第二章【01】「一週間後の朝」
午前四時ジャスト。
目覚まし時計が鳴り立て、重いまぶたを開ける。
明かりを落とした自室は、眠る前と同じで暗いままだ。カーテンをめくり外をうかがっても、ようやく遠くの空が薄っすらと照らされている程度。
日中とは違い、冷めて心地の良い気温。しかし星が残る空に雲は見当たらず、今日も全開の晴が差すだろう。九月初週は夏を引きずる猛暑が続くと、昨日ニュースで言っていた。
「あー、くそっ」
疲れが取れない。早起きは三文の徳だと言うが、ここまで早いと絶対に損だ。
放っておくと二度寝の衝動に負けそうなので、すぐにベッドを抜けて部屋を出た。
道中、卓袱台につまづき空になったマグカップを転がしたり、ふらついた爪先が鞄を蹴り飛ばしてしまったり。踏んだり蹴ったり。
姉貴の私室程ではないが、少々床置きが目立つ。面倒だが、週末に掃除をするか。
などと紆余曲折を経て、洗面所へ。
上着のシャツを洗濯機へ投げ入れ、そのまま上半身裸で歯磨きと洗顔。寝癖で乱れた髪も簡単に直し、不格好じゃない程度には整える。
それから再度部屋へ戻って、ハンガーで吊っておいた衣服に着替える。
黒シャツにジーパン。正直めちゃくちゃ部屋着みたいだが、まあ今日はこれでも大丈夫な筈だ。なにより昨夜洗濯機を回すのが遅すぎた所為で、他の服が乾いてなかった。
なので仕方がない。少々適当過ぎる見てくれをぐっと呑み込み、リビングへと向かった。
そこで、ソファーに横たわる同居人が目に留まる。
俺に元気な老人のような早起きを課した、その張本人だ。
「気持ちよさそうに寝やがって」
実に静かな寝息で微動する、スーツ姿の姉貴。
リビング全体に薄っすらと酒臭さが残っている。飲み会帰りでそのまま潰れてしまったのだろう。スーツも長い髪も乱れに乱れ、眼鏡まで床に落としている。そんなめちゃくちゃな状況にも関わらず、猫のように静かに眠っているのが不思議だ。
昔からこうだ。姉貴の寝相は、音もなく悪い。
実に静かな手際で、朝には寝床が酷い有様になっている。
頼まれてはいるが、一応声は掛けておこう。なによりこの格好では寝辛いだろう。
肩を揺すり、反応をうかがう。
「おい姉貴、姉貴」
「……んー」
「しっかり部屋戻って寝ろよ。スーツがしわになるぞ」
「……んなもん、クリーニングに出すんだからぐちゃぐちゃな方が得でしょうが」
その理屈はおかしい。
姉貴は薄っすらと目を開くが、超不機嫌だ。動く気もないだろう。
「……ったく、何時よ裕馬」
「四時回ったとこだ」
「早ぇよ。休みだから寝かせろよ。休日出勤の振り替えってメッセージ送っといただろうが」
「それは分かってる」
「だったら頼んでた件よろしく。私は寝る」
「いや、着替えてから寝直せって」
「うるへー。黙ってクーラー付けて早く行け」
ごねられた上に注文まで付けられた。これが人に物を頼む態度か。
「ったく」
まあ、この一週間は色々と忙しかったらしいから、疲れているのだろう。……そしてその忙しさの一端は俺にも関わっていることだ。
あまり厳しくグチグチ言ってやるのも可哀想か。
姉貴の言う通り、頼まれた件をよろしくされてやろう。リビングのクーラーを付け、それから玄関へと向かう。
途中。
「……あー、そういえば裕馬」
「おう?」
「……あー、なんだっけ?」
「おい」
「ま、忘れるってことはどーでもいいんでしょ。じゃ」
そんな感じで、呼び止められたが結局なにも言われなかった。
なにか用事だろうか。あの感じだと、緊急って感じでもなさそうだが。
「後で聞けばいいか」
時間的にもそろそろ行かないと。
特に問い詰めることもなく、そそくさと家を出た。
◇ ◇ ◇
図書館まで徒歩二十分。学生マンションや一戸建てが集まった、藤ヶ丘東地区にある住宅街の一角。
そこにぽつりと立つ、十階建てのマンション「中居ハウス」。その七階に、俺と姉貴は部屋を借りている。
広々としたキッチン一体型のリビングに、個室が四つ。トイレと風呂は当然別だし、風呂にはジャグジーまで付いている高設備。
これで家賃が月五万という、破格の賃貸だ。
その安さの要因は、俺たちが百鬼夜行に所属しているから。ここは所謂、関係者のマンションだ。特別待遇の一環として、賃貸料金を引き下げて貰っている。
が、それとは別に理由がもう一つ。
中居ハウスは、正真正銘の事故物件だ。
エレベーターを降りてフロントへ。
すると丁度のタイミングで、受付ガラスの向こうから声を掛けられた。
「おや、裕馬くん。今日は随分早いね」
「あ、うっす」
もじゃもじゃで手入れのされていない髪と、色濃い顎鬚。死んだ魚のような目と薄汚れた灰色の作業着が、余計にくたびれた雰囲気を強くしている。
中居暮男。このマンションの管理人にして、同じ百鬼夜行の一員。
「最近どう、裕馬くん。儲かってる?」
そして、その見た目とあまりに合致する正体。
この人は、――貧乏神だ。
「あー、いや、全然です」
「だろうね。迷惑をかけるよ」
中居さんは受付のガラス戸を開き、カウンターに身を乗り出した。
暗い表情のまま、口の端だけを吊り上げている。
「最近調子がいいんだ。お財布を落としたり盗られたり、携帯を壊したり、カラスの糞が落ちてきたり」
「それって調子いいんですか」
「体質だからね。で、僕の調子がいいってことは、ここに住んでる人たちには大迷惑だ。思わぬ出費とか、増えてない?」
「……あー、お陰様で」
思い当たる節が多すぎた。
あの大食い少女を受け入れてからというもの、財布の紐が締まらない。
中居さんは「悪いねぇ」と言いながらも、クツクツと笑っていた。面白がられている。こちらとしては、堪ったもんじゃない。
こういうところで少々意地の悪い人だが、別段悪人というわけではない。その分家賃を安くしてくれたり支払いを待ってくれたり、結構気の良い人だったりする。
面白がってはいるものの、確認してくれたり、気にかけてくれる。色々と背負わされてはいるが、それらを含めても大変世話になっている。
あまり関わりたい人ではないが、邪険にもしたくはなかった。
ふと、流れで軽い世間話を振られた。
「そういえば裕馬くんは、ネットチューブとか見てるかな? 動画サイトの」
「まあ使ってますけど」
音楽を聴いたり、動画を見たり。
とはいえ習慣的に使っているかと言われれば、そうではないだろう。
「あらら、最近の若者にしては珍しいね。ヴァーチャルチューバ―とか凄いんだよ。話も面白いし、なにより可愛らしい。ネットアイドルさ」
「はあ」
「それに最近は、どこもこの街の話題で大盛り上がりだ。僕らにとっては遠い話じゃない」
「この街の、ですか」
遠い話じゃないということは、つまり。
案の定、想像通りの話だった。
「先日の花火テロ事件や、南地区の森林半焼事件。どこもかしこも取り上げてるよ。国家転覆から世界の破滅が近いだとか、恐怖の大王みたいな古い話までを持ち出してお祭り騒ぎ。おじさんそういうの大好きでねえ」
「恐怖の大王って、安直ですね」
「あらら、もしかして初耳かな。そうかー、最近の子はノストラダムスの大予言なんて知らないか。こりゃあ寂しいもんだ。世代の違いを感じるよ」
「ノストラ、え?」
「ノストラダムスの大予言。暇な時に調べてみるといいよ。好きな子はとことん好きになるだろうからさ」
一応おすすめされたので、頭に留めておく。
もっとも調べるまでもなく、詳しく知っていそうな宛があるか。
などと話していると、中居さんが眉を寄せて「邪魔したね」と苦く笑った。
「おっさんの長話にこれ以上付き合わせちゃあ悪い。用事だろう。霧が濃いから、気を付けて行っておいで」
「うす」
「あ、そうだそうだ。それと、お姉さんに言っておいて貰いたいんだけど、いいかな」
「姉貴に?」
「うん。家賃滞納、そろそろ五カ月になるよ」
「すんません」
あの飲んだくれめ。
「まーいいんだけどね。お陰で懐が寂しくて助かってるし。貧乏神は、儲かると話にならないから」
なんとも不思議な話だ。
なので中居さんとしては、家賃が支払われる日、すなわち収入が増える日を気にしているらしい。
「体調が崩れたり、調子が悪くなりすぎると最悪死ぬからね」
「……わ、分かりました。入れる時にはひと声かけるよう言っておきます」
「よろしくね。その日はお気に入りの子にボトルを開けるって決めてるからさ」
最後の話は聞かなかったことにしよう。
中居さんに見送られ、俺は図書館へと向かった。
◇ ◇ ◇
毎週月曜日の朝は霧が濃い。
これはこの街、藤ヶ丘で発生する異常気象の一つだ。
月曜日の早朝、午前四時から五時の間、街全体を濃い霧が包み込む。
理由としては、月曜に限り深夜から早朝にかけての気温差が激しく、霧の発生条件が過剰に揃っているからだ。しかしそれが毎週欠かさず引き起こされる原因は不明とされ、恐らく憶測でしか話されていない。
藤ヶ丘特有の地域現象であると、そう公言されている。
勿論、それは偶然による発生ではない。
俺たち常識から外れた者たちにとっては、一つの習慣に含まれる合図だ。
閉館した図書館の裏口で、一人その時を待つ。
すでに視界は霧に覆われて、数歩先は真っ白。なにも見えない程に、色濃く塗り潰されている。
ふと、近付いて来る足音が耳に入った。誰かが軽快に駆け寄ってくる。
遅れて薄っすらと現れる人影。随分早いお出ましだと思ったが、予想に反して見覚えのある人物の到着だった。
水気を帯びた緑の鱗に、頭から大きく突き出した口元。
それからチロリとのぞく長い舌。
「おはようアッド」
「オウ、弟カ! 早ェな!」
リザードマン、アッドが気さくに右手を上げた。
しかし現れた彼は、いつもの黒いスーツ姿ではない。上半身に銀色の薄い鎧を着込んで、背中に円状の盾を背負っている。腰元の短剣も備えられ、万全の戦闘態勢って感じだ。
おまけに今日は休館日。図書館の仕事ではない筈だが。
「どうしタヨ。今日ハ休みダゼ」
「俺も同じことを疑問に思った」
「ハハッ、オレは勿論見テの通りサ。ちョイとお仕事デナ。ンデ、緊急用の回復薬を図書館に忘レて来たッテ訳ヨ」
「おいおい」
それで急いで取りに来たってか。
「開いてなかったらどうすんだよ」
「なァニ、最近ハ可愛らしい宿直様が在住してるダロ」
「こんな朝っぱらから起こしてやるなよ」
「ッアー、旦那さんニ怒られちまッタゼ。参ッタナ」
「冗談で言ってる訳じゃねぇぞ」
ったく、このお調子者は。
仕方がないので、ポケットから裏口の鍵を取り出した。姉貴から借りていた特注品の合鍵だ。秘密にしろと言われているが、アッドなら大丈夫だろう。
するとやはり知っていたようで、アッドは大して驚くこともなく「流石ダゼ!」と親指を立てた。……絶対姉貴と色々悪いことに使ってるだろ。
「ンデ、弟はナンの用事ダ? お嬢チャンの様子を見に来タカ?」
「それもあるが」
「ンダヨ、こんな朝早くカラ。まさか休館日にイイコトしようッテカ?」
カカカと大口を開けて笑われる。
まったく。こいつといい図書館の職員たちは、こぞって俺たちのことをからかってくる。一緒に歩いているだけで口笛を鳴らされたり、ご両人なんて呼んで来やがったり。思う存分楽しみやがって。……そのお陰でサリュが馴染みやすくて助かってるのもあるから、あまりキツくも言えないのだが。
「デ、実際のトコロ、ドーしたヨ」
「月曜だからいつものを取りに、だよ」
「いつもの。ああ、アレか。でもアレッテ姐サンのお楽しみじャアなかッタカ?」
「そうなんだけどな。生憎今朝は酔い潰れてそれどころじゃなかったみたいだ」
「アー。ソウイヤ、昨日相当飲んデタカ」
アッドが知ってるってことは、やっぱ隠れ家か。
「止めてくれよ」
「イヤア、凄ェ勢いデ煽り飲みシテたからヨ、相当お疲れナンだろうなッテ」
「にしても限度があるだろ。んで、気分良く飲んでぐっすり寝てるわけだが、まさかそっちの仕事に関わってる、なんてことはないよな」
「流石にネェト思うガ、アー、断言は出来ネェナ。姐サンならやりかねネェ」
「おいおい」
しっかり確認しておいてくれよ。アッドの言う通り、あの姉貴ならやりかねないのだから。図書館が休館日だと大はしゃぎして、別の仕事を忘れるとか、十分に有り得る。というか、今までにも何度かあった。
なにか言いかけていた気もするし、これはしっかり起こして来た方がよかったかもしれない。
などと話していると、近付いてきた新たな足音に気付く。
霧の向こう、浮かび上がる人影。どうやら今度こそ、待ちわびていた来訪者だ。
「あ、代理人です。新聞お願いします」
いつもは姉貴が受け取っているから、分かるように声を掛けた。
それを合図に姿を現したのは、この世界の人間ではない。古びた黄土色のコートに身を包み、大きなバッグを背負った異世界人だ。
明確な種族名は知らないが、俺は鳥人間だと思っている。帽子を被った頭が分厚い羽毛に覆われていたり、突き出した白いくちばしが特徴的だから。
「おはようございます。君は以前一度だけ会ったことがある、弟くんかな」
「そうっす」
「朝早くからご苦労様です」
低い声でそう言って、バッグから丸まった新聞紙を取り出す。差し出したその手も、細かい羽毛で白くなっていた。
受け取り、軽く会釈を返す。
「どうもです」
「いえいえ。毎度ごひいきに、ありがとうございます」
それでお互いに仕事は終わりだ。
鳥人間の配達員は、静かに霧の中へと消えていった。
遅れてバサリと響く、羽ばたきの音。次の配達先へ向かって、空の彼方へと飛んで行ったのだろう。
これが、月曜日の霧の真相。
新聞や荷物の配達に限らない。彼ら常識に隠れた異世界人たちが、姿を隠して往来を動く。
まさしく、見えてはいけない時間なわけだ。
「サテ、丁度事件から一週間ダナ」
「どうなってることやら」
「オレ様の雄姿が一面を飾ッテるカ?」
「だったらお祝いだが」
果たして好ましい記事なっているかどうか。
逸る気持ちで、すぐに用紙を広げた。
 




