第一章【33】「異世界」
そうしてユーマは鬼から彼に戻り、やがてその場に崩れ落ちた。
「ちょ、重っ!?」
なんとか支え、ゆっくりとその場に横倒す。
見たところ傷も癒えているし、身体を覆っていた黒い皮膚も鬼の角も消えた。呼吸も安定しているから大丈夫だろう。
頭を飛ばされて、死んだと思った。あんなに飛び回って、沢山傷付いていた。限界なんてとうに越えていただろう。疲れてしまったに違いない。
見てたから、知ってる。
「……お疲れ様」
優しく、彼の赤い髪を撫でた。
遅れて、足音が一つ。ガシャリと響く甲冑の音。
「ぐっ。これが噂に聞いていた百鬼夜行の陣か。鎧もキャリバーもなんと重い。普段如何に強化に頼っているか、己の至らなさを痛感させられるな」
「あら、遅かったわね」
「言ってくれる。誰が貴様の落ち込んでいる時間を稼いだと」
「落ち込っ、……相変わらず口の減らない男ね」
「まあ無事に片付いた、それで良い。カタギリユウマも落ち着いたようだしな」
言って、ヴァンがわたしたちの前に立つ。
無事に片付いた、ね。沢山の建物を壊して、森を半焼させて、無事って言っていいんだろうか。
だけど異世界を管理する国の騎士。これ以上の記録や経験を知っていても、不思議ではない。
それでも、終わったのは確かだ。
わたしとヴァン、向こうの森にオトメお義姉ちゃん。三人で、立ち尽くしたリリを囲んでいる。
わたしもヴァンも力は使えないけど、それはリリも同じ。誰も力を使えないというのなら、多勢であるわたしたちが優位な筈だ。
そんな状況の中、けれどリリは笑った。
「ッハ、ハハハハハ! 傑作だわサリーユ!」
「……リリ」
「笑えるわ! 兵器と化物が手を取り合って、人を、愛を語らう! なんて滑稽なの! ああ、口惜しい! 魔法が使えたなら、一面を花畑で彩ってあげてもよかったのに!」
目を剥き、歯を見せる。
ふらつきながらもまだ、彼女はわたしを睨み叫び続ける。
「あああああ、あああああああッ! なんなのよこの言葉はッ! こんな言語は知らないッ! 聞いたことも習ったこともないッ! なのにどうして理解出来る! あたしの喉から吐き出される! 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!」
「……そう、なのね」
「街、ビル、道路、電柱、車、トラック、若者。破壊、死者、テロ。魔法、お城、国、師匠、先生、友達、ヴァルハラ国ッ。気持ちが悪いッ! 知らない知識ばかりか、思い出までこの世界の言葉で表現される! あたしという人間が、内側から浸食されて上書きされてる! なんなのよ、なんなのよこれはッ!」
「……ああ」
追い詰められて、錯乱して。残された右手で頭を抱え、リリは叫ぶだけだった。
気持ちが悪いと、不快だと、不条理だと。縁者から与えられる、この世界の知識。今更になって、そんな形のないモノを攻撃し始める。
きっとそれはわたしと同じ感触の筈だ。
知らない物を知る、見ても居ない物を理解出来る。知識と経験と理解の矛盾。その不思議な感覚に、取り乱してしまう気持ちが分からないわけではない。
けれどそれは、吐き気を催す程に不快なものか。わたしが感じた好奇心にも似たものを、ほんの少しでも感じてはいないのか。
その違いが彼女の本心なら、わたしとリリは、やっぱり分かり合えなくて。きっとこれからも、笑い合えることは出来なくて。
この子とはもう、きっと、……一緒には居られない。
「彼女を殺すが、構わないな」
「……ええ」
ヴァンの気遣いに、頷く。
「っ」
まぶたを閉じれば思い起こされる。
この世界に来てから、たった二日間の出来事。
沢山の本や、吹き抜けの大広間。初めて味わった食べ物や、知りもしなかった色んな種族の住人たち。
わたしの世界より遥かに発展した光の街並み、景色。鮮やかに開かれた、花火の輝き。キラキラと流れ星みたいに消えていく最期まで、ずっと綺麗なままだった。
全てが鮮明に、わたしの心に残されている。
「ごめんなさい」
わたしには過ぎた幸福だ。リリの言う通り、わたしは罪深い。
多くの国を滅ぼして、人を傷付け命を奪ってきた。親友と呼んでいた彼女にも、一方的に寄りかかって沢山の重荷を与えていた。
なにも知らず、気付かず、目を背けてきた臆病者。
挙句に全てを投げ出し、逃げてきた卑怯者。
「でも」
そんなわたしを受け止めてくれると、ユーマは言ってくれた。
一緒に生きていきたいって、ここはそういう世界だって示してくれた。
自分勝手で我が儘で、都合のいい話だと思う。最低で最悪な、醜い魔女だと罵られても当然だ。
だけど、許されるなら。まだ幸せを求めていいって、チャンスをくれるなら。
――自分から、それを捨てたりはしない。
「わたしは」
手を伸ばす。
不格好だって、何度でも、出来得る限り足掻き続ける。今度こそ失敗しないって、前を向いて見せる。
だから、ここで決着をつけなきゃいけない。
もう一度この世界で、ここから始める為に。
ただ、
「……リリ」
許されるなら、ありがとうと、それだけは。
全部嘘だったけれど、友達で居てくれた。一緒に居てくれた。
学んだことは多く、確かな力になってくれている。リリが居てくれなかったら、わたしはここまで来られなかった。もっと早くに潰れていた。
だから、ありがとう。
そしてなにも知らなくて、逃げ出して。
相対することすら遅くなってしまって、ごめんなさい。
ヴァンが両手で剣を構える。
なにやら陣の効果で輝きが弱まっているが、それでも鋭利さは失われない。
魔法を失ったあの子なんて、簡単に斬り伏せてしまうだろう。
目をつむり、両手を合わせて祈る。
せめてその時が一瞬でありますようにと、最期の手向けを思う。
しかし、そこに割って入る声があった。
「待ちなさいヴァン君」
オトメだ。
何故かその身をリリの前に晒し、ヴァンの剣を阻む形になっている。
「……なんのつもりですか」
「いやなに。彼女を失うのは、惜しい話ではないかと思ってね」
「正気ですか?」
「手がない訳ではない」
言って、オトメは改めてリリに向いた。
そして、
「では、――フン!」
ビリビリビリビリビリビリビリと。
なにやら豪快で怪しい乾いた音が響き渡った。
な、なにが!?
「な、なにを!?」
「ヴァン君あっち向いてろ! サリュも目をつむれ! 見るなよー!」
名指しされ、反射的に目を閉じてしまう。
その間にもバリバリビリビリと、物凄い音だけが響いてくる。それと、遅れてリリの悲鳴。甲高い叫びがこだましている。
なに? なになになに?
ちょ、ちょっとくらい見てもいいかしら?
「二人とも絶対見るなよ! オラ、どうせボロボロなんだから抵抗するんじゃない! オラオラオラ最後の一枚だオラァ!」
ビクリとまた強く目を閉じる。だめだ。絶対見ちゃだめなヤツだ。
そしてオトメの声に合わせ、一際大きな破音が響き渡った。なにが行われているのかは、見えずとも明白だ。
やがて残ったのは、しくしくと零される寂しい音だけ。
……リリ、泣いてるのね。
「こんなっ、酷いっ、ハレンチっ! 命を奪うばかりか、心も身体も辱めようっていうのね! 最低最悪! 悪逆非道!」
「罵詈雑言結構。悪いわね、鬼なもんで」
「くっ、この」
「で、確認なんだけど」
オトメは言った。
「確かそっちの世界じゃあ、素肌を見たら死罪か――結婚よね」
「なっ!?」
「オトメ!?」
わたしもヴァンも声を上げ、咄嗟に目を見開いた。
すべてを剥がされたリリの姿こそ、オトメの背中で隠されている。
だけど次の瞬間。オトメがその場にしゃがみ込み、ゆっくりとリリに近付いていって。
――こつりと、二人の額が静かにぶつかっていた。
「え? え?」
開いた口が塞がらない。
それは紛れもない、だけど、――え?
どれだけ二人はそうしていただろう。やがてどちらからともなく離れ、息を吐く。
オトメが口元に人差し指を当てたのが、とても印象的に映った。
「男も女もイケる口でね。嫁に貰うわよ」
「そ、そんな、そんな話がっ!」
「嫌なら殺してみなさい。面倒だけれど私も鬼よ。相手になってあげるわ」
「ッッッツツツ!」
遂に勝敗は決した。
リリが顔を真っ赤に崩れ落ち、さめざめ涙を流す。……これはこれで見たくなかった光景だ。
そんな反応とは対照的に、オトメはニッと笑った。
「万事解決ってね。ほらヴァン君、私の嫁にマントをあげておくれ」
「正気ですか? 彼女を、生かすと?」
「その方が有益だろう」
「……後悔しますよ」
「それはこれから次第さ。もしもの時は、またお願いね」
「簡単に言ってくれる」
「それが君たちの仕事だ」
納得はしていない。けれど騎士は、その剣を鞘へと納めた。
それが意味するところは、一つの結末だ。……これにて本当に、全てが終わり。
「なんて、滅茶苦茶なの」
腰が抜けて、その場に崩れ落ちる。
これが異世界。
想像以上、遥かに予想外だ。
「ユーマ。世界って、凄いのね」
彼へと声を掛け、力無く置かれた手を取る。返事はない。
けれど静かに息をこぼす口元に、少しだけ胸が高鳴って。
「……ばか」
悔しくなって、頭を小突いてやった。
いつの間にか花火も止んで、辺りは静けさに包まれていた。
沢山のものが壊れた。沢山の人たちが傷付いた。
けれど今はもう通り過ぎた後。
まだまだ問題も、後悔も、反省しなきゃいけないことも山積みだけれど。
時間は進んでいく。
夜が、更けていく。