第五章【10】「優しさと気遣いと」
「……ーマ。……ユーマ」
まどろむ意識の中、彼女の声を拾う。
何度も名前を呼んでくれる。肩を優しく揺らしてくれる。
こんなところで寝ていたら、風邪をひいてしまうと。
「ユーマっ」
「……ん」
ああだけど、それが更に眠気を誘う。
柔らかな声色が、肩口に触れる仄かな温かさが、彼女の気遣いが心地良い。
このままもう一度、むしろさっきよりも深く眠りに落ちてしまいそうで――。
「ユーマ。……もう、魔法で運んじゃおうかしら」
「……いや、大丈夫、起きる」
本当はそうして欲しいところだけど、流石に気が引ける。
勿体ないが、目を覚まして身体を起こした。
それで、すぐに気が付いた。
まだ起きていない。
俺が目を覚ましたのは、――過去の出来事だ。
「――――」
これは記憶だ。
俺は、記憶を見せられている。
周囲を見回す。
ここは図書館の地下の、サリュの部屋だ。
どうやら俺は卓袱台の傍に転がっていたみたいで、壁にかけられた時計は既に日付を回っていた。
それから、四つのコップが置かれたままの、その卓袱台を挟んだ向こう側で。
同じように子どもたちが、――アイクたち三人が横たわり、寝静まっていた。
そうか、この日の。
――昨日の記憶か。
「…………」
しかし、気付いたところで情景は消えない。
視界も感覚も全てが自分の身体と重なっているのに、どこか俯瞰的に観ている自分が居る。
そのことを自覚していても、その状態のままで事態が進んでいく。
まるで夢だと気付いているのに、目を覚ますことが出来ないような。
不可解な感覚で、なにより気持ちが悪い。
それでも直前の情景で聞こえた、彼女の言葉が本当なら。
東雲八代子を信じるなら、この状況は――。
「ユーマ? 大丈夫?」
「――あー、ごめん。ぼーっとしてて」
昨日の俺がサリュに応え、彼女に振り向く。
サリュはすぐ隣に座り込んで、首を傾げていた。
それからぐっと、俺の顔を覗き込むように距離を詰めてくる。
頭には、見慣れた魔女の帽子を被っていて。
いつもの黒のワンピースを着て、四つ這いになりながら、俺へと近付いてくる。
大きな赤い瞳も、幼い顔立ちも、今になっても見惚れてしまう愛らしさで。
思わず言葉を失って、彼女が伸ばす右の手のひらも、無抵抗に受け入れた。
そうしたら、ぎゅっと。
そのまま右手で、俺の左頬がつねられた。
「どう? 痛い?」
「……いひゃいな」
「ふふっ、いひゃいのね」
サリュが目を細め、頬から手を離した。
言葉の通り、ほんの僅かに痛みを感じているのが分かった。
……勿論分かるだけで、痛みそのものは感じられないが。
「ダメじゃないユーマ。子どもたちを帰さないで寝ちゃったら」
「あー、それは、……その通りだ。いや、気付いたらソソラが寝てて。なんか他の子たちも眠そうにしてたから、まあいいかなって」
「ダメに決まってるでしょ。――なんだけど、今回は大丈夫。帰りにこの子たちの保護役の人に会って、わたしの部屋に居るって話と、なんなら泊めてあげてくれーって言われたから」
「じゃあよかった」
「結果的にって話だからね。ほんとは帰してあげなきゃいけないんだから、今度からは気を付けてよ」
「はは、そうだな」
返す言葉もない。
後ろ頭をかき、謝る。
サリュは眉を潜めたまま、それでも笑って許してくれた。
それからもう一度、子どもたちに視線を向ける。
アイクとドラコとソソラ。
アイクは両手を広げて大の字になっており、その左脇の下でドラコが背を丸くし、ソソラは自分の腕を枕に横向きで眠っていた。
三者三様違った寝方で、静かに寝息を立てている。
見たままに、幼くて、あどけなくて。
自然と口元が緩んでしまっていた。
「っと、流石にこのまま床で寝かせとくのは良くないか?」
「大丈夫。みんな泊まりの時は今みたいに寝てるから。ベッドとかってむしろ落ち着かないみたい。よく見ると、ソソラはちょっと浮いてるのよ」
「……おお、本当だ。エンジェル族特有の、ってやつか」
「そうみたい。――でも、改めてだけどビックリしたわ。子どもたちが居るとは聞いてたけど、まさかユーマも一緒に居るなんて」
正直に、思いもしていなかった。
そういうイメージがなかったと、サリュは目を丸くした。
「ユーマって百鬼夜行のみんなとも仲良くしてるし、お話とかも得意そうだけど。でも、ユーマが自分からっていうのは珍しい気がするわ」
「それで間違ってないと思うぞ。……いや、話は得意じゃないし、本当に仲良くできてるかは自身がないけど」
「そう? ユーマって、えっと、社交性、で合ってる? 人と話すの、上手だと思うけど。わたしの時もそうだったし」
「いやいや普通に苦手だよ。今日の件もサリュの時だって、成り行きで頑張ってた」
どちらも別に、自分から行動した訳じゃない。
アイクたちと話したのも、彼らが声をかけてくれたからだ。
サリュとの出会いもこう、ゴタゴタの中でどうしようもなかった感じだし。
あーでもサリュの件に関しては、サリュからすると確かに、俺が主導とも言えるような?
なにしろめちゃくちゃ迫ってた訳だしな。
今思い出しても我ながらとんでもない。
「まあ別に特別なことはしてねぇよ。アイクたちとも普通に話してた。むしろ勝手に部屋にも入れてごめんな」
「それもいつものことだし、全然いいわ。ちなみになんの話をしてたの?」
「そう、だなあ。自己紹介して、なんか好きな食べ物とか、お気に入りの店の話とかしてたか。あとはサリュのこととかも話題に出てて、――ああ、相談みたいなのもあったな」
「相談?」
尋ねられ、そのままに答える。
アイクたちが人間関係に困っていたこと。
図書館の職員たちが大勢入れ替わったから、なかなか上手くいかないこと。
それで話を聞いたけれど、……結局、俺にはなにも答えられなかったことも。
「残念ながら、丁度俺が悩んでたことでな。俺にもどうしたもんかって、話を聞くしかできなかった」
「ユーマも悩んでるのね」
「言っても、俺はそんなに重く考えてないけどな。最近ちょっと図書館の空気感が違うなーって感じるだけで」
「それは、そうね。わたしも思うわ」
聞けばサリュも、図書館での勝手が違うと感じていた。
職員が困っている場面に出くわすことも多くなり、手助けしようにも、どこまで踏み込んでいいか分からない。
または、業務の手順が変わっていたりもしていて、どうにも出来ないこともあったり。
それから、初めてこの国に転移して来た時のように。
或いはその時以上に、不思議そうな視線を向けられることが増えた、と。
「アイクたちに比べればずっとマシだと思うけどね。わたしのこの服も、やっぱりこの世界ではちょっと浮いちゃうから」
だからと、サリュは続けた。
最近は職員の邪魔にならないように、魔法で気配を薄めていることもあると。
「そうだったのか?」
「ええ。ユーマやオトメにはなんの効果もないと思うけど、あまり話したことがない人は、わたしに気付きにくくなってるわ」
「……それって街を歩いてる時みたいなやつか?」
「街に出る時はもう少し強めにしてるけど、似たような感じね。わたしに用事がある人には普通に見えるけど、他の人には風景に思わせる、みたいな」
「…………」
それは、なんというか。
サリュなりに図書館のことを考えて、気遣っているんだろうけど。
だけど、そんな気遣いは。
これまでの図書館では、していなかった筈で……。
「……あー」
思わず、言葉を失う。
どう口にすればいいのかが、分からなくなった。
今、図書館はそういう状態で。
職員の人たちの気が散らないようにって、サリュの気遣いも大切なもので。
俺の悩みも子どもたちの悩みも、全部仕方がないことで。
だから、この感情は。
それでも、これを言葉にするのは、どうにも……。
そう考えていたら、不意に。
「ねえ、ユーマ。少し外に出ない?」
サリュがそう提案した。
今から図書館の外に出て、少し話をしないかと。
「話してたらアイクたちが起きちゃうかも。場所を変えましょ」
「いやいや、大丈夫だぞ。ちょっと思い込んでるように見えるかもしれないけど、そんな重大なことでもないし」
「でも、すっきり寝れないでしょ?」
「にしたって、外は寒いだろ。それにサリュも今帰って来たところだ」
「体温は魔法で調整するから大丈夫。疲れてもないし、むしろわたしもちょっと寝れないかなーって思ってたから、眠くなるまで付き合ってほしいかも」
「……それなら、まあ」
果たしてこれも気を遣われているのではと疑ったが、サリュはにこりと頬を緩めた。
早く行きましょうと、俺の手を引いて一緒に立ち上がる。
楽しげにも見えるのは、多分、気のせいじゃないと思った。
「じゃあ行くか」
「ええ。いざ、深夜デートね!」
なるほど、気のせいじゃなかったみたいだ。
そしてそう言われると、不思議と。
俺も少し、気持ちが浮足立った。




