。しかし生憎、噴き上がった血はまたもや俺の背中からだ。
不思議と痛いに違いはないが、もう叫ぶほどでもない。
次の一撃へ備え、今一度右腕を振り上げる。
女も躱そうと身を低く構えているが、上体が左右へ揺れている。もうまともに避けることも出来ないだろう。
決着は、思ったよりも早そうだ。
そう考え、右腕を振り下ろす――寸前。
『片桐先輩っ!』
「ア?」
左耳が、煩い鳴き声を発した。
そういえばヘッドセットなんてモノを貰っていたな。
『もしもし片桐先輩っ! ご無事ですかっ!』
「……あー」
んだよ、せっかくいいところだってのに。
『今建物が凄く揺れてるみたいなんですけどっ、一体何事ですかっ! サリュちゃんの魔法ですかっ!』
「いや、俺だ。女を殺してる最中でな」
『へ?』
素っ頓狂な声を返される。
っと、説明が悪かったか。
「安心しろ、テロ連中の女だ。敵だよ敵。サリュを傷付けた女だ。殺して構わねぇだろ」
『え? サリュちゃんが傷付き、え、どういう?』
「あーお前じゃ話にならねぇな神守。姉貴か千雪に代われや。まーどっちに代わったところで、第一級を上回る敵勢力だ。始末するのに反対はねぇだろうがな」
そう話している隙に、女が少し後退していた。
とは言っても、また一歩踏み込めば簡単に届く距離。せっかく与えられた猶予も、その程度にしか使えていない。こりゃあ終わったも当然か。
「ま、そういう訳なんで。邪魔すんじゃねぇぞ神守」
狼狽えるマイクの向こうへ、それだけ忠告する。
さあ決着を着けよう。
後数度壊して意識を飛ばして、それでこの面倒な肩代わりの効果も切れる筈だ。切れなかったら切れなかったで、まあ廃人コース一直線になるまで殴り続けてやればいい。
思わず、それはそれで面白そうだと笑みがこぼれた。
だけど出来ることなら、潰して千切って喰ってやりてぇが。
そして今一度、女へと一歩を踏み出し。
「お」
『っ』
その時、不意に、黒薔薇の仮面がこぼれた。
するりと滑り、乾いた音を立ててヒビ割れた床板へと転がり落ちる。
カツン、カラカラカラ……。
遂に晒された、女の額。
その正体は――。
「――え?」
見覚えがあった。
いや、正確には、知っている人物によく似ていた。
合わさる視線。鋭い目付きが、真っ直ぐに俺を見据える。一つに束ねられた髪が揺らぎ、その黒色が、彼女に流れる日本国の血を表している。
一見すれば、人間だ。――それも、どういう訳か、アイツに。
「なん、で」
髪の色も雰囲気も違う。俺の知っている彼女は黒い髪ではないし、もっと柔らかで騒がしい少女だ。目付きだって、こんなに鋭く冷えたりはしていない。
なにより、今もずっと、彼女は別の場所に居て。
絶対に違うと断言できるのに、どうして。
どうしてこんなにも、アイツに姿が重なるのか。
「……神、守?」
だってその顔の造形が、目元や鼻立ちが、どうしても近いのだ。
似ているなんてレベルじゃない。もっと根本的に、同じに思えるんだ。
あの騒がしい後輩に、面影が被り過ぎている。
『先輩、片桐先輩っ! 今度はどうしたんですか! 真白が、真白がどうかしたんですか?』
「違う。違うんだ、神守。そうじゃないんだ」
やはり当の本人は、今も耳元で煩いくらいに叫んでいる。
一体なんで、なにがどうなって。
この女は、なんなんだ?




