番外編【09】「前日譚ⅩⅨ」
思えば私は、恐怖という感情を強く味わったことがなかった。
鬼狩りの家系に生まれて、幼少期から島での訓練や教育に身を投じて。
危険と隣り合わせだった。痛みと苦しさの日々だった。
だけど私は一度たりとも、恐怖を感じたことはなかった。
大人の鬼狩りたちは面倒でしかなかった。
鬼狩り最強の男は油断出来ない相手だったけれど、それだけだった。
九里七尾との対峙は脅威でこそあったけれど、勝てない諦めがあっただけだ。
心の底から恐れを感じたことはなかった。
だから、今更に。
戦慄し冷え切った脳裏で、他人事のように納得する。
ああ、コレが――コレこそが恐怖なんだと。
私はコイツを恐がり怖れているのだと。
「――――――――」
私は言葉を失った。
こぼれた小さな嗚咽は、耐え切れなくなった冷たさを吐き出しただけだった。
指先がかじかむ。喉の奥から強張り呼吸がしづらい。
それ程までに、ソレはおぞましい。
痛ましい、悪趣味過ぎる、下卑ている。
醜悪だ、異様だ、奇怪だ、不快だ、――怖ろしい。
ソレは正真正銘の。
――化物だった。
「ハハハハハ、アハハハハハハ――ッ!」
少女が笑みを振り撒く。
私たちにその身を曝け出す。
向かい開かれた口内には、『鋭い牙』。
涎をこぼす長い舌は、『蛇の舌』に似通っている。
それらは凶暴さ、獰猛さ、――彼女が捕食者であることを表していた。
それに終わらない。
だけでは済まない。
腕を抱き身体をくの字に折り曲げて。
着物が破け晒された右の肩口から、だけでなく左の肩口からも。
両肩から、ギチギチと音を立てて刃物が突き出す。
関節を駆動させ、ゆっくりと起き上がるその刃は腕のような、『蟷螂の鎌』を思わせた。
震える腰元の背面からは、細くしなやかな尾のような物体が幾つか現れ垂れ下がる。
じゅくじゅくと気持ちの悪い水音を立てて、地面へ下ろされ、或いは折れ曲がり宙をたゆたって。
暗がりの中で蠢くそれらは、ファンタジーに出てくるような『触手』を連想させた。
それから最後に、背面にバッと広げられたのは――翅だ。
彼女よりも優に大きく、軽く震えるだけで風が巻き起こされる。
柔らかで羽毛を思わせるような、けれども禍々しい瞳のような模様が刻まれた『蝶の翅』。
「――――…………」
ずっと不思議だった。
ずっと考えていた。
彼女はどうやってこの街までやって来たのか。
九里七尾と私を追ってここへまで、それも彼女単独ではなくアッドをも連れて来た。
尾行されていたのか、それとも経路自体は知っていたのか。
だとしてもあの距離をどう追って来たのか。
彼女はどうやって八ツ茶屋を襲ったのか。
気配がないのは知っている。気付かれずに背後を取るくらいは容易に思えた。
だけどあの人数を全員というのは難しい筈だ。
彼女本人に気配がなくとも、なにかが起これば察することが出来る筈だ。
それを彼女は果たして、どう制圧してみせたのか。
私の首もだ。
彼女はどうやって首を断ち切ったのか。
刃物の類をなにも携えず、あんなにも手際よく簡単に。
まさか手刀で十分になんて、そんな風にも思えなかった。
どうして、どうやって、なんで。
その全ての疑問を同時に解決するナニかに、私は思い当たらなかった。
どう考えたって全てをこなすのは、ほぼ不可能に思えた。
それこそ九里七尾や東雲八代子クラスの相手でなければ、って。
でも、答えはもっとシンプルだった。
本当に簡単な話だった。
彼女にはそれが全部出来たんだ。
寧羅梓とは、寧羅梓の正体とは。
その全てを可能とする、そういう存在だったんだ。
「ハハハハハッ! あー、久々に一緒くたに解放して気持ちええなぁ! 目立って目立って仕方ないし、こういう地下じゃないとなぁ」
「……寧羅梓。……オマエは、一体」
「ああ、ちなみによいしょ。頭に可愛い『猫耳』も追加しましょか。さっき食べた喫茶店のメイドちゃんが、そういう妖怪やったみたいやわぁ」
言葉の通りに、頭に小さな猫の耳が現れる。
人間の耳に猫の耳。どちらも存在するその様相もまた、殊更異様さを深めた。
心底気持ちが悪い。
「……食べる。そうして身体的な特徴や能力、どころか記憶や感情までもを自分のものにしているのか」
「ご名答。なぁんて、ここまで見せたら分かって当然やわなぁ」
だからこの喫茶店のことを知っていた。
私の来店や東雲八代子のことも、この地下への経路についても分かっていた。
加えて、あの学園からこの街までの道筋も。
そもそもこの地下を狙って訪れた理由も、別口から手に入れた記憶や知識か。
関係する誰かを、――食べたのか。
「あ、そうそう。ちなみに寧羅梓も食べて手に入れたんやでぇ。別嬪さんやから、よう使わせて貰ってるん。そこからウチの弱点とかは割れへんから、変な詮索はせんでええよ~」
「……ご忠告ありがと」
「いやあウチもビックリしてるんよぉ。ウチらって基本共喰いしかせぇへん種族やから、まさか異世界で別の生き物食べたら、こんな風になるなんてなぁ」
「……そう」
「最初は知性とか感情とかなぁんもなくて、でもなんか上手い具合に整っていって。自分で言うのもなんやけど、ほんま不思議生物やわぁ」
「……っ」
やっぱりこの世界の生き物じゃない。
恐らくアッドと同じような、意図せずこの国に訪れた転移者。
いや、もう少し性質が悪い。
意図せず訪れてしまった、知性も感情もない植物や昆虫のような転移生物。
それが別の生物を取り込んで、知性を会得し成長したんだ。
「…………」
なによ、それ。
なんなのよ、コイツ。
「ん~、なんかお喋りやなぁ。猫のメイドちゃんがそんな感じ、……みたいやわぁ。またちょっと難儀なもの食べてしもたなぁ」
「……良いとこ取りって訳にも、いかないみたいね」
「そうそう難しいの。蟷螂出したら空腹感が凄いし、触手も相手を取り込みたくなる。でも安心しぃなぁ。乙女ちゃんは食べたら危なそうやし、殺してあげるわぁ」
「良い判断ね。きっとお腹を壊して大変なことになる」
なら最悪、取り込まれることは避けられるか。
そう思った――けれど。
「まあ勿論、背に腹は代えられんし。危なくなったり何回殺しても死なへんなら、仕方ないわなぁ」
「……そりゃそうね」
当然だった。
だから結局は、最悪の想定は避けられず。
その上で、私は――。
「じゃあ、そういう訳で。――死んでおくれやすぅ」
私はこの、なにがなんだか分からない脅威と戦い。
なんとか勝ち切らなければならないんだ……!
「いけ!」
「ッ!」
小さな掛け声からの初撃。
私は咄嗟に地面を蹴り、後ろへ飛び下がった。
そしてその、私が立っていた地点へと。
彼女から伸びた無数の触手が、一斉に叩き付けられた。
岩肌を抉り土埃を散らす。
微かに周囲を揺らす程の衝撃も広がり、その攻撃の重さが測られた。
力強い打撃だ。
なるほど間違いなく一本一本が、首の骨くらいは易々と叩き砕くだろう。
「まだまだ――ッ!」
続く二撃目も触手だ。
叩き付けられたそれらが左右へ広げられ、更にその身を伸ばして振り被られ。
――またしても、鞭のようにしなる連撃が側面から襲い来る!
「――――!」
左右からの攻撃。
避けるは前か後か、天井へ向けて飛びあがるか。
私は――再度、後退を選んだ。
攻め込めば、蟷螂の鎌が構えられている。
その上、捕食され取り込まれる可能性もある。
攻勢に出るのは早計だと、私は引き下がって――。
目前、再び空を切った触手らが地面へと叩き付けられた。
その時、だった。
「ッらぁぁぁアアアアアアアアア!!!」
後退した私と入れ替わるように。
私の横を素早く通り抜けて、飛び込んでいった影が。
「――――は?」
アッドが、あろうことか。
叩き付けられ動きを止めた触手の合間を、駆け抜けていった。
それは、違うだろ。
それは、――――ダメだろ。
「アッド、ッ!!!」
咄嗟に、地面を蹴り付けた。
我ながら馬鹿過ぎると分かりながら、もっとどうしようもない馬鹿を追った。
寧羅梓は言っていた。
私を食べるつもりはないと。
食べても危なそうだ、背に腹は代えられない状況になるまでは取り込まないと。
でもアッドは。
リザードマンに対しては、なんの言及もされていない。
いや、私と同時に彼をも挑発していた状況を考えれば、恐らくは。
だとすれば、それは看過出来ない。
彼女にアッドが喰われれば、あの速さが取り込まれれば。
あの化物は、今以上の化物に成り得る。
あの大馬鹿を取られる訳にはいかない――っ!
飛び出す。
横たわった触手らを乗り越え躱し、アッドを追う。
だけど追い付ける筈はない。
この今すでにアッドは、彼女の目と鼻の先へと辿り着いている。
それでも、起こり得る僅かな可能性とその機会を手繰り寄せる為。
私はその場へと飛び入った。
「アアアアアアアアアアアアッツツツツツ!!!」
アッドは私から奪った刀剣を振り上げ、勢いのままに斬りかかる。
時間にして一秒前後、接近からの一斬。
持ち前の跳躍は目にも止まらない速さだ。攻撃後の隙を突くには十分過ぎる。
極めて強力な速攻だって、その戦法だけは私も認めている。警戒さえしている。
でもダメだ。
私にも、恐らく寧羅梓にも通用しない。
なにせその軌道はあまりに実直だ。
真正面からの真っ向勝負。速度以外にはなにもない、愚直だ。
ならば対応は難しくない。
加えて寧羅梓は、その攻撃を誘っていた。
アッドの攻撃は届かない。
案の定。
現実は嫌な予想の通りに。
「いらっしゃぁい、アッド君」
寧羅梓は、刃を振り上げ迫るアッドに両手を広げた。
受け入れるように、待ちわびていたかのように。
満面の笑みを浮かべながら。
「っぐ!」
間に合わない。
アッドには届かず、向こうの寧羅梓になんて以ての外だ。
私にはなにも起こせない。
私ではなにも変えられない。
変えられるとすれば、それは。
私以外の、この場に居る全員にとっての想定外だけだ。
そして、それはまたしても。
起こり得ると――起こり兼ねないという私の予想の通りに。
アッドが刀を振り下ろし、迎え入れる寧羅梓へと振り下ろした。
――瞬間。
「ハ――――?」
「――――あら?」
寧羅梓の身体が、大きくバッサリと。
三つの斬撃によって、その身体を四つに斬り別けられた。
縦一閃に連なる三閃。
身体の中心と、左右の肩部。
大きな鎌も広げられた翅も触手も、全部一緒くたに。
刀の一振りには到底合わない斬撃が、旋風すら巻き起こして刻み込まれた。
「は、っ」
そうして斬り開かれた合間に、残されたものが見えた。
血が飛び散るでも、骨や肉がこぼれるでもない。
それもまた異様であり考えるべき事象ではあったけれど、加えて、そこに残っていたのは。
闇に紛れて薄らとしか見えない、けれども確かに揺れ動く。
細くしなやかな、――蜘蛛の糸だった。
刀剣の切っ先から、蜘蛛の糸が尾を引いていた。
「ほんとに、もう」
この地下は、他でもない八ツ茶屋の拠点であり。
あの刀は、その主である東雲八代子に渡されたもの。
なにも知らされてはいなかったけれど、なにもないとも思っていなかった。
油断も隙もない。
本当に、なにからなにまで警戒しなきゃいけない人だ。
「言ってくれてもよかっただろうに、――さっ!」
私は再度地面を踏み締め、飛び出す。
それで今度こそ、宙で刀を振り下ろしたままに制止するアッドへと追い付いた。
私は彼の首筋を後ろから鷲掴みにし、こぼれる嗚咽を聞き流して。
そのままに、寧羅梓の頭上を飛び越える。
通り過ぎる間際。
私は見た、聞いた。
「――逃がさへんよぉ~」
「――――!」
二つに別れた頭部が笑う。
斬り離された筈の断面は、真っ青な色で塗り潰された状態で。
それぞれの部位が粘つく液体のようなものを伸ばし合って、繋がり合って、近付いていく。
結合されていく。再生されていく。
私の鬼の血とはまったく違った方法で。
けれども同じような結果へ向かって、身体が元へと戻されていく。
「絶対に殺す。絶対に食べる。二人とも、ここで終わりやでぇ」
その宣告も、聞き流して。
私はアッドを引き連れ、地下の奥へと足を進めた。
果たして愚策か、妥当だったのか。
分からないけれど、今はコイツから目を逸らしてでも。
私は逃げた。
この場を離れ、暗闇深くへと身を潜めた。
読了ありがとうございました。
年内最後の投稿は、12月31日を予定しております!
どうぞよろしくお願いいたします!




