第五章【22】「私の悔い」
「ああ。なんて、なんて痛ましいのでしょう」
柔らかく、甘く妖艶で、悪辣な囁き。
耳元で震わされた女の声に、私は戦慄した。
なぜ気付けなかった?
なぜ感知出来なかった?
振り向かなくても分かる、恐らくピタリと背後に張り付く彼女に、なぜ?
なぜ、今なおも。
そこに彼女の存在を知覚出来ない?
「こんな身体で、こんなおぞましい力を纏わせて」
鳴らされるこの囁きは幻聴なのか。
或いは恐らく、なにも感じ取れないように、なにかが施されているのか。
ただ、なにも分からずとも理解してしまった。
「――――――――」
私は、この声の主には勝てない。
私の命運はもう、私の手には握られていない。
自覚して、間もなく。
私はゾクリと寒気を感じて。
私はドクリと心臓の高鳴りを聞いて。
間もなく、ザンと鈍い音が鳴らされ、右の視界が破裂する。
合わせて勢いのままに顎を上げ、上向いた左の視界には、真っ赤に飛び散る鮮血が映った。
――当たり前に、右の視界には、その赤い色を捉えることは出来ない。
「……あ」
そして、左の瞳に覆い被さる、真っ赤な飛沫の向こう側に。
私の背中から掲げられていた巨大な骨腕が、宙へと崩れ落ち、解かれていくのが見え。
遅れて、そこに浮遊し、柔らかな笑みを浮かべる――白い装束の女が見えた。
「……な、ん」
なんで。
なにが。
どうして。
右目? あた、ま?
がしゃどくろの腕もなくなっていく?
この女は、なんでまだ、目にしてもなにも感じられなくて?
そんなこと、よりも。
……感じるのは――――痛みだ。
「……あ、が」
痛い。
熱い。
頭が悲鳴を上げている。
頭が焼けて燃えている。
もはや他人事みたいに、だけど鮮明に、痛みと熱さが分かる。
なのに、――どうしようもなく、冷たい。
痛みと熱さを感じる傍から、なにかが零れていっている。
口にも一杯の鉄の味が広がって、喉に流れ込むから咳き込んで吐き出す。
本当は、舌の上を転がるその生暖かさに縋りつきたいくらいに、凍えているのだけれど。
どうすることも出来ずに、全部、零してしまう。
コレは、……コレは、知っている。
死だ。
「あ~、なるほどぉ。流石は先生だねぇ」
鼓膜を震わせる、甘ったるい声。
見上げる曇天に、遅れて姿を現したのは桃色髪の魔女だ。
彼女は白装束の女の傍に位置取り、驚いたように目を丸め、心底面白そうに歯を見せた。
「そっかぁ。死なないのは死んでるから。だからぁ、生き返らせれば殺せるって話なんだねぇ~」
「生き返らせる、とは大仰ですよ。ただ見るに堪えない彼女の痛ましい身体を、治してみせたというだけです」
「治癒魔法? それで生き返ったってことぉ?」
「どうなのでしょう。本来であれば身体を治したところで、ただ綺麗に取り繕っただけの死体に変わりはないのですが」
どうやら今回は、それが致命的な作用となったようで。
彼女はそう言って、口元を緩めた。
「身体は死に等しく――いえ、正しく死んでいる状態だった。けれども死後、身体はなんらかの力で動き続けた。生前同様の意思を持ち、生前以上の力を持ち、更にその死に落ちた肉体は幾度千切られても元通りに再生する」
「うぇ~。もしかしてずっと見てたんですかぁ?」
「フフ。――さて、しかしどういうことなのか。そんな不死にも思える彼女が、身体を治し生者と同等に戻した瞬間、そのなんらかの力を失ってしまったようです。ネネの言葉を借りるのであれば、生き返らせてしまった結果、不死ではなくなってしまった」
果たして、死者にのみ与えられる力だったのかもしれない。
或いは別の要因が重なり、最後の引き金となったのかもしれない。
「本当に理解が出来ない力です。なぜ死んだ肉体で動いていたのでしょう? どころかなぜ意識を持っていたのでしょう? 心臓が動かず血を通わせずに、脳すら死んでいる状態で、なぜ身体を動かし物事を考えることが? 意識や思考は身体とは別、この世界には魂という概念があるそうですが、その類でしょうか」
「え~っとぉ、先生?」
「我々が魔力を知覚するように、この国の住人は魂を知覚しているのでしょうか。まことに不思議ですが、これが異世界ということでしょう。本当に、理解し難い法則に溢れている」
なんにしろ、結果は見るままに。
なおも続けようとする彼女に、桃色髪の魔女が首を傾げながら割り込んだ。
「……ん~、難しいからネネにはよく分からないけどぉ。でもこれがぁ、いわゆる攻略方法ってヤツだね!」
「簡単に言いますが、かなりの魔力を消費します。その上、複雑な魔法式を組む必要があり、――にも関わらず、貴女は私が治したその身体を、あっという間に台無しにして」
「わわっ、ごめんなさいっ。チャンスだと思ったんだけど、ネネもしかして、頭をブッ飛ばしちゃダメでしたかぁ?」
「まったく。――まあ、別段この子でなにかをする予定はありませんよ。興味深くはありましたが、どの道それは私が治してしまった時点で終わってしまったようです」
なんて、話しながら、二人は表情を綻ばせて。
落ちていく私を、ただただ当たり前のことのように、見送る。
ああ、そうか。
この白い女も、魔女だ。
それも、多分、この白い魔女こそが、元凶の――。
「……ご、づ」
だとしても。
だとした、ところで。
私はもう、半端な声も出せないままに、落ちていくだけだった。
この身体を動かしていた力は、もう。
おぞましく纏わり付いていた、がしゃどくろの力は既に……。
「…………づ、あ」
果たして本当に、この身体が死から戻されたからなのか。
それともその直前で、私が、諦めてしまっていたからなのか。
別の要因が混ざり合って、それで……なんて、なんだって一緒か。
まったくもって、あの魔女の言う通りに、結果は見るままだ。
胸に渦巻き身体を躍らせていた、邪気が、怨念が、呪いが。
ことごとく、解けていく。
つまり、この先に待ち受けているものは。
完全な死だ。
完全な、終わりだ。
「――――――――――――――――」
不思議と。
私はそれを、静観していた。
本当に、他人事のように感じていた。
ああ、痛いのだと。
ああ、暑いのだと。
ああ、寒いのだと。
ああ、死ぬのだと。
ああ、終わるのだと。
客観的で、達観的で、退廃的で。
全てはどうしようもないのだと――諦めていた。
◇ ◇ ◇
いつだったか。
テロ事件の後に、八ツ茶屋で働くようになって、それから誰かに聞かれた。
――片桐裕馬やサリーユ・アークスフィアに挨拶にはいかないのか?
――謝りにはいかないのか? と。
聞いたのは、誰か……真白だったか。
早朝の、開店前の八ツ茶屋の休憩室で。
メイド服に着替えた私は、同じく着替えた真白に向き合う。
銀色の髪を二つに結って、その結び目やリボンを触って気にしながら。
いつもの見慣れた飄々とした表情で、取り立てて感情を顕わにすることもなく。
ほんの些細な世間話のような流れで、彼女が私に尋ねた。
「お姉ちゃんはもう、隠れ家の人たちとは仲良くしない感じ?」
真白を挟んで向こう側、姿見に映る私は。
……眉を寄せて、本当に苦虫を嚙み潰したような表情をしていた。
理解が出来ない。
また真白のよく分からない話が始まった、と。
ハナから拒絶を示していた。
「……なに言ってんのよ」
謝る? 仲良く?
なぜそういう話が出る?
「なにって、言ったままだけど?」
「言ったままなら意味が分からない。私たちがなにをしたのか、分かってるの?」
「そりゃあ凄いことはしちゃったけど、でも仲直りは必要じゃないかな~? って、真白は思うんだけど」
「仲直りって、子どもの喧嘩じゃないのよ?」
「違うの?」
真白は心底不思議そうに。
考える間もなく首を傾げた。
「真白たちは大人じゃないし、真白たちは考えが違うって戦っただけでしょ?」
「……殺し合ったのよ。現に死人も出てる」
「お姉ちゃんも真白も誰も殺してないよ?」
「殺してないからいいって訳? 特に貴女は、隠れ家の人たちを裏切って手を出してる。子どもの喧嘩ってレベルじゃないわよ」
「でも、隠れ家の人たちは死なない程度に眠らせてただけだし。裏切りだって結局は、またこうやって同じ街に居るんだし。それに真白たちは片桐先輩のお姉ちゃんの下に居るんでしょ? どの道この先、顔を合わせることもありそうじゃない?」
「……八ツ茶屋でその話はやめなさい」
全部バレてるのは分かっているけれど。
いや、それよりも今は。
「……貴女ねぇ」
正直に、まったく理解が出来ない感覚だった。
今になっても図々し過ぎると思うし、真白の提案を呑めるかと言われれば、無理だと思う。
彼女の言い分に利が在ることも、色々と都合がいいことも有るには有ると認めても。
タイミング的にも感情的にも、まったくもって聞き入れることが出来なかった。
どころか、なぜそんなことを言うのかと訝しむくらいだった。
この子はなにを考えているんだ。
この子はなにを企んでいるんだ、と。
もっとも、その答えは――。
「だってそうでしょ? お姉ちゃんも、片桐先輩と色々話したいんじゃないの?」
「――――――――」
「真白はそうだよ。また先輩とも千雪ちゃんとも、サリュちゃんとも、色々話したり遊んだりしたい。せっかくサリュちゃんとも仲良くなれそうだったしさ」
「――――は」
それは、なんて単純で、直球で、馬鹿らしくて。
なんて……、――真白らしい。
「……真白がそうしたいなら、そうすればいいんじゃない?」
「お姉ちゃんは乗り気じゃないんだね」
「この先も敵対するつもりはない。だから機会があったらって考えておくわ」
言い捨てて、話を打ち切った。
それから真白に、その話を持ち出されることはなかった。
けれど結局、真白が仲直りをする時間はなくて。
私も機会はあったけれど、その日には全てが終わってしまっていて。
結局それは、なんの意味もない話だった。
◇ ◇ ◇
そんな、なんの意味もない話を、今更に思い出しているのは。
それを死の間際に――走馬灯に見せられているのは。
「――――――――」
これが、私の悔いだからだろうか。
読了ありがとうございました。
次話は来週日曜日に投稿予定です。
よろしくお願いいたします。




