第一章【29】「悪夢の情景」
視界一杯に広がった黒い稲妻。
その光景を最後に、プツリと外界との交信が途切れた。
部屋の電気を消したみたいに、一瞬にしてブラックアウト。それも視界が奪われただけでなく、音も匂いも断ち切られた。夏の暑さや夜風の感触も無く、サリュや千雪、アッドの気配も感じられない。
そう、感じていた全ての現実が失われた。
なのに、意識だけが残っている。何処でもない暗闇の中で、形も持たずに揺らめいている。なにも存在しないこの場所で、どういう訳か自分という意識だけが自覚出来ている。
気持ちが悪い。そう思った瞬間、俺は見慣れた場所に立っていた。
教室。
誰も居ない、座席だけが整頓された教室だ。
悪夢の、情景だ。
「……なん、だよ」
どうして突然こんなところに。
それも、いつもよりずっと鮮明に、ここに自分が立っているかのような現実感で。
その上で、予想通りのアレが襲い掛かって来る。
ぐじゃりと踏み潰す千切れた右腕。驚き後退した拍子に、後ろに居た人型を引き裂き。
慌てて右往左往すれば、その度人型に触れて、たちまち風船みたいに割れていく。真っ赤なぬるま湯で、ベタベタにされてしまう。
何人も何人も、人型が現れる。取り囲むように、次々と、何処からともなく現れた人型たちが、我先にとその身を差し出してくる。
逃げようともがけばもがく程に誰かに触れ、壊してしまう。砕いて千切って、みんなみんな死んでしまう。
そしてそんな俺の姿を誰もが見ている。沢山の目が映している。
俺の罪を、化物と、おぞましいと。
「違う」
違う違う違う!
俺はこんなもの望んでいない!
壊したくない! 俺はただ、誰かの為になりたかっただけだ!
あの時だって!
『いいや、楽しんでただろ。痛快だっただろ』
声が聞こえた。
重く響く、低い男の声が。
『なにも出来ない粋がっていた連中に、誰が本当の強者か教えてやったんだ。お前らの半端なおままごととは違う、本物の力を見せつけてやったんだ。痛快な上に、いい経験を与えてやったじゃないか。いけないことか?』
「誰だ!」
勝手に入って来るな。判ったような口を聞くな。
いけないかだって? 駄目に決まってるだろうが!
だってそれじゃあ、俺は!
『連中とは違う種族である自らを誇り、その力でねじ伏せ、なにが悪い? 強者として当然の振る舞いだろう』
なにが当然だ、ふざけるな!
『なにを拒む。連中は理解しただけだろう』
理解だって?
『正しく理解したからこその恐怖だ。なにも間違っていない。なにも持たない連中にとって、力とは恐怖でしかないんだからな』
それは、――その通りだった。
だって俺は戦闘員なのだから。
最下位の第五級であっても、戦う力を持った存在。傷付け破壊する力を、持っている存在。
それは紛れもない事実で。
『その力はなんだ』
その力は、鬼だ。
『鬼ってなんだ?』
諸説ある。
だけどほとんどは、人を喰ったり、国を滅ぼしたり。
『それは化物だろ』
確かに、それは化物だ。
『じゃあ化物らしくすればいい』
それは、駄目だ。
この世界は、図書館は俺を受け入れてくれた。あの場所は俺のことを仲間として迎え入れてくれた。百鬼夜行の一員として認めてくれた。
スライムもリザードマンも、雪女も九尾の狐も、魔法使いだって来たんだ。俺もこの場所なら、受け入れて貰える。
だから、……決し、て。
『じゃあ、大丈夫だろ』
大丈、夫?
『だったら余計な心配は必要ない』
なに、が。
『化物であっても、拒まれはしないだろ』
――――あ。
その響きが、蕩けるように染み渡る。
それは紛れもなく、俺がずっと欲していた言葉だった。必死で探していた答えだった。
ここなら大丈夫なのか。これから先も、受け入れてもらえるのか。俺は鬼であっても構わないのか。
みんななら、――俺が好きにしても、受け入れてくれるんじゃないか?
『ほら、直に再生が終わる。元通り、五体満足、存分にぶちまけていこうぜ』
そうだ。隠す必要なんて、ない。
みんな受け入れてくれるに決まってる。
だって図書館は、日本国は――。
――そういう世界、なんだろ?
ぶちまけてやれ。
「はは、はははハ! ハハハハハハハハハハハ!」
笑い声がこだまする。うるさい、誰だ。
だけどそれも仕方ないか。だって可笑しくて、楽しくて仕方がないんだ。
「ハハハハハ、はー。あー……」
みんな、俺を見てくれ。
俺のことを受け入れてくれ!
◇ ◇ ◇
ドクンと、心臓が大きく躍動した。
より強く、より早く血液を全身へ運べ。ところ余さず身体の全てに循環させろ。
――鬼の血脈を。
「あー……」
跪いていた状態から、立ち上がる。
途端に、頭が疼いた。立ち眩みだろうかと、右手で額を抑える。
すると手のひらに触れたのは、――突き出した二本の角だった。
――なにも、おかしい事はない。
そしてそのまま手を下ろせば、冗談だろってくらいドス黒く染まっていた。黒塗りで、所々に血管が赤い線で浮き出ている。気持ちが悪いな。
ま、仕方ないか。この血流こそが、俺の証だ。
「ユー、マ?」
女の声。足元に、最近見知った少女がうずくまっている。
疲労困憊って感じだが、空の小瓶を手にしている。……まだ立てそうには見えないが、放っておいても大丈夫だろう。
「……お、弟ォ?」
目を見開き、固まる顔馴染みのリザードマン。
そこそこの付き合いになるが、全身を鬼血で覆った姿を見せたのは初めてだったか。おまけに角まで生えているとなっては、面食らうのも仕方がねぇ。
後は離れたところに雪女。なにも言わずに、ただ俺を見ている。いってしまえば同じ種族の仲間内。こちらの状態は分かってくれているだろう。
さて、そしてもう一人。
今一番に潰さなきゃいけない、標的の女だ。
「……冗談、でしょ? 頭を吹き飛ばしても生きてるとか、化物の度を越えてるって」
宙に浮遊しピカピカ眩しく光る女。
その小さな身体を睨み付ける。
「黒い肌、赤い眼光、天を衝く二本の角。鬼、でしょ。知識にあるよ。この世界に住む、妖怪ってやつ」
「違いねぇ」
「……それで? なんか雰囲気が変わったみたいだけど?」
「どうするつもりだ、ってか? んなもん決まってんだろ」
いちいち確認するんじゃねぇよ。
「こちとら頭を吹き飛ばされたんだぞ。それなりのモンは返させてもらう」
「ハッ、なにを」
眉を寄せ、睨みを返してくる。
未だ自分が優位に立ち、その上で逆らわれて怒り心頭って感じか。
気に入らねぇ顔付きだ。
だから、その顔面に、
「――――失せろ」
瞬時に肉薄し、右の拳を叩き込んでやった。
――つもりだった、が。
「ッ!?」
「おう?」
確かな衝撃と手応えはあった。
だが、人間の皮膚のソレじゃねぇ。もっと固いナニかだ。
証拠に半透明な壁のようななにかが、ノイズを立てて俺の拳を阻んでいやがる。いつの所為で、薄皮一枚女の鼻面に届いていない。
いわゆるバリアってヤツか。
「おいおいおい、お触り厳禁ってか? 面倒臭ぇ女だなぁ」
「っ。なんて暴力的な」
「ま、簡単に終わっちまうよりはいいか。楽しませてくれよォ!」
右腕を引き、続けて左の拳を打ち込む。
だがそれが衝突する寸前、目の前が眩い光に包まれて。
「おォ?」
激しい爆発が巻き起こった。
思わず仰け反り引き下がる。何故か距離を置かなければいけない気がし、反射的に後退しちまった。……が、思い違いだったようだ。
身体には傷一つ見当たらない。ヒビ割れ欠けた部分すらないだろう。
女の表情が強張った。
いいね、悪くない。そういう顔が見たいんだ。
「なによお前、さっきまでと全然違うじゃん」
「ハハ、ここは狭いな。もっと広いところに行こうぜ」
「広いところって」
「ああでも、街に落とすのは色々と不味いよな。となると、隠れ家んとこの森か。そういやそこにお前を運ぶって作戦だっけ?」
ここから随分遠いが、ちょっくら気合い入れりゃあいけるだろ。
さあ、暴れてやろうぜ。
「バリアしっかり張れよ。ボール遊びだ。簡単に壊れるんじゃねぇぞ!」
俺は右腕を振り被り、防壁を力一杯殴り付けた。
◇ ◇ ◇
忘れもしない、中学二年の夏だ。
その日初めて、いじめの現場にばったり出くわしてしまった。
そういうものがあるってことは知っていた。
授業やホームルームでも、みんなで仲良く、人のことを虐げてはいけないなんて、教師に何度呼びかけられたことか。今更に思えば、学内でその手の問題が発生して、注意喚起をしていたんだろう。
ただ、予想と違ったのは、それが俺のクラスで発生していたこと。日常的に、目の前で行われていたってことだ。
馬鹿な話。
机に落書きをしたり、制服に水をかけたり、給食にチョークの粉をかけたり。そんな行為が当たり前のように起こっていたのに、それがあまりにありきたり過ぎて。
なにかの冗談だって一緒になって笑っていた。こんな良く出来たいじめがあるもんかって、パフォーマンスだと勝手に勘違いしていた。
だけどある日、いつも冗談を言っていた連中が本気で眉間にしわを寄せて、一人の男子生徒に、殴りかかっていた。
男子生徒は泣き叫び、やめてくれと懇願する。けれども周囲を取り囲む生徒たちが、我先にとその子を叩き、蹴り、罵倒を吐き捨てる。机や椅子が投げられ、手足に赤い腫れが出来上がって、それなのに誰も止めようとしない。
みんなずっと見ているだけだった。
俺もそうだ。今までずっと、そうしていた。
冗談じゃねぇぞ。
「やめろよ」
その怒りは理不尽なものだった。
「やめろよ!」
彼らの行為に腹を立てていたのは勿論だ。周囲の連中がなにもしないことに憤っていたのもある。
けれど一番に怒りを感じていたのは、それに気付くことが出来なかった自分自身だ。
結局のところ、八つ当たりだった。
「やめろって言ってんだろ!」
怒鳴り、いじめていた連中へと殴りかかる。
最初に、目前に立ちはだかった男を殴り付けた。俺と同じくらいの身長で、確か野球部だっただろうか。顎に一発右手の拳を叩き付ける。それだけで男の顎が割れた。
次に、こちらに気付き振り返った男の左頬を叩いた。それだけで頬骨が折れて、力無くその場に崩れ落ちた。確かサッカー部だったか。
それから柔道部だったか剣道部だったか、俺より大きな奴らを蹴り飛ばしてやった気がする。二人とも向こうの壁まで吹っ飛んで、血を吐き涙を流す。
その辺りから記憶が曖昧だ。死者は居なかったらしいが、いじめていた連中全員が重傷。
数人は後遺症が残る程であったと、後々になって聞かされた。
ほら見ろ。
これに比べれば連中のやっていたことなんて、冗談の遊びじゃないか。テレビやネットの事例を模倣しただけのおままごとだ。
別に骨が折れることもなければ、命乞いをするような事態にもならない。加減を間違えただけで千切れてしまったり、死んでしまうようなこともない。
だから気付けなかった。本当に申し訳ない。気付いていればこうやって、すぐにでも解決してやれたのに。
俺には力があるから。低レベルなお前らとは違う、本当の力ってモノを持っているから。
俺なら簡単に状況を変えられる。事実、教室は一変した。なにも動けなかった連中の代わりに、この俺が手ずから引き裂いてやった。
助けてやったんだよ。
だっていうのに、なんでお前らは、そんな目で俺を見るんだ。
助けたはずの男子生徒すら、俺に怯えている。
「どうした?」
思い当たる節はあった。けれど理解が出来ない。
どうして駄目なのか、まるで納得出来ない。
それはきっと、俺が鬼だからだ。化物に人間の道理は不可解過ぎる。
なのに反省して、従って、馬鹿正直に傷付いて引け目を負って。土台無理な話だったんだよ。支離滅裂だったんだよ。
だから――。
だからもう、我慢しない。