第二章【03】「サリュの挑戦」
サリュの転移から一週間。
未だに俺とサリュの関係は、図書館職員や百鬼夜行の面々にホットな話題だ。噂話は七十五日というが、それはどうやら転移者たちにも当てはまるらしい。
アッドのように一定の知り合いには会うたびにからかわれ、サリュと並んで歩いてしまえば熱烈な視線を向けられてしまう。まったく恥ずかしいことこの上ない。
じゃあ、本当のところ、サリュとはどうなっているのか?
公開プロポーズまでしたのだから、一週間とはいえ、とんでもなく近付いているのではないか?
とんとん拍子とはいえ付き合っているのだから、行くところまで行ってしまっているのではないか?
その答えは、……残念ながら、だ。
簡単に照れて視線を逸らしてしまうサリュが要因か。それとも俺の方が、情けなくも奥手で臆病すぎるのか。
お互い十代の身でありながら、未だに手すら繋げていない仲だった。
だっていうのに、こうしてトラブルばかりは舞い込んでくる。
◇ ◇ ◇
午前六時を回った頃。
卓袱台を挟み、サリュと二人座って向かい合う。
一悶着あり、吹き飛ばされたりもしたが、無事たんこぶ程度でその場は収められた。
収められた、が。
「ま、まままままさかユーマがこんなに早く来るなんて、なんてっ!」
当然、ご立腹だ。
「悪かったよ。この通りだ」
「あ、あああ頭を下げろとまでは言ってないけど、言ってないけど~!」
顔を真っ赤に、大皿から食パン一斤を両手で抱えた。恥じらいの感情は処理しきれない様子だが、それはそれとして空腹には勝てないようだ。
可愛らしい表情でうろたえながらも、サリュの頭三つ分はあろうかという特大パンへと齧り付く。とても彼女の小さなお腹には入りきらないであろう物量をもぐもぐと頬張り、呑み込み、また食べる。
その光景にたじろいでしまうが、なんてことはない。いつものサリュの朝食だ。
他にも卓袱台にはラップがかけられたハンバーグや、冷凍食品のトマトパスタに野菜の漬物。既に空の大皿が複数枚重ねられている。
「ユーマのえっち! すけべ! 変態っ! もぐもぐっ!」
「少なくとももぐもぐではねぇな」
相変わらず物凄い食欲だと、感嘆すると同時に辟易する。
それは次々と飲み込まれていく食品たちが、すべて俺の財布から捻出されている故にだ。長らく積立てて来た貯金が、あっという間に失われていく数々の瞬間。涙を呑まずにはいられない。
じゃあ何故、俺の財布が食べられているのか。
サリュが手に入れた給与を全て、五日足らずで喰い尽くしたからだ。
「冗談としか思えねぇよ」
にわかには信じ難いが、事実だ。
彼女が国から与えられた戦闘員第一級という称号は、持っているだけで一定の賃金を与えられる。それは彼女が存在するだけであらゆる事態への抑止力となり、この国の益となるからだ。国家公務員のようなものといえばいいか。
そしてその与えられる金額も、第一級となれば相当だ。それこそ年収という計算をすれば、日本国民の平均上位に匹敵する程には。
にも関わらず、先日配当された金銭の大方が喰い尽くされてしまった。この小さな少女の底無しの胃袋によって。
それが依然として、俺の財布をも削り続けている。
「畜生っ」
出来ることなら他人事でありたかったが、完全に身内の出来事だ。プロポーズまでした立場上、懐を探られているに等しい。男を見せなければ、俺の沽券に関わる事態だ。断じて身を引くことは出来ない。
出来ないが、こう、な。……もう少し手加減をしてほしいんだけどな。
「これも貧乏神の影響なのか?」
だとしたらやってくれるぜ、中居さんよ。
まあ、でも。
「…………っ」
気を抜いた瞬間に思い出される、先程の衝撃的な光景。
大きな大きな二つの揺れや、湿り気を帯びた健康的な肌が、フラッシュバックする。
「……ふぅは」
慌てて発熱した空気を肺から吹き出し、オーバーヒートを留める。危ないところだった。
しかし、そうだな。あの豊満な肉付きを俺の食費で支えられるというのだから、決して悪い出費だとも言い切れないか。
これから先も突然のハプニングで拝ませて貰えるというのなら、喜んで有り金全部持って行けって話にもなる。
それならいいのでは?
いや、まったくよくないか?
「ちょっとユーマ! 思い出してるでしょ!」
「思い出してねぇし!」
「嘘よ! 遠くを見てたもの! その癖、凄く集中してたもの!」
「冤罪だ!」
誓って思い出していたんじゃない!
忘れられないだけだ!
「大体、サリュもサリュだぞ。別に朝風呂に入るなとは言わねぇが、裸でウロウロするのはどうなんだ! しっかり脱衣所で着替えてこいよ!」
「そ、そんなこと言われたって、来るとは思ってなかったんだもの! わたしの部屋なんだから、ちょっとくらい気を抜いてもいいでしょう!」
「そのちょっとのだらしなさが今回の原因だ!」
「だ、だらしないって言わないでよ!」
「つーか、汚れが気になったんなら、清めの魔法でよかっただろ」
「しゃ、シャワーが浴びたかったのよ!」
主張しながらも色々と思い出してしまったのか、より一層ボッと頰を赤らめる。
いちいち律儀に難儀なやつめ。
「温かいお湯でサッパリしたかったのっ! ユーマもこの国の人なら、分かるでしょう!」
「分かるには分かるが」
俺もよく早朝のジョギング後にシャワーを浴びる。汗も流せるし気分もスッキリする。
サリュが同じようにこの国の文化に触れて、気に入ってくれるのは喜ばしいことだ。むしろ積極的に楽しんで貰いたいところだが。
「じゃあやっぱ、服は脱衣所で着替える習慣だな。お前、俺だったからよかったものを、ヤバイ男とかが入って来てたらどうすんだよ」
「問答無用で始末すると思うわ」
「いや、お前。……あー、そうか」
そうだな。
聞くまでもなかった。
まさかサリュが並みの男に襲われるなど、万が一にも有り得る話じゃないな。
しかし考えるといい気はしないので、少々厳しめに。
「始末がどうとかじゃねぇよ。トラブルは起きないのが一番だ。また今度鍵とか付けるように手配してやるから、それまでは注意すること」
「……分かったわよ。入浴や着替えには注意して、極力魔法で綺麗にするわ」
渋々といった様子で頷き、再び食事へと戻る。
そう、本来ならサリュは風呂に入る必要が無い。俺も何度か世話になっているが、彼女には清めの魔法がある。サリュは指を振るうだけで、一瞬にして身体を綺麗に出来る。
シャンプーや石鹸も要らなければ、衣服までまとめて簡単に。いやはや便利な魔法だと、度々感心させられる。
だから入浴は、完全にサリュ個人の趣味によるところが大きいのだろう。それを控えろと言ったつもりはなかったのだが、それくらい意識させて丁度良いのかもしれない。なんだかんだ危機感が足りないからな。
その結果色々とチャンスが減ってしまうのは、残念極まりないが。
「あとは俺もノックとか、気を遣うべきだったな」
これまでこういうことがなかったというだけで、まさかの裸とは言わないまでも、着替え中で下着姿くらいなら起こり得ただろう。
ついつい図書館の一室ってイメージが先行してしまうが、今はサリュの生活空間になっている。配慮してやらないと。
そんな風に考えながら、改めて部屋を見渡す。
「……それにしても」
「もぐ、んぐ。どうしたの?」
「いや、な」
あれからたったの一週間。
本に埋もれて散々だった書庫は、見違えるほどに綺麗な私室へと変貌していた。
足元を覆っていた書籍の山は全て持ち出し、図書館の物は正しい場所に戻されている。今はサリュが借りていたり姉貴から貰った物が、本棚にしっかり収納されているだけだ。
床には代わりに薄緑のカーペットが敷かれ、今まで本たちに潰されていた、ベッドやテレビも息を吹き返している。それらも今までまったく使われなかったお陰で新品同様だ。
他にも冷蔵庫や電子レンジといった家具一式にプラスして、揃えてもらったらしいソファーや背もたれ椅子。それから所々に置かれている可愛らしいぬいぐるみは、確か千雪が持ってきてくれたんだったか。
姉貴の頃とは大違い、随分女の子らしい部屋になった。
「うーん」
女の子の部屋に来ている。
それも、形とはいえ結婚を前提にお付き合いをしている相手の。
意識すると、途端に浮き足立ってしまう。甘い香りに気付いてしまったり、ふと彼女本人の湿った髪にドキッとさせられたり。
これでなにかしらを企てる訳でもなく、ただソワソワと居心地が悪くなるだけだから、我ながら消極的な。
「それで、なにか急の用事があったの? 凄く早いけど」
「あー、ちょっと姉貴に頼まれごとをされてな。新聞だけど、読むか?」
「……わたしに用があった訳じゃないの?」
「まあ、そうだな」
「わたし、用もないのに覗かれたの!?」
「覗いてねぇ!」
堂々と正面からだっただろうが!
あんま違ってないかもしれねぇが、気持ち悪い方向に行かないでくれ!
「……なんだ。じゃあ迎えに来てくれた訳じゃなかったのね」
ぼそりと呟き、不満げに唇を尖らせるサリュ。
迎え?
迎えとは?
心当たりがなく首を傾げると、サリュはきょとんと目を開いた。
「もしかしてオトメから聞いてないの? バイトのこと」
「なにも聞いてないな。姉貴とは出て来る時に会ったけど、酔っ払ってべろんべろんの状態だったよ」
そういえばなにかを言い淀んでいた気がするが。
――って、なんだって?
「バイト?」
「うん、バイトすることにしたの。今日から狐の隠れ家で」
「聞いてねぇぞ」
「昨日決まったんだもの。その場にオトメも居て、伝えておくって言ってくれたのに」
「……オイオイ」
なにが忘れてるからどうでもいいだ。めちゃくちゃ大事な話じゃねぇか。
サリュがバイト。しかも隠れ家で、今日から。
え? え?
「ほんとにか?」
「ほんとよ。だから早く起きてお風呂に入って準備してたのよ」
「ああ、そういうことね」
気に入っているにしても、何故こんなに朝早くからと思っていたが、バイト前に綺麗にしてたってことか。
いやいや、待て待て待て。
「早く起きてって、もしかして日中のシフトに入るのか?」
「ええ、勿論。わたしって、この国の人たちと変わらない風貌でしょう? 日中人手が足りてないみたいだから、入ってくれるなら是非って千雪が」
「お前昼間って、普通の人が来るんだぞ?」
見た目が日本人と変わらないからって、転移者が働くのはよろしくないだろ。しかもその見た目に関しても、実年齢には全然釣り合ってないし。
常識が違ったり魔法使いだったり、とても無茶にしか思えないんだが。
「それにバイトって、なんでまた」
「そ、そんなのお金が足りないからに決まってるじゃない」
ぷいっと、罰が悪そうに視線を逸らされる。
「……色々買って貰ったり、毎日の食事もユーマに助けて貰ってるし」
「お、おう」
正直、驚いた。
まさかサリュが、今もバクバクと口に放り込む食費に引け目を感じてくれていたとは。……なんて、ついつい散々な印象で思ってしまうが、別段サリュは恩をふいにするタイプではない。むしろ助けて貰ったり手を借りることに関しては、人一倍感謝する。
だから自分でバイトをして稼ごうと考え、行動することにもなんら違和感はない。
「それに、この国で生きていくって決めたんだもの。しっかり働いてお金を貰って、自分でやりくりして行かなきゃでしょ」
それも含めて、新しい世界での生活なんだから。
眉を寄せながらも、サリュはにこりと笑った。
酸いも甘いも噛み締め味わい、楽しんでこそだって。
「だめ、かしら?」
「……駄目とは言ってねぇよ」
突然だから驚いただけだ。
いや、少し落ち着いて考えても、無茶苦茶にしか思えないけど。
「千雪が是非って言ったなら、まあ大丈夫だろ」
まさかあいつがノリや勢いで決めたわけではあるまい。サリュの特異性を理解した上で、サリュの思いを汲み判断した筈だ。
やる気も十分。向こうが可能だっていってくれるなら、俺が色々言うのは野暮って話だ。
頷き、煮え切らない感情を全て呑み込んだ。
のだが、サリュは少々不満げだ。
「……もぐ、んぐ」
「サリュ?」
「……なによ。千雪が言ったら大丈夫なのね」
「あー、悪い。そういうつもりで言ったんじゃねぇんだ。お互いが同意の上なら大丈夫だろうなって話で」
だから決して、サリュの能力を低く見積もっているわけではない。
そう弁明したのだが。
「違う~っ!」
「ええ……」
今日のサリュはちょっと情緒不安定かもしれない。
「そういうわけだから、この後隠れ家に行くの。ユーマはどうする?」
「行っていいのか?」
「だめなの?」
「駄目じゃない」
悲しいが、特にこの後の予定もない。
なにより隠れ家で働くってことは、働くってことは、つまりそういうことだ。
行かない選択肢がない。見ないわけにはいかない。
そんなわけで、急遽、本日の予定が決定した。




