第一章【34】「エピローグⅠ」
その日の夢は、いつもと違っていた。
バシャリとなにかに落とされ、沈んでいく。
水か? 海か?
……違う、ドロリと重たい黒色の波だ。まるで沼みたいに纏わりついてきて、絡まってきて、気持ちが悪い。
「が、ば……」
なんだこれは。どこだ、ここは。
這い上がろうと手足をバタつかせるが、あまりに重い。ゆっくりと動かすことしか出来ず、大した抵抗にもならない。
なぜだか息苦しさはなかったが、このまま沈んでいけばよくないことになると、――予感があった。
だからなんとか上へ、必死でもがき手を伸ばす。手繰り寄せて足掻く。
けれど、その手を掴み引き上げてくれる誰かなど居る筈もなく。
ただ無力なままに、闇の底へと、深く落ちていった。
◇ ◇ ◇
「が、あ」
頭が痛い。まるで割れるような頭痛だ。
気持ちも悪いし、身体が浮かんでぐるぐる回っているような感覚までする。自分の身体が別のなにかに変わったみたいだ。
不快感と同時に、不安が募る。
本当に自分は大丈夫なのか? 俺は、俺のままで在るのか?
急かす気持ちですぐさま目を開き、身体を起こして、
「んむぐ?」
直後、口元をなにかに塞がれてしまった。
丸々と柔らかな弾力感に歯ごたえ。――これは、まさしく。
「おっぱ――!」
「肉まん!」
バシリとおでこを叩かれた。
起こした上半身が下ろされ、そのまま硬い床へと落ちた――と思ったのだが。
柔らかな感触に頭を覆われた。
遅れて気が付く。視界の半分を覆う双丘と、口元の肉まんに。
「熱い」
「あんまり起きるのが遅いからイタズラよ。足も痺れてるし」
「悪い。俺の視界からだとおっぱいが話してるようにしか聞こえない」
「起きなさい!」
再度額を叩かれてしまった。
怒られては仕方がないので、言われた通り身体を起こす。
それでわかった。
どうやらサリュは膝枕をしてくれていたらしい。
「えっと、なんだ」
未だに続く頭痛と混乱する思考の中、ゆっくりと辺りを見渡す。
ここは姉貴の私室で、昨日同様サリュと二人だ。掃除したお陰で随分綺麗になってきているが、まだまだ山積みの本が残されている。
その現状に呆れてしまうと同時に、ようやく事態を理解してきた。
帰って来れたってことは、……そうか。
「ぶじおわっひゃんでゃな」
「食べながら言われても分かんないわよ」
咀嚼し飲み込む。旨い。
「悪かった。腹ペコでよ」
「腹ペコね。ま、仕方ないのかな」
「今何時だ?」
「お昼過ぎ。十三時よ」
「マジか」
そりゃあ腹も減るわけだ。
もぐもぐと肉まんを頬張る。
一個じゃとても足りなさそうだが、見ればサリュの隣に大きな袋が二つも置かれていた。全然大丈夫そうだ。
しっかし、まあ、なんだ。
「なんで膝枕?」
「覚えてないの?」
「覚える?」
「ま、まあそれならそれでいいけど。気が向いただけよ」
「……そっか。ありがとな」
礼を言ったが、ぷいっとそっぽを向かれてしまった。なんだか怒っているような?
けれどそんないつもの仕草に、ようやく安心した。
無事終わったんだ。
それから昨夜のことを確認する。
お互い必死だったし、俺に至っては何故か記憶が薄まっている。思い出そうとしても頭痛に遮られるのだ。
だからお互いに見たこと、知っていることを共有し合う。……そうすることが大切なんだって、そんな話をしたなと思いながら。
結局、昨夜の街の傷跡は今も深く残っているらしい。
隠蔽しようにも被害が大きすぎ、ゲリラ花火を装ったテロ襲撃ということでニュースになっているんだとか。爆弾かミサイルか、国家規模の攻撃とも騒がれているそうだ。
思った以上に大事だが、それでもどうやら俺たちの存在は隠されているようだ。一体なにをどうやって誤魔化したのか。
まあ専門じゃないから、考えたところで分からないが。
俺が知りたいのは、もっと細かな部分での問題と詳細だ。
記憶が欠けている部分。……大凡の予想は付いているが。
サリュは、見たこと全てを話してくれた。
「俺が暴れ回った、ってか」
言われてもはっきりとは思い出せない。
が、感覚として残っている。なにかを殴っていた感触や、湧き上がる破壊衝動。壊したい、殺したい、喰いたいといった凶暴な欲求。
まるで他人事のようだけれど、その断片が胸の内をぐるぐる渦巻いている。
中学の時と同じだ。
鬼の力に、呑み込まれた。
「悪かった。迷惑かけたな」
しかしその状態の俺は、リリーシャと互角に戦えていたという。鬼血で硬化した皮膚も、連なる魔法を弾いていたと。
そのお陰で勝てたと、サリュはそう言ってくれた。
「ユーマが戦ってくれていたから時間が稼げたのよ。だから謝らないで」
けれど二度と同じような無茶はしないでと、力強く念を押されながら。
そうして俺がリリーシャと戦い、移動させ、サリュの必殺技と森の結界陣が発動。彼女を無力化することで、勝敗は決した。
「それで、その後はどうなったんだ? リリーシャって子は」
「わたしもしっかりとは聞かされていないの。だから行きましょう」
「行く?」
「オトメのところよ」
瞬間、ビクリと背筋に寒気が走った。
なんだ?
「どうしたの?」
「いや、なんだろうな」
「起きたんだから、顔も見せてあげないと」
「あー、そうだよな」
何故か今姉貴と顔を合わせるのは気まずいと思ってしまった。
思い当たる節はないが、多分、鬼化した俺がやらかしたんだろう。こりゃあまた滅茶苦茶怒られるかもしれない。当然のことだとは思うが。
「考えてても始まらねぇ。行くかサリュ」
どうせ顔を合わせて話す必要がある。なら早いに越したことはない。
床にへばりついた重い腰を持ち上げ、部屋を飛び出した。
◇ ◇ ◇
……のだが。
「は、はあ?」
場所は変わって昨日の一室。
入るや否や、せっかく持ち上げた腰が抜け、力無くその場に座り込んでしまった。
小さな部屋には俺とサリュ、それから姉貴と。……丁度訪ねて来たであろうヴァン・レオンハート。昨日とまったく同じ面々だ。
俺は昨日の戦闘服のままで、サリュはいつもの黒いワンピース。ヴァン・レオンハートも昨日と同じ白いスーツを着込んでいる。まるで昨日の焼き回しだ。
そんな中、どういう訳か、姉貴だけが違った。
「おー。起きたかい愚弟よ」
脇目も振らずにスマホを弄りながら、平然と答える。
だがその風貌は、明らかに異様なものだった。
真っ白なドレスと同色のブーケ。
綺麗な首飾りまで付けて、過剰に可憐に着飾っている。
その姿は紛れもない。ウェディングドレスだ。
「は、えっ?」
「予想以上の反応だな。愉快だよ」
「ど、どういう」
どういうことだ。本当に意味が分かんねーんだが。
慌てて周囲に助けを求める。
最初にサリュの方を向いたが、なんか顔を真っ赤にして視線を逸らされてしまった。え、いや、なんだよその反応。
なので仕方が無く、唯一残された男へと視線を移せば、彼もまた頭を抱えて息を吐いた。
「まったく。この国の法律では同性婚は認められないと言っているのだがな」
「ヴァン君。昨今はそういったジェンダーに敏感で寛容だ。世間一般的な考え方や形ばかりの法律を押し付けては、荒波が立つぞ」
「そういう話ではないと思うのですが」
彼は再度大きく息を吐き、俺を真っ直ぐに見て宣言した。
「非正式ではあるが、君の姉君は婚約した」
「は?」
「相手は昨夜の襲撃者、リリーシャ・ユークリニドだ」
「?????????????」
???
???
??????
「なんとも味のある例え難い表情をしているが、落ち着きたまえ。正式には認められていない、いわば口約束のようなものだ」
と、咄嗟に隣でサリュが頬を抑えて悶え始めた。
「く、くちやくそく」
顔を真っ赤に熱風を吹き出している。
まるでヤカンだ。なんつー古典的な。
っていうか、婚約?
……マジで意味が分からないんだが。
「姉貴、説明してくれ」
「そうだな、簡単に言えば」
姉貴はようやくスマホから顔を上げ、大したことのないようにさらりと言ってのけた。
「お前と一緒だ。あの子の服を剥いで辱め、プロポーズした」
「お、おお?」
なるほど納得出来ない。
……出来ねえ。出来ねえな、うん。
「わっかんないかなー。あの女、強い。役に立つ。手元に置く。おーけー?」
「それでどうしてプロポーズに……って、そういうことか」
ようやく理解が追い付いた。俺と同じってのは、つまりサリュの時と同じってことか。
向こうの世界のしきたりに乗っ取った婚約。その為に衣服を剥いで肌を晒させ、そのままプロポーズしてやったと。
なるほどなぁ。
やっぱ意味分かんねぇや。
「悪い姉貴。頭痛くなってきた」
どおりで騎士様もずっと頭を抑えているわけだ。
こりゃあ相当ヤバい。なにがなにやら理解不能だが、俺たちを置いて姉貴が面倒臭そうにまとめた。
「ともかく、だ。あの子は当分、私の婚約者ということで手元に置かせてもらう。その後がどうなるかは知らんし、なるようになる」
だから話を進めようじゃないか。姉貴はそう言ってヴァン・レオンハートに視線を移した。
騎士は勿論納得いかない表情のまま、しかし仕方がないと頷いた。
「まあ、丁度カタギリユウマやサリーユ君も揃った。そちらの話を優先しよう」
「ま、待ってくれ」
だが、話をなんとか呑み込んだ上で、それでも聞かなければいけないことがもう一つある。ようやく立ち上がり、姉貴に視線を合わせる。
尋ねることは、当然。
「それで、なんでウェディングドレスなんだよ」
「婚約したから、せっかくの機会だしね」
「いや、それじゃあ着ないだろ」
「生憎ヴァン君の言う通り、この国では同性婚は認められていない。式を挙げることも難しいだろう。だからさ」
「……えっと、だから?」
「一度は着てみたいものだろう? ウエディングドレス」
ニッと笑みを零す。それはアレだろうか、所謂女性の憧れ的な話なのだろうか。
ああ駄目だ。これは絶対に話が通じない。多分分かり合うことは出来ない。だから俺もこれ以上は掘り下げないと決めた。
ヴァン・レオンハートもまた咳払いをして話を切り出す。
男は姉貴の机に置かれていた、何枚かの書類を手に取った。
それが今回の用件らしい。
「まずは件の女だが、我々アヴァロン国側で移住の登録を行った。戦意喪失と、現在は意識不明の重体。治療の必要性やオトメ君の対応も考慮した上での対応だ。当然戦闘員としての扱いとなり、準一級として称号を与えた」
「準?」
「特例中の特例なのでな」
準一級の戦士。それはヴァン・レオンハートに匹敵する上位の戦闘員を意味する。
昨夜の戦闘に参加した者たちなら、誰一人として納得だろう。
しかし、最初から第一級を与えることは異例であり、なにより当人が起こした事態も深刻である。その為、準一級という形に落ち着いたらしい。
どうやらアヴァロン国は余程リリーシャを特別扱いしているようだ。
そして彼女は大きく衰弱し、現在も昏睡状態が続いているらしい。
左腕を失って尚、あれ程までの戦闘を続けていたんだ。身体にかかった負荷は半端なものではないだろう。
「登録は行っているが、あくまでアヴァロン国は彼女を捕虜と考えている。婚約とはいうが、それが果たしてどれ程の強制力と束縛を与えるのか、定かではないのでな」
「妥当な判断だね。同時に懸命でもある」
姉貴が続けた。
「私たちはその子がどうやってこの世界に来たのか知らない。サリュを殺しに来たらしいが、それが成された後はどうする予定だったのかも知らない」
「なにより問題なのは、ヴァルハラ国には異世界転移の文化が存在していなかった筈だ。我々アヴァロン国が一方的に転移を行い、調査し記録していただけだった」
「私の調べた記録でも、ヴァルハラ国には異世界転移の方法が無いどころか、そもそも発想自体が存在しない国だと記されていた」
だが、サリュはこの世界に来た。
リリーシャもそれを追ってこの世界へと来た。
「別段おかしな話ではないさ。上位の力を持った魔法世界。むしろ今まで出来なかったことの方が不思議なくらいだ」
姉貴は断言する。
「彼女らが来たヴァルハラ国は、異世界転移を操る国となった」
だから処理という選択は好ましくない。彼女から出来得る限りの情報を引き出し、備えなければいけない。
今後もヴァルハラ国からの異世界転移が起こされる可能性。サリュやリリーシャのような強力な魔法使いたちと、戦う為の備えを。
そうして騎士は、もう一つの用件を口にした。
「これは通達だが、君たち二人に昇級が認められた。サリーユ・アークスフィアは第一級へ、カタギリユウマも第四級へと上がった。昨夜の戦闘を通しての評価だ」
伝える男が俺を視る目は、冷たく鋭いものだった。
それは当然だ。昨夜の俺は昇級を認められる程の働きをした。だが同時に、戦闘員としての明らかな欠陥を晒している。
過剰な鬼化と暴走。昇級はすなわち実力を認められることでもあり、危険度が高まったということでもある。決して友好的な格付けではない。
だから彼は言った。
「双方共に、心して精進せよ」
と、気の引き締まる言葉を。




